府藩県三治制 – Wikipedia

府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)は、明治初年の地方行政制度。

1868年6月11日(慶応4年閏4月21日)、政体書(法令第331号)公布に伴い、維新後の徳川幕府の直轄地に置かれていた裁判所を廃止し、そのうち城代・京都所司代・奉行の支配地を、それ以外をとして、府に知府事、県に知県事を置いたが、は従来どおり大名が支配した。また旗本領、寺社領、および大名・旗本の御預所などの管轄までは定められていなかったが、1868年7月13日(慶応4年5月24日)旗本采地の府県管轄指令(法令418号)により、旗本領(万石以下之領地)と寺社領が最寄の府県の管轄となることが定められた。ただし全国一斉に旗本領・寺社領が府県の管轄となったわけではなかった。

1869年7月25日(明治2年6月17日)の版籍奉還によって三治制が確立して藩も国の行政区画となり、旧藩主(大名)は知藩事に任命された。知藩事は中央政府から任命される地方官であり、藩の領域も藩主に支配権が安堵された「所領」ではなく、地方官である知藩事が中央政府から統治を命じられた「管轄地」とされた。

1870年1月3日(明治2年12月2日)旗本領の上知が決定され、府・藩・県のいずれかに所属することが定められた。これにより全国の旗本領が消滅した。

1870年10月14日(明治3年9月10日)に「藩制」が制定されて藩組織の全国的な統一が強制されるなど、中央政府による各藩に対する統制が強められる一方、多くの藩で財政の逼迫が深刻化し、廃藩を申し出る藩が相次いだ。

明治3年12月末頃、内示により藩御預所の管轄が府・藩・県のいずれかに移管され、各地に残っていた藩御預所が形式上消滅した。実際の引き渡しは翌年までずれる地域もあり、伊予国内の高知藩御預所のように所属の曖昧なまま廃藩置県を迎えた地域もあった。1871年2月23日(明治4年1月5日)寺社領の上知が決定され、府・藩・県のいずれかに所属することが定められた。これにより全国の寺社領が消滅した。

1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により藩は廃止され、府県制となった。

廃藩置県以前に設置された府県[編集]

凡例[編集]

太字は府、廃止日の欄に○を付したものは廃藩置県当日の明治4年7月14日(1871年8月29日)に存在した府県。以下の地方区分は現在行われている区分による。慶応4年と明治元年は同じ年(西暦1868年)。明治5年12月2日(1872年12月31日)まで旧暦を使用。

北海道・東北地方[編集]

上記のほか、戊辰戦争で減封された東北諸藩等の領地(東北地方民政取締諸藩)に以下の県が設置されていた[1]。法令に従って設置された県だが、明治政府の公文書には記録が残っておらず、正式な県とは認めていない資料が多い。

関東地方[編集]

中部地方[編集]

近畿地方[編集]

中国・四国地方[編集]

九州地方[編集]

廃藩置県以前の藩の異動[編集]

明治維新以降に立藩した藩[編集]

江戸時代は藩として認められていなかったものの、明治政府によって認められた藩。

任知藩事前に廃止された藩[編集]

知藩事任命以前に廃止された藩。

任知藩事後に廃止された藩[編集]

版籍奉還後の知藩事任命以降、廃藩置県までの期間に廃止された藩。

任知藩事前に移転・改称した藩[編集]

ともに第2次長州征討敗戦による移転。

任知藩事後に移転・改称した藩[編集]

知藩事任命以降、藩庁の移転などにより改称のあった藩。

任知藩事時に改称した藩[編集]

知藩事の任命に際して、またはその直後に改称した藩。

廃藩置県当日に存在した藩[編集]

凡例[編集]

以下の各藩が廃藩置県当日の明治4年7月14日(1871年8月29日)まで存続し、同日、県に置き換えられた。

以下、地方区分は上記の府県の区分に合わせ、基本的に北から順に配列する。

北海道・東北地方[編集]

関東地方[編集]

中部地方[編集]

近畿地方[編集]

中国地方[編集]

四国地方[編集]

九州地方[編集]

名称と管轄区域[編集]

各府県および知藩事任命後の藩は、いくつかの例外を除いて、それぞれの府藩県庁所在地名によって「大阪府」「品川県」「山口藩」などと呼ぶのを原則としていた。しかし、府藩県の中には府藩県庁所在地を中心とする一まとまりの区域の外に遠隔地に飛地を持つものが少なくなかった。

たとえば、伊豆国韮山(現:伊豆の国市)に県庁を置いた韮山県は、伊豆国内だけでなく、相模国、武蔵国、甲斐国内にあった旧幕府直轄領(天領)や旗本支配地なども管轄していた。反対に、相模国(現:神奈川県)には国内に藩庁を置く小田原藩や荻野山中藩、あるいは近隣の神奈川県や六浦藩(武蔵国)、韮山県(伊豆国)だけでなく、下野国(現:栃木県)の烏山藩や三河国(現:愛知県)の西大平藩などが管轄区域を持っていた。特に旧幕府領や旗本支配地、藩領が錯綜する関東地方や近畿地方にこのような例が多い。

政府は、各府藩県の管轄区域を交換、整理統合して支配の合理化を図ろうとしたが、廃藩置県までに実現したのは部分的なものにとどまり、管轄区域の錯綜はほとんど解消されなかった。国や郡を単位とした一円的な管轄区域が確立するのは、廃藩置県後の明治4年10月末 – 11月(1871年12月)の全国的な府県再編を経て以降のことである。

参考文献[編集]

  1. ^ 千田稔、松尾正人『明治維新研究序説-維新政権の直轄地-』(開明書院、1978年)をもとに一部修正。
  2. ^ a b 改称の日付は『法令全書』の記述による。『太政官日誌』では、久保田藩、柴山藩がそれぞれ秋田藩、松尾藩に改称したのは明治4年1月12日(1871年3月2日)のこととされている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]