リモージュ磁器 – Wikipedia
リモージュ磁器のポット リモージュ磁器(リモージュじき)、リモージュ焼(リモージュやき)(Porcelaine de Limoges)は、フランスヌーヴェル=アキテーヌ地域圏のリモージュとその周辺で生産される磁器の総称(『製陶所』節も参照)。1771年を起源の年として、現在まで生産を続けている[1][2][3]。 白色薄手の素地に釉を、その上に「落着いた上絵」を描いたものが特色とされる[4]。素焼きに絵付けをして焼くのではなく、白い生地に絵付けしてからさらに焼き付けるという手法はリモージュでは19世紀後半から行われている[5]。 背景[編集] 中国からヨーロッパに磁器がもたらされたのは16世紀ごろで、ヨーロッパで自家生産できるようになるには18世紀初頭のドイツ、マイセンの開業まで待たなければならなかった(マイセン近郊でカオリンの地層を発見したことによる)[3]。とはいえマイセンもこのカオリンを用いた磁器の製法を秘伝としたため、ヨーロッパの他地域では依然として硬磁の作成は行えなかった。磁器製造を独占されたままでは経済的に不利であり磁器の材料を探すということはフランス国内でも必須の状況となっていた[3]。リモージュでは1736年に製陶所が設立されていたが、磁器製造には原料としてのカオリンと、技術が必要であった[6]。 カオリナイト(カオリン) カオリンの発見[編集] 1768年、サンティリエ=ラ=ペルシュ(フランス語版)においてジャン=バティスト・ダルネにより白い粘土が発見され、その妻はこれを石鹸として使用した。麻の手入れによいとされたこの粘土はダルネにより紹介され、紆余曲折を経てボルドーの薬剤師マルク=イレー・ビラリスの手に渡り鑑定が行われた。その結果、この粘土が実は磁器製造に必要なカオリンであると確認された[7]。 磁器の製作[編集] カオリンの発見を受け、リモージュで最初に硬磁器が作成されたのは18世紀後半の1771年であった。マシエ(マシー、Massié)とフルネラ(Fourneira)の2人[2] によるもので、資本はグルレ兄弟(ピエールとガブリエル)によった[6]。産業育成に力を入れていたリムーザンのトゥルゴ知事の後押しもあった[8]。この製陶所は1774年にはアルトワ伯爵の保護を受け、「アルトワ伯爵製陶所」となった[9]。初期の作品はそれまでに作成していた軟磁器のモチーフを流用したものであったがレパートリーは豊富ではなく、その故に経営は行き詰っていき[3]、1784年にはフランス政府に買収されセーブルの一部門となり[2]、このことからこの製陶所は「リモージュ王立製陶所」とも呼ばれた[6]。セーブルから派遣された装飾師によりリモージュの装飾は多様性を持つようになった[8]。一方で、リモージュ全体としては18世紀の間は原料の販売が主で、磁器製造はまだ主力ではなかった[8]。1788年、経営がうまくいかなかったため、またこの時期にはフランス革命の影響で贅沢品とみなされた磁器の製造が禁止されたため[6] に今度はフランス政府(セーブル)から売却された[2]。この後、1840年までは質はともかくとして、世界的に見てメジャーにはなり得なかった[2]。 19世紀前半まで[編集] 19世紀初頭、リモージュとオート=ヴィエンヌ県には6つの製陶所が存在していた[10]。後年(1900年)の批評によれば、この頃から質のよい磁器が製造されていたと評価されている[11]。 18世紀のうちにサンティリエ=ラ=ペルシュにセイニー伯爵によって設立された「セイニー伯爵製陶所」を、1789年にエティエンヌ・ベニョルが引き継ぎ「ベニョル製陶所」とした[9]。この人物はそれまで「アルトワ伯爵製陶所」に在籍し、その技術を高く評価されていた技術者であった[11]。1802年にパリの芸術産業展示会に作品を出展しここでも高評価を受けた[6]。 リモージュ磁器の白さを発展させた人物としてはフランソワ・アリュオーが挙げられる[11](初期のリモージュは『微妙に黄色がかった素地』を特徴とした[1])。この人物は1788年、「アルトワ伯爵製陶所」の経営を引き継ぎ1792年まで所長だった同名人物の息子であり、鉱物学者でもあった[6]。また、金属酸化物を用いた独特の絵付け手法により、茶色の新色も編み出した[11]。 他にもこの時期には、パリで仕事をしていた職人たちがリモージュに移住し、レリーフや人物像といった立体装飾、そして絵付けにも影響を与えた[12]。 黄金時代[編集]
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