Month: October 2018

大型自動車 – Wikipedia

この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 大型自動車(おおがたじどうしゃ)とは、日本における自動車の区分のひとつで、車両総重量11,000キログラム (kg) 以上、最大積載量6,500 kg以上、または乗車定員30人以上の、四輪以上の車輛を指す。 大型自動車第一種免許、大型自動車第二種免許(以下それぞれ「大型免許」、「大型第二種免許」と略記)の運転免許でのみ運転することができる。略称は大型。 なお2007年6月2日施行の法令改正により、区分の下限が従来の車両総重量8,000 kg以上、最大積載量5,000 kg以上、または乗車定員11人以上から変更された(詳細は後述)。 道路運送車両法では「四輪以上の、小型自動車より大きい、普通自動車」に分類される。 車体が大きいため普通自動車に比べ機敏な動作が難しく、また車高の高さに伴う死角の大きさなどから、歩行者、特に小さな子供や高齢者の飛び出しなど予測不能な行動には対処しにくいとされる。ホイールベースも長く内輪差が大きい。右左折時には車両内側の物と接触しないか確認が必要である。もちろん普通自動車でも確認は必要だが、内輪差が大きい分より慎重な確認が必要である。 車両前方のオーバーハングが大きいために乗用車ではあり得ない、車両前方を路面からはみ出させる運転操作が可能であり、また必要でもある。運転免許試験場や指定自動車教習所ではこの操作を必ず要求される。実際の路上では多くの場合ガードレールがあるためそれほど頻繁に行なう運転操作ではないが、それでも時に必要ではある。ハンドルを切れば、後輪より前の車体部分がハンドルを切った方向に曲がると同時に、後輪より後ろの車体部分はハンドルを切ったのとは反対の側に振れる。例えば、左折時には後輪より後ろの車体部分は右側に振れ、時として右隣の車線にはみ出る。このことは普通自動車も同様だが、普通自動車ではオーバーハングが短いためにこのことをそれほど意識しなくてもよいのに対し、大型自動車ではオーバーハングが長いために強く意識する必要がある。ボンネットバスのような例外もあるが、現代の大型自動車のほとんどはキャブオーバー形態であるため、操舵輪である前輪はトラックでは運転者のほぼ真下、バスでは後方にある。そのため運転者から見たハンドルを切り始めるタイミングは普通自動車に比べ、かなり遅くなる。 後二軸の車両では、旋回時にも後輪は直進を続けようとする力が強い。そのため状況によっては前輪が負けてしまってハンドルを切っても切ったようには曲がらない事がある。広さだけから見ればハンドルを大きく切りさえすれば曲がれるはずの角でも、積載・路面・勾配によってはあえてハンドルを少ししか切らずに前後進を繰り返しながら何度かに分けて曲がる必要がある。 大型一種免許を取得すると、営業目的でなければバスの運転もできるようになる。逆に、大型一種を持たない人が大型二種を取得した場合もトラックの運転ができるようになるが、上記のように同じ大型車でもトラックとバスでは運転方法が全く異なるので、一種免許所持者がバスを、二種免許所持者がトラックを運転する場合は、それを理解して運転しなければならない。 ナンバープレートは大板サイズになっている。 免許制度[編集] かつての自動車免許には、大型免許と言う区分は存在せず、普通自動車免許(以下「普通免許」と略記)を持っているだけで大型自動車相当の自動車を運転することができたが[1]、1956年8月1日に大型免許と普通免許に区分され、普通自動車のうち乗車定員11名以上の自動車[疑問点 – ノート]または最大積載量5,000 kg以上の貨物自動車は普通免許で運転することができなくなった。このとき普通免許を所持していた者は第二種運転免許の新設と合わせて大型二種免許に免許区分が変更された[2]。ただし、道路交通取締法施行規則の運転できる自動車の種類では大型自動車ではなく普通自動車のままである。1960年の道路交通法制定時に大型自動車の区分が明記された[3]。

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パスハの讃詞 – Wikipedia

パスハの讃詞(パスハのさんし、英語: Paschal troparion)とは、正教会の復活大祭の当日、および復活祭期に歌われる祈りである。冒頭の句をとって「ハリストス死より復活し」などと呼ばれる場合もある。 イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ語読み)の復活と、それによって人類に与えられた永遠の生命についての教えを簡潔かつ明瞭にまとめて知らせる内容となっており、正教会で最大の祭りである復活大祭では繰り返し歌われる。 日本正教会では祈祷書『五旬經略』には”「パスハ」の讃詞“と記載されている。なお讃詞は、ロシア語(Тропа́рь、語源はギリシア語:Τροπάριον)からそのまま転写して「トロパリ」とも呼ばれているため、本記事で扱う讃詞は「パスハのトロパリ」とも呼ばれる。 パスハの讃詞に限らず、正教会(のみならず他教派でもこうした習慣は同様であるが)での祈祷文の題名には冒頭の句がそのまま用いられる場合も多い(『天の王』など)。この事から、題名として「ハリストス死より復活し」と記載される場合もある。ほかに「復活祭の発放讃詞」とも。 「復活讃詞」と記載された楽譜なども存在するが、復活讃詞は広義には主日(日曜日)に歌われる八調(週替りの8つの旋律類型によって系統づけられる体系)の讃詞など様々なものを指すので、本記事で扱う讃詞を特に扱う場合には「パスハの讃詞」が明瞭な呼称となる。 各国語での呼称[編集] 様々な呼び名があるが、祈祷の冒頭の句が題名として用いられる事が多い。祈祷の冒頭の句を用いた場合の題名表記例は以下の通り。 パスハの讃詞は多くの場合、単に唱えられるのではなく歌われる。 祈祷書においては八調の第五調で歌うようにとの指定がなされているが、第五調で歌われる事はまず無い。日本を含めた全世界の正教会において、地域ごとに伝統的な旋律が継承されている。曲はバリエーションに富んでいるほか、各修道院に伝統的に継承されてきた旋律・歌唱も存在する。また、特にスラヴ系正教会(ロシア正教会、ブルガリア正教会など)、ルーマニア正教会、さらに西欧・米国などの正教会では、近世以降の作曲家によるパスハの讃詞も存在する。 歌われる時[編集] 復活大祭当日には何度も繰り返し歌われる。 復活祭期(復活大祭から40日間)には、「天の王」の代わりに教会関連の各種集会の始まりに歌われるほか、徹夜祷・聖体礼儀をはじめとした各種奉神礼の指定箇所で本讃詞が歌われる。 日本語(日本正教会訳)[編集] ハリストス死より復活し、死を以て死を滅ぼし、墓に在る者に生命を賜へり。 — 五旬經略(日本正教会・1903年版) 各国語の祈祷文[編集] 言語 原文

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あいつが上手で下手が僕で – Wikipedia

『あいつが上手で下手が僕で』(あいつがかみてでしもてがぼくで)は、2021年10月7日(6日深夜)から11月25日(24日深夜)まで、日本テレビで放送されたテレビドラマ[1]。主演は荒牧慶彦[1]。同年12月に舞台化されている。 お笑いコンビの悲哀を描いたオリジナルドラマ。 若手芸人が集まった「湘南劇場(通称・遭難劇場)」を舞台に、彼らが相方や仲間たちとブレイクを目指し奮闘する芸人青春群像劇。 劇場内のシーンにおいて、長回しの手法を頻繁に用いていることが特徴である。 芸人[編集] 時浦可偉(ときうら かい)〈30〉 演 – 荒牧慶彦[2]。 漫才コンビ「エクソダス」のボケ担当。以前所属していた劇場で何らかのトラブルに巻き込まれ(明言されていないため、具体的に何だったかは不明)、湘南劇場へとたどり着く(これを劇中では島流しと呼んでいる)。元ハガキ職人であり、フリップ芸を得意とする。島とコンビ結成後は漫才に転向し、湘南劇場からの脱出を狙う。 島流しにあったことを苦々しく思っているものの、劇場内で騒動が起こるたび、積極的に関わり解決しようとする、お人好しな一面も。 島世紀(しま せいき)〈30〉 演 – 和田雅成[2] 漫才コンビ「エクソダス」のツッコミ担当。関西弁で喋る。島流しされた時浦に、積極的にコンビ結成を持ちかけた人物。遅刻癖がある。 元々は鳴宮とコンビを組んでいたが、遅刻のせいで不仲となり解散した。そのためか鳴宮とは度々対立することが多い。 鳴宮良(なりみや

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はれときどきぶた – Wikipedia

『はれときどきぶた』は矢玉四郎原作の児童文学作品。1980年初版。略称ははれぶた。 小学校3年生である主人公の畠山則安が未来の日付で日記に書いた荒唐無稽なことが現実になってしまうというストーリー。続編も書かれ(本稿で述べる)、アニメ映画やテレビアニメが制作された。日本国外でも英語版、中国語版、タイ語版などが翻訳出版されている。 はれぶたシリーズ[編集] すべて岩崎書店から出版。 はれときどきぶた 1980年 ISBN 4265916139 少年・則安が自分の日記を母親に読まれてからは母親を驚かすべく、明日日記なるものをつけるが、日記に書いたことが現実になってしまう。 日記の日付と曜日の関係は、初版刊行の翌年にあたる1981年のもの(参照)と同じである。 英語版(訳:キース・ホールマン):Fair, then Partly Piggy 1986年 ISBN 4265800386 あしたぶたの日ぶたじかん  1985年 ISBN

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トゥラロサ盆地 – Wikipedia

トゥラロサ盆地(トゥラロサぼんち、英:Tularosa Basin、Tularosa Valley)は、アメリカ合衆国ニューメキシコ州南部、リオ・グランデ川の東のベイスン・アンド・レンジ地域にある地溝盆地である。大部分はオテロ郡にある。標高1,194 m(3,917 ft)[1]。 トゥラロサ盆地の地図 トゥラロサ盆地は、コネティカット州より35%広いおよそ6,500 mi2(16,835 km2、日本の岩手県よりやや大きいくらい)の広さがあり、西のサン・アンドレス山脈とオスキュラ山脈、東のサクラメント山脈の間にある。盆地は南北およそ150マイルに広がり、最も広い部分で東西およそ60マイルある。盆地はコロラド高原地塊のわずかな時計回りの地殻変動のためにそこで広がるリオ・グランデ地溝地帯の一部とみなされている。盆地は、北はチュパデラ・メサ、南はフランクリン山脈とフエコ山脈によって閉じられている。盆地には、ホワイトサンズ国定記念物、ホワイトサンズ・ミサイル実験場、トリニティ実験場とカリゾゾ溶岩流といった顕著で特徴的な場所がある。トゥラロサ小川 (Tularosa Creek) は、トゥラロサの村のちょうど北をトゥラロサ盆地に西に流れ込む。カトロン郡にあるトゥラロサ川 (Tularosa River) と混同しないよう注意する必要がある。 水文学的に、トゥラロサ盆地は、流入河川が外部へ流れ出ない閉じた盆地である。最終的に蒸発もせず、地面に浸透もしなかった河川は、プラヤに溜まり、多雨期にプラヤ湖を形成する。盆地のプラヤ湖で最大のものは、ホワイトサンズ国定記念物の南西の端にあるルセロ湖であり、ルセロ湖の北方には、ホワイトサンズに石膏の砂を提供しているアルカリ平原が広がっている。 スペイン人がトゥラロサ盆地にやって来たとき、彼らは盆地の東側面で比較的青々とした草原を育てた湧き水と小さな流れがサクラメント山脈から来ているのを発見した。スペイン人によって羊の牧畜と資源の採掘が試みられる一方で、この地域はアメリカ合衆国がフォート・スタントンで軍隊を駐留させた1850年代まで確固たるアパッチの支配下にあった。アメリカの軍隊の保護のもとで、最初の恒久的な和解は1862年に確立された。そのとき、およそ50人のヒスパニック系農民はリオ・グランデ谷からトゥラロサへ移った。南北戦争の間、アパッチを制御する努力はいくぶん弱まり、本格的な白系アメリカ人の移民は、テキサス州からの移民と牧畜家が盆地へ移動し始めた1870年代後半まで始まらなかった。 トゥラロサ盆地の大草原は、雨の多かった1880年代には家畜の大群を養うことができた。白系アメリカ人がそこで初めて牛を追い始めたころ、一部では草の丈は馬の肩と同じくらいの高さにもなった。あるカウボーイは1889年に85,000頭の家畜が盆地に集められたと振り返ったが、それが「この土地には非常に重荷であった」とも語った[2]。次の年は猛烈な干ばつであり、牧草地は75年以上の間多くの場所で続けた過度な放牧と浸食の結果から立ち直ることはなかった。1945年に牛の放牧が実質的に終わったホワイトサンズ・ミサイル実験場でさえ、1890年から1945年の期間の広く行われた過度な放牧の影響を至る所でまだ見ることができる。例えば、歴史上肥沃な大草原であったと知られている多くの地域は、現在、クレオソート・ブッシュ(Creosote bush、北アメリカ西部の砂漠地帯に生息する黄色い花を咲かせる低木)が優位を占める砂漠浄化地域として描かれることがある。 地表水だけでは牛の群れを養うことができなかったため、牧場主達は地下水に目を付けたが、容易に入手できる塩気のない水は盆地の地中から枯渇し、塩分を多く含む水だけが残った。地下水を地表に用いることは、更なる塩分を溶かした水を地下水に運ぶこととなった。これが地下水の塩分濃度を上昇させ、これまでの水利用の状況をさらに続けるならば、地下水中の塩分濃度を大幅に下げる必要があると2000年までに認められた。トゥラロサ盆地国立脱塩研究施設

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ヘンリー・フォード博物館 – Wikipedia

ヘンリー・フォード博物館(正式にはヘンリー・フォード博物館とグリーンフィールド・ヴィレッジ、英語:Henry Ford Museum and Greenfield Village)は、ミシガン州メトロ・デトロイト・エリアに属するディアボーンに位置する、エジソン学会 (Edison Institute) が管理・運営するアメリカ合衆国最大級の博物館複合施設で、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されている[2][3]。名前は自動車産業で偉大な足跡を遺し、この博物館を計画・建設したヘンリー・フォードに由来する。 49,000 m²ある屋内展示中心のヘンリー・フォード博物館には、フォード劇場のエイブラハム・リンカーンの椅子や、ジョン・F・ケネディの車などがある。入館直後の広間には、この建物の鍬入れ式に出席した、エジソンが使ったスコップが立てられている。また、広大な敷地 (360,000 m²) を有するグリーンフィールド・ヴィレッジにはトーマス・エジソンの研究所、ライト兄弟の自転車屋他、周囲を巡る蒸気機関車、さらにはリバーシップ(乗船可能)など開拓以降の歴史的建造物や乗り物が保存されている。 ヘンリー・フォードは彼の博物館についてこう語った。 「 I am collecting the

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名古屋市立山田小学校 – Wikipedia

名古屋市立山田小学校(なごやしりつ やまだしょうがっこう)は、愛知県名古屋市西区八筋町の公立小学校。 沿革[編集] 1908年(明治41年) – 山田第一尋常小学校および山田第二尋常小学校が統合され、山田尋常小学校が成立する[WEB 1]。 1909年(明治42年) – 山田高等小学校を統合し、山田尋常高等小学校となる[WEB 1]。 1910年(明治43年) – 現在地に校地を移転する[WEB 1]。 1920年(大正9年) – 各大字に存在していた分教場を統合[WEB 1]。 1926年(大正15年)

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ニューぺがさす – Wikipedia

ニューぺがさすは、 名門大洋フェリーが運航していたフェリー。後に改名されフェリーきょうととして就航した。 ぺがさす (2代)の代船として尾道造船で建造され、1989年1月に就航した。名門大洋フェリー発足後の新造船第一船である。共有建造制度を利用して建造された船舶整備公団との共有船である。 1992年4月に航路の愛称をシティライン(CITY LINE)とした際に、フェリーきょうとへ改名された。 フェリーきょうと2の就航により、2002年に引退した。 その後、海外売船され、フィリピンのWG&Aグループのスーパーフェリー(英語版)でSuper Ferry 15として就航した。 2007年に韓国の云港中韓輪渡有限公司へ売却され中韓之星(C K Star)として平沢 – 連雲航路に就航している。 航路[編集] 名門大洋フェリー この節の加筆が望まれています。 A甲板[1] 特等室(洋室2名×2室、和洋室2名×4室)

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津高地域 – Wikipedia

この項目では、岡山市の広域地区、およびかつて岡山県にあった自治体(津高町)について説明しています。 同所にある大字については「津高」をご覧ください。 岡山県および備前国にあった郡については「津高郡」をご覧ください。 津高(つだか)は、岡山県岡山市北区にある広域地域である。かつての御津郡津高町(つだかちょう)にあたる。本項では同町についても記す。 地域としての津高は、岡山市北区役所津高地域センター管轄の区域を指す(津高、津高台一丁目 – 四丁目、富原、横井上、田益、栢谷、菅野、高野、吉宗、田原、富吉、日応寺、三和)。岡山市街地から4 – 8kmの位置にあり、市北部郊外のベッドタウンとなっている。 大字の津高は津高地域センター管轄の区域としては最も南に位置し、津高台団地造成時に該当区域が津高台一丁目 – 四丁目に改称した。北は横井上、東は宿(陸上自衛隊三軒屋駐屯地)、西は富原、南で首部、津島笹が瀬、津島西坂三丁目、津島本町、津島と接している。 地域内には岡山空港と山陽自動車道岡山インターチェンジがあり、岡山の空と陸の玄関口となっている。 産業では、1875年(明治8年)に大森熊太郎と山内善男が栢谷の官林の払い下げを受けて始めた温室ぶどう栽培が盛んであり、現在では岡山県が全国生産量で約95%のシェアを誇るマスカット・オブ・アレキサンドリアの主要生産地となっている。 地域の南東部は平坦地で岡山平野の一部となっているが、中・北部は標高200 – 300mの吉備高原となっている。河川は笹ヶ瀬川が日応寺付近に源を発し、北から南へ当地域の中央部を貫流し児島湖へ注いでいる。 津高地域は、古くは大部分が備前国津高郡津高郷に属した。応仁・文明の頃から松田氏が支配し、1600年(慶長5年)には小早川秀秋、1603年(慶長8年)には池田忠継が岡山藩主に封ぜられ、以後池田氏の所領となり明治維新に至った。 1889年(明治22年)6月1日の町村制施行により、野谷村・馬屋上村・横井村が発足した。1953年(昭和28年)にこれら3村の合併が検討されたが実現には至らず、1955年(昭和30年)に野谷村と馬屋上村が合併して津高村が発足した。その後、岡山市への編入を前提として津高村と横井村との合併が協議され、1959年(昭和34年)に津高町が発足した。 1971年1月8日、津高町は岡山市に編入合併され、町制時の12大字のうち中原は津高と改称して他の11大字とともに同市の大字に継承された。

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