Month: December 2018

ヴィルヘルム・グリーゼ – Wikipedia

ヴィルヘルム・グリーゼ(Wilhelm Gliese, 1915年6月21日 – 1993年6月12日)は、ドイツの天文学者である。 生涯 現在はポーランド領になっているシレジアのゴルトベルク(Goldberg / ズウォトリヤ(英語版))に生まれた。1933年からブレスラウ大学で天文学、数学、物理学の研究を始め、後に仕事と兵役で中断されるまで、ベルリン大学で研究を続けた[1]。当時ベルリンのダーレム区にあった天文計算研究所 (Astronomisches Rechen-Institut) の局長だったアウグスト・コプフは、1940年6月28日に基本星表第3版のデータから太陽の固有運動と銀河の回転について精査することを決めたが、その頃グリーゼは既にベルリンの陸軍の事務所で弾道計算の専門家として働いていた[1]。グリーゼは、1942年3月23日にドイツ国防軍から招集を受けて東部戦線に送られた[1]。1945年2月16日にポズナニの北でソ連軍の捕虜となり、ようやく帰還できたのは1949年9月11日のことだった[1]。この10年ほどの間、彼は科学者としての活動ができなかったが、科学への熱意は衰えることはなかった[1]。捕虜となっている間も科学についての講義を行い、また道具なしで変光星の光度変化の観測を行った[1]。彼は観測記録をタバコのスリーブに記録して密かに持ち帰り、1950年に雑誌「Die Sterne」で発表した[1]。 既に1943年3月1日に名目上は天文計算研究所に雇われていたグリーゼは、帰国後して間もない1949年10月にハイデルベルクに移転した天文計算研究所に観測助手として再雇用され、1957年には観測者、1965年には主任観測者となった[1]。1954年までは天文年鑑の編集に携わり、1957年から引退する1980年まで基本星表 (FK4、FK5) の編集に携わった[1]。 1951年7月9日、グリーゼはピーター・ファンデカンプから太陽系近傍の恒星の取り扱いに関して提案を受け、近傍恒星の星表の作成に着手した。これは、グリーゼ近傍恒星カタログ (Catalogue of Nearby

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須永和男 – Wikipedia

須永 和男(すなが かずお、1957年8月11日[1] – )は、日本の外交官。防衛省防衛政策局次長、ASEAN政府代表部特命全権大使等を経て、駐カタール特命全権大使。 目次 1 人物・経歴 2 同期入省 3 脚注 4 外部リンク 人物・経歴[編集] 群馬県みどり市出身[2]。1980年に一橋大学法学部を卒業し、外務省に入省する。1997年外務省北米局日米安全保障条約課企画官、1998年外務省経済局国際エネルギー課長。日米安全保障条約課企画官時代は、鳥島射爆撃場劣化ウラン弾事件現地調査団キャップとして、環境影響評価を行った[3]。 2000年内閣官房安全保障・危機管理室内閣審議官。内閣官房情報セキュリティ対策推進室副室長を経て、2002年外務省経済協力局調査計画課長、2003年コロンビア大学国際公共政策大学院(SIPA)プロフェッショナルフェロー兼ニューヨーク領事、2004年国連公使、2007年在アラブ首長国連邦公使[4][5]。 2009年外務省官房参事官兼国際協力局、南アジア部、2010年外務省官房参事官兼国際協力局、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)日本準備事務局事務局長、2010年外務省大臣官房審議官兼国際協力局、2011年防衛書記官・防衛省防衛政策局次長、2013年4月アトランタ総領事。2016年2月11日付で東南アジア諸国連合日本政府代表部特命全権大使[6][7]。2019年駐カタール特命全権大使[8]、2021年11月5日同依願免官[9]。 同期入省[編集] 末松義規(12年内閣府副大臣・96年衆議院議員)

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天使が消えた街 (テレビドラマ) – Wikipedia

『天使が消えた街』(てんしがきえたまち)は、2000年4月12日[1]から同年6月28日まで日本テレビ系列の「水曜ドラマ」枠で放送されたテレビドラマ。主演は堂本光一[1]。平均視聴率は14.6%。 自閉症の兄を演じる藤井フミヤは、出演依頼を受けた時はかなり悩んだものの、実際に自閉症の子供たちが学ぶ学校を訪れて交流し、役作りをして撮影に臨んだ[2]。 2013年現在、VHSは発売されているがDVDは未発売。 あらすじ[編集] 資本家による利益独占、社会格差が開くなか青年が、自閉症の兄と暮らしながら‘生きる意味’を探し続け成長していく姿を描く。 友人の借金を肩代わりし、借金返済のため殴られ屋を営む達郎は、突然腹違いで自閉症の兄・輝の存在を知らされる。輝を兄だと認めたくない達郎だったが、住み込みで働いていた工場が倒産し、引き取り手がいない輝を、一晩だけ自分の部屋に泊めることに。だが、輝はベッドの位置から歯磨き粉の味まで生活習慣に徹底的なこだわりを持ち、達郎は終始振り回されっぱなし。そんな輝を放り出そうとした達郎は、常連客でカウンセラーの京子に相談を持ち掛ける。 キャスト[編集] 高野 達郎〈22〉 演 – 堂本光一(幼少期:小南凱) 友人の借金を肩代わりし、殴られ屋として稼いだ金で返済している。性格は、ぶっきら棒。だが、輝と暮らしていくうちに、生きることの本当の意味を知っていく。 高野 輝〈35〉 演 – 藤井フミヤ 達郎の異母兄で自閉症を患っている。親に捨てられ、身寄りは達郎のみ。基本的には無口だが、こだわったことができると、何度も繰り返して喋る。指先が器用で、記憶力、画才にも恵まれている。 吉井

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スズキ・ソリオ – Wikipedia

ソリオ(SOLIO)は、スズキが製造・販売するコンパクトトールワゴン。 本項ではソリオの前身ブランドにあたるワゴンRワイド(WAGON R WIDE)、ワゴンR+(プラス、WAGON R +)、ワゴンRソリオ(WAGON R SOLIO)についても記述する。 1997年に、軽トールワゴン「ワゴンR」のボディパネルを流用しつつ、全長・全幅をひと回り拡大し1.0Lエンジンを搭載した小型乗用車登録のコンパクトカーとして「ワゴンRワイド」の販売を開始。1999年のフルモデルチェンジ時に「ワゴンR+(プラス)」に名称変更し、さらに2000年12月の改良時に名称を「ワゴンRソリオ」に変更、「ソリオ」というネーミングを初めて採用。その後、2005年8月の改良時に「ワゴンR」の名が取れ、単に「ソリオ」という名称に再度変更している。また、2000年9月にはゼネラルモーターズにOEM供給を実施。「シボレー・MW」として販売が行われた。 2010年12月に発売された(ソリオとしての)2代目はスライドドアを含めたサイドドア4枚をパレットから流用(前ドアサッシは異なる)するものの、内外装の殆どが新規設計となり、メカニズムを3代目スイフトと共用したことで、商品性を向上。その後、歴代ソリオで初の派生モデル「ソリオ バンディット(SOLIO BANDIT)」が追加された。また、2011年より三菱自動車工業へのOEM供給が開始され、「デリカD:2」として販売が行われた。 2015年8月に発売された3代目は、ガソリン車に加え歴代初となるマイルドハイブリッド車を新設。2016年11月にはハイブリッド車も追加され、3種類のパワートレインが選択できるようになった。 ワゴンRワイド(MA61S/MB61S型)(1997年-1999年)[編集] 年表[編集] 初代ワゴンR[注 1]をベースとして、エンジンは全て1,000ccのK10A型を搭載し、自然吸気仕様とリッターあたり100psを誇るインタークーラーターボ仕様があった。内装は専用品を用いておりワゴンRと違い2DINオーディオや蛍光管デジタルクロックが装備可能であった。 1997年2月 – 「ワゴンRワイド」として発売。

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ジョン (イングランド王) – Wikipedia

この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2021年3月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。 英語版記事の機械翻訳されたバージョンを表示します(各言語から日本語へ)。 翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いることは有益ですが、翻訳者は機械翻訳をそのままコピー・アンド・ペーストを行うのではなく、必要に応じて誤りを訂正し正確な翻訳にする必要があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|John, King of England}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。 ジョン(John, King of England、1166年12月24日 – 1216年10月18日または19日)は、プランタジネット朝(アンジュー朝)第3代イングランド王(在位:1199年 – 1216年)。同朝の初代王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの末子。異父姉にマリー、アリックス、同父母の兄弟姉妹では兄にウィリアム、若ヘンリー王、リチャード1世、ジェフリー、姉にマティルダ、エレノア、ジョーンがいる。 通称は欠地王または失地王(John

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沖縄都市モノレール線 – Wikipedia

駅・施設・接続路線 沖縄都市モノレール線(おきなわとしモノレールせん)は、沖縄県那覇市の那覇空港駅と浦添市のてだこ浦西駅を結ぶ沖縄都市モノレールのモノレール路線である。全線が軌道法による軌道として建設されている。愛称は「ゆいレール」で、「ゆい」は琉球方言の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたものである。2022年2月現在「沖縄県内で現存している唯一の鉄道路線」である[注釈 1]。 沖縄都市モノレール線「ゆいレール」は、沖縄本島の玄関口である那覇空港から赤嶺経由で漫湖を渡って旭橋に抜け、旭橋からは久茂地川沿いに那覇市の繁華街である久茂地・牧志地区を抜けて国際通りを跨ぎ、国道330号を北上して古島からは環状2号線を上りてだこ浦西に至る全長約17.0 kmの跨座式のモノレール線である。この約17.0 kmの区間をワンマン運転の2両編成の車両が約40分かけて走る。 那覇空港駅 – 首里駅間は2003年8月10日[2]、首里駅 – てだこ浦西駅間は2019年10月1日に開業した[3]。沖縄県の交通手段は自家用車・タクシー・バスが中心であり、特に那覇都市圏では渋滞が悪化していた。そこで、国、沖縄県、那覇市と沖縄都市モノレール株式会社が一体となって建設を行い、沖縄では戦後初の鉄道開通となった。当初の世論では、前記の「クルマ社会」という見方から、実際に利用されるかどうかの懸念があったが、いざ開業してみると、渋滞に巻き込まれないために時間が正確であることと、高所を走るという特性のために眺望がよく、モノレール自体が観光施設となったため、この懸念は杞憂に終わった[4]。眺望のために人気を集めるという点は東京モノレール羽田空港線と同様である[5][6]。切符の購入や自動改札機の通り方に慣れない利用客向けに、沖縄都市モノレールのホームページでは「利用ガイド」として乗車方法を詳説している。 開業翌年の2004年に「沖縄都市モノレールの整備と総合的戦略的な都市整備計画」が日本都市計画学会の最高賞である石川賞を受賞した。受賞対象者は、沖縄県、那覇市および沖縄県都市モノレール建設促進協議会である。 全線で列車運行管理システムを導入している。 古島駅から約57‰の上り坂が続く。最急勾配は儀保駅 – 首里駅間の60‰である。 2019年5月24日、沖縄都市モノレールは那覇市の本社で記者会見し、利用者の利便性向上と券売機前の混雑解消を目的に「Suica」などの全国相互利用交通系ICカードを2020年春に運賃支払いに利用できるようにすると発表した[7]。2020年3月10日より利用可能となり、引き続き「OKICA」も利用可能である[8][9][10]。 路線データ[編集] 運行形態[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “沖縄都市モノレール線” – ニュース · 書籍 · スカラー ·

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小田急バス狛江営業所 – Wikipedia

小田急バス狛江営業所(おだきゅうバスこまええいぎょうしょ)は、東京都狛江市中和泉5丁目17-23にある、小田急バスの営業所である。営業所の略号は「D」。狛江通りに面して立地する。最寄りバス停留所名は「狛江営業所」。狛江駅・調布駅南口・成城学園前駅を主な拠点とする。東京都区部と多摩地域の都区内均一運賃地区を受け持ち、狛江市をはじめ、調布市、武蔵野市、三鷹市、世田谷区、渋谷区の路線を担当し、運行エリアは幅広い。世田谷区、調布市、狛江市のコミュニティバスも運行受託している。 成城学園前駅に整備された西口バス停と成城コルティ。東急バスと共用する 1960年10月 – 周辺地域の都市化・路線網の拡大に伴い、それまでの担当であった若林営業所(当時) から狛江町(当時)・調布市・川崎市北部の路線を移管し、狛江営業所が開設される。 1967年3月 – 稲城町(当時)・川崎市北部の路線を生田営業所の開設に伴い移管する。 1997年頃 – 小田急線和泉多摩川駅~喜多見駅間の高架化により、狛江駅付近の踏切の廃止、狛江駅前ロータリーの整備が進められ、狛江駅を経由・発着する路線について路線の変更がされる。 1999年 – 成城学園 – 烏山地区で、世田谷区コミュニティバスの実験運行開始[1]。 2001年 – 世田谷区コミュニティバス南北路線(成06系統)運行開始[1]。専用車両として小田急バス初の小型CNG車(三菱ふそう・エアロミディMJ、D553・D554)を導入[1]。

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スクリーム・クイーンズ – Wikipedia

『スクリーム・クイーンズ』(原題:Scream Queens)は、アメリカ合衆国のFoxで放送されたテレビドラマである[1][2]。 2015年9月22日より放送を開始。2016年12月20日に第2シーズンの最終回が放送されたが、第3シーズンの制作を行わないことが2017年5月に発表された[3]。 本作は、名門ウォレス大学の社交クラブ「KKT」のメンバーたちが、大学のマスコットに扮して殺人を行う「赤い悪魔」と呼ばれる殺人鬼と立ち向かう様子を描いている[4]。 キャラクターとキャスト[編集] レギュラー・キャラクター[編集] シャネル・オーバリン 演 – エマ・ロバーツ、日本語吹替 – 沢城みゆき 大学の社交クラブ「KKT」の現会長。金持ちの娘で自己中かつ高飛車な性格。“シャネル〇番”と呼ばれる取り巻きたちを常に従えている。 グレース・ガードナー 演 – スカイラー・サミュエルズ(英語版)、日本語吹替 – 折井あゆみ 「KKT」の見習い会員。母とは幼い頃に死別しており、自分の出生の秘密を知るために「KKT」に入会した。

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ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群 – Wikipedia

ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群(ウラジーミルとスーズダリのはくあのけんぞうぶつぐん)は、ロシア・ヴラジーミル州の古都ウラジーミルおよびスーズダリを中心に点在する聖堂・修道院・城塞など八つの記念碑的建造物群で、大理石で造られ精巧な浮彫が施された白亜の外壁を特徴としている。1992年にユネスコの世界遺産に登録された。 モスクワの北東の一帯(ザリエーシェ地方、Zalesye)はオカ川流域の低地で深い森林が広がっており、古代ルーシの中心であるドニエプル川流域のキエフ大公国および北方のノヴゴロド公国からは隔たった辺境であった。しかしこの地方は河川を通じてヴォルガ川・ドニエプル川・ネヴァ川水系とつながっており東西南北との交易がしやすく、土地も肥沃で、深い森林によりテュルク系の遊牧民族の襲撃から守られていたため、ドニエプル川流域からの住民の移住が相次いだ(スラヴ民族の北東ルーシへの移動)。 12世紀にはロストフやスーズダリを中心にウラジーミル・スーズダリ大公国が確立した。ザリエーシェ地方は中世のルーシの政治および宗教の中心地となり、ロシアという国家の形成に大きな役割を果たしている。木造建築を伝統的に作ってきたルーシにおいて、この時期に白亜の聖堂や修道院などの石造建築が作られるようになった。13世紀半ばのモンゴルのルーシ侵入によりウラジーミルもスーズダリも破壊され、以後モンゴル支配下では長らく石造の聖堂の建設は滞ることになり、またルーシの主導権はモスクワやトヴェリなどの諸公国に、あるいはリトアニア大公国などに移った。しかしモンゴル侵入以前の建築の一部は現在まで各地に残っている。「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」は、ウラジーミル・スーズダリ大公国の全盛期である12世紀から13世紀にかけての宗教建築・要塞建築で、ルーシにおけるビザンティン建築、中世ロシア建築の好例になっている。 登録された建築の一覧[編集] その他関連する建築[編集] 世界遺産に登録はされていないが、ザリエーシェ地方には他にも同じ時期の白亜の聖堂建築が多数ある(黄金の環も参照)。 世界遺産登録基準[編集] この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。 (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。 (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。 (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。 ギャラリー[編集] 外部リンク[編集]

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東濃鉄道モハ110形電車 – Wikipedia

東濃鉄道モハ110形電車(とうのうてつどうモハ110がたでんしゃ)は、東濃鉄道が同社駄知線にて運用する目的で導入した電車(制御電動車)である。 編成を組成する制御車クハ210形ともども、西武鉄道より同社モハ151形・クハ1151形を譲り受けたもので、1964年(昭和39年)と1966年(昭和41年)の2度にわたって、モハ110形111・112およびクハ210形211・212の計4両が導入され、2両編成2本を組成し運用された。 1974年(昭和49年)10月の駄知線全線廃止後は、総武流山電鉄(現・流鉄)と名古屋鉄道(名鉄)へ各1編成ずつ譲渡され、総武流山鉄道譲渡車両はモハ1000形・クハ50形、名鉄譲渡車両は3790系の形式がそれぞれ付与された。譲渡先においては、前者は1988年(昭和63年)まで、後者は1985年(昭和60年)まで、それぞれ運用された。 以下、本項ではモハ110形およびクハ210形の両形式について、東濃鉄道在籍当時から譲渡先における動向まで詳述する。 導入経緯[編集] 開通当初は非電化路線であった駄知線は1948年(昭和23年)7月に直流1,500 V規格にて電化され、同時に本数増発と所要時分の大幅な短縮が実現した[5]。電化完成による利便性向上に伴って輸送人員は年々増加し、1960年代には一日平均の輸送人員が10,000人を突破した[5]。 そのため、従来保有した電車(モハ100形・クハ200形)のみでは輸送力不足が懸念されたことから、東濃鉄道は車両増備による駄知線の輸送力増強を計画[3]、同時期に西武鉄道にて余剰となったモハ151形・クハ1151形を譲り受け導入した[6]。西武モハ151形・クハ1151形は、現・西武鉄道の前身事業者の一つである旧・西武鉄道が、同社路線の電化開業に際して1927年(昭和2年)から翌1928年(昭和3年)にかけて導入した車両群で[2]、昭和初期に川崎造船所(現・川崎重工業)が日本国内の私鉄各社に納入した、深い屋根と広い腰板部を特徴とする全鋼製車体の電車、いわゆる「川崎造船形(川造形)」の一形式に数えられる車両である[7]。 1964年(昭和39年)4月にモハ155-クハ1156、1966年(昭和41年)10月にクモハ152[* 2]-クハ1151の計2編成4両が西武鉄道より譲渡され[2]、前者はモハ110形111-クハ210形211(以下「111編成」)、後者はモハ110形112-クハ210形212(以下「112編成」)の形式・記号番号をそれぞれ付与された[2]。導入に際しては、西武所沢車両工場において車体各部の補修のほか[9]、各部の仕様を東濃鉄道仕様に合わせる改造が施工され、特に制御電動車モハ110形はパンタグラフを従来の先頭寄りから連結面へ移設の上、パンタグラフ搭載部周辺の屋根を低屋根仕様に改造された[6]。これは駄知線下石 – 駄知間に存在する駄知山トンネルの狭小な車両限界に合致させるため施工されたものである[1]。また、111編成と112編成では細部の仕様が異なり、後に入線した112編成は側窓サッシがアルミサッシ仕様であるなど、各部が相対的に近代化されている[6]。 パンタグラフ搭載部の様子。低屋根化改造により、パンタグラフ周辺のみ屋根部形状が扁平となっている。(総武流山電鉄モハ1002) 全長17,100 mm・全幅2,715 mmの全鋼製車体を備える[4]。頑丈な魚腹式台枠の上に組み立てられた、深い屋根と腰板部を広く取った車体という、「川造形」特有の重厚な外観を特徴とする[10]。ただし、前述の通り東濃鉄道への導入に際しては車体の改修工事が施工されたため[9]、外板の張替え補修に伴って原形では車体各部に存在したリベットが幕板部と屋根部の接合部分を除いて全面的に除去され[11]、また窓部上下の補強帯(ウィンドウシル・ヘッダー)がリベットを有した段付形状から溶接による平板形状に改められている[11]。さらに、112編成は「川造形」の特徴の一つである前面および客用扉直上の屋根部に設置されるアーチ形状の水切りを撤去し、車体全周にわたって雨樋を新設している[1]。 制御電動車モハ110形・制御車クハ210形とも一方の妻面にのみ運転台を備える片運転台仕様で[1]、西武鉄道在籍当時は両運転台仕様であったモハ112(西武クモハ152)[2]も導入に際して片運転台化改造が施工され、連結面側の妻面には貫通路および貫通幌を備える[12]。運転台側妻面は非貫通構造とし、3枚の前面窓を備えるが[12]、111編成が西武鉄道在籍当時と同じくサッシ窓型の1枚窓を3枚配置するのに対して[13]、112編成は3枚の前面窓全てをHゴムによる固定支持とした点が異なる[1]。 側面には片側3箇所設けられた1,000 mm幅の片開客用扉のほか、380 mm幅の乗務員扉と700

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