Month: April 2018

東大寺大仏殿 – Wikipedia

東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)は、奈良県奈良市の東大寺にある仏堂。東大寺の本尊、盧舎那仏坐像(奈良の大仏)を安置している。 正式には東大寺金堂というが、「大仏殿」の名で広く知られ、東大寺の公式ホームページでも主に「大仏殿」が使用されている。この記事でも、以下「大仏殿」と表記する。 大仏殿は、1181年(治承4年)と1567年(永禄10年)の戦火で2度にわたり焼失し、現在の建物は1709年(宝永6年)に落慶したもので、日本の国宝に指定されている。 東大寺の創建時大仏殿復元模型 東大寺の伽藍の中央に位置し、境内で最大の建物である。 現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m。奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっている[1]。 『東大寺要録』の「大仏殿碑文」によると創建時の大仏殿の規模は、幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、高さ12丈6尺(約37m)、柱数84という。 大仏殿の正面には、国宝に指定されている金銅八角燈籠がある。 世界最大の木造建築として広く知られていたが、近代には集成材や構造用合板などの建築資材の発達によりティラムーク航空博物館(英語版)、メトロポール・パラソル(英語版)、など東大寺大仏殿より大きな木造建築が建造されている。ただし木造軸組建築に限れば、現在でも世界最大とされる。なおかつては方広寺大仏殿の方が、建物規模(高さ・面積)で上回っていた。これは豊臣家が造立したもので、豊臣秀吉の造立した初代大仏殿は失火で焼失し短命であったが、豊臣秀頼の造立した2代目大仏殿は寛政10年(1798年)まで存続していたが、落雷で焼失した。江戸時代中期の国学者本居宣長は、双方の大仏を実見しており、東大寺大仏・大仏殿について「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし[東大寺大仏殿は方広寺大仏殿よりも横幅(間口)が狭いので、高く見えて格好良いの意か?]」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也」という感想を日記に残している(在京日記)。 大仏殿の内部には大仏の鼻の穴と同じ大きさと言われる穴があいた柱があり、そこをくぐることを柱くぐりと言う。そこをくぐり抜けられればその年にいいことがある、あるいは頭が良くなるなどと言われている。 1190年(南都焼討後の再建)-1567年(東大寺大仏殿の戦い)の大仏殿の模型 最初の大仏殿の建設は大仏の鋳造が終わった後に始まり、758年(天平宝字2年)に完成した。 1181年(治承4年)1月15日(旧暦12月28日)、平重衡などの南都焼討によって焼失。その後、1190年(建久元年)に再建され、1195年(建久6年)の落慶法要には源頼朝なども列席した。 1567年(永禄10年)11月10日(旧暦10月10日)から11月11日(旧暦10月11日)にかけて、東大寺大仏殿の戦いの最中に焼失。出火原因は諸説ある。当時の宣教師のルイス・フロイスは、三好軍中にいたキリシタン信徒が寺院仏像の破壊目的で放火したと記録している。『多聞院日記』には、 「 今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。 」 —『多聞院日記』 と記されており、穀屋から出火し、法花堂、回廊と燃え広がったのち、11月11日(旧暦10月11日)午前2時頃には大仏殿が完全に焼失したと考えられる。その後、仮の仏堂が建設されたが、1610年(慶長15年)の暴風で倒壊した。 豊臣秀吉は奈良の大仏に代わる、新たな大仏として京都に方広寺大仏(京の大仏)を造営したが、東大寺大仏の再建工事への着手は行わなかった。

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天一美術館 – Wikipedia

天一美術館(てんいちびじゅつかん)は、群馬県みなかみ町谷川に所在する私立美術館である。銀座天一の創業者である矢吹勇雄の個人コレクションが収蔵・展示されている。 設立の経緯[編集] 銀座天一創業者の矢吹勇雄は、一代で天一を高級料理店にのし上げた傑物である。同店は政官産の高官や芸術家・作家など文化人のサロンと化していき、矢吹は多くの知遇を得た。その中の一人に吉田茂がいた。吉田は戦後多くの絵画・陶磁器が海外に流失していくのを目の当たりにして、矢吹に「天一君、日本美術の逸品を守れ」[1]と厳命したという。以降矢吹は吉田の命に従い、人脈を生かしコレクションを蒐集していった。 1995年5月に矢吹が没すると[2])、同年財団法人天一美術文化財団が設立され矢吹のコレクションを管理していくことになり、1997年10月に本美術館が開館した[3]。なお美術館所在地であるみなかみ町谷川は、矢吹が知己の求めに応じて戦前から山荘を所有し、戦中に家族を疎開させていた縁の地である[4]。 1997年4月に没した建築家吉村順三の遺作である[3][5][6]。この地区は自然公園法第2種特別地域であり高さ・色などの規制が厳しいため、様々な工夫が凝らされている[3]。エントランスを見ると平屋建ての趣きであるが、実際には二階建てとなっている。メイン作品である『麗子像』が配置された展示室では内装色や照明色まで配慮したという[3]。展示品の配置(高さ)は車いすの視線を想定している[5]。 展示作品[編集] アクセス[編集] ^ 天一美術館 – 入館パンフレットより引用 ^ 朝日新聞 1995年5月7日朝刊14版 27ページ 訃報記事 ^ a b c

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モントルイユ=ベレ – Wikipedia

モントルイユ=ベレ (Montreuil-Bellay)は、フランス、ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏、メーヌ=エ=ロワール県のコミューン。 ソミュロワ地方、ロワール川南部に位置する、アンジューのコミューンである。県の南東端に位置し、ヴィエンヌ県およびドゥー=セーヴル県と接している。トゥエ川が流れ、ロワール・アンジュートゥーレーヌ地域圏自然公園の中心にあたる。ソミュール、トゥアール、ルダンから約25kmの距離にある。 フランス革命時代、地名はモントルイユ=ル=トゥエ(Montreuil-le-Thouet)に改名させられていた[2]。 小さな修道士たちの集落が、おそらく現在の町の基礎である。この集落がトゥエ川の堰の近くに11世紀に存在したことが証明されている。レ・ノビと呼ばれ、1097年から1103年の間に建てられたサン・ニコラ小修道院のそばに、教区教会であるサン・ピエール教会が建てられたのはそのすぐ後である。1026年頃、アンジュー伯フルク3世はこの地の高地にドンジョンを建設し、領地を家臣のベルレ(Berlai。変形してBellay)に託し、これが高貴な未来の都市の芽吹きとなった。 1109年、フルク5世がアンジューおよびメーヌ伯となった。彼は反乱を起こした家臣を鎮圧し、1124年にモントルイユ=ベレを含む複数の城を手中に収めた[3]。 数年後、アンジューの男爵らによって起こされた反乱が平定された。1148年以降の数年間、モントルイユ=ベレを陥落させるためジョフロワ4世によって包囲された[4]。 ベルレ家は主君と対立を数回繰り返しながら、1217年まで領地を保持し続けた。2世紀にわたって新たな家系が定住した。ムラン=タンカルヴィル家、そしてアルクール家である。アルクール家は町に好ましい強い痕跡、城や防衛を強化した壁を残した。 モントルイユ=ベレは、アンシャン・レジーム時代のアンジューに32か所あった閉鎖都市のひとつであった。城壁都市は現在でも均質な姿を残しており、15世紀以後の変化はごくわずかである。 アンシャン・レジーム時代のモントルイユ=ベレは、57の教区を束ねるエレクション(税法上・財政上の区画)の中心であった。他のアンジューの町と同様に、トゥールのジェネラリテ(中央政府の行政区画)に属し、司法はソミュールのセネシャル管区に、宗教上はポワティエの司教区に属していた。 18世紀半ばから商業の繁栄は下降した。フランス革命の間に行政の中心がソミュールに移ると、商業、経済、行政上の重要性は薄れ、1790年以降は単なる小郡庁所在地となった。1793年6月8日、ヴァンデ戦争でヴァンデ軍に一時的に占領され、自由の木が倒されている。 1841年にアンジェとソミュールをつなぐ道路が開通し、1885年にポワティエまでの道が開通しても、19世紀後半まで、都市が城壁の外側に拡張することはなかった。19世紀以降鉄道網が発達してパリへ向かう定期路線と接続された。また、第二次世界大戦までは、トラム路線がアルジャントン=シャトーを経由してブレシュイールまで通っていた。 1941年11月8日から1945年1月16日まで、モントルイユ=ベレに、無宿人、ロマのような流浪民を収容する収容所が設置された。収容者は全体的に、マヌーシュ、ジプシー、ロマ、シンティ、ツィガーヌと呼ばれる人々だった。この収容所はもともと1940年6月21日にドイツ軍によって建設された捕虜収容所スタラグを基礎としていたが、その後ヴィシー政府が運営した[5]。2010年7月、すべてが消えうせるのを防ぎ、恒久的な記録とすべく、収容所の廃墟は歴史文化財に登録された[6]。 1968年1月1日、隣接するコミューン、メロンと合併した[7]。 人口統計[編集] 1962年 1968年 1975年 1982年 1990年

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ワインカラーの少女 – Wikipedia

ワインカラーの少女(原題:Letting Go)は、1975年にウイングスが発表した楽曲、および同曲を収録したシングルである。ウイングスの4枚目のアルバム『ヴィーナス・アンド・マース』に収録されている。 1974年11月にロンドンのアビー・ロード・スタジオで行われた『ヴィーナス・アンド・マース』のための初めてのレコーディング・セッションで収録された。ポールが妻リンダへの思いを歌ったとされている。 1975年9月のヨーロッパ・ツアーの終了後に『ヴィーナス・アンド・マース』のセカンド・シングルとして10月4日にリリースされた。アルバムがリリースされてから既に4か月たっており、イギリスで41位、アメリカではビルボード誌で1975年10月25日から2週間、最高位39位。また、キャッシュボックス誌では、10月25日付けで最高位41位と振るわなかった[1]。 なお、このシングル・ヴァージョンはアルバム・ヴァージョンとは別ミックスとなっており、収録時間も1分短い。2014年発売の「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」の『ヴィーナス・アンド・マース』デジタルリマスター盤のボーナスディスクにて初CD化され、イギリスではシングルが再発された。またライヴ・アルバム『ウイングスU.S.A.ライヴ!!』にはライヴ・ヴァージョンが収録されている。 「ワインカラーの少女」という邦題は、歌詞の冒頭の部分を元につけられたとされている。 B面収録の「やさしいアンサー」は、ニューオリンズでのレコーディング・セッションで録音された。なお日本盤アルバムでは邦題が「幸せのアンサー」だったものが、シングルではなぜか「やさしい~」と改題されている。 7インチシングル # タイトル 作詞・作曲 時間 1. 「ワインカラーの少女」(Letting Go (7″mix)) ポール・マッカートニー リンダ・マッカートニー 3:36 2.

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プロダクション人力舎 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “プロダクション人力舎” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年6月) 株式会社プロダクション人力舎(プロダクションじんりきしゃ)は、日本の芸能事務所。 1977年(昭和52年)、19歳からお笑いタレントのマネージャー一筋だった玉川善治が設立。社名は「人の力の在り処」というヒューマンな意味と駄洒落を込めている[1]。 設立当初は劇団東京乾電池が所属。その後はシティボーイズ、マギー司郎、竹中直人、中村ゆうじ、B21スペシャルなどを世に送り出した。フリーのとんねるずもデビュー前に誘われた。 設立当初はキャバレーの仕事が多く、お笑いが徐々にテレビ番組へと移行していく端境期だった。玉川は45歳になるまで、所属タレント全員のマネージャーとしてスケジュール管理などを行っていた[2]。 1992年(平成4年)、シティボーイズとB21スペシャルを独立させた際に戻ってきた資金で[2]、若手芸人育成を目的として東京初のお笑い専門学校『スクールJCA』を設立した。現在、テレビ番組を中心に活動している所属タレントのほとんどが同校出身者である[2]。 2010年(平成22年)6月に玉川善治が死去し、長男で当時副社長だった玉川大が代表取締役に就任。 設立当初から東高円寺駅近くのIKビル3階に入居していたが(スクールJCAの稽古場も同じ階に併設)、2013年春に西新宿のコンシェリア西新宿 TOWER’S WEST2階へ移転した。同時にスクールJCAも同ビル地下へ稽古場を移転している。 この事務所には芸人を売れるように育てようという意識がなく、スクールJCAを卒業したとしても[注 1]更に自力でプロモートをかけなくてはならない。自主性は社員にも求められ、タレントの仕事内容は元より単独ライブ等のイベント・企画に関してもタレントと相談して決めていく。「独立してこそ一人前」という説があるが[1]、売れたタレントには積極的に独立や移籍を奨めていた。実際、シティボーイズやB21スペシャルらは独立したが1990年代以降は売れて移籍した芸人はほとんどいない。ただ、簡単に独立できるわけではなく12ヶ月連続で月収1000万円以上が続く事が絶対条件。また、マネージャーと共に独立した場合はそのマネージャーの最初の給料は玉川が決めていたという。マネージャーがそのタレントとの独立を望まない場合は人力舎に残ることも可能である[3]。

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ポッカクリエイト – Wikipedia

株式会社ポッカクリエイト(英: Pokka Create Co., Ltd.)は、東京都千代田区に本社を置く企業である。サッポログループ食品株式会社の連結子会社。かつてはポッカサッポロフード&ビバレッジ(旧・ポッカコーポレーション)の子会社であったが、サッポログループ食品株式会社の発足により親会社が異動した。 カフェ・ド・クリエ 池袋第一生命ビル(東京都豊島区) カフェ・ド・クリエ 名駅西口店(名古屋市中村区) フランス風カフェ「カフェ・ド・クリエ (CAFÉ de CRIÉ) 」[5]を直営店およびFC店で展開している。 2008年(平成20年)4月16日より電子マネー「repica」を利用したカフェ・ド・クリエカードを東海地区33店舗で取扱を開始し、2009年(平成21年)1月からは一部店舗を除く全店で利用可能となった。プリペイドカード「カフェ・ド・クリエカード」による支払いも可能である。 1994年(平成6年) 1995年(平成7年)7月 – 東京都に市ヶ谷駅前店を開店し、関東地区に進出。 1996年(平成8年)

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トーシンホールディングス – Wikipedia

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ヒノマルドリーム – Wikipedia

『ヒノマル♪ドリーム』は、2012年の第4回沖縄国際映画祭Peace部門に出展された映画。同映画祭会場のみでの限定的上映だったが、翌2013年3月9日から同映画祭出展4作品(営業1∞万回、タバコイ、初夜と蓮根、あぁ…閣議)とともに、限定的ではあるものの全国公開された。サブタイトルとして「Dream in the Rising Sun」が付く。 アメリカのオレゴン州から歌手になる夢を叶えるために日本へやってきた主人公の青年ニコラス。ところが到着したのは、タレントが一人もいない弱小事務所・土井ズファクトリー。目的の事務所と名前がそっくりなので間違えたのだった。しかも社長から出されたデビューの条件は「女性モデルとして活動すること。歌手になるのはその後」。ためらう間もなくニコラスは契約書に拇印を押させられ、エステで女装させられる。 「歌手になれるなら」と、とりあえず女性モデル「ニコール」として活動することに決めたニコラス。専属のチーフマネージャー進藤明音とサブマネージャー田部にも女装していることや、歌手志望の夢は知らされない。元々の顔立ちやスタイルの良さで、たちまち人気モデルとして成功していくニコールは、明音が寝付いた後のメイクの手入れを毎晩欠かさず行う涙ぐましさも見せる。そんなある日、入浴中何気なく唄っていると、明音がその歌声を聞きつけ駆け寄ってくる。歌が上手いと明音マネージャーに認められたことをきっかけに「日本に来たのは歌手になるため」と告白する。その言葉に感銘を受けた明音は、「モデルだけやっとけばいい」という土井社長の命令を無視して歌手の仕事を優先する。 優勝者だけがメジャーデビューさせてもらえるコンテスト番組『カラオケ選手権』のオーディションにも受かり、喜ぶニコールたち。そのオーディションには、かつて明音とコンビで唄っていた女性・遠藤亜梨沙もいた。明音を「芸能界にしがみついてるコアラ」と揶揄する亜梨沙は、ニコールの不審な行動やバッグの中身から女装した男性だと気づいてしまう。亜梨沙から「そんなにしてまで勝ちたいのか」と言われ、明音や田部に女装の事実を隠し、心の葛藤に悩むニコール。生中継もされる選手権決勝で自分の歌う番になったニコールは、唄わず黙り込んだあと、「実は男なんです」と突然告白し、ロングヘアのかつらを取り、胸パッドを外し、ハイヒールを脱いで、その場から逃げるように消える。司会のアナウンサーや田部らが唖然とする中、明音だけが何かを気取ったように考え込む。 以心伝心したかのように、公園で落ち合う明音と青年に戻った元ニコール。明音から「まだあんたが誰なのか知らない。自己紹介してあんたの歌聴かせて」と促され、ニコラス・エドワーズだと告白し歌い始める。やがてその歌声は、コンサート会場での歌声へと変わっていく。 キャスト[編集] 劇中使用曲[編集] 2013年の全国公開の時はシネマート六本木のスクリーン4で初日舞台挨拶があり、主演のニコラス・エドワーズ、福田沙紀、矢部太郎、五歩一勇治監督らが撮影裏話をした。 全国公開された5作品の鑑賞後の半券を送付して、出演者のサイン入りチェキが抽選でもらえる「5作品割り」という企画があった。 全国公開された後もドリパスのランキング上位になり、上映会が行われた。

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