Month: November 2018

並木一路 – Wikipedia

並木 一路(なみき いちろ、1910年5月13日[1] – 没年不詳)は、昭和・平成期の漫才師、俳優[2][3][4]。本名は松村 興優(まつむら こうゆう)。東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)出身。 来歴・人物[編集] 1910年5月13日、東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)に生まれる。 物心がつく前からドサ回り劇団に所属して各地を巡業。旅回わり劇団を転々としたのち1936年、栗島すみ子劇団に入り、栗島の父である栗島狭衣に師事[2]。その後、古川隆一名義で浅草の梅沢昇一座、不二祥子一座などの剣劇の舞台に立つ。 1938年、漫才に転向し、大山キリン名義で栗島劇団にいた仲間と大山キリン・ビールを結成し、兵隊漫才で活躍する。1940年、並木一路と改名して内海突破とコンビを結成[2]してヒットし、「西にエンタツ・アチャコあり、東に一路・突破あり」とうたわれた。芸名は「敵陣を一路突破する」に由来している。1941年、コンビで東宝演劇部の専属俳優となる。1944年、入隊し朝鮮・龍山で終戦を迎えた。 戦後はラジオや映画を中心にコンビで人気を持続するが、1949年3月、内海がNHKラジオ『陽気な喫茶店』に出演したのをきっかけでコンビ解消。1950年、宮田洋容とコンビを結成して、人気を博す。しかし1954年以降は単独で司会者や漫談家として活躍[2]。1965年、内海と再びコンビを復活させたが長くは続かなかった。 その後再びコンビを結成することなく、内海は1968年6月8日に53歳で死去。一方、一路は平成まで司会者や漫談家として活躍していた[4]というが、以後の消息は不明である。存命であれば100歳を超える。没年不詳。 出演作品[編集] 聲入り豪華船 1947年 素晴らしき日曜日 1947年 見たり聞いたりためしたり 1947年

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鮒信学 – Wikipedia

鮒 信学(ふな のぶたか)は、日本の農芸化学者(応用微生物学・天然物化学・代謝工学)。博士(農学)(東京大学・2003年)。静岡県立大学食品栄養科学部准教授・大学院食品栄養環境科学研究院准教授。 東京大学大学院農学生命科学研究科助手、東京大学大学院農学生命科学研究科助教などを歴任した。 兵庫県神戸市出身の農芸化学者である[1]。応用微生物学、天然物化学、代謝工学などを専攻している[2]。慶應義塾大学理工学部を卒業し、東京大学大学院農学生命科学研究科の修士課程、および、博士課程を修了した[3]。大学院在学中、植物内のカルコン合成酵素と同様のはたらきを持つ酵素が、微生物内にも存在することを見出した[1]。さらに、植物と同様に放線菌にも色素をつくり出す機能があることを、世界で初めて発見した[1]。その後、東京大学の助手や助教を経て[4]、静岡県立大学の准教授を務めるなど、各教育機関で教鞭を執った[1]。 生い立ち[編集] 兵庫県神戸市にて育った[1]。慶應義塾大学に進学し、理工学部の化学科にて学んだ[3]。1998年3月、慶應義塾大学を卒業した[3]。大学卒業後は、東京大学の大学院に進学し[1]、農学生命科学研究科にて学んだ[3]。農学生命科学研究科においては、教授の堀之内末治や助教授の吉田稔から指導を受けた[1]。2000年3月には、東京大学の大学院における修士課程を修了した[3]。なお、同年4月より、日本学術振興会の特別研究員となった[4]。2003年3月には、東京大学の大学院における博士課程を修了した[3]。それにともない、博士(農学)の学位を取得した[5]。 研究者として[編集] 大学院博士課程修了後は、2003年4月より母校である東京大学に勤務することになり、大学院の農学生命科学研究科にて助手を務めた[4]。農学生命科学研究科においては、主として応用生命工学専攻の講義を担当した[4]。また、学校教育法の改正にともない、2007年4月より、東京大学の大学院にて農学生命科学研究科の助教となった[4]。助教となってからも、引き続き応用生命工学専攻の講義を担当した[4]。2010年に静岡県立大学に転じ、食品栄養科学部にて准教授に就任した[1]。食品栄養科学部においては、主として食品生命科学科の講義を担当した[6]。また、静岡県立大学の大学院においては、生活健康科学研究科の准教授も兼務した。生活健康科学研究科においては、主として食品栄養科学専攻の講義を担当した。2012年、生活健康科学研究科が薬学研究科と統合され、2研究院1学府に再編された。それにともない、大学院に新設された食品栄養環境科学研究院の准教授も兼務することとなった[6]。なお、2研究院1学府への再編以降は、大学院においては薬食生命科学総合学府の講義を担当した。 専門は農芸化学であり、特に応用微生物学、天然物化学、代謝工学といった分野の研究に従事している[2]。具体的には、天然有機化合物の生合成についての研究に取り組んでいる[7]。また、代謝工学の見地に基づいた手法を駆使し、微生物を用いた有用な物質の生産に取り組んでいる[7]。さらに、遺伝情報に基づき、有用な酵素の探索に取り組んでいる[7]。 大学院生時代には、堀之内末治と吉田稔の指導の下で遺伝子解析の研究に取り組み、ゲノムマイニングの手法を開発した[1]。植物内にてフラボノイド色素をつくり出すカルコン合成酵素に類似するはたらきを持つ酵素が、微生物内にも存在することを見出した[1]。この研究により、放線菌に色素をつくり出す機能があることを世界で初めて発見した[1]。従前はカルコン合成酵素のような酵素は植物にしか存在しないと考えられていたため[1]、その常識を覆したこの発見は驚きをもってむかえられ、その論文は『ネイチャー』にも掲載された[8]。 なお、「放線菌のIII型ポリケタイド合成酵素の発見とその生理機能の解明」における業績が評価され、2015年9月7日に日本放線菌学会から浜田賞が授与された[1][9][10][11]。また、「芳香族ポリケタイドの生合成研究と物質生産への応用」における業績が評価され、2016年3月27日に日本農芸化学会から農芸化学奨励賞が授与された[12][13][14]。 学術団体としては、日本農芸化学会、バイオインダストリー協会、日本放線菌学会などに所属している[15]。 名の「信学」は「のぶたか」と読む[1][6]。 大学院生時代に師事した堀之内末治や吉田稔を尊敬しており、当時を振り返り「堀之内、吉田両先生は平日はもちろん、週末も早朝から深夜まで研究していた。努力の大切さを学んだ。学生の私が同じ時間だけ研究しても追い越せないと感じてがんばった」[1]と回顧している。 主な論文[編集] Nobutaka Funa, et al.,

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自由インド太平洋連盟 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “自由インド太平洋連盟” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年9月) 自由インド太平洋連盟Free Indo-Pacific Alliance Inc. 設立 2018年10月26日 種類 人権団体・少数民族団体の連盟。 法的地位 一般社団法人 目的

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玉井金五 – Wikipedia

玉井 金五(たまい きんご、1950年2月5日[1] – )は、日本の経済学者、社会政策学者。大阪市立大学名誉教授、愛知学院大学経済学部教授。専攻は社会政策。元社会政策学会代表幹事。 目次 1 略歴 2 著書 3 三重県との関わり 4 脚注 5 参考文献 1950年 三重県生まれ。 1968年 三重県立津高等学校卒業。

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爆笑!!人生回道 NOVAうさぎが見てるぞ!! – Wikipedia

「爆笑!!人生回道 NOVAうさぎが見てるぞ!!」は、2004年3月18日にプレイステーション2用ソフトで発売されたボードゲームである。販売元はタイトー。 ゲームのルール[編集] 1~4人までプレイすることが可能。3人以上で遊ぶ場合には、プレイステーション2の周辺機器マルチタップが必要となる。 一番のお金持ちが優勝となる。 後発が有利に設定されており、同じマスに止まった場合、不幸なイベントだったら先発が不幸を受け、相手が退くまで駒を進められない、「ふみつけ」ルールが適用されている。 受験イベントでは、数十問の試験問題、就職活動のマスでは、採用担当との面接、職業によっては入社試験を受ける。試験は大学受験は一般的な試験問題、入社試験ではその職業の専門知識を要する(例えば、パイロットでは飛行機知識や飛行原理に関する計算問題が出題される)問題が出題され、正誤は発表されないため、専門知識が無いとその職業になるのが非常に難しいものとなっている。 全員ゴールした後、天国行きか地獄行きかが選ばれ、二週目からは人間か、輪廻転生した姿(缶、鳥、NOVAうさぎ等)でゲームをスタートする。小学校、中学校、高校生から始める事ができ、プレイ時間が幼児から始めると4時間以上になるためセーブ機能がある。時間調節機能で夜10時(22時)からプレイするとHなイベントが起こるようになる。 CPUキャラクター[編集] ひがしまき たろう 底知れぬ体力をほこり、お金大好き。女性なら誰でもOK。博愛主義の人。 よしかわ せいこ 頭が良く、運動は少し苦手。知力系のミニゲームが得意。 ひとみ つよし 人を踏みつけ、パラメータUPを狙う。対戦も好むが、強さは普通。 とどろき めぐみ

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余所者 – Wikipedia

余所者(よそもの)とは、他の地域あるいは社会から来た人のこと。 余所者という言葉は社会移動の結果、その社会へ帰属しない者として判定されることによって生じるラベリングの一種である。余所者というレッテルは旅行者など個人に付与される場合や、移民など集団に対して付与される場合もある。余所者は一般には「厄介者」「侵入者」などネガティブな文脈で用いられることが多いが、ジンメルが示唆したように、ヨーロッパの歴史において古くから見られる商人や金融家など、正式なメンバーではないが社会にとって重要な役割を持つ準メンバーとして受容される余所者も存在する。 社会学では、余所者が社会に参入したときに起きる社会現象を対象として研究が行われてきた。ジンメルは著書『社会学』のなかで、余所者について「今日訪れ来て明日去りゆく放浪者」ではなく、「今日訪れて明日もとどまる者」であり「旅は続けないにしても来訪と退去という離別を完全には克服していない者」「潜在的な放浪者」と定義し、余所者を移動者と定住者の両方の性質を併せ持つものと位置づけた。 アルフレッド・シュッツは『他所者論』において、出自のアイデンティティを維持しつつ、別の社会集団に接近し帰属を志望する移民型の余所者モデルを想定し、ある社会集団の中に置かれた余所者の態度について、余所者は自らの人生観や常識を揺さぶられる経験を重ねることで、自己の内面を含めて客観的な物の見方を得るようになること、余所者は忠誠心が曖昧に見られがちであり、その社会の日常に埋没しきれない状態が長引くほど、その傾向は強くなること、という2つの特徴を論じた[2]。 集団意識や身内意識の強い閉鎖的社会に住む人は、外部に関する排他性を有し、見ず知らずの人に対して驚くほどに、冷淡な態度を取ることがある。特定の場所で差別者から余所者に定義付けされた場合、病的な被差別者への睨み付け、横柄な態度で怒鳴りつけるなどの脅迫や、陰湿な舌打ち、社会的な無視など極端な嫌がらせを受けることもある。 R.E.パークは、多くの移民が直面する、ホスト社会への接近が果たされず帰属が不明瞭なままに社会から排除された状態を「マージナル・マン」と呼んだ[2]。 参考文献[編集] 現代社会教科書研究会『新課程用 現代社会用語集』山川出版社 ISBN 4-634-05670-4 徳田剛 (2005). “よそ者概念の問題機制”. ソシオロジ (社会学研究会) 49 (3). doi:10.14959/soshioroji.49.3_3.  関連項目[編集]

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秋田県道401号雄和仁別自転車道線 – Wikipedia

秋田県道401号雄和仁別自転車道線(あきたけんどう401ごう ゆうわにべつじてんしゃどうせん)は、秋田県秋田市を通る自転車道である[1]。通称は仁別サイクリングロードなど。 手形地区より北は仁別森林鉄道の廃線跡を利用しているが、主要道との重複区間などを除いて自然災害などで整備が行き届いていない。 路線データ[編集] 1968年(昭和43年)9月 – 仁別森林鉄道が全線撤去される。 1974年(昭和49年)5月30日 – 秋田県道に認定される[3]。 1978年(昭和53年)10月 – 自転車道として再整備され竣工。 路線状況[編集] 重複区間[編集] 重複区間延長 8.680 km[2] 仁別サイクリングロード(左) 区間解説[編集]

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アンドレス・ノシオーニ – Wikipedia

アンドレス・ノシオーニ(Andrés Nocioni)ことアンドレス・マルセロ・ノシオーニ(Andrés Marcelo Nocioni、1979年11月30日 – )は、アルゼンチン、サンタフェ州サンタフェ出身の元バスケットボール選手、アルゼンチン代表でも活躍した。ポジションはスモールフォワード、時折パワーフォワードとしてもプレイする。 国際試合[編集] ノシオーニは、1995-96シーズン、アルゼンチンのバスケットボールリーグでプロとしてのキャリアをはじめた。そして1998-99シーズンには最優秀6thマン(控えの選手)と呼ばれていた。1年後に彼はアルゼンチン代表チームに呼ばれて南米選手権で銀メダルを獲得した。 2001年、アルゼンチン代表チームでプレイし、南米選手権で優勝した。 2002年、アメリカのインディアナで行われたバスケットボール世界選手権でノシオーニのいたアルゼンチン代表はアメリカ合衆国を破る最初のチームとなった。チームは決勝で惜しくもユーゴスラビアに敗れ銀メダルを獲得した。 2003年、彼はスペインのチーム(サスキ・バスコニア、バスケット・マンレサ)に行き、そこで2シーズンを過ごした。 2004年にはスペインリーグのMVPとなった。そしてオリンピックではアルゼンチンを南米やラテンアメリカ勢としては初、世界中でもアメリカ、ユーゴスラビア、ソ連に次いで4番目の優勝国とした。 2006年のバスケットボール世界選手権ではアルゼンチンはノシオーニも含めて4人のNBAプレイヤーがいた。ベネズエラ戦で負傷したが、続くナイジェリア戦で18分で23得点、フィールドゴール9本全て成功、そのうち3ポイントシュート5本全て成功だった。アルゼンチンはノシオーニの活躍もあり予選リーグを5勝0敗で終えて、決勝トーナメントに進出した。その後アルゼンチンは準決勝でスペインに74-75で惜しくも敗れた。その試合最後、ノシオーニの放った3ポイントシュートが外れてしまった。その後、3位決定戦でアメリカと戦ったがアルゼンチンは81-96で敗れてしまった。チームメートのカーク・ハインリックと戦ったこの日18得点をあげた。 NBA[編集] 2011-12シーズン以降はリーガACBに復帰し、数々のタイトルを獲得。2017年6月17日、現役引退を表明した[1]。 国際大会[編集] 2004 アテネオリンピック金メダル(アルゼンチン代表) 2006 バスケットボール世界選手権4位

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ゆでたまご – Wikipedia

この項目では、キン肉マンなどで知られる漫画家コンビについて説明しています。その他の用法については「ゆでたまご (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ゆでたまごは、日本の漫画家ユニット。嶋田 隆司(しまだ たかし、本名同じ)と中井 義則(なかい よしのり、本名同じ)の合同ペンネーム。 ともに私立初芝高等学校卒業。10代で『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて連載デビュー。代表作には、『キン肉マン』『キン肉マンⅡ世』『闘将!!拉麵男』『ゆうれい小僧がやってきた!』などがある[1]。集英社との独占契約で約14年執筆した後、他社の雑誌でも活動している。2011年より『キン肉マン』の新シリーズを集英社のWebサイト『週プレNEWS』上で開始し、2022年現在同作を連載中。 設定の矛盾を気にしない展開と飛びぬけた発想を身上とする。特にプロレス・格闘技を題材としたギャグ漫画がメインである。 プロフィール[編集] 嶋田隆司[編集] 原作担当。1960年10月28日生まれ。大阪府大阪市西淀川区出身。1984年頃までは父方姓の金山 隆司(かねやま たかし)だったが、父親の死去を機に母方の「嶋田」に改姓。『キン肉マン』5話には新聞記事に「金山たかし逮捕」という小ネタが挿入されている。左利きであり、ゲスト出演した時代劇『必殺仕事人V』においては投球、食事(箸)も左で行っていた。『キン肉マン』は嶋田が中井に出会う前から大学ノートに描いていたものが元になっている。 映画の試写会などイベントや、インタビューなどメディアへの露出は嶋田のみであることが多い。単行本の著者近影でも遊んでいる写真がよく選ばれるなど、執筆以外の露出が多く、読者からは「仕事しないほうのゆで」などと揶揄されることがある[2]。 少年時代はやんちゃで、幼稚園では女の子にキスをせまるなどませた子供だったが[3]、近所の子供の寄り合いなどは嫌いだったという。その頃から絵を見ただけで作者の名前が分かったり、目をつぶってインクの匂いを嗅いだだけで雑誌名を特定したりと、相当の漫画好きであった。 高校では女の子目当てにデザイン科希望の中井を置いて商業科に入科したが、実際に入ってみると女子の入科は0人であった。そればかりか、尖った耳から不良生徒のいじめの対象になり、「宇宙人」と馬鹿にされ喧嘩に発展、電車で拉致されそうになったところ、停車の隙に「イエーイ!」と相手を挑発して逃げ帰ったというエピソードがある。報復を恐れて中退しようと一度は思ったが、我慢すれば通い続けられると母に説得されて学業を継続することにした。そうすると割と友達ができ、プロレスが好きな柔道部の友達がいじめから守ってくれるようになった[4]。 テレビ好きで、好きな番組は『プレイガール』。2007年12月8日に15歳年下の女性と結婚した。 2012年末、左太ももにインスタントラーメンをこぼし、火傷を負った。その際合併症を併発し、全治6か月の重症になった[5]。「火傷を甘く見ていた。引退も考えた」などとツイッター上で述べた。 中井義則[編集]

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