Month: October 2020

山形県立鶴岡工業高等学校 – Wikipedia

山形県立鶴岡工業高等学校(やまがたけんりつ つるおかこうぎょうこうとうがっこう)は、山形県鶴岡市に所在する県立工業高等学校。鶴工の通称で呼ばれている。英語表記はTsuruoka Technical High School。 1895年12月28日 鶴岡町立鶴岡染織学校創立(以後、西田川郡立庄内染織学校(1914年)、西田川郡立庄内工業学校(1916年)と改称)。明治政府の殖産興業政策により、鶴岡で絹織物産業が盛んになり、織物組合立染織学校として創設された[1]。 1920年2月26日 文部省告示77号を以て工業学校規定に依り山形県西田川郡鶴岡町への山形県立鶴岡工業学校の設置認可。 1920年4月1日 山形県立鶴岡工業学校開校。染織、電気機械、木材工芸の3科を設置。(現在の鶴岡工業高校はこの時を同校の開校としている) 1922年10月20日 新築校舎本館落成式挙行。(以後、同日を創立記念日とする) 1948年4月1日 学制改革により山形県立鶴岡工業学校を前日付にて廃校、新たに山形県立鶴岡第二高等学校を設置。(電気、電気通信、機械、建築、染織の5科を設置する)同日、定時制課程(夜間)設置(電気、機械、建築の3科) 1950年3月31日 校名変更により山形県立鶴岡工業高等学校と改称。 1962年4月1日 定時制課程に電気通信科設置 1963年4月1日 全日制、定時制課程の電気通信科を電子科と科名変更 1965年4月1日 全日制染織科を工業繊維科と科名変更 1973年4月1日 全日制工業繊維科を色染化学科と科名変更 1974年4月1日 全日制に情報技術科設置 1977年3月31日 定時制電子科廃止 1979年3月31日 定時制電気科廃止 1979年4月1日 定時制機械科を機械電気科と科名変更 1987年3月31日 定時制機械電気科、建築科募集停止

Continue reading

心の哲学 – Wikipedia

骨相学による脳の地図。骨相学は、その結果のほとんど全てが誤ったものであったが、心的な機能と脳の特定の位置との関連づけを初めて試みた。 心の哲学(こころのてつがく、英語: philosophy of mind)は、哲学の一分科で、心、心的出来事、心の働き、心の性質、意識、およびそれらと物理的なものとの関係を研究する学問である。心の哲学では様々なテーマが話し合われるが、最も基本的なテーマは心身問題、すなわち心と体の関係についての問題である。 心身問題とは、心と体の状態との間の関係[1]、つまり一般的に非物質的であると考えられている心というものが、どうして物質的な肉体に影響を与えることができるのか、そしてまたその逆もいかに可能なのか、を説明しようとする問題である。 われわれの知覚経験は外界からどんな刺激が様々な感覚器にやって来るかに応じて決まる。つまりこれらの刺激が原因になって、われわれの心の状態に変化がもたらされ、最終的にはわれわれが快不快の感覚を感じることになる[2]。あるいはまた、あるひとの命題表明(propositional attitude)すなわち信念や願望は、どのようにしてその人のニューロンを刺激し、筋肉をただしい仕方で収縮させる原因になるのだろうか。こうした問いは、遅くともデカルトの時代から認識論者や心の哲学者たちが延々と検討してきた難問なのである[3]。 「心身問題に対するアプローチは二元論と一元論に分けられる」と考える人もいる。 二元論は何らかの意味で体と心を別のものとして考える立場で、プラトン[4]アリストテレス[5][6][7]サーンキヤ学派やヨーガ学派などのヒンドゥー教の考えにも見られる[8]。二元論を最も明確に形式化したのはルネ・デカルトである[3]。デカルトは実体二元論(Substance dualism)の立場から、心は物質とは独立して存在する実体だと主張した。こうした実体二元論と対比させられるのが性質二元論(Property dualism)である。性質二元論では、心的世界は脳から創発する現象であると考える。つまり心的世界自体は物理法則に還元することはできないが、かといって脳と独立して存在する別の実体であるとは考えない[9]。 他方、一元論は、心と体が存在論的に異なるものだという主張を認めない考え方である。西洋哲学の歴史においてこの考えを最初に提唱したのは紀元前5世紀の哲学者パルメニデスであり、この考えは17世紀の合理主義哲学者スピノザによっても支持された[10]。一元論には大きく分けて三つの種類がある。 1:物理主義(Physicalism)。 物理学の理論が記述するもののみが存在しているという考えで、物理学が発展していけば、心についても全て物理学の用語だけで説明できると考える。 2:唯心論(Idealism)。 心だけが実際に存在するもので外界とは心そのもの、または心によって作り出された幻想と考える。 3:中立一元論(Neutral monism)。 何らかの中立的実体があり、物や心というのはこの知られざる実体の持つ二つの側面、性質なのだと考える。

Continue reading

ジュネス☆プリンセス – Wikipedia

ジュネス☆プリンセス 出身地 日本 ジャンル J-POP 活動期間 2013年11月 – 2016年6月 事務所 JUNES ACTING&MODELING メンバー メンバーを参照 ジュネス☆プリンセス は、日本の芸能プロダクションである株式会社ジュネスに所属するタレントで結成された5人組の女性アイドルグループ。「現在進行形 成長期型姪っ子アイドル」をコンセプトとし、キャッチコピーは 『ちょっと目を離すと、あっという間に成長してしまうぞっ!』 2013年[編集] 11月

Continue reading

鮫島具重 – Wikipedia

鮫島具重 長門艦長時代 生誕 1889年4月8日 日本東京府 死没 1966年9月13日(満77歳没) 所属組織  大日本帝国海軍 軍歴 1909年 – 1946年 最終階級 海軍中将 テンプレートを表示 鮫島 具重(さめじま ともしげ、1889年4月8日 –

Continue reading

ゴラン・ツェコフ – Wikipedia

ゴラン・ツェコフ(マケドニア語: Горан Цеков、ラテン文字転写: Goran Cekov)は、北マケドニアの外交官、大使。彼は1996年に外務省(英語版)へ入省し、北大西洋条約機構(NATO)政府代表部や在ノルウェー大使館(ノルウェー語版)での在外勤務などを経て、2021年より駐日大使を務めている[1]。 彼の父は、人民解放戦争に従軍してスコピエ解放(マケドニア語版、英語版)などに貢献したヨルダン・ツェコフ(マケドニア語版、英語版)である[1]。 1996年、ツェコフは外務省(英語版)に入省した[1]。 2003年から2007年にかけて、ブリュッセルの北大西洋条約機構(NATO)政府代表部で在外勤務[1]。 2010年から2014年にかけて、在ノルウェー大使館(ノルウェー語版)で在外勤務[1]。 2019年に、彼はブリュッセルのNATO政府代表部で臨時代理大使を務めた[1]。 2021年3月10日、ツェコフは他の次期各国駐箚大使と共にステボ・ペンダロフスキ大統領と会見し、次期駐日大使を拝命[2]。同年7月15日、彼は皇居で信任状を捧呈して駐日大使に着任した[1][3]。 ^ a b c d e f g Новиот

Continue reading

ミリオン・ドリームズ – Wikipedia

『ミリオン・ドリームズ』は宝塚歌劇団の舞台作品。 1993年、宝塚大劇場と1999年、全国ツアーは月組、1994年、ロンドンは全組から選抜による公演。1993年、宝塚、1994年、ロンドン公演、1999年、全国ツアーの形式名は「グランド・ショー」。1993年、宝塚における本公演と1999年、全国ツアーは24場。作・演出は三木章雄。 併演作品は1993年宝塚・本公演と1994年が『花扇抄 -花姿恋錦絵-』と『扉のこちら』、1999年が『うたかたの恋』。 1993年月組公演は天海祐希の宝塚大劇場・トップお披露目公演演目の一つであった。 公演期間と公演場所[編集] 1999年・全国ツアーの日程[編集] ※『宝塚歌劇100年史(舞台編)』の宝塚大劇場公演参考。 暗闇の中に無限のリズムが響く時、新しいビートが新しいスターを生み出す。百万のリズムが息づき、輝き始めるステージ。百万の夢が、ある時は美しく、またある時は激しく、ジャズ、ラテン、ロックのリズムに乗って躍動する。 スタッフ[編集] ※氏名の後ろに「宝塚」「ロンドン」「全国」の文字がなければ全公演共通。 主な配役[編集] 1993年・宝塚[編集] 本公演[編集] 紳士S、若者、シンガー、ピグマリオン、ドリームスター – 天海祐希 淑女S、キッズ女S、娘、ドリームスター – 麻乃佳世

Continue reading

明治大学ガバナンス研究科 – Wikipedia

明治大学ガバナンス研究科(めいじだいがくガバナンスけんきゅうか、英称:Graduate School of Governance Studies -Public Policy School-)は、明治大学に設置されている研究科以外の教育研究上の基本組織。公共政策大学院。 2004年設立。大学基準協会の認証評価を得ている国内の公共政策系専門職大学院6校のひとつであり(他に、東京大学公共政策大学院、京都大学公共政策大学院、一橋大学国際・公共政策大学院、東北大学公共政策大学院、北海道大学公共政策大学院)、私大では唯一の公共政策大学院である。法学研究科、政治経済学研究科との兼担教員の他、実務家教員も教育研究を行っている。 政治・行政などパブリックセクターにおけるリーダー養成を目的とし、現職市区長・議員、政府・自治体関係者、シンクタンク関連や公共政策を手掛けるビジネスパーソン、NPO・NGO関係者、政治家・公務員志望の学生など、幅広いバックボーンの人材を受け入れている。講義等は主に駿河台キャンパスのアカデミーコモンで行われる[1]。入学試験では、通常の一般選抜の他、官公庁・企業などに在職中の者を対象とした職業人選抜なども行う。他の公共政策大学院と異なり、卒業の必修要件に修士論文は課されない。 市川宏雄名誉教授が作成主幹を務め、例年プレスリリースを主催している、「世界の都市総合力ランキング」(Global Power City Index, GPCI 森記念財団都市戦略研究所)は、世界の主要都市の総合力を詳細に評価・順位付けしたランキングとして、国の政策立案やビジネス界での利用など、世界中で幅広く使用されている。 一般財団法人日本産業協会が創設した「マスター消費生活アドバイザー」資格の指定大学院として認定を受けている。 国際交流[編集] 海外各国政府の若手幹部公務員や国際機関現職公務員などを対象にしたイングリッシュ・トラック(英語コース)を設置。2014年には英語で講義を行う博士課程のグローバルガバナンス研究科を設立。 海外の有力な公共政策大学院との交流が進められており、ENA(フランス国立行政学院)学長の招聘や、ハーバード大学ケネディスクールとの相互訪問などといった交流実績がある。 カリキュラム編成[編集]

Continue reading

スライ・ストーン – Wikipedia

スライ・ストーン(Sly Stone、1943年3月15日 – )は、アメリカ合衆国テキサス州デントン生まれのミュージシャン、作曲家、レコードプロデューサー。スライ&ザ・ファミリー・ストーンのリーダーとして有名。1960年代から1970年代にかけて、ソウル・ファンクの発展に貢献した。本名シルヴェスター・スチュアート(Sylvester Stewart)。 1993年にはロックンロール・ホール・オブ・フェイム(殿堂)に、グループのメンバーとして選ばれた[1]。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第78位[2]。 「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第69位[3]。 シルヴェスター・スチュアートは5人兄弟姉妹の第2子として南部テキサス州デントンに生まれた。父親はギターをひき、母親は教会でゴスペルを歌っていたという。音楽の囲まれた環境で育ち、やがて西海岸のカリフォルニア州ヴァレーホに移住している[4]。ヴァレーホに移ってから、彼は弟フレディや妹ローズ(ロージー)、妹ヴィエタ(ヴェット)と共にザ・スチュアート・フォーというバンドを結成して教会でゴスペルを歌い、1952年にはシングルレコードをリリースした。姉ロレッタを除き、スチュアート家の子供は後に全員「ストーン」という苗字を名乗り、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのメンバーとなった。 やがて彼は複数の楽器(主としてギター)を演奏するようになり、高校時代には複数のバンドに参加した。それらのバンドの一つがドゥーワップグループのザ・ヴィスケインズであり、メンバーはシルヴェスターとフィリピン系の友人フランク・アレラーノを除いては全員が白人だった。人種混合バンドであることがザ・ヴィスケインズをいかしたものにした。彼は短期大学に進学し、音楽理論や作曲を学んだ[5]。そして、この時の経験に基づいて彼は後にスライ&ザ・ファミリー・ストーンを結成することとなる。ザ・ヴィスケインズは”Yellow Moon”や”Stop What You Are Doing”など少数のローカルシングルを出した。同じ時期、彼はダニー・スチュアートという芸名で少数のソロシングルを録音してもいる。またスライはボビー・フリーマンに「カモン&スウィム」を提供し、同曲は全米5位のヒットとなった[5] 1960年代中期、スライはカリフォルニア州オークランドのラジオ局KSOLで(のちにはKDIAで)DJを務め、その傍らオータムレコードでレコードプロデューサーを務めた。このとき彼が手がけたバンドには、ザ・ボー・ブランメルズやザ・モジョ・メン、グレース・スリックのザ・グレイト・ソサエティがある[6]。スライ・ストーンという芸名を名乗り、1966年にはトランペット奏者のシンシア・ロビンソンを含めてザ・ストーナーズというバンドを結成した。このシンシアは、フレディ・ストーン(ギターとヴォーカル)やジョン・リー・フッカーと共演経験のあるラリー・グラハム[注釈 1](ベースとヴォーカル)やグレッグ・エリコ(ドラム)やジェリー・マーティーニ(サックス)と共に1966年末のスライ&ザ・ファミリー・ストーン結成にも参加している。スライ自身はギターとピアノとハーモニカなどを演奏した。スライ&ザ・ファミリー・ストーンの最初のレコーディングには、ヴェット・ストーンとメアリー・マクリアリーとエルヴァ・ムートンから成るリトル・シスターがバックヴォーカルとして参加している。1968年にはロージー・ストーン(ピアノとヴォーカル)がスライ&ザ・ファミリー・ストーンの一員となった。 スライはKSOL-AMをソウルミュージックの専門局に育てた。 デビューアルバム『新しい世界』(1967年)は不発に終わったが、スライ&ザ・ファミリー・ストーンはシングル「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」で初のヒットを飛ばした。この曲は、後にアルバム『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』に収録されることとなる。3枚目のアルバム『ライフ』(1968年)も売れ行きは芳しくなかったものの、1968年11月に発表したシングル「エヴリデイ・ピープル」は翌1969年にビルボードHot100チャートとHot R&B

Continue reading

魔女に与える鉄槌 – Wikipedia

『魔女に与える鉄槌』1669年版の題扉 『魔女に与える鉄槌』(まじょにあたえるてっつい、羅: Malleus Maleficarum[† 1])とは、ドミニコ会士で異端審問官であったハインリヒ・クラーマー[† 2][† 3]によって15世紀に書かれた魔女に関する論文。序文に名前が出てくるドミニコ会士ヤーコプ・シュプレンガー(英語版)はかつて共著者と考えられていたが、クラーマーが事実上の著者で、シュプレンガーはその学識者としての名声を箔付けに利用されたにすぎないとも言われている。 『魔女に与える鉄槌』は1486年にクラーマーによって書かれた。同年秋シュパイアーで初版が印刷され、1487年の版で序文が付された。中世における魔女理解のエッセンスともいうべき本であり、1435年から1438年頃に書かれたヨーハン・ニーダー(英語版)の『蟻塚(英語版)』全5巻(の内の第5巻)と並んで中世の魔女関連書の中で最も有名なものである。 本書の執筆目的は魔女の妖術の存在を疑う人々への反駁と、妖術の犯人は男より女が多いことを示すこと、および魔女発見の手順とその証明の方法について記すことであった。現代の研究者たちは、本書のほとんどがクラーマーの手によるもので、シュプレンガーは名前を使われただけでほとんど内容に携わっていないという点で一致している。むしろシュプレンガーは、自分の管区でクラーマーが説教することを禁じたり追放するなどしており、クラーマーの活動を容認していなかった節がある。 1484年12月5日、教皇インノケンティウス8世は魔女狩りを行うことへのお墨付きを与えてほしいと願ったクラーマーに対して回勅「限りなき願いをもって」 (Summis desiderantes affectibus) によって答えた。クラーマーはこの回勅(通称「魔女教書」)を『魔女に与える鉄槌』の序文として転用している。これによってクラーマーの著作が教皇のお墨付きを得ているかのような印象を与えることに成功したが、本来この回勅は審問官としてのクラーマーとシュプレンガーの役割を認めるだけのものであった。しかし、教皇の回勅が魔女の存在とその弾劾の必要性を認めたことが、血塗られた魔女狩りの時代を開くきっかけとなった。 クラーマーは1487年5月9日に『魔女に与える鉄槌』をケルン大学神学部に送付して大学による学術的承認を求めた。4人の教授が署名し、同書の考察は是認しうるものとの所見を記した。また、8人の署名入りの別の鑑定書があるが、これは同書の内容には直接触れていない。いずれにせよこれは学部としての正式な認定ではなく、署名した教授たちもクラーマーを積極的に支持したわけではなかった。クラーマーは「ケルン大学神学部による承認を受けた」として書物を宣伝したが、ケルン大学は後にこの鑑定を誤りとして訂正しようとした。このため8人の教授の鑑定書はクラーマーが捏造したものとの説が後世に生じた。 1490年、教会の異端審問部はクラーマーを弾劾したが、同書は魔女狩りのハンドブックとして読まれ続け、1487年から1520年までの間に13版を数えた。1574年から1669年までにさらに16版が印刷された。 『魔女に与える鉄槌』は独創的な著作物というより、それ以前から存在していた異端に関する諸説を巧みに組み合わせ、注釈を付けた百科全書的な書物である。『魔女に与える鉄槌』の際立った特徴は、通常の異端審問とは異なり、黒魔術などの邪術にアクセントを置いたことと、異端や邪悪の根源として女性に的を絞っている点にある。 『魔女に与える鉄槌』は全三部から構成されている。 第一部 –

Continue reading