Month: April 2021

二人の食卓 〜ありがとうのレシピ〜 – Wikipedia

『二人の食卓 〜ありがとうのレシピ〜』(ふたりのしょくたく ありがとうのレシピ)はテレビ朝日系列(フルネット24局)で2007年10月6日から2012年3月24日まで放送されていた料理番組、トーク番組である。放送時間は毎週土曜18:30 – 18:58。2010年11月6日までは、19:00まで放送されていた。BS朝日でも土曜11:00 – 11:30に、1週間遅れで放送していたが、2009年3月28日をもって一旦打ち切られた。その後BS朝日では2011年4月2日から毎週土曜12:30 – 13:00の時間帯で放送を再開。 2012年3月24日をもって放送終了、後番組は『雑学家族』である。 本項目では、以前放送されたBS朝日オリジナルのミニ番組『二人の食卓 もう一品』( – もういっぴん)についても記述する。 毎回、各界を代表する著名人の男性からその身近な女性に対して手料理を作っておもてなしをするという番組である。 パナソニック[1](2008年9月以前はNational名義の松下グループ(松下電器・松下電工))の単独提供番組であり、スタジオのセットの家電製品やキッチンは、パナソニック製品が使用されている(#外部リンク参照)。 また、料理を作る際、コンロを使い加熱する工程では通常「弱火」「中火」といった表記を使うが、当番組では「IHヒーターでは火力3」といったIHクッキングヒーター使用時の火力も併記されている。 放送開始当初は日ごろの感謝の気持ちをこめて、男性が女性に料理を作ってもてなすというコンセプトのもと、ゲストを近親者(夫婦もしくは親子)どうし、それも男性の方は普段あまり料理をしていない人に限り、女性ゲストの食べたい料理を男性ゲストが辻調グループ校の講師による特訓を受けてマスターし、その成果をスタジオで披露する、という趣旨の番組[2]だった。 しかし放送開始から半年ほど経過しての企画変更以降は、ゲストは主に友人どうし、料理も男性ゲストの得意料理を披露することが中心となった。 放送開始以来数度の企画変更を経ても、ゲストの組み合わせは男女どうしが長らく守られてきていたが、2011年5月21日の放送では男性の友人どうし(三宅裕司・伊東四朗)の組み合わせが初登場した。ただし、男性が料理を作ってもてなすという原則は最終回まで守られた。

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阿遅速雄神社 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “阿遅速雄神社” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年9月) 阿遅速雄神社 阿遅速雄神社 鳥居と拝殿 所在地 大阪府大阪市鶴見区放出東3-31-18 位置 北緯34度41分19秒 東経135度33分53秒 / 北緯34.68861度 東経135.56472度

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町内の若い衆 – Wikipedia

町内の若い衆(ちょうないのわかいしゅう)は、古典落語の演目の一つ。上方および、東京の一部の演者においては町内の若衆(ちょうないのわかしゅ、ちょうないのわかじゅ)という演題になる。 原典とみられるものは1690年(元禄3年)の笑話本『枝珊瑚珠』に収載された「人の情」[1][注釈 1]。大まかなストーリーは原話以来ほぼ不変とされ、これは落語の数多い演目の中できわめて珍しい。 主な演者に4代目柳家小せん、7代目立川談志、3代目柳家権太楼、6代目五街道雲助、柳家喜多八、古今亭菊之丞らがいる。 あらすじ[編集] ある職人の男が、「親分(大将とも)」の顔を見ようと彼の自宅に寄ってみると、親分は留守で、親分の妻だけが在宅していた。男は、親分の妻と茶話をしていると、庭のほうで工事の音がするのに気づく。親分の妻は「茶の湯を習い始めたため、茶室の増設をしている」と言うので、男が「この不景気に建て増しをするとは、おたくの大将は働き者ですね」とほめると、「うちの人の働きではございません。町内の若い衆が、寄ってたかってこしらえてくれたようなものです」と謙遜する。 男は帰路につきながら、親分の妻の奥ゆかしい態度に感心し、さらに、女らしさを失った自分の妻と比較して情けなく感じ、「あれは女じゃない、亭主の命を削るカンナだ」とつぶやく。 自宅に帰った男は妻に親分宅での一部始終を話し、「お前にこういう受け答えができるのか」となじると、妻は「言ってやるから、茶室を建て増ししてみろ」と、男の痛いところを突く。ぐうの音も出なくなった男は「湯に行く」と言い捨てて自宅を飛び出す。 男は偶然、友人に行き会ったので、友人に「何でもいいから手当たり次第に家のことをほめてくれ。最後に、『おたくの大将は働き者ですね』と言ってみてくれ」と頼む。 友人はしぶしぶ男宅に行って男の妻に会い、部屋を見回しつつ、天井に張ったクモの巣や、部屋に家具の一切ない様子などをほめてみるが、うまくいかない。そのうち、男の妻が妊娠していることに気づいた友人が、「この不景気に赤ん坊をこしらえるなんて、おたくの大将は働き者ですね」と言うと、男の妻は、 「うちの人の働きではないわよ。町内の若い衆が、寄ってたかってこしらえてくれたようなものよ」 注釈[編集] ^ 1798年(寛政10年)刊の笑話本『軽口新玉箒』には、「築山」という同類の結末を持った小咄が収載されている。 出典[編集] 関連項目[編集]

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アイドルパーティー – Wikipedia

アイドルパーティーは、アニメーション制作会社の6次元アニメーションと千葉テレビ放送(チバテレ)の制作で、2016年4月から6月に放送の、主にアイドルをとりあげたバラエティ番組である。 アイドルやアニメに関するトークや各種企画を中心とした番組である。 制作局であるチバテレでは、当番組が放送されている水曜24時台は2016年3月まで永らく、ビーイングとの共同制作によるビーイング所属アーティストを中心とした音楽番組を放送し、全国の地方局にネットしていた。2016年3月に終了した『MUSIC LAUNCHER』の後枠として放送されるが、当番組はビーイングは全く関係なく、ネット局も前番組の22局から開始当初は13局と大幅に縮小している(それでも、独立局制作番組としては異例のネット局数の多さであった)。 しかし、後述するとおり2016年5月に突如チバテレ以外でのネットを打ち切り、以後はチバテレのみの放送となっていたが、そのチバテレでの放送も6月で終了することになった。 レギュラー出演者のみ記載。 主なコーナー[編集] 原駅ステージAのコーナー。ダンスボーカルグループである原駅ステージAによる、ダンスバトル。 毎週ゲストアイドルを迎えての、トークやロケ企画。 アニメモデルオーディション オリジナルのCGアニメに登場するモデルなどを、オーディションで選考する企画。 ネット局・放送時間[編集] 制作局のチバテレをはじめ、一部局では『MUSIC LAUNCHER』を放送していた枠でそのまま放送している[1]。なお、当初はサンテレビでも放送予定とされていたが、現段階で放送予定はない。また、一部局では2016年4月のみの期間限定として予定されていたが、結果的にはそれ以降も5月までは放送を継続していた[2]。 2016年5月で、制作局のチバテレを除き全てネット終了。6月はチバテレのみで放送時間を変更の上継続していた。 番組終了時の放送局[編集] 放送対象地域 放送局 系列 放送日時

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エチオピア革命 – Wikipedia

エチオピア革命(えちおぴあかくめい)は、1974年にエチオピア帝国が打倒された軍事クーデター。 1970年代初頭、皇帝ハイレ・セラシエ1世が統治していたエチオピアは深刻な政治的・社会的・経済的危機に直面し、世界の最貧国の一つになっていた。農村地域に住んでいた人口のほとんどは、1960年代末期からの定期的な旱魃に苦しみ[1]、絶え間ない飢饉に直面しており、貧農は皇帝・貴族・正教会の所有する土地で暮らすことを強いられていた[1]。この状況は、エリトリア地方の反政府勢力[1]に対する軍事的敗北、ティグレ地方(英語版)とティグレ地方(英語版)での深刻な飢饉により更に強まった。これら全てが、帝国政府への大きな不満を生み出した。 ハイレ・セラシエ1世が飢饉の程度を知らなかったと示唆する情報源があるが、別の人間は皇帝はそれをよく知っていたと主張している。さらに腐敗した官僚によって飢饉を隠蔽するための工作が繰り返された。合法的な政党が存在しなかった[1]エチオピアにおいて、諸政策の実行には皇帝の承認が必要であり、このことは行政の非効率化をもたらした。 帝国への不満は、エチオピア人民革命党(英語版)(PRPE)と、農民反乱と学生の抗議に加えて、帝国体制に対する様々な抗議行動を主導したパネティオペ社会主義運動(MEISON)によって更に膨れ上がった。帝国の危機は第一次オイルショックによって引き起こされた原油高でさらに悪化し、深刻なハイパーインフレをもたらした[1]。 状況が悪化するにつれて、デモや暴動の鎮圧を担当していた軍の中でも不満は広がり、賃金の上昇を要求した。その中で反皇帝勢力が軍でも増え始めていた。 1974年2月、経済状況に抗議したことを契機として暴動が発生し、首都アディスアベバで5人が死亡した。この暴動とハイパーインフレの影響に鑑みたハイレ・セラシエ1世は、基本的な製品の価格を固定するなど、大きな譲歩を強いられることとなった。 しかし、それでも不満は収まらなかった。9月12日、左派の陸軍(英語版)下級将校によって結成された政治委員会であるデルグ(英語版)は、皇帝と帝国政府を打倒し、支配的な軍事政権に移行した。翌1975年3月21日、マルクス・レーニン主義を公式イデオロギーとして採用したデルグは帝制を廃止し、エチオピアにおける社会主義国家を建設する過程としての臨時軍事行政評議会を樹立した。クーデター勃発時に国外にいた皇太子アスファ・ウォッセンはそのままロンドンに亡命したが、ハイレ・セラシエ1世をはじめとして、イジガエフ(英語版)皇女やテナグネウォルク(英語版)皇女といった革命勃発時にエチオピアに居住していたソロモン家(英語版)の皇族の多くが拘留・投獄された。8月27日、アディスアベバのジュビリー宮殿(英語版)に拘禁されていたハイレ・セラシエ1世は謎の多い状況下で死去した[2][3]。その年、ほとんどの産業と民間の都市不動産がデルグによって国有化された。 関連項目[編集]

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山沢栄子 – Wikipedia

山沢 栄子(やまざわ えいこ、1899年 – 1995年7月16日)は、大阪市出身の写真家。 女性写真家のパイオニアであり、関西を拠点にポートレートや広告写真の分野で活躍した。1960年以降は抽象的な形態のモティーフを組み合わせた「What I’m doing」のシリーズを制作した。「What I’m doing」のシリーズは大阪市中之島美術館[1]に収蔵されている。 14歳から写真を始め、女子美術学校(現・女子美術大学)日本画科卒業。1926年カリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アーツに留学し油絵を学ぶ。その間、写真家コンソエロ・カネガの助手として、本格的に写真を学ぶ。 1929年に大阪へ戻り、大阪堂島ビルにポートレイトスタジオを開設。1935年そごう百貨店内の3Fのスタジオに移転。1938年には心斎橋筋の山沢栄子写真場を開設した。顧客にはサントリーの佐治敬三や建築家の村野藤吾など大阪の多くの文化人、経済人がいた。 1943年に新劇女優・山本安英を知り、舞台扮装写真を撮影始めた。戦争中より終戦まで約3年間東京及び信州において山本安英の勉強会に出席し舞台写真の撮り方を研究する。(戦争中は長野県に疎開)。 1945年スタジオを戦災で焼失。浜地病院に身を寄せた。翌年に京都の進駐軍P.X.スタジオを担当した。 1950年、山沢写真研究会開設。商業写真を始めた。1952年商業写真山沢スタジオを大阪そごう百貨店屋上に設立。1955年ニューヨークにいき、27年ぶりにコンソエロ・カネガと再会。同年、大阪府芸術賞を受賞。 1960年に営業写真家としての仕事を辞め、念願だった表現としての写真制作に専念した。1965年、半年間、ヨーロッパ、アメリカに撮影旅行。1968年神戸にスタジオ移転。 1977年日本写真家協会功労賞受賞。1980年神戸市文化賞。1982年昭和62年度日本文化デザイン会議賞受賞。 1994年に伊丹市立美術館で回顧展を開催した。 2019年に生誕120年を記念した回顧展、山沢栄子「私の現代」が[2]西宮市大谷記念美術館で開催され、[3]東京都写真美術館に巡回した。 1962年

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ニコラ・デュポン=エニャン – Wikipedia

ニコラ・デュポン=エニャン 2011年 ニコラ・デュポン=エニャン(Nicolas Dupont-Aignan、1961年3月7日 – ) は、フランスの政治家。ド・ゴール主義を掲げる政党「立ち上がれフランス」党首であり、エソンヌ県イェール市長。 政治経歴[編集] 1990年から1992年までイル=ド=フランス地域圏知事官房長を務める。 1992年から1993年までイル=ド=フランス地域圏知事補佐官を務める。 1993年から1994年まで国民教育省参事官を務める。 1994年から1995年まで環境省参事官を務める。 1995年6月25日にエソンヌ県イェール市長に就任。2001年3月18日に再選。 1997年6月の国民議会議員選挙でエソンヌ県から共和国連合公認で初当選。 2002年6月の国民議会議員選挙で国民運動連合公認で再選。 2007年1月13日にニコラ・サルコジ党首(当時)の路線に対立して国民運動連合を離党する。 2007年国民議会議員選挙(6月10日、17日投票)では立ち上がれ共和国公認で出馬し、第一回投票で2万5306票(57,38 %)を得て再選した。 2022年4月10日の2022年大統領選挙第1回目投票で得票率2.10%(9位)にとどまり落選[1]。 2005年5月29日に国民投票で否決された欧州憲法に反対した数少ない国民運動連合所属の国会議員で、国家主権主義(仏:Souverainisme)とド・ゴール主義者を標榜している。社会的・愛国的ド・ゴール主義(仏:le gaullisme

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スイス国鉄BDe4/4形電車 – Wikipedia

歴史的電車として運用されているBDe4/4 1646号機 歴史的電車として運用されているBDe4/4 1643号機と同形の制御車および客車の編成 スイス国鉄BDe4/4形電車(スイスこくてつBDe4/4がたでんしゃ)は、スイスのスイス連邦鉄道(SBB: Schweizerische Bundesbahnen、スイス国鉄)の支線系統で使用されていた旅客荷物合造電車である。なお、本機は登場時はCFe4/4形であったが、1962年の称号改正[1]によりBDe4/4形となったものであり、さらに1989年の称号改正によりBDe570形となったがこちらは現車には反映されず、廃車となるまでBDe4/4形のままであった。 スイス国鉄での電車の使用は1930-40年代までは比較的限定的であり、1923-28年製のBe4/6形[2]やDe4/4形[3]などの旧型で重量の重い短編成列車の牽引用機関車兼用機もしくは、本線の高速列車用や団体、臨時列車用として発達したとして発達したRBe2/4形[4]やRAe4/8形[5]、RABDe8/12形[6]などの軽量高速機が使用されているのみであった。そういった状況の中で、本機はスイス国鉄が初めて本格的電車運転を想定した調査を実施した結果と、私鉄で発達していた電車の運用成績などをもとに1952年から製造した支線区間用の電車であり、同形の制御車を連結したプッシュプルトレインとして使用されるほか、ある程度の客車もしくは貨車を牽引することを想定して設計された、Bo’Bo’の車軸配置と軽量構造の車体で低圧タップ切換制御による1176kWの1時間定格出力と最高速度110km/hの性能を持つ機体であり、設計要件は以下の通りであった。 主に支線区間での使用するものとし、場合によっては本線での区間列車や都市近郊列車に使用する 中間客車および制御客車と編成を組んでプッシュプルのシャトルトレインとして使用し、制御車からの遠隔制御が可能であること 12パーミルの勾配区間で250tの列車を牽引して75km/hで走行可能であること 運転整備重量を54tとすること なお、製造をSLM[7]、BBC[8]、MFO[9]、SAAS[10]、SIG[11]、SWP[12]が担当して841-871号機の31両が製造されているが、1962年の称号改正の際に機番も1621-1651号機に改番されている。 車体[編集] 車体はプレス鋼を多用した丸みを帯びたデザインの軽量車体で、当時の軽量客車と屋根や車体下のラインが揃うように設計されたもので、同時期に製造されたAm4/4形[13]やAm4/6形[14]、RFe4/4形、Re4/4I形と同様のものである。車体は両運転台式で、正面はRの深い丸妻で貫通幌座および貫通扉付きの3枚窓で窓下部左右に小形の丸型前照灯を、貫通幌枠内上部に小形の丸型前照灯と標識灯を設置しており、屋根の車体高一杯近い高さまである幌枠が特徴である。側面は平滑で窓扉配置は1D5D11D11(右側面、運転室窓-扉-客室窓-扉-トイレ窓-荷物室窓-荷物扉-荷物室窓-運転室窓)および11DD5D1(左側面、運転室窓-荷物室窓-荷物扉-扉-客室窓扉-運転室窓)となっており、車体内は前位側から運転室-荷物室-トイレ及び主制御機を設置した機器室-デッキ-客室(喫煙)-客室(禁煙)-デッキ-運転室の配置となっている。連結器はねじ式連結器で緩衝器(バッファ)が左右、フック・リングが中央にあるもので、その下の車体下部にはスカートが設置されている。 4枚折戸の乗降扉のあるデッキ部の床面はレール面上1000mm(車体中央側)もしくは1100mm(後位側)で、ホームからは最下段がレール面上520mmのステップ2段を経由して乗車するほか、客室の床面がレール面上1100mmとなっており、車体中央側のデッキからはスロープを経由して入室する。また、荷物室床面高さはレール面上1100mm、運転室床面1150mmとなっている。 客室はすべて2等室で、2+2列の4人掛けの固定式クロスシートで座席定員は喫煙室16名、禁煙室24名であり、客室窓は高さ950mmの大型の下降窓となっている。 屋根上には前位側には菱型の集電装置を、その後位に空気遮断器と主抵抗器が並び、台車上部には主電動機冷却気取入用のルーバーと冷却ファンが設置されている。 台枠は鋼材を箱型に組んで構成されており、台車もその中にはまり込む形で装備され、床下には主変圧器、主変圧器冷却油用オイルクーラー、発電ブレーキ用の励磁装置、電動空気圧縮機と空気タンク、蓄電池箱が設置されている。 運転室は両側に下落窓付の乗務員室窓があり、反運転台側にはバックミラーが設置される構造で、運転時はスイスやドイツで一般的な円形のハンドル式のマスターコントローラーにより操作を行う。

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