Month: December 2019

武田信武 – Wikipedia

武田 信武(たけだ のぶたけ)は、南北朝時代の武将。武田信政の子信時にはじまる信時流武田氏の生まれ。甲斐源氏第10代当主。武田氏の7代当主。『甲斐国志』によれば、「生山系図」を引用し室を足利尊氏の姪とする。室町幕府の引付衆にも任じられた。 父・信宗の後を受けて当主となる。安芸国守護であったが、自身が安芸に直接赴いたかどうかは不明である。 元弘2年/正慶元年(1332年)9月、元弘の乱に際して鎌倉幕府方として出陣[3]。そのため、鎌倉幕府滅亡後に発足した後醍醐天皇の建武政権においては討幕軍に従い戦った甲斐国守護・石和政義の後塵を拝していた。建武政権より離反した足利尊氏の軍勢催促に応じ、建武2年に挙兵し、熊谷蓮覚の本拠矢野城(広島市)を攻略している。翌年には上洛し、足利勢と合流し主に畿内を中心として宮方と戦い、また安芸国内の沈静化にも務めている。 鎌倉時代後期には、安芸守護として本拠を移した信時流武田氏に代わって甲斐守護は北条得宗家と結びついた庶流石和流武田氏が継承しており、政義は建武政権に加わり甲斐守護を安堵されたが1343年に戦死している。政義の死後には甲斐への介入を強め、貞和2年(1346年)に一蓮寺へ行った寄進をはじめ甲斐国との関係を示す史料が見られる。将軍尊氏と実弟直義の対立から発生した観応の擾乱の最中には甲斐守護への補任を示す史料が見られ、直義追討のため甲斐へ入国したと考えられている。 尊氏の信頼が篤く、尊氏が天竜寺を造営しようとした際には信濃守護小笠原氏らと造営に協力している。没年は甲府市の法泉寺の位牌によれば延文4年(1359年)であるが、一蓮寺過去帳や傑翁是英語録によれば康安2年(1362年)であるという。翌年に死去し、跡を子の信成が継承し、安芸守護職は次男の氏信が継承した。 和歌に優れた教養人でもあり、『新千載和歌集』には信武の作品が修められている。 信武の子の代で武田宗家は三つに分流し信成は甲斐武田氏を、氏信は安芸武田氏を、公信は京都武田氏を起こした。 ^ 「甲斐武田氏綱要」(『系図綜覧』所収) ^ 『太平記』巻六「関東大勢上洛事」 ^ 『太平記』巻六「関東大勢上洛事」 参考文献[編集] 渡邉正男「南北朝の内乱と武田守護家の確立」『山梨県史通史編2中世』 黒田基樹「鎌倉期の武田氏」『地方史研究』 柴辻俊六「武田氏の系譜」『信玄の戦略』

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聖ゲオルギウスの殉教 – Wikipedia

同時期にサン・ジョルジョ・イン・ブライダ教会のために制作された『聖バルナバの奇跡』。ルーアン美術館所蔵。 『聖ゲオルギウスの殉教』(伊: Martirio di San Giorgio, 英: The Martyrdom of Saint George)は、ルネサンス期のイタリアのヴェネツィア派の画家パオロ・ヴェロネーゼが1566年に制作した絵画である。油彩。主題はキリスト教の聖人として名高い聖ゲオルギウスの殉教から取られている。ヴェローナのサン・ジョルジョ・イン・ブライダ教会(英語版)の主祭壇画として制作されており、現在も同教会に所蔵されている[1][2][3][4]。またロサンゼルスのJ・ポール・ゲティ美術館に準備素描が所蔵されている[5]。 竜退治の伝説で知られる聖ゲオルギウスはローマ皇帝ディオクレティアヌスに捕えられ、信仰の放棄を強要されるが、聖ゲオルギウスは従わなかった。そのため毒を飲まされ、車輪に縛られ、釜茹でなど数々の拷問を受けるが、神の加護によって傷つけられることはなく、最後に斬首された[6]。 制作経緯[編集] サン・ジョルジョ・イン・アルガ島(英語版)のアウグスティノ律修参事会(Canons Regular of San Giorgio in

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岩木山 – Wikipedia

この項目では、青森県に位置する火山について説明しています。その他の用法については「岩木山 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 岩木火山の山体地形図 岩木山(いわきさん)は青森県弘前市および西津軽郡鰺ヶ沢町に位置する火山である。標高は1,625 mで、青森県の最高峰である。日本百名山[4]および新日本百名山[5]に選定されている。その山容から津軽富士とも呼ばれるほか、しばしば「お」をつけて「お岩木(山)」あるいは「お岩木様」とも呼ばれる[6]。 岩木山は円錐形の成層火山で[7]、山頂は三つの峰にわかれており、弘前側からみた右が巌鬼山(岩鬼山)、左が鳥海山とされるが、これらは火山活動により生じた外輪山の一部である[8]。三峰の中心にある岩木山は、鐘状型の中央火口丘であり[8]、山頂に一等三角点が設置されている[1]。もともと山頂にあった直径800mの破壊された火口に溶岩ドームが生じて、現在の三峰のもとになり[7]、それらの溶岩ドームは1万年より新しい[7]。岩木山の西麓や南麓にも3個の側火山があり、他にも山腹に多数の爆裂火口がみられる[7]。また、 山頂から北東にある赤倉沢の馬蹄形火口は大規模な山体崩壊を示しており、北東山麓の岩屑なだれ堆積物には、かつての崩壊の影響による、多数の流れ山地形がみられる[7]。なお、岩木山の地質は安山岩(SiO2 56 – 64%)からなる[7]。 比較的新しい火山のため、高山帯と広葉樹林帯の間に針葉樹林帯が見られず、ダケカンバがそのまま矮小化していく特異な光景が見られる。特産種であるミチノクコザクラ(ハクサンコザクラに近縁種で花がより大型である)と、本州では数少ないエゾノツガザクラなどの高山植物が自生している[8]。 津軽富士とも呼ばれている郷土富士で、太宰治はその山容を「十二単を拡げたようで、透き通るくらいに嬋娟たる美女」と喩えている[9]。富士山と同様に、古くから山岳信仰の対象とされ、山頂には岩木山神社の奥宮が置かれた。江戸時代には弘前藩の鎮守の山とされ、歴代の藩主が岩木山神社に寄進を行ったため、その社殿は荘厳なものとなり、「奥の日光」とも呼ばれた[8]。 山域は1975年(昭和50年3月31日)に、津軽国定公園に指定され[10]、南麓に広がる2,587 haの高原は青森県の岩木高原県立自然公園に指定されている[11]。 火山活動史[編集] 西暦1600年以前の活動は不明点が多いが、気象庁によると山頂の溶岩ドームは1万年より新しい[3]。約1万2000年前以降の活動は山頂での噴火が中心である。 70万年前 – 山体崩壊[12]。 30万年前から20万年前

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グゥイネッズ家 – Wikipedia

グゥイネッズ王家(グゥイネッズおうけ、グゥイネッズ朝、英: The House of Gwynedd)は、中世ウェールズ(英語版)のグゥイネッズ王国の王家である。 グゥイネッズ王家は420年頃から825年まで続いた前期のキネザ家(キネザ朝)と844年に始まった後期のアベルフラウ家(英語版)(アベルフラウ朝)に分けられる。前者はグゥイネッズを建国した王キネザ(英語版)に因み、後者はグゥイネッズの古い首都であるアベルフラウ(英語版)に因む。 アベルフラウ家は1378年のオーワイン・ラウゴッホ(英語版)(赤い手のオーワイン)の死により跡絶えた[1]。 それ以前の異教のモルムティウス法(英語版)を基にしたハウエル・ザー(英語版)(善良王ハウエル)の法(英語版)の下では、息子は誰でも父親から相続することができる。これは、父親が認めている場合には、非嫡出子のことまでも指す。父親と配偶者の家系がともに王族でない限り、女系を介して王位を継承することはできない。多くの例では、いとこ同士が結婚していたため、この区別はやや机上のものとなっていた。 アベルフラウ家はロドリ・マウル(英語版)(大ロドリ)のグゥイネッズ王位の継承により始まった。大ロドリの父メルヴィン・ヴリッヒ・アプ・グゥリアド(英語版)は旧王家の最後の王族であるハウエル・アプ・ロドリ・モルゥイノグ(英語版)の死後、グゥイネッズの王位に就いた。彼は前王の姪であるエシスト・ヴェルフ・カナン・アプ・ロドリ・モルゥイノグ(Ethyllt verch Cynan ap Rhodri Molwynog)と結婚した。彼らの息子が、両方の血筋を受け継いだ、ロドリ・マウルであった。 ^ Davies, John (2007) (英語). A

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トメル・シスレー – Wikipedia

トメル・シスレー(Tomer Sisley, 本名:Tomer Gazit ヘブライ語: תומר סיסלי‎、1974年8月14日[1] – )は、フランスの俳優、コメディアン。 イスラエル人を両親に西ベルリンに生まれる[1][2]。9歳の時にフランスへ移住[1][2]。 スタンダップコメディアンとして活動する一方[3][4][5]、俳優としてベルギーの大人気コミックを原作にした映画『ラルゴ・ウィンチ』シリーズでハードなアクションも見せた[3][6][7]ほか、テレビドラマ『バルタザール 法医学者捜査ファイル』での主演でも知られる[8][9]。 フランス語、英語、ドイツ語、ヘブライ語の4か国語に堪能[1][10]。 主な出演作品[編集] 映画[編集] テレビドラマ[編集] ^ a b c

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磁性細菌 – Wikipedia

この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2020年11月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。 英語版記事の機械翻訳されたバージョンを表示します(各言語から日本語へ)。 翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いることは有益ですが、翻訳者は機械翻訳をそのままコピー・アンド・ペーストを行うのではなく、必要に応じて誤りを訂正し正確な翻訳にする必要があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|Magnetotactic bacteria}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。 磁性細菌(じせいさいきん。英語、Magnetotactic bacteria)とは、磁力に反応して移動を行う細菌の総称で、1975年 Richard Blakemoreにより見出された[1]。菌体内にはマグネトソームと呼ばれる磁性体を保持した細胞内小器官が見られ、磁性体にはマグネタイト(Fe3O4) [2]や 鉄硫黄タンパク質の単結晶グレガイト(Fe3S4)[3]が利用されている。 走磁性細菌[編集] 磁性細菌の中には走磁性細菌(そうじせいさいきん)と呼ばれる者も含まれる。走磁性細菌とは、地磁気に沿って鞭毛で移動する磁性細菌の事である[4][5]。この菌は自身の増殖の為には鉄イオンが必須で、ほぼ100%の利用効率で鉄イオンを利用しマグネタイトを生合成している[6] 例えば、アクアスピリルム属の Aquaspirillum magnetotacticum、マグネトスピリルム属のMagnetospirillum

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ミシェル・ドッカリー – Wikipedia

ミシェル・ドッカリー[1] (英語: Michelle Dockery, 1981年12月15日 – ) は、イギリスの女優、歌手である。2010年から2015年までITVで放送されたTVドラマシリーズ『ダウントン・アビー』のメアリー・クローリー役でもっともよく知られ、エミー賞およびゴールデングローブ賞にノミネートされた。 2004年の舞台 “His Dark Materials” でデビューした。2007年の舞台『ピグマリオン』のイライザ役により、Evenng Standard Award にノミネートされた。2009年の舞台『太陽に灼かれて』により、ローレンス・オリヴィエ賞の助演女優賞にノミネートされた。その他、”The Pillars of Society”(2005年)、『ハムレット』(2010年)などの舞台に出演している。また、『ハンナ』、『アンナ・カレーニナ』、『フライト・ゲーム』などの映画に出演している。 2016年からはTNTのドラマシリーズ

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足利義詮 – Wikipedia

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、室町時代(南北朝時代)の室町幕府第2代将軍[4]。初代将軍足利尊氏の嫡男[注釈 1]。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子(登子の子としては長男)。 幼少時から将軍就任まで[編集] 元弘3年(1333年)、伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐上皇討伐のために父・高氏(尊氏)が鎌倉幕府軍の総大将として上洛した際、母・登子とともに北条家の人質として鎌倉へ留め置かれた。 高氏が丹波国で幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻略すると、幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加した。この際千寿王は、父の名代として、家臣らの補佐により、鎌倉攻め参加の武士に対し軍忠状を発付し、後に足利氏が武家の棟梁として認知される端緒を作る。これが新田義貞と足利高氏の関係が悪化する元となる。建武の新政では、叔父の直義に支えられて鎌倉に置かれ、尊氏が建武政権から離反すると、父とともに南朝と戦い、主に鎌倉において関東を統治した。 尊氏による幕府開府後、足利家の執事である高師直と尊氏の弟の直義の対立が激化して観応の擾乱が起こり、師直の謀反により直義が失脚すると、義詮は京都へ呼び戻され、直義に代わり幕府の政務を任される。正平6年(1351年)8月には、尊氏が直義派に対抗するため義詮と共に南朝に降伏し、11月に年号を南朝の「正平」に統一する正平一統が行われる。翌年に南朝方の北畠親房や楠木正儀らが京都へ侵攻すると、義詮は京を逃れて近江国へ避難した結果、光厳、光明、崇光天皇の3上皇および皇太子の直仁親王を奪われたが、観応の年号を復活させるとともに兵を募って京都を奪還し、三種の神器のない状態で新たに後光厳天皇の即位を実現させる。また、正平8年(1353年)6月、正平10年(1355年)1月にも異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われている。 将軍就任後[編集] 足利義詮像(『古画類聚』)。等持院の木像を模写したもの 正平13年(1358年)4月に尊氏が没し、12月に義詮は征夷大将軍に任命される。この頃には中国地方の山名氏や大内氏などが向背定まらず、九州では懐良親王などの南朝勢力は健在であった。早速、河内や紀伊に出兵して南朝軍と交戦し赤坂城などを落とすが、一方幕府内では、正平16年(1361年)に細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降るなど権力抗争が絶えず、その隙を突いて南朝方が一時京都を奪還するなど政権は流動的であった。しかし細川清氏や畠山国清が滅ぼされ、正平17年(1362年)7月、清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命する。正平18年(1363年)には大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめ、仁木義長や桃井直常、石塔頼房も幕府に帰参し、南朝との講和も進んでいた。同年、義詮の執奏により、勅撰和歌集の19番目にあたる『新拾遺和歌集』は後光厳天皇より綸旨が下った。正平20年(1365年)2月には三条坊門万里小路の新邸に移っている。この間に義詮は訴訟制度の整備に着手し、評定衆・引付衆を縮小して将軍の親裁権の拡大を図った(御前沙汰)。園城寺と南禅寺の争いでは、今川貞世に命じて園城寺が管理する逢坂関などを破却させた。正平21年(1366年)に斯波氏が一時失脚すると、細川頼之を管領に任命した(貞治の変)。 正平22年(1367年)11月、側室の紀良子との間に生まれた幼少の嫡男・義満を細川頼之に託し、12月7日に病により死去した。享年38。死の2日前に鼻血を多量に噴出したと、三条公忠の日記『後愚昧記』は伝えている。なお、同年3月5日には弟の基氏が義詮に先立って死去している。 死の間際、天龍寺の春屋妙葩と等持寺の黙庵が盥漱などの心身を清める仏事を行い、義詮を看取った(義堂周信『空華老師日用工夫集』[3])。遺骨は神奈川県鎌倉市浄妙寺光明院に納められ、神奈川県鎌倉市瑞泉寺および神奈川県鎌倉市円覚寺黄梅院も分骨を許可された(『空華老師日用工夫集』[3])。その他の寺は義詮の遺命にないとして分骨を許可されなかった(『空華老師日用工夫集』[3])。なお、京都府京都市右京区嵯峨野の宝筐院および善入山宝筐院および静岡県三島市の宝鏡院にも墓標が存在するが、史実としては不明である。 通称と邸宅[編集] 三条坊門に邸宅を営んだため「坊門殿」と呼ばれた。また、室町季顕から「花亭」を買い受け別邸とした。のちに「花亭」は足利家より崇光上皇に献上され仙洞御所となったが、第3代将軍義満は再び皇室から「花亭」を譲り受け御所とした。世にいう花の御所である。 ※日付=旧暦 墓所・肖像画・木像[編集] 墓所 法名は寶篋院瑞山道權。墓所は京都府京都市北区の萬年山等持院。また、京都府京都市右京区の善入山宝筐院や静岡県三島市川原ケ谷の地福山宝鏡院にも伝承がある。 肖像画

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井筒造船所 – Wikipedia

株式会社井筒造船所(いづつぞうせんしょ)は、長崎県長崎市に本社・造船所を置く造船・船舶修繕事業者である。 1927年(昭和2年)6月に現在地において創業し、以後法人化等を経ながら、おもに漁船や小型内航船の建造・修理を行っている[1]。沖合漁業向けの漁船や、500総トン以下の小型フェリー等の建造に特色を有する[2][3]。 日本中小型造船工業会の会員企業であったが、2019年に退会した。 敷地内にある福利厚生施設のフットサル場は、「井筒WING STADIUM」の名称で関係者以外の一般向けにも有料で利用を開放している[4]。 主要設備[編集] 新造船台:70m×17m 最大建造能力 999GT[3][5] 修繕船台:41.5m×7.9m 修繕能力 300GT[3][6] 修繕船台:41.5m×7.9m 修繕能力 300GT[3][6] 浮ドック:80m×16m 入渠最大船舶 1,100GT[3][5] ジブクレーン:45t×1 15t×1

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