東大寺大仏殿 – Wikipedia
東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)は、奈良県奈良市の東大寺にある仏堂。東大寺の本尊、盧舎那仏坐像(奈良の大仏)を安置している。 正式には東大寺金堂というが、「大仏殿」の名で広く知られ、東大寺の公式ホームページでも主に「大仏殿」が使用されている。この記事でも、以下「大仏殿」と表記する。 大仏殿は、1181年(治承4年)と1567年(永禄10年)の戦火で2度にわたり焼失し、現在の建物は1709年(宝永6年)に落慶したもので、日本の国宝に指定されている。 東大寺の創建時大仏殿復元模型 東大寺の伽藍の中央に位置し、境内で最大の建物である。 現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m。奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっている[1]。 『東大寺要録』の「大仏殿碑文」によると創建時の大仏殿の規模は、幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、高さ12丈6尺(約37m)、柱数84という。 大仏殿の正面には、国宝に指定されている金銅八角燈籠がある。 世界最大の木造建築として広く知られていたが、近代には集成材や構造用合板などの建築資材の発達によりティラムーク航空博物館(英語版)、メトロポール・パラソル(英語版)、など東大寺大仏殿より大きな木造建築が建造されている。ただし木造軸組建築に限れば、現在でも世界最大とされる。なおかつては方広寺大仏殿の方が、建物規模(高さ・面積)で上回っていた。これは豊臣家が造立したもので、豊臣秀吉の造立した初代大仏殿は失火で焼失し短命であったが、豊臣秀頼の造立した2代目大仏殿は寛政10年(1798年)まで存続していたが、落雷で焼失した。江戸時代中期の国学者本居宣長は、双方の大仏を実見しており、東大寺大仏・大仏殿について「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし[東大寺大仏殿は方広寺大仏殿よりも横幅(間口)が狭いので、高く見えて格好良いの意か?]」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也」という感想を日記に残している(在京日記)。 大仏殿の内部には大仏の鼻の穴と同じ大きさと言われる穴があいた柱があり、そこをくぐることを柱くぐりと言う。そこをくぐり抜けられればその年にいいことがある、あるいは頭が良くなるなどと言われている。 1190年(南都焼討後の再建)-1567年(東大寺大仏殿の戦い)の大仏殿の模型 最初の大仏殿の建設は大仏の鋳造が終わった後に始まり、758年(天平宝字2年)に完成した。 1181年(治承4年)1月15日(旧暦12月28日)、平重衡などの南都焼討によって焼失。その後、1190年(建久元年)に再建され、1195年(建久6年)の落慶法要には源頼朝なども列席した。 1567年(永禄10年)11月10日(旧暦10月10日)から11月11日(旧暦10月11日)にかけて、東大寺大仏殿の戦いの最中に焼失。出火原因は諸説ある。当時の宣教師のルイス・フロイスは、三好軍中にいたキリシタン信徒が寺院仏像の破壊目的で放火したと記録している。『多聞院日記』には、 「 今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。 」 —『多聞院日記』 と記されており、穀屋から出火し、法花堂、回廊と燃え広がったのち、11月11日(旧暦10月11日)午前2時頃には大仏殿が完全に焼失したと考えられる。その後、仮の仏堂が建設されたが、1610年(慶長15年)の暴風で倒壊した。 豊臣秀吉は奈良の大仏に代わる、新たな大仏として京都に方広寺大仏(京の大仏)を造営したが、東大寺大仏の再建工事への着手は行わなかった。
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