Month: June 2020

伊良子光順 – Wikipedia

伊良子 光順(いらこ みつおさ、文政6年9月4日(1823年10月7日) - 明治14年(1881年)9月23日)は、幕末から明治時代初期の日本の医師。号は無剛。現在の奈良県奈良市出身で、典薬寮に所属し孝明天皇と明治天皇に仕えた。 生い立ち[編集] 文政6年(1823年)、比丘尼御所円照寺に仕えた医師・和角之寛(わすみ ゆきひろ)の子として奈良に誕生。後に京都へ遊学し、典薬寮医師・伊良子光通(みつみち)の門下生となった。 光通は都に名高かった外科医・伊良子光顕(みつあき)に婿養子として迎えられ、光顕の実子が継いだ宗家(見道斎伊良子家)から分かれた新たな一家(千之堂伊良子家)の創設を許されていた。同時に、従四位下主税助の官位を授けられた典医であったが、天保15年(1844年)に実子の光敬(みつたか)に先立たれて後継者を欠いていた。そこで門人の光順が、光敬の娘・巌を妻とすることによって光通の養子となった。 弘化2年12月17日(1846年1月14日)、光順は典薬寮医師に補せられ、従六位上・備前介に叙任された。嘉永2年(1849年)には養父の光通が世を去り、光順が千之堂伊良子家の当主となる。 天脈拝診[編集] 嘉永4年(1851年)、光順はその2年ほど前から痔に悩まされていた孝明天皇の治療を命ぜられる。安政2年には従五位下に推叙された。 主上不予[編集] 慶応2年12月11日(1867年1月16日)、風邪気味の孝明天皇は禁中内侍所で執り行われた神事に無理をして参加し、翌12日に発熱する。この発病から死去に至るまでの病状を、光順は詳細にメモを取り、日記に詳述している。 日記の記述によれば、孝明天皇が発熱した12日、天皇の執匙(天皇の日常健康管理を行う主治医格)であった高階経由が拝診して調薬したが、翌日になっても病状が好転しなかった。14日、典医筆頭のひとりである山本隨が治療に参加、15日には光順も召集され、昼夜詰めきりでの拝診が始まった。孝明天皇の公式の伝記である『孝明天皇紀』によれば、典医たちは、天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。この「御容態書」における発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。 しかし、光順の日記における12月25日の条には「天皇は痰がひどく、藤木篤平と藤木静顕が体をさすり、伊良子光順が膏薬を貼り、班に関係なく昼夜寝所に詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに亡くなられた」と記されている。 光順ら典医は天皇在世中の拝診の労をねぎらわれ、清涼殿に安置された棺を拝礼する事を許された。さらに光順は泉涌寺での葬儀に供奉することを命じられた。葬儀のあと、典医たちには慰労金が下賜されたほか、特に長年痔疾の治療に携わった光順には、特別に天皇遺品の時計を与えられた。 明治時代[編集] 孝明天皇の死去により儲君睦仁親王(明治天皇)が践祚すると、光順は引き続き新帝の天脈拝診を命じられた。明治2年(1869年)には正五位下に叙せられるが、明治維新に伴う同年の官制改革で典薬寮が廃され、織部正・陸奥守の官職を失う。さらに翌年には正五位の位階も返上させられた。 新制度によって天皇の侍医は大典医・中典医・少典医の3階級に分けられることとなり、光順は少典医に任ぜられる。東京奠都の際には天皇に従い東下するが、明治4年(1871年)、免官により京都に帰る。

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パレルモ石 – Wikipedia

パレルモの博物館に収蔵されるパレルモ石 パレルモ石(英: Palermo Stone)は、エジプト古王国のRoyal Annalsとして知られる石碑の7つの現存する断片の1つである。この石碑には、エジプト第1王朝からエジプト第5王朝初期までのエジプト王の一覧とその治世下の年ごとの重大事件が記されている。恐らく第5王朝期(紀元前2392年-2283年頃)に作られたものである[1]。イタリアのパレルモにあるAntonio Salinas Regional Archaeological Museumに収蔵され、ここから名前が付けられた。 「パレルモ石」という名称は、カイロやロンドンの博物館に収蔵されるものを含む、Royal Annalsの現存する7つ全ての断片を指す場合もある。また、これらの断片はまとめて”Cairo Annals Stone”と呼ばれる場合もあるが[2]、”Cairo Stone”という言葉は現在カイロに収蔵される断片のみを表すのにも用いられる。 パレルモ石とRoyal Annalsのその他の断片は、古代エジプト以来残されてきた恐らく最古の文書記録であると考えられており、古王国時代のエジプト史の重要な情報源である。 パレルモ石がその一部であるRoyal Annals石碑は、元々高さ60cm、幅2.1mであったと考えられている。断片は、恐らく玄武岩の一種である硬く黒い石でできている。 パレルモ石自体は不規則な盾形で、高さ43.5cm、幅25cm、厚さ6.5cm(最大)である。 表面の碑文は、右から左への6行のヒエログリフからなっている。1行目には、王朝誕生前のエジプトの下エジプトの王の名前が列挙されている(デシェレト(赤い冠)で識別される)。2行目以降に続く行は、第1王朝から第4王朝のファラオの年代記、つまり年代順に並べた各々の王の治世下の重要な出来事が列挙されている。2行目は、名前が明らかとなっていない第1王朝の王の最終年から始まっているが、一般的にはこの王はナルメルまたはホル・アハであると推定されている[3]。2行目の残りは、この王の後継者(ホル・アハかジェルと推定される)の最初の9年間の年代記が書かれている。この面の碑文の残りの部分には、第4王朝の王までの年代記が続いている。

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畑島喜久生 – Wikipedia

畑島 喜久生(はたしま きくお、1930年3月1日 – )は、日本の児童文学研究者、教育評論家、詩人。 長崎県対馬生まれ。15歳で西浦上で原爆に遭う。1949年長崎師範学校卒、五年間教師をして1954年上京、1956年國學院大学文学部卒業。公立学校教師を経て、1982年東京都公立学校教頭、1986年調布市立国領小学校校長、1990年定年退職後、白百合女子大学・東京学芸大学・山梨大学講師、東京保育専門学校長を経て、同校理事・学監。20年余、小学校国語教科書(学校図書)の編集に携わる。現代少年詩の会代表(「少年詩の学校」主宰)。日本児童文学者協会会員[1]。 『子どもの詩の書かせかた』全2巻 鳩の森書房 1975 『これからの児童詩教育』みずうみ書房 1977 『魚類図鑑 少年詩集』学校図書 1982 『吃音の構造 畑島喜久生詩集』学校図書 1985 『たゆまぬ歩みおれはカタツムリ 長崎の平和像を作った北村西望』小林与志絵 佼成出版社 ノンフィクション・シリーズかがやく心

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酒井朝彦 – Wikipedia

酒井 朝彦(さかい あさひこ、1894年10月1日 – 1969年5月25日)は、児童文学作家。本名・酒井源一。教師、編集者をへて創作に専念。1961から1962年、第5代日本児童文学者協会会長[1]。 長野県下伊那郡竜丘村(現飯田市)の母の実家に生まれ、1900年、5歳の時に父に死別し木曽の定勝寺に預けられた。小学校卒業後、上京し、旧制東京中学を経て早稲田大学英文科に進む。1920年に卒業後、働きながら小川未明のネオ・ロマンチィズムに傾倒し童話を書き始める。1924年未明の推薦により「東京朝日新聞」に「天に登った蛍」を発表。同年、同人誌『童話時代』を創刊。同誌休刊後、1928年に千葉省三、伊藤貴麿らと同人誌『童話文学』を創刊。同誌は休刊後、1935年に稲垣足穂らを加えて『児童文学』に改題して1937年まで続けた。戦後の1946年には、文部省国語教科書編集委員や児童文学者協会(のちに日本児童文学者協会と改称)の設立に関わる。1961年創作民話『新・信州むかし話』で未明文学賞を受賞。1961年から1962年にかけて第5代日本児童文学者協会会長となる。1969年に死去。1978年に代表作をまとめた童話集『雪の夜の子馬』が刊行された。 『木馬のゆめ』初山滋絵 金蘭社 1930 『優等童話一年生 國定準據繪入』日本圖書出版 1936 『ひらがな童話集』川上四郎絵 金の星社 1939 『雪とうさぎ 創作童話』初山滋絵 童話春秋社 1939 『酒井朝彦童話

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激愛 (リンダ・ロンシュタットのアルバム) – Wikipedia

『激愛』(Mad Love)は歌手、ソングライター、プロデューサーのリンダ・ロンシュタットによる1980年に発売された10枚目のスタジオアルバム。ビルボードのアルバムチャートに当時のレコードとしても、女性アーティストとしても初めての5位で初登場し[2]、すぐにロンシュタットにとって7年連続となる100万枚以上を売り上げたアルバムとなった。このアルバムはプラチナ・ディスクに認定され[3]、グラミー賞にもノミネートされた。 このアルバムにはニール・ヤングの「まぼろしの恋人」(Look Out for My Love)と並んでエルヴィス・コステロの「パーティ・ガール」(Party Girl)、「ガールズ・トーク」(Girls Talk)および「トーキング・イン・ザ・ダーク」(Talking in the Dark)が収録されている。クリトーンズ(英語版)のファーストアルバム Thin Red Line からも3曲が採用されている。コステロの「トーキング・イン・ザ・ダーク」がリーナ・ラヴィッチ(英語版)のスタイルで演奏されていることから、『激愛』はしばしばニュー・ウェイヴやパンクに分類されることがある。 このアルバムからは熱狂的な「お願いだから」と痛々しく訴えかける「涙がいっぱい」という全米トップ10ヒットが生まれた。「アイ・キャント・レット・ゴー」がこのアルバムからの3曲目のヒットシングルとなった。ロンシュタットはビルボード誌の1980年のナンバーワン女性アーティストに選べれ多。これは彼女にとって4回目の栄誉となった(1975年、1977年、1978年にも選ばれている)。リンダはシングル「お願いだから」でグラミー賞の最優秀女性ロック・ヴォーカル・パフォーマンス部門にノミネートされた。イギリスではこのアルバムは65位となった。 リリースから31年後の2011年、『激愛』は廃盤となった。このアルバムはワーナー/ライノの「オリジナル・アルバム・シリーズ」(オリジナルのLPジャケットの小さな複製にそれぞれのCDが入った5枚組のボックスセット)の一部として2012年に再発売されたが、このボックスセットもすでに廃盤である。2018年、フライデー・ミュージックはピンクのLP盤の限定版をリリースした[4]。 Side B

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泡 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “泡” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年12月) 液体が空気を含んで丸くなった例 煎れたてのコーヒー表面の泡 泡(あわ、あぶく、英: foam、bubble)または泡沫(ほうまつ、うたかた)とは、液体もしくは固体がその中に空気などの気体を含んで丸くなったもの。気体を包む液体の表面張力により作られる。固体の泡は、液体の状態で形成されたものが固体化されたものが普通である。 液体中に生じた気泡は密度が小さく、上昇して水面に姿を現すとあぶくとなる。液面に出た場合、液体側はやや平らになり、空気中に丸く突出する。空気中の部分は薄い液体の膜からなるが、次第にそれを構成する液体が流下するので薄くなり、最終的には壊れる。これはシャボン玉と同じである。 すぐに割れてなくなるさまから、一時的なブームやバブル経済といった「はかなく消えるもの」の比喩に用いられる。 泡には次のような特徴がある。 空気を含む泡により構成された材料は、軽量化を図ることができる。空気は熱伝導率が小さいため、断熱性に優れた材料が構成できる。 界面張力が小さいため、接触角が小さくなり濡れを生じやすい。つまり付着性が高い。 泡を含む飲食物は、独特の食感がある(炭酸飲料、ビールなど)。 泡の表面には水中の微粒子が吸着される。 温度が高くなると、泡を作る液相の粘性が下がり、泡が消失しやすくなる。

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カナダ国会議事堂のネコ – Wikipedia

議事堂ネコの一匹、サンベリーナ (Thumbelina)。背景にはカナダ国立美術館とオタワのノートルダム大聖堂が見えている カナダ国会議事堂のネコ(カナダこっかいぎじどうのネコ、英: Parliament Hill cat colony、仏: Chats du parlement d’Ottawa)は、カナダの首都・オタワに所在するカナダ国会議事堂周辺で、かつてボランティアにより保護されていたネコ(野良猫)の総称。並びに、実際に同議事堂内で飼われていたネコの総称。 国会議事堂付近のパーラメント・ヒルに「キャット・サンクチュアリ」と呼ばれる一画があり、そこに雨風をしのぐための小屋が設置されていた。2013年1月、最後まで残っていた野良猫が引き取られたため、その役目を終え解体された。ネコの世話と「サンクチュアリ」の管理維持はボランティアによって行われており、必要な資金は寄付で賄われていた。 議事堂内のネコとして[編集] この節の加筆が望まれています。 (2016年4月) 1924年、当時新たに作られたカナダ国会議事堂のセンターブロックの地下にネズミが住み着いていており、その個体数がゆるやかに増加していたため、これを駆除する目的で議事堂にネコを住まわせるようになった。その後すぐにネズミの数は減ったが、今度は去勢されていなかったネコの子どもが増えだしてしまったため、同1924年のうちにネコは議事堂の外で飼われるようになった。それ以降も1955年までネズミ類の数を抑える目的で337匹のネコが敷地内に「雇用」されていたが、その年以降は化学薬品に取って代わられた[3]。 1930年代にはすでにネコの世話をする人が現れており、清掃員や整備員が屋外のあちこちで餌を与えていた。特にマッブ夫人という清掃員の女性がネコや鳥の餌をかばんに入れて議事堂周辺まで来ていたことが知られている。 野良猫の総称として[編集] 1970年、イレーヌ・デゾルモー (Irène

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第6回全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会 – Wikipedia

第6回全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会(だい6かい ぜんこくこうとうがっこうバスケットボールせんばつゆうしょうたいかい)は、1976年3月25日から28日まで代々木体育館別館で開催された全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会。 試合結果[編集] 男子[編集] 1回戦 市立白山 90 – 79 九州学院 浜松商業 65 – 60 市川 洛南 47 – 46 石川県立工業

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