Month: January 2021

GUITARFREAKS – Wikipedia

この項目では、初代GUITARFREAKSシリーズ(旧筐体)について説明しています。XGシリーズおよび現行シリーズ(新筐体)については「GITADORA」をご覧ください。 GuitarFreaksV3筐体。左はDrumManiaV3。 GUITARFREAKS(GuitarFreaks、ギターフリークス)は1999年にBEMANIシリーズの第4弾としてコナミ(現・コナミデジタルエンタテインメント)より発売された音楽ゲーム。その名の通り、ギターを演奏するものである。通称はギタフリ[1]およびGFで、2つで1つであるdrummaniaシリーズと一括してギタドラと呼ばれることもある。 慣例的に「ギターマニア」でなかったのは、コナミが1999年4月1日に発売した「ときめきメモリアルドラマシリーズVol.3 旅立ちの詩」の作中で「ギターマニア」という名称の架空のアーケードゲームが登場しているためとされている。ただし、弦を押さえて弾く点は同じであるものの、ゲーム性は全く異なる。プロデューサーとして小島秀夫が参加していた。 従来のシリーズは、2011年3月28日稼動の『GuitarFreaksV8』をもって終了したが、シリーズは並行して稼働を開始したXGシリーズ・GITADORAに移行している。なお、2013年3月31日をもってe-AMUSEMENTサービスは終了したが、設置店舗ではネットワークを利用しない範囲で遊べる。 GuitarFreaksの筐体は中央にディスプレイがあり、その下に2つのスタートボタン、ディスプレイの外側にスピーカーが付いており(4thMIX以降スピーカーが増設された)、そこにエレキギターを模したデバイスが両サイドに1つずつ立てかけられている。 スタートボタンの内側にPlayStation用のメモリーカードスロットやPlayStation版の同シリーズ専用コントローラを接続するための端子がついている場合もある(メモリーカードスロットは家庭用ソフトでエディットした譜面をロードするため、コントローラ端子は家庭用専用コントローラを「マイギター」として使用するためものだったが、現在はどちらも使用不能となっている)。8thMIX power-up ver.以降は左右それぞれのスピーカーの上にe-AMUSEMENTの磁気カード(V3以降はe-AMUSEMENT PASS)を挿入するカードリーダーが付いている。 ギターには、ネック部分にR(赤)・G(緑)・B(青)の3つのボタン、ボディ部分にピックレバーとエフェクターノブが存在する。エフェクターノブの操作により音質が変わり、選曲画面で緑を押しながらエフェクターノブでソート順を切り替えられる。ちなみにギターと筐体本体は信号のやりとりを行うケーブルが通ったチューブの他に、ワイヤーでもつながっている。 また、DrumManiaと接続するためのケーブルがあり、これにより同作とのセッションプレイが可能となっている。その関係上、隣り合って設置されていることが多く、同時期に稼動している機種ではイメージも統一されている。 5thMIX〜11thMIXまではdrummaniaに接続したセッションボックスへの接続による。特に5th/6thはKEYBOARDMANIA 3rdMIXも加えたマルチセッションGDKとなる。 V以降はシステム基板がPlayStation 2ベースの物に変更され、基板上のLANコネクタによる接続となった。 V4ではシステム基板がWindows XP Embedded

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奈勿尼師今 – Wikipedia

奈勿尼師今(なもつ にしきん、生年不詳 – 402年)は、新羅の第17代王(在位:356年 – 402年)であり、姓は金氏。 『三国史記』の分注によれば、別名として那密(尼師今)とある。第13代・味鄒尼師今の甥(父は仇道葛文王の子の末仇角干(1等官の別名)、母は金氏の休礼夫人)であり、王妃は味鄒尼師今の娘・保反夫人。『三国遺事』の王暦では奈勿麻立干[1]と記され、味鄒尼師今の弟とし、一説で味鄒尼師今の甥とする。 先代の訖解尼師今が356年4月に子の無いまま薨去したため、奈勿尼師今が王位を継いだ。以後、53代・神徳王(在位:912年 – 917年)の時代になるまで、新羅の王位は金氏の中で継承が行われた。 はじめ高句麗に従属し、のち日本に王子を人質として差し出し従属した[2]。また、中国(前秦)に朝貢してその庇護を求めた。奈勿尼師今の治世に国号を「斯盧」から「新羅」に改めたとされる。 364年甲子4月、日本の侵入を受け、とても敵わないと恐れたが、数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山の麓に並べ、一方で勇士1千人を斧峴(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、進撃してきた日本兵に不意討ちをかけて敗走させた。 366年丙寅、368年戊辰、百済の近肖古王からの使者を受け入れる(羅済同盟)。 373年癸酉、百済の禿山城(京畿道安城市)の城主が領民300を率いて新羅へ投降してきた。このとき百済からは国書を送って返還を求めてきたが、奈勿尼師今は「民草は、行きたいところへ行き嫌になれば去るというように、自分達の望むところに住まうものです。大王(百済王)は自らの民草の思いを配慮せず、私(新羅)を責めるのはいかがなものでしょうか」と答えたところ、百済は何も言ってこなくなったという。 377年丁丑、高句麗に随伴して前秦に朝貢をしており、382年壬午には前秦に対して衛頭を派遣し、新羅単独で朝貢を行った[3]。『太平御覧』が引用する『秦書』(逸書)には、この時「新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)が国号を斯盧から新羅に改めたことを報告した」とある[4]。 『好太王碑文』によれば、新羅は高句麗の属国であったが、391年辛卯、日本が海を渡って大量の兵を送り新羅、百済、加羅を破り服属させたとする。さらに『三国遺事』には、391年辛卯、新羅は日本への臣従の証として第三王子の未斯欣を人質として日本へ送った事が記されている[5]。 ところが、その翌年の392年壬辰正月、高句麗からの使者が来た。新羅は高句麗の国力が盛んなことを恐れ、王族である伊飡(2等官)の金大西知の子の実聖(後の実聖尼師今)を高句麗へ人質として送り、高句麗へ再び臣従を誓った。その為、今度は日本が新羅の非を責めて、393年癸巳5月、再び日本が新羅へ侵攻し、首都金城(慶州市)を包囲した。新羅は籠城戦を余儀なくされたが、日本兵が退却しようとしたところを騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、日本軍を大敗させた。399年己亥にも日本からの侵攻を受ける。日本軍が国境に満ち溢れ城池を潰破し民を奴客としたため高句麗に救援を求めた。翌400年庚子になると金城が倭軍に包囲されるが、救援の高句麗軍が迫ると倭軍は任那加羅に撤退し窮地を脱した。 在位47年にして402年壬寅2月に薨去したとされる。『三国遺事』に拠れば、占星台の西南に陵があるという。また、王陵は慶州市校洞の史跡第188号が比定されている。 ^ 『三国史記』によれば麻立干の号は19代訥祇麻立干からのこととするが、『三国遺事』では奈勿尼師今から麻立干の号を用いたように記している。『太平御覧』に見られる「新羅王楼寒」の表記のうち「楼寒」は「奈勿」に相当するものである。

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奉恩寺駅 – Wikipedia

奉恩寺駅 3番出入口(2015年3月28日) 봉은사 ポンウンサBongeunsa ◄928 三成中央 (0.8 km) (1.4 km) 総合運動場 930► 所在地 ソウル特別市江南区奉恩寺路(朝鮮語版) 地下601 北緯37度30分46秒 東経127度3分9秒 / 北緯37.51278度 東経127.05250度 / 37.51278;

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ドクター調査班〜医療事故の闇を暴け〜 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ドクター調査班〜医療事故の闇を暴け〜” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年6月) 『ドクター調査班〜医療事故の闇を暴け〜』(ドクターちょうさはん いりょうじこのやみをあばけ)は、2016年4月22日から6月3日まで毎週金曜日20:00 – 20:54に、テレビ東京系の「金曜8時のドラマ」枠で放送された日本の医療ドラマ。主演は谷原章介[1][2]。 「医療事故調査制度」という、第三者機関による医療事故の原因究明と再発防止に焦点を当てたドラマで、架空の組織「医療事故調査委員会」(通称:MAIC)の潜入調査を通じて、医療事故の真相に迫る、1話完結スタイルのドラマである[1]。 キャスト[編集] 医療事故調査委員会(MAIC)[編集] 華岡 慧(はなおか あきら) 演

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前野町 – Wikipedia

前野町(まえのちょう)は、東京都板橋区の町名[4][5]。現行行政地名は前野町一丁目から六丁目。全域で住居表示が実施されている。郵便番号は174-0063[2]。 板橋区の中央部に位置する。北で志村、東で大原町・泉町・宮本町、南で常盤台、南西の一部で富士見町、西で中台に隣接する。143.6haと区内でも比較的大きな面積をもつ町である。町域内には住宅地のほか中小の工業施設が立地する住工混合市街地が見られる。町域の北部を首都高速5号池袋線が東西に走るほか、東京都道が町域の中央を南北に縦貫している。 地形[編集] 町域は武蔵野台地成増台と荒川低地の境をなす、志村地区の崖線(がいせん)の後背部に相当する。すりばち状の谷戸地形で、おおむね南(常盤台側)から北(志村側)へ向かって下り勾配であり、数多くの坂道が作られている。谷底にあたる部分に見次公園と首都高速道路5号線があり、志村との境界になっている。 地価[編集] 住宅地の地価は、2015年(平成27年)1月1日の公示地価によれば、前野町1-44-6の地点で36万円/m2となっている[6]。 廃藩置県実施前は、武蔵国豊島郡前野村。 沿革[編集] 1871年(明治4年)11月:浦和県(現埼玉県)から東京府に編入。大区小区制実施。 1878年(明治11年):郡区町村編制法により北豊島郡が設置され、東京府北豊島郡前野村となる。 1889年(明治22年)4月1日:市制町村制施行により志村と合併、東京府北豊島郡志村大字前野となる。字名として、南道附・熊野・免谷・日暮久保・城山下・田向。 1923年(大正12年):志村前野町(現在の前野町一丁目)に、谷田賀良倶商店(後に谷田製作所を経て、現在の株式会社タニタ)創業。1959年に家庭用体重計、1992年に体脂肪計の製造・販売を始める。 1932年(昭和7年)10月1日:東京府内市郡併合による板橋区発足に伴い、東京府東京市板橋区志村前野町となる(1943年8月1日 東京都制施行)。 1946年(昭和21年):淑徳高等女学校が小石川から志村前野町に移転する。 1952年(昭和27年):旭光学工業株式会社(現・リコーイメージング株式会社)が、豊島区西巣鴨から志村前野町に移転する。 1953年(昭和28年):板橋区により、志村前野町北端(現在の前野町四丁目)の自然湧水池一帯が区立見次公園として整備される。 1960年(昭和35年):淑徳短期大学が埼玉県与野市(当時)から移転する。 1961年(昭和36年)5月1日:地番整理により、志村前野町と志村清水町の一部が前野町一丁目に再編される。 1962年(昭和37年)3月1日:地番整理により、志村前野町の大部分および志村小豆沢町、(旧)小豆沢一丁目、志村中台町の一部が前野町二~六丁目に再編される。志村前野町の一部は(旧)志村町二丁目に編入される。

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リターン・オブ・ザ・インベーダー – Wikipedia

『リターン・オブ・ザ・インベーダー』(Return of the invaders)は1985年に稼動開始したタイトーのアーケードゲーム。スペースインベーダーシリーズの第3弾である。 前作である『スペースインベーダー パートII』から約6年ぶりに発表された作品であり、パワーアップやチャレンジングステージなど、様々なシステムが追加されている。 ゲームのルール[編集] 2方向レバー、1ボタン(ショット)で基地を守る砲台 XEROVY を操作しながら敵を倒していく。砲台が全滅するか、または残機が何機あってもインベーダーが画面の一番下まで占領されるとゲームオーバーとなる。全20ステージ構成で、ステージ20をクリアするとステージ1の敵配置に戻り、3周目まではスタート時のインベーダーの位置が下がることで難易度が上昇する。ステージ99をクリアすると1周目のステージ1に戻る。 特定のインベーダーは撃たれると編隊から弾き飛ばされて落下してくるが、これをもう一度打つことでボーナス得点が入る。撃墜する高度が低いほど高得点。 スペースインベーダーのトーチカに相当するゼロガード (XERO-GUARD) は部分的に壊すことはできなくなり、一定数自弾か敵弾を受けて耐久力がなくなるか、インベーダーが少しでも触れると全体が破壊される。ただし、中央右よりにある連結部分のみ部分的に破壊でき、ここだけに自弾を当てて壊すことで縦に穴を開けられる。ステージによっては、ゼロカードが一定間隔でスライドするように左右に往復して動く。ステージクリア時にゼロカードは元の状態に修復される。 チャレンジングステージ[編集] 特定のインベーダー(ZICON)を3匹以上残してそれ以外の敵を全て倒すと、マザーシップから多数のインベーダーが降下してくるチャレンジングステージ(ボーナスステージ)が始まる。これは以下の条件で終了する。 UFOを1分間撃たずにいる マザーシップを撃墜 敵や敵の攻撃に触れた時 インベーダーを230匹倒す

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ガストン・バシュラール – Wikipedia

ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard, 1884年6月27日 – 1962年10月16日)は、フランスの哲学者、科学哲学者。科学的知識の獲得の方法について考察した。また、詩的想像力の研究にも多くの業績を残した。 主著『新しい科学的精神』(1934年)においてバシュラールは、経験論と合理論の対立の乗り越えを図る。バシュラールはしばしばカール・ポパーと正反対と評されるが、乗り越えを目指したという点は変わらないのである。バシュラールに従えば、科学認識論には観念論(観念実在論)と唯物論を両極とするひとつのスペクトルがあるが、合理的唯物論はその中間に位置する。 科学史上の著作においてバシュラールの筆鋒は、帰納主義と経験論の両方の批判にむかう。科学的事実とは、理論的問題設定があって初めて構成されるのだという。科学は、明証性すなわち直接的認識がもたらす幻想に抗して形成される。これがバシュラールのいう「否定の哲学」である。したがって、科学史という仕方で知識を得ようとすると、「認識論的断絶」つまり前科学的な思考と断絶することが求められる。バシュラールの表現に従えば、新しい知識を得るには「認識論的障害」を乗り越えることが必要なのである。 バシュラールにとって、あらゆる認識は近似的認識にすぎない。「科学において真実とは積年の誤謬を歳月をかけて正していくことと考えられ、経験とは万人が抱いている当初の幻想を修正していくことと考えられる」。 バシュラールは認識論上の対立を調停しようとしている。経験論と合理論の対立を乗り越えなくてはならないというのだ。「内容空疎な合理論でもなく、支離滅裂な経験論でもなく」。「適応合理主義」ないし「合理的唯物論」を用いてはじめて科学的活動がおこなわれるのである。 バシュラールの思想は多くの点でフェルディナン・ゴンセトに近い。両者は研究誌『ディアレクティカ』の編集に携わっている。 後年バシュラールは詩的想像力の研究に邁進した。彼はこう述べている。「われわれは観念世界に帰属しているよりはるかに強くイメージ世界に帰属している。イメージ世界のほうがはるかにわれわれの存在を構成しているのである」。そしてバシュラールは、夢想の喜びを肯定し、「ろうそくの焔」を見てわきあがる思い出に身を委ねるのである。 主要著作[編集] 1927年 Essai sur la connaissance approchée (Vrin) 豊田彰他訳

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イェイツのカイ二乗検定 – Wikipedia

統計学において, イェイツの修正 (またはイェイツのカイ二乗検定)は分割表において独立性を検定する際にしばしば用いられる。場合によってはイェイツの修正は補正を行いすぎることがあり、現在は用途は限られたものになっている。 推測誤差の補正[編集] カイ二乗分布を用いてカイ二乗検定を解釈する場合、表の中で観察される二項分布型度数の離散型の確率を連続的なカイ二乗分布によって近似することができるかどうかを推測することが求められる。この推測はそこまで正確なものではなく、誤りを起こすこともある。 この推測の際の誤りによる影響を減らすため、英国の統計家であるフランク・イェイツは、2 × 2 分割表の各々の観測値とその期待値との間の差から0.5を差し引くことによりカイ二乗検定の式を調整する修正を行うことを提案した[1]。これは計算の結果得られるカイ二乗値を減らすことになりp値を増加させる。イェイツの修正の効果はデータのサンプル数が少ない時に統計学的な重要性を過大に見積もりすぎることを防ぐことである。この式は主に分割表の中の少なくとも一つの期待度数が5より小さい場合に用いられる。不幸なことに、イェイツの修正は修正しすぎる傾向があり、このことは全体として控えめな結果となり帰無仮説を棄却すべき時に棄却し損なってしまうことになりえる(第2種の過誤)。そのため、イェイツの修正はデータ数が非常に少ない時でさえも必要ないのではないかとも提案されている[2]。 例えば次の事例: ∑i=1NOi=20{displaystyle sum _{i=1}^{N}O_{i}=20,} そして次がカイ二乗検定に対してイェイツの修正を行った場合である: χYates2=∑i=1N(|Oi−Ei|−0.5)2Ei{displaystyle chi _{text{Yates}}^{2}=sum _{i=1}^{N}{(|O_{i}-E_{i}|-0.5)^{2} over E_{i}}} ここで: Oi

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スターダムバウンド – Wikipedia

スターダムバウンド (Stardom Bound) [2]は、アメリカ合衆国生産の競走馬、繁殖牝馬。おもな勝ち鞍に、2008年のデルマーデビュータントステークス、オークリーフステークス、BCジュヴェナイルフィリーズ、2009年のラスヴァージネスステークス、サンタアニタオークス。 競走馬時代[編集] 特記事項なき場合、本節の出典はEQIBASE[1] 2008年7月20日、デルマー競馬場でのメイドン競走でデビューして2着となると、2走目に未勝利の身ながらG3競走ソレントステークス(英語版)に出走し2着に入る[4]。依然未勝利ながらデルマーデビュータントステークスに駒を進め、レースでは後続に4馬身4分の1差つけて初勝利をG1競走で飾ることとなった[4]。続くオークリーフステークスも2着に2馬身差をつけてG1競走2連勝として[5]ブリーダーズカップ・ジュヴェナイルフィリーズに向かい、レースではここでも後方に控え、最終コーナーで押し上げて直線で先頭に立ち、後方から追い込んできたドリームエクスプレスの追撃を1馬身半差おさえてゴール[6][7]。そのレースぶりから、当時4歳のゼニヤッタに準えて「ゼニヤッタ・ジュニア」との声もかかった[6]。G1競走3連勝で、エクリプス賞最優秀2歳牝馬に選出された[3][8]。 3歳を迎えた2009年2月、2009年いっぱいまでレースに使って引退し、2010年に二冠馬ビッグブラウンと交配するプランが明らかになる[9]。直後の2月7日のラスヴァージネスステークスから始動し、レースでは出脚がつかず最後方からとなってしまうが、最後の直線で他馬をまとめて交わして勝利しG1競走4連勝[10][11]。レース後にはオーナーサイドから4月4日のサンタアニタダービーで牡馬と対戦するプランも明かされたが[10]、最終的には3月7日のサンタアニタオークスに向かい、相変わらずの後方からレースからゴール手前で先行馬を交わしてG1競走5連勝とした[12][13]。しかし、4月のアッシュランドステークスで、サンタアニタオークスで3着に負かしていた伏兵フーワイから2馬身差の3着に敗れて、G1競走6連勝はならなかった[14][15]。レース後はケンタッキーオークスには向かわず休養に入り[16]、11月のガゼルステークスで復帰もテストステークスの勝ち馬フラッシングの5着に終わり[17]、4歳となった2010年もエルエンシノステークス(英語版)2着、ラカナダステークス(英語版)7着と連敗を重ね、4月11日のアローワンス競走5着が最後のレースとなって引退した[18]。 競走成績[編集] 以下の内容は、EQIBASE[1]の情報および記載法に基づく。 引退後はケンタッキー州レキシントンのブルーウォーターファームで繁殖牝馬となる[18]。直後にビッグブラウンとの仔を受胎した状態で購買され、当初は購買者が伏せられていたが[19]、のちに実際の購買者は吉田勝己で個人的に購買したことが判明した[20]。購買の結果日本へ輸出され、ノーザンファームで繋養されている。 産駒一覧[編集] ^ a b c d e f g

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