Month: January 2021

小林雄一 – Wikipedia

小林 雄一(こばやし ゆういち、1989年8月25日 – )は、東京都板橋区出身の陸上競技選手。専門は短距離走。100mで10秒38、200mで20秒46の自己ベストを持つ。2011年大邱世界選手権と2013年モスクワ世界選手権の日本代表。 東京都板橋区出身。O型。保善高等学校、法政大学卒業。NTNの陸上競技部所属。 高校生時代まで[編集] 父親は陸上のインターハイ400mチャンピオン。母親は陸上の200m元日本記録保持者で、1979年アジア選手権の200mと4×100mリレーで金メダルを獲得した貝原澄子(旧姓)[1]。姉も弟も陸上選手という陸上一家で育つ。しかし、本人は小中学校時代は陸上に興味がなく、小学生の時はサッカーと水泳、中学生の時は硬式テニスをしていた。硬式テニスは全くの初心者から始め、3年の時に「都でベスト16くらい」の実績を残したという。中学3年の時に偶然観に行った陸上の大会で保善高校の監督から誘いを受け、高校から陸上を始めることとなった。最初の頃は練習を抜けることばかり考えていて、高校時代は一応陸上を続け、卒業後は昔からの夢だった美容師になるために専門学校に進もうとも考えていた。しかし、陸上を始めてから半年後に出場した国体少年B200mで8位に入る。この時に初めて悔しい気持ちになり、負けず嫌いの性格に火がついた。2年時には日本ジュニア選手権200mで2位に入り(優勝した石塚祐輔と0秒15差の2位)、インターハイは200mで8位に入った。3年時にはインターハイの100mと200mを制して短距離2冠を達成すると、国体の少年A100mと日本ジュニア選手権200mも制した。 大学生時代[編集] 2008年4月に法政大学に進学。同年7月の世界ジュニア選手権に出場すると、100mは予選敗退に終わったが、アンカーを務めた4×100mリレーでは4位入賞に貢献した。 2009年6月の日本選手権200mに初出場を果たし、決勝では20秒79の自己ベストをマークして6位入賞を果たした。 2010年9月の日本インカレ200mにおいて、世界ジュニア選手権200m金メダリストの飯塚翔太を破り初優勝を果たした[2]。 2011年5月の関東インカレ200mで20秒59を記録し、2011年大邱世界選手権の参加標準記録Aを突破。同年6月の日本選手権200m予選で再び20秒59を記録し、決勝は2位の齋藤仁志と同タイム(20秒62)の3位に入った。この結果を受けてアジア選手権日本代表に選出され、シニアで初めて日の丸を背負うことになった[3]。同年7月のアジア選手権には200mと4×100mリレーに出場すると、大会2日目の4×100mリレー予選では1走を務め、予選2組1着の決勝進出に貢献した。しかし、大会3日目の200m予選で足を攣り、大会4日目の4×100mリレー決勝は欠場した。大会終了後に大邱世界選手権の日本代表に選出。同年8月の大邱世界選手権でシニア世界大会デビューを果たしたが、出場した200mと4×100mリレーの両種目で予選敗退に終わった。 社会人時代[編集] 2012年4月にNTNに入社。 2013年6月の日本選手権200mにはモスクワ世界選手権の参加標準記録Bを突破済みの状態で臨むと、2年ぶりに決勝へ進出した。迎えた決勝では20秒46の自己ベストをマークして2位に入り、この結果を受けてアジア選手権とモスクワ世界選手権の日本代表に選出された。同年7月のアジア選手権に2大会連続となる出場を果たすと、200mは5位入賞、前回は予選のみの出場に終わった4×100mリレーでは予選と決勝の両方で1走を務め、銀メダル獲得に貢献した。2大会連続の出場となった同年8月のモスクワ世界選手権200mは、予選の組3着までに入れば着順で準決勝に進出だったが、結果は3着と0秒12差の4着に終わり、タイムでも拾われずに予選で敗退した。 2014年5月の世界リレー4×200mに出場して1走を務めたが、日本は2-3走間のバトンミスが響き0秒12差で決勝進出を逃した。 自己ベスト[編集] 記録欄の( )内の数字は風速(m/s)で、+は追い風を意味する。 種目

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サンシャイン ロマンス – Wikipedia

「サンシャイン ロマンス」(sunshine romance)は、1993年5月7日に発売されたORIGINAL LOVE通算4作目のシングル。 「サンシャイン ロマンス」はアルバム『EYES』[1]からの先行シングル曲で、アルバム収録曲と同内容だが、エンディングが20秒ほど短く編集されている。後に、ベスト・アルバム『SUNNY SIDE OF ORIGINAL LOVE』[2]に、エンディングが長く編集された“New Version”で収録された。この曲は田島貴男が、自身の番組[3]で、メロディーは異なるがフィフス・ディメンション(The Fifth Dimension)「It’s a Great Life」[4]とイントロでのブラス・アレンジの類似性を指摘され、対して田島が「これ(

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鹿島槍ヶ岳 – Wikipedia

鹿島槍ヶ岳(かしまやりがたけ)は、富山県黒部市、中新川郡立山町および長野県大町市にまたがる後立山連峰(飛騨山脈)の標高2,889 mの山[注釈 1][3]。中部山岳国立公園内にある[注釈 2][4]。後立山連峰の盟主とされる[5][6]。 山頂は南峰(標高2,889 m)と北峰(標高2,842 m)からなる双耳峰で、吊尾根と呼ばれるなだらかな稜線で繋がっている[3][7]。山頂部は森林限界を越える高山帯で、1922年(大正11年)10月12日に多くの高山植物が自生する白馬岳や五竜岳を含む周辺の西面は「白馬連山高山植物帯」の特別天然記念物に指定された[8][9]。日本百名山[7]、花の百名山[10]、新・花の百名山[11]の一つに選定されている。旧北安曇郡にあった旧美麻村[12]を代表する山として鹿島槍ヶ岳の眺望が『信州ふるさと120山』の一つに選定されている[13]。剱岳・立山・唐松岳と並び、日本では数少ない氷河の現存する山である[14][15]。 山名の由来[編集] 古い異名では、越中の奥山廻り御用がこの山を後立山(ごりゅうざん)と呼び[7]、江戸時代後期の国境見回りの記録絵図には祖母谷を経由する登路を記している。 鹿島は平家の落武者が住んだと伝えられている麓の集落の地名である[3][7]。その鹿島は周辺の地域を襲った大地震や水害を避けるため鹿島明神を勧請したことに由来している[3]。 鹿島山ト號ケタルハ昔シ鹿島明神出現アリシトテ此所ニ祭リシヨリ今ニ此名アルナリ — 『信府統記』(松本藩、1724年(享保9年)12月)[3] 大正初期に陸地測量部が、この鹿島集落にある尖った山頂の山を飛騨山脈南部の槍ヶ岳に対して「鹿島槍ヶ岳」と呼ぶようになった伝えられている[3][16]。信州側では、双耳峰であることに由来する「背比べ岳」や、大冷沢の源頭部に現れるツルとシシの雪形の模様に由来した「鶴ヶ岳(ツル岳)」と「シシ岳」と呼ばれていた[3][5][6][7][16]。北東斜面の谷部の「カクネ里」は平家の落武者の隠れ里が転訛したものと伝えられている[5][6][16]。 地質・環境[編集] フォッサマグナに西縁に位置し、隆起により山脈が形成された[16]。山頂部はアダメロ斑岩からなり、大部分の山体は角閃石黒雲母花崗岩からなる[3]。東面は日本海の北西から季節風により大量の積雪があり、氷期の氷河により氷食作用で急峻な斜面が形成された[3]。西面は東面と比較するとならだかで非対称山稜となっている[16]。北峰から延びる天狗尾根の北側の鹿島川の支流である大川沢源流部のカクネ里には万年雪が見られる[3][25]。カクネ里に氷河が現存するのか立山カルデラ砂防博物館の研究員により調査が行われ、2018年1月にカクネ里雪渓が国内4例目の氷河であることが確定した[14]。 山の上部は森林限界のハイマツ帯で、オヤマノエンドウ、シナノキンバイ、タカネツメクサ、タカネマツムシソウ、タカネミミナグサ(学名:Cerastium rubescens Mattf. var. koreanum

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ロバート・ジョスリン (第2代ローデン伯爵) – Wikipedia

第2代ローデン伯爵ロバート・ジョスリン(英語: Robert Jocelyn, 2nd Earl of Roden KP PC (Ire)、1756年10月26日 – 1820年6月29日)は、アイルランド王国出身の貴族、政治家。1771年から1797年までジョスリン子爵の儀礼称号を使用した[1]。 初代ローデン伯爵ロバート・ジョスリンとアン・ハミルトン(Anne Hamilton、1730年5月 – 1802年4月16日、初代クランブラシル伯爵ジェームズ・ハミルトンの娘)の息子として、1756年10月26日に生まれた[1]。1773年11月1日にオックスフォード大学エクセター・カレッジに入学、1776年10月31日にM.A.の学位を修得した[2]。 1776年にメアリーバラ選挙区(英語版)でアイルランド庶民院議員に当選したが、後に当選無効を宣告された[3]。その後、1783年から1797年までダンドーク選挙区(英語版)の代表としてアイルランド庶民院議員を務めた[3]。 1797年6月22日に父が死去すると、ローデン伯爵位を継承した[1]。同年にアイルランド枢密院(英語版)の枢密顧問官に任命された[4]。議会では政府を支持して、合同法案にも賛成票を投じた[5]。 1798年アイルランド反乱(英語版)では1st Irish

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その「おこだわり」、俺にもくれよ!! – Wikipedia

『その「おこだわり」、俺にもくれよ!!』(そのおこだわり おれにもくれよ)は清野とおるによる日本の漫画作品。『モーニング』(講談社)2014年25号(6月5日発売号)に読み切りとして掲載されてから、『月刊モーニングtwo』(同社刊)で2015年1月号から12月号まで連載。その後『モーニング』に移籍して2016年1号からおよそ月1回のペースで掲載され、2018年18号で完結した。 日常の暮らしの中で特にこだわる必要がない物・事柄についてこだわりを見せる人物、「おこわだり人」にスポットを当て、その「おこだわり」ぶりを漫画でレポートするという体裁のエッセー風漫画である[注 2][1]。 2016年4月9日(4月8日深夜)から6月18日(6月17日深夜)までテレビ東京系列で同作を原作としたフェイクドキュメンタリードラマ番組『その「おこだわり」、私にもくれよ!!』(そのおこだわり わたしにもくれよ)が放送された。 書誌情報[編集] テレビ版[編集] 『その「おこだわり」、私にもくれよ!!』(その おこだわり わたしにもくれよ)と題し、テレビ東京系列にて2016年4月9日から6月18日まで毎週土曜日の0時52分から1時23分(金曜日深夜)に放送された。全11話。『山田孝之の東京都北区赤羽』のスタッフによるフェイクドキュメンタリードラマで、松岡茉優が本人役で主演。実生活でも松岡と親交のある伊藤沙莉が本人役で共演する[2][3]。 製作[編集] 松岡茉優と伊藤沙莉が本人役で主演する、フェークドキュメンタリードラマとして製作された。彼女ら2人が司会を務め、上記漫画を原作としたテレビのバラエティー番組という設定で、原作と同じような趣味を持つ著名人をゲストに、その「おこだわり人」ぶりを披露してもらいつつ、松岡と伊藤の友情をドラマやインタビューで探る[4]。このため、番組内では「このドキュメンタリーは、フィクションです。」との断り書きがある。 あらすじ[編集] 映画、ドラマにバラエティ番組とさまざまな分野の仕事を器用にそつなくこなすマルチプレイヤーの松岡茉優は、新バラエティ番組『その「おこだわり」、私にもくれよ!!』のMCに起用される。松岡は親友でカメラ撮影担当の伊藤沙莉を引き連れて「他人にはなかなか理解できないけれど、本人は幸せになれるこだわりをもった人=“おこだわり人(びと)”」のもとを突撃取材し、その実態を明らかにしていく。 第10話では、モーニング娘。’16 に加入するため、所属事務所を退社したことになっている。 登場人物[編集] 主要人物[編集] 松岡茉優

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リリー・フランキー – Wikipedia

リリー・フランキー(Lily Franky、本名:中川 雅也(なかがわ まさや)、1963年11月4日 – )は、日本のマルチタレント。俳優、文筆家(脚本、小説、エッセイ)、画家(イラスト、絵本)など、多種多才な顔を持つ。所属事務所は、ガンパウダー有限会社。身長174cm、体重62kg、血液型B型。独身。 福岡県北九州市小倉生まれ。武蔵野美術大学卒業。 ロックバンド「TOKYO MOOD PUNKS」のボーカル。作詞や作曲をする際は、Elvis Woodstock(エルヴィス・ウッドストック)というペンネームで活動している。 ペンネーム「リリー」の由来は、大学時代の友人とあまりに仲が良く、周りの友人がこの2人に対し、「薔薇と百合(ローズ&リリー)みたい」と名付けたことから。また、カルチャー・クラブのボーイ・ジョージが好きだったことから、自身も「男だか女だか判らない、日本人だか外国人だか判らない謎めいた名前にしたい」との理由で「フランキー」を後に付けた。 福岡県北九州市小倉に生まれた後、5歳から中学卒業までを福岡県鞍手郡宮田町(現:宮若市)、高校を大分県別府市で過ごした。高校生から一人暮らしをしていた。大分県立芸術短期大学付属緑丘高等学校を卒業し[1]、武蔵野美術大学に進学する。ファミコンに熱中して留年したため、卒業に5年を要した。卒業制作もファミコンのプレイ映像だった。 24 – 25歳の時に初めて連載を持つ。以来、「頼まれた仕事はすべて引き受ける。断る理由がない」の精神で、ピーク時には約30もの連載を掛け持ちしていた。物理的に不可能となり、締め切りに間に合わず、よく連載を落とした。 1991年に宍戸留美のラジオ番組の構成を担当した縁で、宍戸の楽曲制作に携わる。これが音楽関係の仕事の足掛かりとなる(アルバム『プンスカ』(1992年)で宍戸と共同作詞、インディーズアルバム『Set me Free』(1995年)で作詞を4曲、作曲を1曲担当)。以後、リリメグのデビューシングル『おやすみ』での作詞&作曲をはじめ、サディスティック・ミカ・バンド、「小野瀬雅生ショウ」、藤田恵美、高見沢俊彦など、数多くのアーティストへの作詞提供をしている。かつて、千葉県鴨川市の鴨川グランドホテルにて、約1か月間バンド出演していた[要出典]。 ファンクラブ会報にイラストを描いていたのが縁で、1994年1月25日に発売された森高千里のシングルCD『ロックン・オムレツ』のカバーイラスト&PVアニメを担当した。

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国鉄105形蒸気機関車 – Wikipedia

国鉄105形蒸気機関車(こくてつ105がたじょうききかんしゃ)は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道省に在籍したタンク式蒸気機関車である。 出石鉄道で列車を牽く6 流山鉄道105の形式図 本形式は、秋田鉄道(現在の花輪線の一部)の4.1形(4.1)で、1934年(昭和9年)6月1日付けで同鉄道が国有化されたことにより、国有鉄道籍を得たものである。国有化に際して、105形(105)と改番された。 この機関車は1913年(大正2年)、イギリスのカー・ステュアート(英語版)が中央鉄道向けに2両(製造番号1197, 1198)を製造した、車軸配置2-4-0(1B)のタンク機関車の1両(製造番号1198)である。同社流のずんぐりとしたデザインの機関車である。 しかし、中央鉄道は路線の建設ができず[1]、製造番号1197のみを引き取り、製造番号1198はキャンセルした。中央鉄道では当面使用の予定がないため、上武鉄道(現在の秩父鉄道に)D形(6)として貸し渡したが、1916年(大正5年)10月に返却された。中央鉄道は、これを信濃鉄道に売却し6としたが、信濃鉄道はこれを使用することなく0-6-0形タンク機関車と交換で播州鉄道(後の播丹鉄道)に譲渡した。播丹鉄道では1936年(昭和11年)まで在籍し、側水槽を増強する改造も受けていたが、晩年はあまり使用されず、同年出石鉄道に譲渡され、1944年(昭和19年)の同線休止[2]時に廃車解体された。番号は、一貫して6であった。 一方の製造番号1198は、1914年(大正3年)に秋田鉄道が開業用として購入し、4.1として使用した。1934年に鉄道省籍となり105と改められたが、ほどなく休車となり、1938年(昭和18年)に流山鉄道(現在の流鉄)に譲渡された。流山鉄道では、シリンダ横にステップを新設し、蒸気ドーム覆いと砂箱を大型化した。砂箱は、鉄道省2500形からの発生品であった。その後、1951年(昭和26年)に日本車輌製造蕨工場の入換用に転じ、1960年(昭和35年)に解体された。 主要諸元[編集] 全長 : 7,799mm 全高 : 3,428mm 全幅 : 2,394mm 軌間 : 1,067mm 車軸配置 : 2-4-0(1B) 動輪直径 :

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めっちゃ (お笑い芸人) – Wikipedia

めっちゃ (1988年11月11日 – )は、日本のお笑い芸人。2019年2月までの芸名はめっちゃ細田(めっちゃほそだ)。吉本興業東京本部所属。元大相撲力士であり、大相撲時代は安大ノ浪(あおのなみ)の四股名で安治川部屋(現・伊勢ヶ濱部屋)に所属していた。 経歴・人物[編集] 尼崎市立小園中学校時代は陸上選手であり、相撲経験はなかったが、父の勧めで2004年3月に安治川部屋に入門。当時は身長171cm、体重69kgで当時の新弟子検査の体格基準を満たしていなかったため、第二新弟子検査を経て合格。当時の新弟子の中では最軽量だったという[2]。しかし体重増に苦しみ、腰椎分離症を発症したこともあり2006年11月場所後に引退した[2]。最高位は東序二段94枚目(2005年1月場所)。 経歴・人物[編集] 故郷の尼崎に戻り、アルバイトを経て2008年4月、吉本総合芸能学院(NSC)大阪校に31期生として入学[2]。卒業時はピン芸人だったが、2010年に大相撲マニアの中村圭之介と「小褄取り」(後に「こずまとり」に改名)を結成した。「小褄取り」としては2011年に第32回今宮子供えびすマンザイ新人コンクール奨励賞・福娘大賞を受賞した。 2017年6月に東京吉本に移籍し、コンビ名を「オオイチョウ」に改名したが、2018年5月に中村が芸人を引退したため、コンビは解散[3]。以後はピン芸人として活動している。 2019年2月、高橋茂雄(サバンナ)の勧めにより芸名を現在のものに改名した[4]。 [5] 主に「安美錦の寝起き」などの「相撲あるあるものまね」を得意とする[5]。 また、NHK大相撲中継を担当する藤井康生、刈屋富士雄、吉田賢などのものまねも得意としている[2]。 エピソード[編集] 力士時代に安治川部屋で行われたかくし芸大会で、後援会長のものまねを披露し優勝したことがある。これをきっかけに人を喜ばすことに目覚め、引退後に芸人を目指すこととなったという[2] コンビ時代は相方がスーツ姿だったのに対し、めっちゃは裸に黒廻しの姿で舞台に立っていた[2]。 2020年7月21日、西田淳裕(キンボシ)と共に武蔵小山商店街を歩いていたところ、レンタルビデオ店で万引きを行い逃走する男に遭遇。正面から体当たりして男を取り押さえ、警察に引き渡した[5][6]。 この節の加筆が望まれています。 大相撲時代の成績[編集] 安大ノ浪

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