Month: May 2018

コンピュータゲーム – Wikipedia

コンピュータゲーム(表記揺れ多数あり〈後述〉[注 1])とは、コンピュータの機能を使って動作するゲームの日本語における総称[1][2]。あるいは、コンピュータ上で動作し、コンピュータと人間の間で行なうゲームのこと[3]。もしくは、コンピュータを利用したゲーム、および、そのプログラム[4]。 「ビデオゲーム(英: video game)」は、語としては成り立ちが異なるが、多くの点で結果的に同義である(区別なく用いられたり区別されたりする)。 名称については「名称」節で詳説する。 日本語[編集] 日本語「コンピュータゲーム(表記揺れ:コンピュータ・ゲーム[3][4]、コンピューターゲーム[1][2]、コンピューター・ゲーム)」は、使用する機器とディスプレイ装置およびゲームソフトの供給媒体の違いから、以下の5種類に分類される[4]。 また、「電子ゲーム」という語は、広義ではコンピュータゲームとLSIゲーム(電子LSIゲーム。比較的機能が低い)の総称であるが、狭義ではLSIゲームの別名である。 日本語では、コンピュータ化したものという意味合いでコンピュータゲームを「デジタルゲーム」と呼び、コンピュータゲーム以外のゲーム(非電源ゲーム)をこれと対比して「アナログゲーム」と呼ぶ[5]向きもある。ここでの「デジタル」および「アナログ」という用語は、本義からは離れた日本語独自の俗用である[6]。 デジタル(ディジタル)ゲームという言葉は1975年頃には使用され、テレビを介する場合のテレビゲームの語も使われたが、1980年代初頭の段階ではテレビを使わない小規模な電子回路のゲーム機をデジタルゲームと呼び、両者は部品に一部共通点があるが別の意味の言葉だった[6]。1980年代末には既存のボードゲームなどを意味するアナログゲームの言葉が使われ始め、同時期には『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』発売の騒ぎやサウンドトラック『交響組曲「ドラゴンクエストIII」そして伝説へ…』の発売でコンピュータゲームの音楽がファミコン音楽と呼ばれていたのがゲームミュージック/ゲーム音楽と呼ばれるようになり、ゲームという単語でコンピュータゲームを意味するようになっていた[6]。1996年頃には新聞でもデジタルゲームとの見出しの記事があるが流行の1つともいえたため時が立つにつれて使用頻度が減っていったが、日本デジタルゲーム学会の設立もあり、学術用語やマニア向けに語が広まっていった[6]。 英語[編集] 英語(事実上の国際共通語)では、コンピュータの信号をビデオモニターに出力して表示していた時代が長かったことから、”video game“という語を用いるのが通例。英語と日本語の対応については、英語の”video game”と日本語の「コンピュータゲーム」の語義が近く、”computer game“や”PC game“に語義が近いのは「パソコンゲーム」や「PCゲーム」である。また英語の”electronic game“は、日本語の、広義の「電子ゲーム」と同義である。 中国語[編集]

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息をするように – Wikipedia

『息をするように』(いきをするように)は、2021年9月18日に公開された[注 1]日本の短編映画。監督は枝優花、主演は伊藤万理華[1][2]。Karin.の楽曲にインスパイアされた作品[1]。 思春期で 性自認やアイデンティティが不安定な主人公が、転校先で少年に出会ったことで、心の奥底の屈託を前向きに受け入れていく様を描く。 公開初日に東京・ユーロスペースにて上映前に舞台挨拶が行われ、伊藤、Karin.、枝監督が登壇した[3][4]。 監督の枝は、この作品がKarin.の楽曲にインスピレーションを得て作られたことなどを語り、「ずっとわからないものは存在していて、それは究極のところ自分自身なのではないかと思います。それは可笑しくも苦しいことですが、だからこそ生きているのだと思います。そう信じている私を救いたくて作りました」とコメントしている[2]。 また、音楽を担当したKarin.は劇伴について「どうしたらアキとキイタの感情に寄り添うことが出来るのかを考え、何度も映像に音を合わせて紡ぎました。この劇伴は「綺麗な水色に墨を一滴垂らしたような音」をイメージの元、旋律を考え、弾かせていただきました。誰かを思った時に放たれる鋭い光や優しい眼差しを『息をするように』で感じました」とコメントしている[2]。 初の少年役を演じた、主演の伊藤は「枝さんの言葉にできない淡い世界とKarin.さんの実直で優しい歌声を大画面でぜひ触れてほしいです。この撮影を通して、自分は、誰しも、誰かとの替えがきかない特別な存在なんだ、と救われました」とメッセージを送っている[2]。 あらすじ[編集] キャスト[編集] アキ 演 – 伊藤万理華 主人公。自身のアイデンティティや性自認に揺れる少年。 キイタ 演 – 小野寺晃良 アキが転校先で出会う少年。アキと一緒に過ごすようになる。

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馬公厝線 – Wikipedia

戦前の虎尾周辺路線図 駅・施設・接続路線 馬公厝線(マーゴンツゥオせん、まこうせきせん)は台湾雲林県虎尾鎮と褒忠郷を結ぶ台湾糖業公司虎尾糖廠(中国語版)が運営する軽便鉄道路線の総称で、現在台湾で唯一運行している台湾糖業鉄道の専用線。 路線データ[編集] 経営管轄:台湾糖業公司 路線距離:16.1km[1](本線:北港線1.944Km分岐~蚊港線起点間11.88km[2]) 軌間:762mm(北港線供用区間は1,067mmとの3線軌道) 装車場数:6(虎尾糖廠を含む。9-13号装車場) 複線区間:無 電化区間:無 支線:1(蚊港線2.276km[2]) 戦前[編集] かつての大日本製糖虎尾製糖所専用線だった馬公厝線(虎尾 – 潮洋厝間12.0km)[3] その支線(潮洋厝線→馬公厝支線1.0km) 大日本製糖龍巖製糖所専用線だった馬公厝線(龍巖境界 – 普令厝(台西郷)間11.6km) 戦後[編集]

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ジョージ・チャールズ・ウォーリッチ – Wikipedia

ジョージ・チャールズ・ウォーリッチ(George Charles Wallich 、1815年11月16日 – 1899年3月31日)は、イギリスの医師、海洋生物学者である。 インドのコルカタで生まれた。父親はデンマーク生まれで、イギリスに帰化し、カルカッタ植物園の園長も務めた、ナサニエル・ウォーリッチである。1834年にエディンバラ大学で医学の博士号を得た後、1857年までインド医療団(Indian Medical Service)で働いた後イギリスに戻った。トマス・ヘンリー・ハクスリーやチャールズ・ワイヴィル・トムソンに海洋生物の知識を認められて、1860年に電信ケーブル敷設経路の探索のために深海調査を行った軍艦ブルドッグ号(H.M.S. Bulldog)の北大西洋の航海に博物学者として乗船し、深海の生物を調査した。航海の記録を”The North Atlantic Sea – Bed; comprising a diary of the

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技術基準適合認定 – Wikipedia

この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 技術基準適合認定(ぎじゅつきじゅんてきごうにんてい)とは、端末機器が電気通信事業法令の技術基準に適合していることを認定(電気通信事業法第53条)することである。総務省令端末機器の技術基準適合認定等に関する規則( 以下、「認定規則」と略す。)により実施される。類似制度として電波法上の無線設備に対する技術基準適合証明という制度がある。 電気通信事業法施行以前に行われていた無線機器の技術基準適合証明を端末機器にも適用したものといえる。広義には、下記の設計認証(せっけいにんしょう)(電気通信事業法第56条)および技術基準適合自己確認(ぎじゅつきじゅんてきごうじこかくにん)(電気通信事業法第63条)が含まれる。技術基準適合認定(設計認証を含む。)は、総務大臣の登録を受けた認定機関が実施する。技術基準適合認定、設計認証または技術基準適合自己確認を行った端末機器はそれぞれ認定規則に定める表示をすることができる。 沿革[編集] 1985年(昭和60年) 通信自由化に伴い、電気通信事業法が施行された。 郵政省令端末機器の技術基準適合認定に関する規則(現 認定規則)施行により開始された。 1999年(平成11年) 「設計についての認証」と「承認認定機関」の制度が導入された。 設計についての認証とは、下記の設計認証のことである。 承認認定機関とは、日本向けの端末機器を取り扱う外国業者に対し、技術基準適合認定または設計認証と同様の審査を行えると郵政大臣(現 総務大臣)が承認した外国機関である。 2003年(平成15年) 国内認定機関が指定制から登録制となった。 指定認定機関は、国の事務を代行する立場にあり、役職員には公務員と同等の秘密保持義務もあった。 登録認定機関は、中立な民間機関と位置づけられ、国は審査方法等に問題がある場合には改善命令等の事後措置を講じることになる。技術基準適合認定等に関し秘密保持や責任関係等について条件を設定することは申請者の責任である。 2004年(平成16年) 技術基準適合自己確認の制度が導入された。

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小河内観光開発 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “小河内観光開発” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年6月) 小河内観光開発株式会社(おごうちかんこうかいはつ)は、東京都西多摩郡奥多摩町にある小河内貯水池(奥多摩湖)を横断する全長622 mの奥多摩湖ロープウェイ(正式名称:川野ロープウェイ)を運行していた索道事業者である。 小河内観光開発が本社としていた東京都中央区日本橋通は、現在「東京都中央区日本橋二丁目」という地名となっている。(上記地図の中央通りと永代通りが交差する付近を参照されたい) ロープウェイは奥多摩湖西部、西東京バス「中奥多摩湖」停留所周辺にあった川野駅と、その対岸で三頭橋の東側にあった三頭山口駅を結んでいた。 奥多摩湖上遊覧、登山客の利便等を目的とし、1960年(昭和35年)8月12日に索道事業許可、1962年(昭和37年)1月29日に営業運転を開始。折りしも高度経済成長期、1964年東京オリンピックの開催を控え希望に満ちた時代でもあり、営業当初は主に関東方面から多くの観光客を集めたものの、数年後に湖上横断の橋梁が敷設されると自動車やバスで簡単に対岸まで通行が可能になり、乗客が激減。元々高低差がわずか0.6 mほどの平坦な索道で風景も変化に乏しく、距離も622 mと短距離でもあり次第に陳腐化し、1966年(昭和41年)12月1日に「冬季休業」という名目でそのまま運行を一時停止。営業不振の理由により、1975年(昭和50年)3月に正式に運行休止申請が出されている。 国土交通省監修の『鉄道要覧』には2006年(平成18年)度版まで休止状態ながら掲載されており、末期の事業者名は奥多摩湖観光株式会社、本社所在地は東京都千代田区外神田3丁目14-7となっていた。2007年(平成19年)度版以降の『鉄道要覧』からは抹消され、これにより東京都内の普通索道路線が消滅している(厳密には都内の普通索道路線として神奈川県に跨る「スカイシャトル」があるが、『鉄道要覧』では神奈川県の索道に区分される)。 川野駅(かわのえき、地図) – 三頭山口駅(みとうさんぐちえき、地図)

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ジョン・ダルリンプル (第5代ステア伯爵) – Wikipedia

第5代ステア伯爵ジョン・ダルリンプル(英語: John Dalrymple, 5th Earl of Stair、1720年 – 1789年10月13日)は、グレートブリテン王国の政治家、スコットランド貴族。1771年から1774年までスコットランド貴族代表議員を務めた[1]。 ジョージ・ダルリンプル閣下(Hon. George Dalrymple、1680年3月10日洗礼 – 1745年7月29日、初代ステア伯爵ジョン・ダルリンプルの六男)と妻ユーフェム(Euphame、旧姓マイアトン(Myrton)、1761年7月8日没、初代準男爵サー・アンドルー・マイアトンの娘)の長男として[2]、1720年に生まれた[1]。1741年12月8日、スコットランドの上級弁護士になった[2]。 伯父にあたる第2代ステア伯爵ジョン・ダルリンプルは爵位をいったん返上して再叙爵を受け、爵位と遺産継承者の指名権を手に入れた上で、1747年3月31日にジョンを継承者に指名した[2]。同年5月に2代伯爵が死去した後、ジョンはこの指名に基づきステア伯爵の称号を使用、同年8月の総選挙でステア伯爵として、スコットランド貴族代表議員選挙に投票したが[3]、貴族院は1748年5月4日に爵位継承者の指名権を無効と判定し、ジョンはこのときは遺産しか継承できなかった[2]。 1768年7月27日に伯父ウィリアム(英語版)の息子にあたる第4代ステア伯爵ウィリアム・ダルリンプル=クライトンが死去すると、ステア伯爵位を継承した[2]。 1771年にスコットランド貴族代表議員に当選した[2]。貴族院でホイッグ党の一員として行動し[3]、米州植民地への強硬策に反対した[2][1]。1774年にマサチューセッツ湾直轄植民地を代表して貴族院に請願を提出、植民地からの感謝決議を受けた[1]。同年の総選挙で貴族代表議員に再選できず、以降は1776年から1785年までパンフレットを書くことで国政への関与を続けた[1]。ステア伯爵のパンフレットは主に国家財政をテーマとし、その多くに悲観的な予想が含まれたことから、同時代のホレス・ウォルポールはステア伯爵を「我が国のカッサンドラー」(Cassandra of the state)と評した[1][3]。

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八月の庵―僕の「方丈記」体験 – Wikipedia

『八月の庵―僕の「方丈記」体験』(はちがつのいおり ぼくのほうじょうきたいけん)は、村上春樹のエッセイ。 『太陽』1981年10月号[注 1]の特集「遁世は可能か 『方丈記』を読む」のために書かれた。現在に至るまで単行本にも『村上春樹全作品 1979~1989』(講談社)にも収録されていない。 松尾芭蕉の幻住庵 国語教師であった村上の父親は、著者が小学生の頃、学生を集めて俳句サークルのようなものをやっていて、何ヶ月かに一度句会を兼ねた遠出をしていた。松尾芭蕉が4ヶ月間隠棲したという、滋賀県大津市にある「幻住庵(げんじゅうあん)」で句会が行われた際、村上も何度か連れいってもらったという。 死とは変形された生に過ぎない 幻住庵の四畳半ばかりの部屋で句会が行われている間、著者は一人で縁側に座り、ぼんやりと外の景色を眺めながら「人の死」について思う。「死はそれまでの僕の生活にほとんど入り込んでこなかった。(中略) しかしその庵にあっては、死は確実に存在していた。それはひとつの匂いとなり影となり、夏の太陽となり蟬の声となって、僕にその存在を訴えかけていた。死は存在する、しかし恐れることない、死とは変形された生に過ぎないのだ、と。」[1] 村上は本エッセイを発表した翌年、上記の実感を短編小説に書きあらわす。短編小説『螢』[注 2]の中で、高校時代に友人の自死を体験した主人公は「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している[注 3]。(中略) 文鎮の中にもビリヤード台に並んだ四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸い込みながら生きてきたのだ」[2]と述べる。 この『螢』の箇所は長編小説『ノルウェイの森』にまるごと生かされ、同作品を貫く基調低音となった。 父親 両親についてまれにしか語らない著者であるが、本エッセイでは父親との交流が具体的にいくつか書かれてある。次の記述はその中のひとつ。「中学校に上がった頃から父親は僕に古典を教え始め、それは高校を出るまでの六年間ずっと続いた。万葉集から西鶴に至るまでの主な作品は全部である」[1] 平家物語、雨月物語、方丈記 『風の歌を聴け』を書いた当時、まわりから「翻訳小説みたいだね」と言われ、自分でもそう思っていたとき、何人かの人から「文体自体は翻訳小説調だが、情緒はとても日本的」「いろんなギャップを解決しようとはせずにそのままの形で呑みこむところが極めて日本的だ」と評された。それがある種のきっかけとなり「昔父親に読まされた古典の幾つかをぽつぽつと読み返すようになった」[3]という。だが具体的に読み返すのは『平家物語』と『雨月物語』[注

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アントニオ・マリア・デ・ルカ – Wikipedia

アントニオ・マリア・デ・ルカ Antonio Maria De Luca アントニオ・マリア・デ・ルカの肖像画 生年月日 1764年10月20日 出生地 ナポリ王国・チェッレ・ディ・ブルゲリーア 没年月日 (1828-07-28) 1828年7月28日(63歳没) 死没地 両シチリア王国・サレルノ テンプレートを表示 アントニオ・マリア・デ・ルカ(イタリア語: Antonio Maria De

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