九五式陸上攻撃機 – Wikipedia

G2H1 九五式陸上攻撃機

九五式陸上攻撃機(きゅうごしきりくじょうこうげきき)は大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。設計・製造は広海軍工廠。当時の日本海軍が保有する最大の機体だったが性能向上の余地が無く、後続の九六式陸上攻撃機が画期的な性能を発揮する見通しとなったため、少数の生産で終わった。略符号はG2H1
少し遅れて採用された九六式陸上攻撃機が「中攻」と呼称されたのに対し、本機は「大攻」と呼ばれた。略称は九五式陸攻・九五陸攻

軍縮条約によって航空母艦の保有量が制限されたということは艦隊決戦に参加出来る航空戦力が制限されるということであり、これを補うために陸上基地より決戦海面へ到達可能な航空戦力(陸上攻撃機)が求められた。天候によって運用の制限を受ける飛行艇の代わりに陸上基地から遠距離哨戒や攻撃が出来る大型機という構想により、1932年(昭和7年)から当時大型機開発の経験があった広海軍工廠で、当初「広廠七試特種攻撃機」(広廠七試特攻)として開発が進行された。試作機は1933年(昭和8年)4月29日に完成し、翌5月の初飛行には、陸上攻撃機の発案者である海軍航空本部長松山茂中将の下で本機の計画に携わった山本五十六海軍航空本部技術部長も立ち会った。

細長い機体に大面積の主翼を有した全金属製の双発機で、全幅約32m、全備重量11t(搭載量2tを含む)という当時の日本海軍においては最大の陸上機となった。エンジンは当時最も強力だった九四式一型発動機の双発とした。本来は双発艦上攻撃機であった九三式陸上攻撃機が1トン魚雷1本懸吊で考えられていたところに対し、大型陸上攻撃機である本機では1トン魚雷2本懸吊が想定されるようになった。

当時の最強力発動機をもってしても11tの巨体に対しては非力で、速度性能、上昇性能等の飛行性能はあまり芳しくないものだった。加えて、細い胴体の剛性不足による尾翼の振動や補助翼の大仰角旋回時のフラッター、エンジンの不調などの改修に手間取り、九五式陸上攻撃機として制式採用されたのは1936年(昭和11年)になってからだった。この頃「八試特殊偵察機」の名で開発が進み九五式よりもやや遅れて採用された九六式陸上攻撃機の開発が進んで優秀な性能を示しており、本機の生産は試作機を含めて8機で打ち切られた。

1937年(昭和12年)の第二次上海事変後に、渡洋爆撃を行った九六式陸上攻撃機に大きな被害が出て緊急の戦力補充が必要であったことや現地の海軍戦闘機隊により制空権が確保されたことにより、九五式陸上攻撃機が実線部隊に配備されることになった。

9月14日に木更津海軍航空隊の三原元一大尉率いる大攻6機が済州島に派遣された。初出撃は9月30日、上海の江湾鎮方面への爆撃であったが悪天候のために爆撃を実施したのは半数であった。続いて10月2日に大攻6機、中攻6機で上海の大場鎮方面の爆撃を行った。その後、10月11日、10月12日、10月15日、10月17日、10月21日と上海付近の陸戦支援のための渡洋爆撃に従事した。中攻より航空性能が劣る大攻であったが、敵戦闘機の居ないこの方面では大搭載量を生かして敵地上軍に対して大きな戦果を上げた。

しかし、10月24日に済州島基地からの出撃直前に1機のブレーキ用空気ポンプ起動装置からの出火が燃料に引火し爆発炎上事故を起こし、一瞬の内に4機を失ってしまった。これにより残った機体のうち1機も大破したため、稼動機が1機だけとなってしまった。残った1機は渡洋爆撃を続け、10月25日には上海北西の王浜基地に進出したが、10月27日の出撃で被弾して使用不能となった。

海軍は大攻2機の補充と済州島での修理を行い、11月2日までに稼動機3機を揃え、上海へ派遣した。木更津空の中攻が北支へ移動したため、上海方面に残った大攻隊は小型機と協力して杭州湾方面の鉄道爆撃等により南京へ向かう陸軍部隊の協力を行った。12月には占領直後で補給が間に合わないまま広徳飛行場を利用する九六式艦上戦闘機のために大攻でガソリンを空輸した。[1]

このように航空性能が劣るため制空権のある方面に運用が限定されたが、中攻以上の爆弾搭載量を誇る大攻は少数ながらも限定的な局面に於いて活躍した。

スペック[編集]

三面図

  • 全長:20.15m
  • 全幅:31.68m
  • 全備重量:11,000 kg
  • エンジン:広廠94式1型 液冷W型18気筒 1,180hp×2
  • 最大速度:244km/h
  • 巡航速度:167km/h(90kt)
  • 航続距離:2,883km
  • 武装:
    • 7.7mm機銃×4
    • 爆弾250kgx6、又は400kgx4
  • 乗員:7名
  • 生産数:8機(広廠6機、三菱2機)

関連項目[編集]