Month: December 2018

アイリッシュ・フルート – Wikipedia

アイリッシュ・フルート(英: Irish flute)は、19世紀初頭のクラシックのフルート(横笛)奏者に好まれた種類の円錐形ボア、単純なシステム(英語版)の木製横笛、あるいはその設計に由来する現代の楽器製造業者の横笛である(しばしば、アイルランド伝統音楽(英語版)、スコットランド伝統音楽、あるいはブルターニュ(英語版)およびその他のケルト諸語圏の音楽での使用に最適化するための改良が成されている)。伝統的なアイリッシュ・フルート奏者の大半は単純なシステムの木製フルートを使用する[1]。 アイルランドの全てのカウンティで演奏されているものの、アイリッシュ・フルートの中心地は、中西部のカウンティのロスコモン、リートリム、スライゴ、ファーマナ南部、ゴールウェイ東部、クレア、リムリック西部である[2]。 物理的特性[編集] (キイ無し)木製フルート アイリッシュ・フルートは、単純なシステムの横笛であり、音孔を連続的に塞ぐと全音階(長調)を奏でる。古典派時代のほとんどの笛(フルート)と現代に製造された笛の一部は、金属製のキイ(英語版)を使用し、半音階の調性を部分的または完全に得るための追加の音孔を備えている。単純なシステムのフルートは、木製の構造、特徴的なアンブシュア、直接的な(キイ無しの)運指のため、西洋のコンサートフルートとは明らかに異なる音色を持っている。ほとんどのアイリッシュフルート奏者は、クラシックフルート奏者と比較して、暗めで甲高い音色を求める傾向がある。Dの調性を持つものが最も一般的であるが、単純なシステムのフルートは他の調性でも演奏可能で、アイルランド音楽ではE♭、B♭、Cの調でしばしば演奏される。Dフルートと呼ばれるものの、これは非移調楽器なので、運指表のCの指で押さえるとコンサートピッチのCが鳴る。Dフルートの名前の由来は、最も単純な6つの孔を持つ木製フルートがDを最低音とし、クロスフィンガリングを使わずにDの音階を演奏することに由来する。E♭、B♭、C版は移調楽器である。 アイリッシュ・フルートは6つの主孔を持つ。Dフルート(最も一般的な種類)で、塞がれた指孔をX、開いている指孔をOの記号で表わすと、全ての孔を塞いだ状態(それぞれの手で3本の指)はXXX-XXX = Dと表わすことができる。音階は、XXX-XXO = E、XXX-XOO = F♯、XXX-OOO = G、XXO-OOO = A、XOO-OOO = B、OOO-OOO

Continue reading

ウーマン ラブ ウーマン – Wikipedia

ウーマン ラブ ウーマン If These Walls Could Talk 2 監督 ジェーン・アンダーソン (1961)マーサ・クーリッジ (1972)アン・ヘッシュ (2000) 脚本 ジェーン・アンダーソン (1961)シルヴィア・シシェル(1972)アレックス・シシェル(1972)アン・ヘッシュ (2000) 製作 メアリー・ケイン

Continue reading

ラ・バタイユ (クロード・ファレールの小説) – Wikipedia

『ラ・バタイユ』(フランス語: La Bataille)は、1909年に出版されたクロード・ファレールの小説である。1905年における日露戦争を題材にしている。1991年に葦書房から出版された野口錚一訳はフランス語の「La Bataille」が日本語に訳され『戦闘』(せんとう)という題名になっている。 ジャン=フランソワ・フェルゼはエレガントな50代の有名画家で、ベッツィ・ホックリイ夫人のヨットで旅をしている。この美しく裕福なアメリカ人を愛しているが、彼は召使い扱いされている。日本の長崎に寄港した際に、彼は侯爵ヨリサカの若い妻ミツコの肖像画を描くことになった。この大日本帝国海軍の若い海軍将校は肖像画を軍艦「日光」に積み込んで行きたかったのである。ヨーロッパ人のように生活し、西洋の近代技術の訓練を受け、西洋の秘密を学ぶことに熱心なヨリサカは、イギリス海軍連絡将校の(また、ミツコに密かに恋している)ハーバート・フェアガンと親しい友人関係にあった。他方で、日本海軍将校の子爵ヒラタは西洋の影響を受け入れることに慎重であった。伝統と現代性、先祖代々の名誉の規範への忠実さ、そして進歩の必要性、登場人物は、その運命の重要な転換点にある日本を象徴している。1905年、ロシア艦隊は日本列島の沖合に現れる。戦闘が勃発、ミツコは威厳のある戦いの結果を待っている。 『ラ・バタイユ』高橋邦太郎訳 世界大衆文学全集 第57巻 改造社 1930年 『戦闘』野口錚一訳 葦書房 1991年 関連作品[編集] 演劇 1921年、小説と同名でピエール・フロンデェ(Pierre Frondaie)によって舞台化され、テアトル・アントワーヌ(théâtre Antoine)で上演、フィルマン・ジェミエ(Firmin Gémier)とシャルル・ボワイエが出演。 映画 ミツコと香水について[編集] 1919年に製作されたゲラン社の香水「Mitsouko」は小説のヒロインの名前にちなんで命名された。クロード・ファレールは製作者ジャック・ゲラン(Jacques

Continue reading

コロンビア (防護巡洋艦) – Wikipedia

コロンビア (USS Columbia, C-12/CA-16) は、アメリカ海軍の防護巡洋艦。コロンビア級防護巡洋艦の1番艦。艦名はサウスカロライナ州コロンビアに因む。その名を持つ艦としては4隻目。 コロンビアはペンシルベニア州フィラデルフィアのクランプ造船所で建造される。当初は三本の煙突で設計されたが、コロンビアは建造途中に四本となり、姉妹艦のミネアポリス (USS Minneapolis, C-13) は二本に変更された。1892年7月26日にH・モートンにより進水し、1894年4月23日に艦長G・W・サムナー大佐の指揮下就役する。 コロンビアは北大西洋戦隊に配属され、1894年7月30日から1895年1月5日までカリブ海でのアメリカ合衆国の権益を保護するために巡航した。1895年の夏にヨーロッパを訪れ、6月にはキール運河の開通式にアメリカ合衆国代表として参加した。8月に東海岸に帰還し、西大西洋での作戦活動に従事、1897年5月13日にフィラデルフィア海軍工廠で予備役となる。 1898年3月15日に再就役したコロンビアは、米西戦争では大西洋岸沿いおよび西インド諸島で偵察を行う。7月から8月14日まで行われたプエルトリコ占領では上陸部隊の警護を行う。コロンビアは1899年3月31日にフィラデルフィア海軍工廠で再び予備役となる。 1902年8月31日に再就役し、ニューヨークで訓練艦として1903年11月9日に大西洋訓練戦隊に加わる。1907年5月3日に予備役となるが、1915年6月22日に潜水小艦隊に旗艦として加わる。大西洋の様々な潜水艦基地を巡航、視察した後、1917年4月19日にその任を離れる。 コロンビアはデラウェア防波堤沖を第5偵察戦隊の旗艦として1917年4月21日から7月まで偵察巡航し、その後船団護衛として巡洋艦隊に合流する。1918年1月1日から11月13日までの間にコロンビアは5度の大西洋巡航を行い、フランスへのアメリカ軍海外派遣軍の兵員、物資輸送を護衛する。1919年1月7日にその任を離れ、大西洋艦隊駆逐艦部隊第2戦隊の旗艦となり、東海岸沿い及びカリブ海で作戦活動に従事する。5月29日に旗艦の任を離れ、1921年6月29日にフィラデルフィア海軍工廠で退役するまで、巡航を続けた。 コロンビアは1920年7月17日に CA-16 (装甲巡洋艦)に艦種変更され、1921年11月17日にオールド・コロンビア (Old Columbia) と改名された。その後1922年1月26日に売却された。

Continue reading

秦野市観光協会 – Wikipedia

一般社団法人 秦野市観光協会(はだのしかんこうきょうかい)は、神奈川県秦野市に事務局を置く観光協会[1]。 秦野市の観光行政を補完する団体である。2008年の市との協定により、協会は以下の業務を担当することになっている[2]。 観光案内業務の充実 観光情報の収集及び提供 観光宣伝及び観光客の誘致 観光資源の活用及び発信 観光行事の開催及び助成 観光関連物産の販売 この地域の観光協会設立は1951年(昭和26年)初めに大秦野観光協会が設立されたことに遡る。設立は弘法山と鶴巻温泉が県と神奈川新聞社が選ぶ「神奈川新八景」に決定した翌年で、秦野町を中心に周辺自治体も対象とした広域的な組織であった。1952年(昭和27年)秋には観光協会によりヤビツ峠に山小屋「ヤビツ山荘」が建てられた[注釈 1]。この山荘は丹沢の山小屋の中でも古い部類に属する[3]。合併して秦野市となった後、協会は秦野市観光協会と改称した[4]。 協会の位置付けは市の観光行政を補完する任意団体であり、設立以降、会長を市長が兼務するほか、要職を市職員が務めていた[注釈 2]。しかし市長の古谷義幸が会長職を民間に譲りたいとの意向を表明、2007年5月には民間から公募した会長が就任した[6]。これを機に協会を市から独立させる動きが進められ、2007年12月にはそれまで市庁舎内にあった事務所が市の敷地に出店したファミリーマートの店内に移された。2009年7月には任意団体から一般社団法人に移行した[7]。法人格の取得で多様な事業展開が可能となったことから、2009年10月には秦野のPRキャラクター「丹沢はだの三兄弟」の次男、のぼる君が店主という名目で、協会直営のネットショップを開設した[8][9]。取り組みが評価され、2012年には県主催の「第3回かながわ観光大賞」で審査委員特別賞に選ばれた[10]。 2015年(平成27年)9月22日に小田急電鉄秦野駅構内に観光案内所を移設、市内のイベントや登山関連の情報、観光情報などを案内している[1][11][12][13]。英語やスペイン語での対応が可能なスタッフのほか、都内のホテル不足で中国人観光客が宿泊場所を求めて秦野市を訪れる例が目立つことから、これらの観光客を地元観光に誘導するため、在日中国人学生も採用した[14]。この観光案内所は、開設後約5箇月間で4000件を超える対応実績をあげている[15]。 事務所は秦野市役所西庁舎前の敷地に建つファミリーマートに併設されている。店舗の裏口にあたる位置に事務所の入口がある。奥には東庁舎が見える。 事務所は秦野市役所の敷地内に出店したファミリーマートの建物に併設されている[16]。ファミリーマートでは観光協会推奨品の販売を行っており[17]、開店翌年の2008年には566万円の売り上げを記録している[18]。建物はファミリーマート側の所有であり、観光協会は家賃を支払っている[19]。 2010年、協会が作製した翌2011年のカレンダーに多数の誤りが発見され、市が3000部を作り直し、交換または返金で対応することになった[20]。結局誤りは64箇所もあることが確認され、市観光課が間違った情報を協会に提供したのが原因として、市の部課長が戒告処分を受けた[21]。 注釈[編集] ^ 秦野市史は山荘建設を秦野市観光協会によるものとするが、この時点では秦野市はまだ成立していない。

Continue reading

宮田重文 – Wikipedia

宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月17日[1] – 1973年(昭和48年)12月6日[2][3])は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員、茨城県久慈郡太田町長、常陸太田市長、同名誉市民[1]。旧姓・立川。 茨城県[2][3]久慈郡太田町(現常陸太田市)で、立川義之[注 1]の三男として生まれる[4]。茨城県立太田中学校(現茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)を経て[4]、1921年(大正10年)早稲田大学政治経済科を卒業した[1][2][3][4]。 1921年、明治屋に入社し、1926年(大正15年)に丸の内支店次長[2]で退職して帰郷した[4]。書籍・学用品販売業の宮田家の養子となった[4]。茨城新聞社に入社し、営業局外交部長に就任[4]。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙に大学の恩師五来欣造が茨城県第2区から立候補した際に、選挙事務長を務めたが五来は落選した[4]。 1933年(昭和8年)4月、太田町会議員に就任し1947年(昭和22年)まで在任[1][4]。同年、太田町長に選出され、茨城県町村長会副会長、同商工会名誉会頭、同食糧調達委員、同開拓委員会委員、同町村会長、全国町村会常任理事、同国民健康保険団体連合会理事長、済生会茨城県支部会長なども務めた[1][2][4]。1950年(昭和25年)9月に参議院議員柴田政次が死去し、翌月実施された第1回参議院議員通常選挙・茨城県地方区補欠選挙に町長を辞して日本自由党公認で出馬して当選[1][2][3][4][5]。第4次吉田内閣・首都建設政務次官などを務めた[2][3][4]。1953年(昭和28年)4月の第3回通常選挙では、自由党茨城県連と公認について問題がおこり、最終的に宮田が公認されて再選を果たし[4][5]、参議院議員に連続2期在任した[2][3]。自由党副幹事長、参議院内閣委員会理事、自由民主党副幹事長、参議院逓信委員長などを務め[1][2][3][4]、橋本登美三郎らと国際電信電話(KDD)の設立に尽力した[4]。1959年(昭和34年)6月の第5回通常選挙に立候補したが落選した[6][注 2]。 1962年(昭和37年)11月28日、常陸太田市長に就任[1][4]。上下水道の整備など市民の生活環境の向上、福祉の充実などに尽力し、3期在任し市長在任中の1973年12月に死去した[1][4]。この間、全国防災協会副会長、茨城県市長会長などを務めた[1]。その他、太田水道社長、関東住宅社長、早稲田大学商議員などに在任した[2][3]。 注釈[編集] ^ 馬場村などの連合戸長を務めた。『茨城の国会議員列伝』143頁。 ^ 『茨城の国会議員列伝』145頁では不出馬としている。 出典[編集] ^ a b

Continue reading

ウォルター・ミティの秘密の生活 – Wikipedia

『ウォルター・ミティの秘密の生活』(ウォルター・ミティのひみつのせいかつ、The Secret Life of Walter Mitty)は、ジェームズ・サーバーによる1939年の短編小説であり、サーバーの作品の中で最も有名なものである[1]。邦訳タイトルは、本作を原作とする映画のタイトルより『虹をつかむ男』とされることもある[2]。 『ザ・ニューヨーカー』誌の1939年3月18日号に掲載されたのが初出で、1942年の短編集『My World — And Welcome To It』に収録された[3]。その後、1996年の選集『James Thurber: Writings and Drawings』に再録されたほか、『ザ・ニューヨーカー』誌のウェブサイトでも入手可能である[4]。この作品は、サーバーの「認められた傑作」の一つとされている[5]。 1947年にダニー・ケイの主演で映画化されたが、内容は原作と大きく異なる。2013年にも映画化されたが、これは1947年の映画のリメイクであり、こちらも原作とは大きく異なっている。映画化作品のタイトルは、原語では全て原作と同じThe Secret Life

Continue reading

アインシュタインテンソル – Wikipedia

原文と比べた結果、この記事には多数(少なくとも5個以上)の誤訳があることが判明しています。情報の利用には注意してください。正確な表現に改訳できる方を求めています。 微分幾何学において、アインシュタインテンソル(Einstein tensor)(アルベルト・アインシュタインの名前に因んでいて、逆トレースリッチテンソルとしても知られている)は、擬リーマン多様体の曲率を表現することに使われる。アインシュタインテンソルは一般相対論において基本的な物理量であり、その基礎方程式であるアインシュタイン方程式に現れる。これは、エネルギー・運動量の保存則と整合するように時空の曲率を用いて重力を記述するものである。 アインシュタインテンソル G{displaystyle mathbf {G} } は、擬リーマン多様体上に定義されたランク 2 のテンソルであり、添字のない記法では、 G=R−12gR,{displaystyle mathbf {G} =mathbf {R} -{frac {1}{2}}mathbf {g} R,}

Continue reading

リョウメンシダ – Wikipedia

リョウメンシダ リョウメンシダ 分類 学名 Arachniodes standishii (T.Moore) Ohwi 英名 upside-down fern リョウメンシダ Arachniodes standishii は、オシダ科カナワラビ属のシダ植物である。軟らかくて細かく裂けた葉を付け、その葉の裏表が判然としない感じがある。 常緑性の多年生草本[1]。根茎は太くて鱗片が多く、短く横に這う。葉は束のように生じ、葉柄は長さ20-40cm、基部には線状披針形の鱗片が密生するが、上部では線形のものがまばらにあるだけである。鱗片はいずれも縁が滑らかで淡褐色、大きいものでは長さ2cmに達する。細い線状の鱗片は葉柄上部から羽軸にかけてもまばらに着く[2]。 葉身は3回から4回羽状複葉的に裂ける。全体の形は長卵状広披針形で先端は急に狭まって突き出して尖り、基部は円形から心形、長さ40-65cm、幅15-30cm。小羽片は長楕円形で先端は尖るか鈍い。二次小羽片は広楕円形で先端は尖り、柄はないか短い柄があって長さ0.5-1cm、幅2-5mm、縁には鋸歯がある。葉質は紙質で淡緑色で、胞子嚢群を付けない部分では表面、裏面の様子が同じように見える。 胞子嚢群は葉脈の先端に生じ、葉身の下部の中央付近から外側に向けて順に生じ、裂片の中肋寄りに位置する。包膜は大きくて円腎形で縁は滑らか、時に毛を有する例がある。胞子嚢群は秋から冬に熟する[3]。これも本種の特徴とされる。胞子には葉緑体を含むので、緑色に見える。これは、カナワラビ属の中では本種だけに見られる特徴である[4]。 裏面・胞子嚢群の様子 和名について[編集]

Continue reading

ベルナール・テブネ – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “ベルナール・テブネ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年7月) ベルナール・テブネ ベルナール・テブネ(Bernard Thévenet。1948年1月10日- )はフランス・ソーヌ=エ=ロワール県のサンジュリアン・ド・シヴリ出身の元自転車競技選手。1975年、1977年のツール・ド・フランス総合優勝者である。もみあげが長い風貌が特徴の選手でもあった。 1968年、ルート・ド・フランス、フランス国内ジュニア選手権優勝。1970年にプロに転向し、プジョーのメンバーとなる。その年、後に2回の総合優勝を果たすことになるツール・ド・フランスにも出場し、区間1勝を挙げる。 1972年、ツール・ド・ロマンディ優勝。しかしその年のツールで落車した際、打ち所が悪く一時的に健忘症の状態に陥る。チームとしてはテブネにリタイアを勧めたが断固拒否。それどころか後に行われた、過酷なコースとして名高いモン・ヴァントゥの区間を見事優勝する。1973年のツールでは、ルイス・オカーニャに15分以上の差こそつけられたものの総合2位。しかし1974年のツールは病気のため出場できなかった。 1975年はドーフィネ・リベレを優勝したが、何といっても最大のハイライトはこの年のツールだった。史上最多の6度目の総合優勝を狙うエディ・メルクスが第15ステージのイゾアール峠(標高:2361m)付近で、慢性腰背痛と観客からパンチを浴びせられたことに起因する体調面の不良がもとで、何度かアタックをかけるも徐々に失速。一方、このステージを制したテブネがメルクスからマイヨ・ジョーヌを奪い取った。テブネは続く第16ステージでもメルクスに3分近い差をつけて連続区間優勝を果たし、その後もメルクスの追撃を許さず、悲願のツール・ド・フランス総合優勝を果たした。そしてこの大会はまた、メルクスの黄金時代に事実上終止符が打たれた大会ともなった。 1976年はドーフィネ・リベレ連覇を果たすもツールは途中棄権。しかし捲土重来を期した1977年のツールでは、ハニー・クイパー、ルシアン・バンインプらと激しく競り合い、最後はクイパーとの一騎討ちとなったが、48秒差という僅差ながらも最終ステージ前半の個人タイムトライアルでクイパーとの決着をつけ、2度目のツール総合優勝を果たした。一方、77年のパリ~ニースにおいてドーピングの陽性反応が出た。また、この年の冬にテブネは入院を余儀なくされたが、長期間に亘ってステロイド剤を服用していたと見られる症状が確認された。 その後のテブネの成績は今ひとつ。1980年に移籍したテカ時代に、グルノーブル6日間レースでダニー・クラークと組んで優勝した程度。ロードレースではさしたる結果を残すことはできず、1981年に引退した。その後はRMOチームの監督も歴任したが、現在はテレビ・雑誌等の評論活動を中心に、グルノーブル6日間レースの運営委員も務めている。 外部リンク[編集]

Continue reading