Month: January 2018

磐井の乱 – Wikipedia

磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体天皇21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を筑紫君磐井(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)がはばみ、翌528年(継体天皇22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。 磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているが、『筑後国風土記』逸文(「釈日本紀」巻13所引)や『古事記』(継体天皇段)、『国造本紀』(「先代旧事本紀」巻10)にも簡潔な記録が残っている。 なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。 真偽は定かでないが『日本書紀』に基づいて、磐井の乱の経緯をたどるとおよそ次のとおりである。 527年(継体天皇21年)6月3日、大和朝廷の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、大和朝廷軍の妨害を要請した。 磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。大和朝廷では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命され、天皇から筑紫以西の統治を委任された。 528年11月11日、磐井軍と大将軍の麁鹿火率いる大和朝廷軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただし大和朝廷軍はその跡を見失った)と記されている。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉を大和朝廷へ献上し、死罪を免ぜられた。 乱後の529年3月、大和朝廷(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。 以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。なお『古事記』では袁本杼命(継体天皇)の没年を丁未4月9日(527年5月26日?)としており、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)大連と大伴金村連を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。 磐井の乱が古代の重要事件として注目されるようになったのは、1950年代前半のことである。当時、林屋辰三郎・藤間生大・門脇禎二らは、磐井の乱について、大和朝廷による朝鮮出兵が再三に渡ったため九州地方に負担が重なり、その不満が具現化したものと位置づけた。 これに対し、『日本書紀』に記す磐井の乱は潤色されたものであり、実際は『古事記』に記す程度の小事件だったとする主張が、1960年代に入ってから坂本太郎・三品彰英らから出された。ただしそれらの主張は磐井の乱が持つ意義を否定するものではなかったことと、乱の意義に着目した研究が続けられた結果、磐井の乱を古代史の重要事件と位置づける見方が通説となった。 1970年代半ばになると、継体期前後に国家形成が進展し、大和朝廷が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする研究が鬼頭清明・山尾幸久・吉田晶らによって相次いで発表された。従前、磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱だと考えられていたが、これらの研究は古代国家の形成という点に着目し、乱当時はすでに統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようとしたところ、国土統一を企図するヤマト王権との衝突、すなわち磐井の乱が起こったとした。 1978年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、統一的な中央政権の形成時期を5世紀後半までさかのぼらせる議論が有力となっていくと、磐井の乱の意義・位置づけもまた再検討が加えられるようになった。朝鮮半島との関係に着目し、大和朝廷・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったとする意見、磐井の乱を継体王朝の動揺の表れとする意見、むしろ継体王朝による地方支配の強化とする意見など、磐井の乱に対する見方は必ずしも一致していない。 磐井の乱を扱った作品[編集] テレビ番組[編集] 題名:英雄たちの選択「スカウトされた大王~地方出身!継体天皇の実像~」 時間:60分(カラー) 放映:2020年4月22日午後8:00~9:00 BSプレミアム/2020年4月29日午前8:00~9:00 BSプレミアム 出演:磯田道史 ほか アニメ作品[編集]

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横河マニュファクチャリング – Wikipedia

横河マニュファクチャリング株式会社(よこがわまにゅふぁくちゃりんぐ、Yokogawa Manufacturing Corporation)は、電気機械器具製造業を営む日本の会社である。 横河電機の完全子会社で、YOKOGAWAグループ各社の製品(各種計測器や制御機器等)を製造する、いわゆる生産子会社である。 横河電機は、合併前の旧・横河電機製作所、旧・北辰電機製作所それぞれが誘致を受けて全国各地に工場を建設し、日本国内だけで19箇所に生産拠点を抱えていた。2003年、横河電機は合理化のため、国内各地に分散していた生産拠点の集約に踏み切り、甲府(山梨県甲府市)、小峰(東京都あきる野市)、駒ヶ根(長野県上伊那郡宮田村)、金沢(石川県金沢市)の4拠点に統合した。2005年、国内の製造部門を分離して、生産子会社・横河マニュファクチャリングを設立した。2018年には、海外生産拠点を管轄下に移管し、世界各地に展開するYOKOGAWAグループの生産拠点の統括業務も行っている。 1915年:建築家・工学博士の横河民輔が、東京府渋谷町に電気計器の研究所を設立 1917年:電気計器を発売。日本の電気計器国産化の先駆けとなる 1920年:株式会社横河電機製作所(現・横河電機)設立 1933年:流量、温度、圧力等の自動調整装置の製造を開始 1974年:甲府工場およびシンガポール工場操業開始 1980年:米国アトランタ工場 操業開始 流量計の現地生産 1981年:YOKOGAWAの新しい生産方式としてNYPSスタート 1981年:中国でのアナログ計器の生産を開始 1983年:株式会社横河電機製作所と株式会社北辰電機製作所が合併し、横河北辰電機株式会社が発足(1986年、横河電機株式会社に社名変更) 1985年:下丸子工場を甲府に移転し、甲府工場を拡張 1988年:横河アイエムティー株式会社として現在の駒ケ根事業所操業開始 1988年:横河メック株式会社として現在の小峰事業所操業開始 1994年:横河電機株式会社の各事業部が持つ生産機能を集約し、「生産事業部」発足

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茨城県立鉾田第一高等学校・附属中学校 – Wikipedia

茨城県立鉾田第一高等学校・附属中学校(いばらきけんりつほこただいいちこうとうがっこう・ふぞくちゅうがっこう)は、茨城県鉾田市鉾田にある県立高等学校・中学校。通称「鉾田一高(ほこたいちこう)」、「鉾一(ほこいち)」。鹿行地区では「一高(いちこう)」とも呼ばれる。2020年に附属中学校が併設された。 1922年2月16日、茨城県で7番目の旧制中学として開校。 かつて定時制も存在したが、茨城県立鹿島灘高等学校(鹿嶋市)が定時制高校に移行したため、2005年から募集を停止している。 野球部はセンバツに1回、夏の高校野球に2回出場をし、多くのプロ野球選手を輩出している。 また、令和2年度には、附属中学校が併設された。 大正11年(1922年)2月16日 – 茨城県立鉾田中学校(旧制)を鹿島郡鉾田町内に設置し、同年4月より開校を文部大臣より認可される。同年4月開校し、第1学年生徒100名入学。 大正12年(1923年)5月11日 – 開校式挙行 大正14年(1925年)3月28日 – 校歌発表 昭和2年(1927年)3月7日 – 第1回卒業式挙行 昭和22年(1947年)4月1日 – 文部省令により併設中学校(新制)設置

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ウォキーガン (イリノイ州) – Wikipedia

ウォキーガン(英: Waukegan、)はアメリカ合衆国イリノイ州レイク郡の都市で、同郡の郡庁所在地。2016年の推計で、人口は88,182人。 イリノイ州では9番目に人口の多い都市で、ミシガン湖岸ではシカゴ、ミルウォーキー、グリーンベイ、ケノーシャに次いで5番目の規模である。 市名の由来[編集] 現在のウォキーガンの場所は、1778年のトーマス・ハッチンスによる地図ではリヴィエール・デュ・ビュー・フォール(オールド・フォート・リバー)や、Wakaygaghと記録されていた。 1820年までに、フランス語の地名は英語のスモール・リトル・リバー(Small Fort River)となり、開拓地はリトルフォート(Little Fort)として知られるようになった。 Waukeganceや、その後のWaukeganという地名(小さな砦という意味。なお、ポタワトミ語で小さな砦はwakaiginという。)はジョン・H・キンジーとソロモン・ジュノーによって作られ、1849年に新しい地名に採用された [3]。 ウォキーガンは北緯42度22分13秒 西経87度52分16秒 / 北緯42.37028度 西経87.87111度 / 42.37028; -87.87111に位置している[1]。市はミシガン湖岸にあり、ウィスコンシン州との州境より約13㎞南、シカゴのダウンタウンより64㎞北に位置している。標高は約218m[1]。 2010年の調査によれば、市域全面積は23.88平方マイル(61.8

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第1期棋聖戦 (囲碁) – Wikipedia

囲碁の第1期棋聖戦(だいいっき きせいせん)は、1976年に開催された。 棋聖戦は、読売新聞が1975年まで主催していた名人戦が、日本棋院との間のいわゆる「名人戦騒動(名人 (囲碁)#移管))」により朝日新聞に移管されたために、当時最高額の契約金による「序列第一位の新棋戦、最高棋士決定戦・棋聖戦」として創設することになったタイトル戦である。 各段優勝戦、全段争覇戦を経て、最高棋士決定戦の決勝戦に進出した関西棋院の橋本宇太郎九段と、日本棋院の藤沢秀行九段による七番勝負が1976年12月から1977年2月に行われ、4勝1敗で勝利した藤沢秀行が第1期棋聖位に就いた。 七番勝負の内容は、読売テレビとしては初めての囲碁番組「棋聖戦激突の譜」として放送された。また第4局の行われた北海道では、これを記念して北海道大学棋聖戦が開催され、第4局当日に決勝戦が行われた。 参加棋士:日本棋院・関西棋院の棋士。 棋戦の仕組み 各段優勝戦:初段から九段までの各段で、それぞれトーナメントで優勝を争う。従来の棋戦では日本棋院と関西棋院で別々に予選を行っていたが、各段戦では両棋院の棋士が混じってトーナメントを行う点も特色だった。 全段争覇戦:初段から六段までの各段優勝者と七段戦優勝者がパラマス式トーナメントを行い、勝抜き者が、七段戦優勝者、八段戦上位2名、九段戦ベスト4とトーナメントを行う。 最高棋士決定戦:名人、本因坊、十段、天元のタイトル保持者と、全段争覇戦の上位者、及び棋聖審議会推薦棋士の計11名によるトーナメント。決勝は七番勝負。優勝者は第2期の最高棋士決定戦優勝者との挑戦手合七番勝負を行う。 コミは5目半。 持時間は、各6時間、決勝七番勝負は各9時間。 賞金 優勝者1700万円、七番勝負対局料計500万円 各段優勝戦・全段争覇戦[編集] 各段戦優勝者によるパラマス戦では、三段戦優勝の王立誠が4連勝して勝ち上がり棋聖戦ボーイと呼ばれた。決勝には八段戦優勝の加藤正夫と、七段戦優勝の小林光一が進み、加藤が全段争覇戦の優勝となった。また日本棋院と関西棋院の交流対決は、日本棋院64-43関西棋院、という結果だった。 最高棋士決定戦[編集] 大竹英雄名人、武宮秀樹本因坊、林海峰十段、藤沢秀行天元、全段争覇戦ベスト4の加藤正夫、小林光一、大平修三、白石裕、審議会推薦の橋本宇太郎、坂田栄男、石田芳夫の、計11名が出場。 準決勝の大竹-橋本戦、藤沢-武宮戦は、同じ11月11日にそれぞれ日本棋院「清風の間」「寂光の間」で行われ、橋本は先番であちこちの大石を巧妙にシノギきって中押勝。藤沢は終始細かい形勢の碁を先番半目勝。決勝七番勝負には、第1期名人や前年の第1期天元戦優勝などで初物食いと呼ばれる藤沢秀行と、69歳の橋本宇太郎が進出し、七番勝負を戦うこととなった。七番勝負に関西棋院の棋士が登場するのは、1962年第17期本因坊戦の半田道玄以来であり、第1局の立会人も両棋院から1名ずつという異例のこととなり、長谷川章、白石裕の両名が務めた。また藤沢は七番勝負の対局前には断酒して臨んだ。

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ジュリエッタ (お笑いコンビ) – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2015年3月) 独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。(2015年3月)出典検索?: “ジュリエッタ” お笑いコンビ – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL ジュリエッタGIULIETTA メンバー 井尻貫太郎藤本聖 結成年 2013年 事務所 吉本興業 活動時期 2013年

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キネトプラスト類 – Wikipedia

キネトプラスト類(キネトプラストるい、kinetoplastid)は、キネトプラストを持つ鞭毛虫の一群である。人間や家畜に深刻な感染症を引き起こす寄生虫のリーシュマニアやトリパノソーマを含むことで有名であるが、それ以外に自由生活性のものも土壌などから見出される。 従来はキネトプラスト目 (Kinetoplastida) として扱われていたが、これを格上げしてキネトプラスト綱 (Kinetoplastea) とする体系が受け入れられつつある。キネトプラストの訳語を用いて動原核類とする場合もある。 キネトプラスト類は、その名の通りキネトプラスト (kinetoplast) を持つことで特徴づけられる。キネトプラストはもともとフォイルゲン染色によって鞭毛基部の付近に観察された核酸顆粒であり、その実体は非常に発達したミトコンドリア核様体である。光学顕微鏡では観察できない種もあるが、電子顕微鏡を用いれば繊維状の構造として観察できる。キネトプラストは典型的には単一の顆粒だが、それ以外に複数の顆粒が散在する場合や不明瞭になる場合がある。ミトコンドリアは単一で細胞中を管状ないし網状に伸びており、団扇型のクリステを持っている。 基本的には先行鞭毛と後曳鞭毛を1本ずつ持っているが、先行鞭毛を欠く場合や、時期によって鞭毛が縮退して機能しない場合もある。また後曳鞭毛が細胞に付着して波動膜 (undulating membrane) を形成する場合がある。鞭毛には非管状の小毛がある場合がある。 分子生物学的な観点から珍しいシステムを多数用いていることでも特徴的である。 またキネトプラスト類に特徴的なオルガネラとして、グライコソーム (glycosome) がある。これは解糖系の酵素などが局在化するマイクロボディ系のオルガネラである。 自由生活性のものは、湿った藁、家畜の糞、土壌や汽水域などバクテリアの多い環境を好む。鞭毛を用いて泳ぎながらバクテリアを捕食し、栄養が欠乏するとシストを形成して休眠するものが多い。その他、Cephalothamnium cyclopum は着生性群体を形成する。

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ワラターズ – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 ニューサウスウェールズ・ワラターズ(英: The New South Wales Waratahs)は、スーパーラグビーに参加するオーストラリアのラグビーユニオンチーム。本拠地はシドニーのシドニー・フットボール・スタジアム。日本の報道メディアにおいてはワラタスの表記も多く見られる。 1996年創立。ニューサウスウェールズ州ラグビーユニオンとしては1882年創立。州内ラグビーユニオンクラブ所属の選手と契約選手から選抜され、編成されるチーム。チームカラーはスカイブルーのジャージ、ネイビーブルーのショーツ。 愛称は「Tahs」。 スーパー12の2002年に総当りのラウンドで2位通過、プレイオフでセミファイナル敗退、2005年は2位通過で準優勝。2006年にスーパー14となり、2008年は2位通過で準優勝。2010年は3位でセミファイナル敗退。また2015年度より日本代表の松島幸太朗が加わった。 2016年シーズンより日本の空調総合メーカーダイキン工業と2018年シーズンまでメインスポンサー契約を締結した。日系企業がオーストラリアのスーパーラグビーのチームにスポンサーとして参戦するのは初のケースである。 獲得タイトル[編集] スーパー12準優勝 1回(2005年) スーパー14準優勝 1回(2008年) スーパーラグビー優勝 1回(2014年) 2022年スコッド[編集] 2022年のスコッドは次の通り。(2022年1月現在)

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墨村良守 – Wikipedia

墨村 良守(すみむら よしもり)は、田辺イエロウ作の漫画及び同作を原作としたテレビアニメ『結界師』の主人公。 アニメの声優は吉野裕行、幼少時代を白石涼子が演じている。 プロフィール[編集] 年齢:14歳 所属:烏森学園中等部2年2組→3年3組・間流結界術22代目正統継承者 趣味:お菓子作り 利き腕:左利き(ただし、結界を張る際は右。後に左) 特技:図画工作 好物:コーヒー牛乳・甘いもの全般 夢:烏森を完全に封印する・お菓子の城をつくる 時音に幼い頃から恋心を抱いているが、時音がかつて自分をかばって傷ついた経験から、周囲の誰かが傷つくことを非常に恐れる。そのため、そういった状況になると考えるより前に行動してしまうなど無茶な行動が目立つ。奥久尼曰く「おそろしく純粋」で、様々な人物からその純粋さゆえの危うさを指摘されている(無道・淡幽など。淡幽は良守を無道よりたちが悪いと言っている)。志々尾限の一件以来他者に被害が及ぶことを嫌う傾向に拍車がかかり、誰かを守ろうと自分の思い込みで突っ走って他者に迷惑をかけることもあったが、周囲の叱責を受けて徐々に反省・改善していく。 歴代正統継承者の中でも飛びぬけて強く烏森の影響を受けている。烏森に愛されているとも比喩され、烏森の力を視認した(作中で語られる)唯一の術者。才能にも恵まれており、扇七郎曰く、数段飛ばして成長するタイプ。しかし本人にはその自覚が無く、不用意な発言によって兄弟や閃を傷つけることもある。一方で修行も懸命にこなし、墨村に伝わるだまし岩(見た目は岩だが中に鉄球が仕込まれている。作中当初は岩の状態で修行を行なっていたが、良守が修行の途中で岩の部分を庭ごと割ったため、以降は鉄球のみで修行を行なっている)を良く利用している。術者としてはパワータイプであり、テクニックは低いがそれを補って余りある力を持っている。教えられた通りに右手で結界を作っていたが左利きであり、左手を使うようになってからは正確さも向上した。 趣味はお菓子作りでいつかお菓子の城をつくることが夢であるが、祖父には反対されている。 烏森学園での生活は気ままで、ほとんど寝ているか、お菓子のレシピを書いているかである(文房具に細工を施したりする事もある模様、龍をかたどった消しゴムハンコなど)。また、クラスの女子からは完全にノーマークで、閃が読心術でクラスの女子の心を読んだ所、表層に浮かんでいた良守の顔が間違っていた。「九九の七段言えない疑惑」や、「給食にコーヒー牛乳が出るとき最もパワーを発揮する」という疑惑も浮上しているらしい。 9歳の頃、妖に騙され襲われた自分を庇った時音に大ケガを負わせたことを悔やみ、時音を守るために強くなることを決意した。 黒芒楼の存在が明らかになったとき夜行から派遣された志々尾限と当初は対立するが、互いの実力を認め合い徐々に仲良くなっていく。しかし、第一次黒芒楼襲来の時に牙銀との戦いで志々尾が火黒の不意打ちで命を落とす。そのため志々尾亡き後は火黒を倒すために修行に励んだ(お菓子作りもその間止めていた)。第二次黒芒楼襲来の時に敵にわざと捕まって黒芒に乗り込む。黒芒では捕らわれていたが松戸に助けられ、同じように捕らわれていた夜行のメンバーの閃を探す途中で姫(黒芒の主)と出会い、姫から黒芒楼を破壊するための力をもらう。閃を助けだし、ついに火黒と対峙する。火黒に圧倒されつつ不完全な絶界で何とかしのごうとするが火黒には歯が立たず、とうとう倒されそうになりそれを助けようと良守の盾となった閃が火黒に斬られかけた瞬間、それを拒絶するため白い絶界(真界)が発動、火黒を消滅させる。そして良守達を救出しに来た正守らと共に黒芒を去った。 黒芒楼打倒以降かつての明るさを取り戻し、キヨコや封魔師に会ったりしながら日常を送っていく。そんな中奥久尼が烏森の調査に訪れた際、(箱使いの兄が自滅させられた腹いせで)箱使いが禁断の妖「黒兜」を放ってしまう。良守は黒兜と戦うも歯が立たなかったが、上空から町の風景を見て自分の背負っているものの重さを刻みつけて再び黒兜に挑む。黒兜相手に善戦するも黒兜を倒そうとする集中力のあまり空間の秩序が乱れ良守を危険と判断した奥久尼の制止さえ振り切ってしまう。そんな中黒兜を倒す力を欲したとき、自分にまとわりつく烏森の力を視認する。その力で黒兜に大穴を空けたがそんな自分に疑問を持つと、今度は烏森の力が黒兜に与えられてしまう。ついに黒兜は完全体となるが烏森に攻撃したことで烏森の怒りを買い、力を奪われて体が崩壊した[1]。なんとか事件は解決したものの良守の危うさが浮き彫りとなった事件であった。 その後正守に誘われ淡幽の神佑地に赴き、何があっても中に入るなと言われていたが、淡幽の誘惑に引っかかって神佑地の中に入ってしまう。その後の無道との戦いで正守に見捨てられた[2]にも関わらず、彼の窮地を白い絶界で助けた。

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