Month: May 2019

浦安市郷土博物館 – Wikipedia

浦安市郷土博物館(うらやすしきょうどはくぶつかん)は、千葉県浦安市にある、浦安の自然・歴史・文化に関する体験型博物館。 かつて、漁師町として栄えた浦安の歴史を保存をするために、2001年(平成13年)4月1日に開館された[1]。 1991年(平成3年)に浦安市教育委員会により建設準備が開始され[2]、1998年(平成10年)6月には学校教育に活用検討委員会が設置された[2]。しかし、同年の浦安市長選挙の結果、博物館の転用[注釈 1]を公約とした松崎秀樹が当選し[2]、12月15日に当館の開設を巡って市民検討委員会に諮問することを市長が表明した[3]。その方針に反発した浦安市議会は1議員以外の全員が発議に加わり[4]、特別委員会を設置して追求するなど政争に陥り[5]、計画より1年遅れて開館することになった[6]。 2003年(平成15年)7月には、当地の伝統的な木造漁船の「打瀬船」を復元された[7]。2008年(平成20年)11月には、漁場汚染で漁業の町に壊滅的な打撃を与えた「黒い水事件(江戸川漁業被害)」についての企画展を開催し[8]、この事件の水質汚濁が漁業権の放棄に繋がって埋め立てが進んで海苔養殖が衰退した歴史の調査を進め[9]、2010年(平成22年)2月に「黒い水事件」について漁師らの生の証言を収録した報告書として「ハマん記憶を明日へ」を刊行し[10]、2011年(平成23年)6月にはその第2巻を刊行した[11]。 展示内容[編集] 屋外展示場「浦安のまち」 「すべてに開かれた博物館」「生きている博物館」「リピーターの呼べる博物館」「学校教育に活かせる博物館」をコンセプトにしている。 年配のボランティアが活気ある博物館を支え、「青べか物語」でも有名なベカ舟の体験や製作が間近に見られる。 屋外展示場「浦安のまち」 昭和27年ごろの浦安を野外に再現[1] 船の展示室「海を駆ける」 ベカ舟製造の実演 テーマ展示室「海とともに」 水槽、ジオラマ、各種映像展示 利用情報[編集] 開館時間 : 9:30~16:30 休館日 : 毎週月曜、年末年始、館内整理日 入館料 : 無料 アクセス[編集]

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寶川政治 – Wikipedia

寶川 政治(たからがわ まさじ、1899年2月8日 – 1973年12月2日)は、高知県高岡郡東津野村(現:高知県津野町)出身の元大相撲力士。本名は兵頭 亀松(ひょうどう かめまつ)。 1899年2月8日に高知県高岡郡東津野村(現:高知県津野町)で生まれる。幼い頃から地元の草相撲で大関となり、1921年5月場所にて幕下付出で初土俵を踏んだ。入門時で20歳を越してはいたが出世も早いとは言えず、1925年1月場所で新十両昇進、1927年5月場所で新入幕を果たすなど、幕下付出でのデビューとしては時間が掛かったと言える。7代友綱の部屋継承以降新しい力士が中々育たなかった友綱部屋からの待望の幕内力士であった[2]。 1929年5月場所では1勝10敗と大きく負け越したが、この1勝は大関・大ノ里萬助を破ってのものだったため、幕内上位~三役に対する力量は持っているとされる。その後も幕内の真ん中で活躍していたが、1932年1月6日に勃発した春秋園事件によって一時脱退、1933年1月場所で復帰した。同年5月場所では初日の番神山政三郎戦で敗れただけの10勝1敗(優勝同点)の好成績を記録したが、1934年5月場所で1勝10敗と再び大きく負け越したことで現役引退、廃業した。 山口組による襲撃[編集] 1932年3月27日、寶川は大阪巡業に関して玉錦三右エ門がある贔屓筋の祝儀を拒否したのを咎め、口論に発展した。玉錦は偶然にも山口組系暴力団幹部・山口登の舎弟だったことから、この争いに組員の西田幸一・山田久一・田岡一雄が介入し、旅館に宿泊していた寶川を襲撃した。特に田岡は殺意を持って短刀を寶川の頭上に振り下ろしたが、寸前になって玉錦が制止して手元が狂い、寶川の右手小指と薬指の半分を切り落とした上に、寶川の額を割る結果となった[3]。この時寶川は、血まみれのまま畳に手を付けて謝罪したことで命拾いしている。 寶川は喧嘩っ早い性格のみならず、笑い顔を見せないことでも有名で、田岡曰く「(寶川は)力士としては小柄で相撲内容も地味、おまけに器量の悪いことで有名だった。ブサイクな顔を自分でもよほど気にしていたらしく、写真を撮られることを拒否したから人気も無かった」「ガマも背を向けたといわれるほど醜男」[4]と書いている。ただし、これらはいずれも山口組側の証言によるもので、その後も寶川が本場所で好成績を挙げていることや、後述のように引退後、郷里にて指圧療院を営んでいたことを考えると、少なくとも「右手の指を2本切り落とされた」という話の信憑性はかなり低い。また襲撃が原因で土俵を去った訳でもない。 廃業後は長生医学を学び、郷里・高知県で指圧療院を営んだ。1973年12月2日に死去、74歳没。 主な成績[編集] 通算成績:167勝159敗1分5休 勝率.512 幕内成績:102勝114敗4休 勝率.472 現役在位:36場所 幕内在位:21場所(春秋園事件の場所も含む)

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札幌理工学院 – Wikipedia

札幌理工学院(読み:さっぽろりこうがくいん)とは、北海道江別市野幌若葉町85-1にあった私立の専門学校である。北海道測量専門学校の略称は測専。札幌理工学院専門学校以降は略称不明。 北海道知事認可の専門学校。1973年4月、北海道の開発を担う人材育成に資するため、地元の建設業界・建築業界の強い要請により、財団法人全国建設研修センター付属の建設技術教育に関する専門学校である「北海道測量専門学校」として開校。 卒業と同時に測量士補を、2年実務経験で測量士を取得できる資格が特徴だった。ほかにも小型車両系建設機械(整地・運搬・積込み用及び掘削用)の運転、移動式クレーンの運転の業務に係る特別教育(つり上げ荷重1トン未満)、玉掛けの業務に係る特別教育(つり上げ荷重1トン未満のクレーン等にかかわる作業)、福祉住環境コーディネーター、インテリアコーディネーターなど、在学中の資格取得体制に力を入れていた。 廃止直前の就職率は100パーセント(公式サイトより)だったが、民間企業の通信教育充実・資格予備校など競合他社の出現や、少子化の影響により学生の減少に歯止めが掛からず、2013年3月をもって閉校した。授業の半分以上は実習に費やされていた。閉校後の跡地には2018年に「愛隣チャペルキリスト教会」が入居している。 1973年 北海道測量専門学校として開校。測量科を開設 1974年 製図科を開設。岩見沢市宝水町に測量実習場と実習用宿舎を設置 1976年 北海道知事より専修学校設置認可 1979年 土木工学科を開設 1981年 測量工学科を開設 1985年 情報測量工学科を開設 1987年 測量実習場を岩見沢市から歌志内市に変更 1991年 測量工学科・情報測量工学科にコース制を導入 1993年 情報測量工学科を廃止 1993年 札幌理工学院専門学校に校名変更。2号館・材料実験棟等を設置 1995年 3号館を設置 1997年 開校25周年記念行事「江別市民への感謝の集い」開催 1998年 中国哈爾浜工程高等専門学校と「教育・科学技術交流協定」の調印 1999年 測量科・製図科を廃止 1999年 札幌理工学院に校名変更 2013年 廃校

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国民議会 (タイ) – Wikipedia

国民議会(こくみんぎかい、タイ語: รัฐสภา, ラッタサパー)は、タイ王国の立法府である。 1932年の6月24日に革命が勃発し、その後アナンタサマーコム殿内に国会が開設された。 1974年、議事堂を新築 1997年の憲法改正により、元老院が民選となる。 2000年に初めて元老院の選挙が実施される。 2020年、新国会議事堂が完成。 両院制で、上院の元老院(วุฒิสภา、ウッティサパー)と下院の人民代表院(สภาผู้แทนราษฎร、サパープーテーンラーサドーン)からなる。 院内勢力[編集] 院内勢力別所属議員数 (2020年2月現在) 院内勢力 議員数 政党(議員数) 議席率 上院 0250 無所属อิสระ (250)

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ビトリア=ガステイス – Wikipedia

ビトリア(カスティーリャ語:Vitoria, [biˈtoɾja])またはガステイス(バスク語: Gasteiz, [ɡas̺teis̻])は、スペイン・バスク州の州都であり、アラバ県の県都でもある。2言語の名称をハイフンでつなげたVitoria-Gasteiz(ビトリア=ガステイス)が正式名称であり、バスク自治州議会やバスク自治州政府はビトリア=ガステイスに置かれている。2012年の人口は242,223人であり、バスク州内ではビスカヤ県のビルバオに次いで人口が多い。住民の呼称はビトリアーノス(vitorianos)もしくはガステイスタラク(gasteiztarrak)であるが、伝統的にはババソロス(babazorros、バスク語で「豆を食べる奴」)と呼ばれた。2012年の欧州グリーン首都に選出された。 中世[編集] アラバ盆地の鳥瞰図(右辺が北) 今日のビトリア=ガステイスに相当する場所に、古代の集落としてガステイスがあった。581年、西ゴート族のレオウィギルドゥス(英語版、スペイン語版)王はヴァスコン人に対する勝利を祝し、ヴィクトリアクム (Victoriacum) という町を建設した。ヴィクトリアクムの場所はガステイスの集落があった丘だとされているが定かではなく、イルーニャ=ベレイアがあった場所やゴルベア山麓であるとする歴史家や専門家もいる。中世のガステイスの市街地はアーモンドの種子のような形状をしており、アラバ盆地唯一の丘であるために特権的な地位を与えられた。1050年から1100年の間に防壁が建設され、11世紀と12世紀にはナバーラ王とカスティーリャ王による戦いの際に守備拠点となった。 1181年、ナバーラ王国のサンチョ6世(賢王)はガステイスの集落があった丘の上に防御基地としてヌエバ・ビクトリア(Nueva Victoria)という町を建設し、この年が今日のビトリアの建設年とされている。1199年、ヌエバ・ビクトリアはカスティーリャのアルフォンソ8世の部隊に奪われ、カスティーリャ王国に併合された。ヌエバ・ビクトリアは次第に拡大し、1431年にはフアン2世から「市」の称号を得た。サハサラ、ミランダ・デ・エブロ、パンコルボ、サルバティエーラと共に、1463年にはアラバ組合の5つの町の1つとなった。 近世[編集] 17世紀のビトリア=ガステイス スペイン独立戦争中の1813年6月21日、町に近いサドーラ川沿いでビトリアの戦いが起こった。イギリス・ポルトガル・スペインが連合を組み、初代ウェリントン侯爵アーサー・ウェルズリーが率いる連合軍は、ジョセフ・ボナパルトとジャン=バティスト・ジュールダンが率いるフランス軍を破った。連合軍の勝利によってフランスのスペイン支配は終焉し、ビトリアの中心部にあるビルヘン・ブランカ広場には、ビトリアの戦いの記念碑「独立への記念碑」が建てられている。1813年中には勝利を祝ってヨハン・ネポムク・メルツェル(英語版)がルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに交響曲の作曲を委嘱し、10月に交響曲が完成。『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』や『戦争交響曲』という名で知られ、12月8日にウィーンで初演された。1854年から1856年にはコレラが流行し、運送屋通り(ナンクラレス家の拠点)や靴屋通り(ソト家の拠点)や鍛冶屋通り(アベンダーニョ家の拠点)などの入口にあり町内会の保護に役立っていた門が取り除かれるきっかけとなった。 1843年にはビトリアに中等教育機関が設立され、1853年-54年度に授業を開始した。この機関はかつてサンタ・クララ修道院だった場所を利用しており、現在のこの場所にはバスク自治州議会がある。1868年のスペイン名誉革命(英語版)をきっかけとして、1869年には学生が自主的に運営する自由大学が開校したものの、第2次カルリスタ戦争の勃発が理由で1873年-74年の年度開始前に活動を停止した。学部長はリカルド・ベセーロ・デ・ベンゴア、フリアン・アプライス、フェデリコ・バライバル(スペイン語版)などだった。バライバルは偉大なギリシア文学者として知られており、ビトリアにおける初のバスク語教師として課外授業を行った。中世から18世紀まで、ビトリアの人口や通りのレイアウトにはほとんど変化がなく、現在でもアーモンド型の旧市街にはベンダーニャ宮殿、フルニエ・トランプ博物館、エスコリアサ=エスキベル宮殿、サンタ・マリア大聖堂(旧カテドラル)など多くの歴史的建造物が残されているが、19世紀には市街地が狭く感じられるようになり、新古典主義での都市の拡張が行われた。 現代[編集] 現在のビトリア=ガステイスの並木道 民政移管期(英語版)の1976年3月3日にはストライキ運動中の労働者と警官隊が衝突し、サン・フランシスコ・デ・アシス教会でいわゆるビトリア事件(Sucesos de Vitoria)が起こった。内務大臣のマヌエル・フラガの命により、デモ行為として労働者が立てこもっていた教会内に向けて警官隊が銃を乱射し、5人が死亡して100人以上が負傷した。1980年5月20日にはバスク自治州議会がビトリア=ガステイスに州政府機関を置くことを決定し、ビトリア=ガステイスは事実上の州都となった。

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ジャスティンと勇気の騎士の物語 – Wikipedia

『ジャスティンと勇気の騎士の物語』(原題:Justin and the Knights of Valour)は 2013年にリリースされたスペイン語の3Dコンピューターアニメーション映画である。日本では、劇場未公開だが、2015年1月9日にDVDで発売された。 ストーリー[編集] 統治するすべての弁護士が昔の高貴な騎士を追放した中世の世界で、若いジャスティンは本当の騎士になるために冒険の旅に乗り出す必要があった。ジャスティンは父親である検察総長のレジナルドの意志に反し、友人のタリアとメルキアデスの助けを借りて、邪悪なヘラクリウスのクーデターを阻止し、王国に騎兵隊を復帰させた。 登場キャラクター[編集] ジャスティン 彼の前の祖父のように騎士になることを夢見る10代の少年。ジャスティンはすぐに彼の夢を達成するための探求に着手します。彼は恥ずかしがり屋で、自信がなく、体格がややあり、不器用です。しかし、彼は勇気があり、決意があり、心に忠実で、スマートで、かなりハンサムです。 タリア 大家族の元バードの10代の少女。彼女の古い仕事にうんざりし、冒険のスリルを求めて、タリアはすぐにジャスティンに加わり、結局彼に深く恋をしました。彼女は長い茶色の髪の彼女の年齢のために美しく、戦いに熟練しており、機敏で、冒険が大好きで、他の人を大事にしています。 ヘラクリオ 彼の王国を裏切り、ローランド卿を殺害した元騎士。 メルキアデス 旅行中にジャスティンとタリアを伴う奇妙な分割個性を持つ風変わりなウィザード。 ララ ジャスティンの元の片思いと王国の開拓者経済の娘。彼女はブロンドの髪をしており、多くのドレスや化粧をしており、利己的で他人の感情に敏感ではありません。

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0930 – Wikipedia

「おくさま」はこの項目へ転送されています。本来の意味でのおくさまについては「妻」をご覧ください。 0930(おくさま)は、2000年にメジャーデビュー、2004年3月31日に解散した宮崎県西都市出身の女性2人組の音楽グループである。所属レコード会社は株式会社ヒートウェーブ(HEAT WAVE)→日本コロムビア・コロムビアミュージックエンタテインメント(HEAT WAVEレーベル)。マネジメントはヤマハ音楽振興会であった。 グループ名の由来は、女性用かつらの問い合わせダイヤルに含まれた「0930」から。 メンバー[編集] 両者とも宮崎県立西都商業高校卒業。垢抜けないルックス、朴訥な宮崎弁、「地方都市の普通の女子高生」を押し出した素朴な楽曲は、安室奈美恵のようなR&B系の踊れるアイドルが全盛期だった2000年代初期のJポップにおいてかなりの異彩を放っていた。そのことが逆にインパクトになって注目され、知名度を高めた。本人達もそれを熟知していたようであり、「私たちはブスだから売れた」と時折語っていた。 1999年に、高校の同級生であった児玉と梅原が意気投合して結成。西都市内の「ぞうさん公園」などでストリートライブを行っていた。 1999年11月にTEEN’S MUSIC FESTIVAL 全国大会[1]に後のデビュー曲となる『山田君』で出場。これを機に2000年1月頃にインディーズで『山田君』CDシングルを宮崎県内で発売し、1400枚[1]または2000枚を超える[2]売上を記録した。 この時期に「1億人の大質問!?笑ってコラえて!」の「日本列島女子高生の旅」で取り上げられたことがある。その当時、インディーズでリリースしたシングル『山田君』が、オリコンチャートの宮崎のランキングで当時全国的にヒットしていたサザンオールスターズの『TSUNAMI』を抜いて首位になったこともある。 2000年7月29日に、シングル『山田君』でHEAT WAVE(日本コロムビアから分社化したレコード会社)からメジャーデビューした。メジャー盤『山田君』の売上は10万枚を超えた[1]。 直後の2000年8月6日に放送されたテレビ番組「スーパーナイト」で、進学・就職するのか、芸能人として生きていくのか、進路に苦悩する二人(の女子高生)が取り上げられた。 2001年は1月の2ndシングル『10年後』を皮切りに、11月の『いつものところへ』まで計4枚のシングルをリリースし、同年9月には、唯一のアルバム『チョコバナナ』をリリースした。 2002年はひとりでできるもん!どきドキキッチンの企画盤(『あっちこっち しあわせ』収録)と、シングル『がんばれ自分!』のリリースだけに留まり、音楽活動は失速した様に見えた。この状況は折しも、2001年秋頃にHEAT WAVEが企業使命である収益を上げる事が出来ないばかりか逆に大赤字経営が続いて資本金を使い果たしたため、親会社の日本コロムビアへ再統合され、その親会社もリップルウッド主導による、大幅なリストラを伴う企業再建を実施し始めた事も関係しているとされている。

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大邱サムスン・ライオンズ・パーク – Wikipedia

大邱サムスン・ライオンズ・パーク(テグサムスン・ライオンズ・パーク、대구 삼성 라이온즈 파크、Daegu Samsung Lions Park)は、韓国の大邱広域市壽城区野球伝説路1にある野球場。同市をホームタウンとするKBOリーグ・サムスン・ライオンズの本拠地。韓国を代表する野球場で、29,178人の収容人数は韓国の野球場としては最多である。2016年、韓国野球界のボールパーク建設ブーム最中に開場。韓国の野球場としては初めての八角ダイヤモンド型を採用し、多くの観客席を設置することを可能とした[1]。またどのコンコースからも選手のプレーがよく観られ、観客と選手の距離感の近さにも配慮して設計されている。多くのユニークな客席が設置され、従来よりも多様な観戦スタイルを創出できる造りとなっている。 サムスン・ライオンズは1982年の球団創設以来、大邱市民運動場野球場を使用し続けてきた。しかしこの球場は1948年開場と古く、スタンドを支える鉄骨にひびが見つかるなど老朽化が激しくなっていた。そこで大邱広域市とライオンズの親会社であるサムスングループが共同出資して新球場を建設することとなり、2012年12月に着工。2016年3月に完成・開場し、3月19日、サムスン・ライオンズOBチームと芸能人野球チームの試合が初の野球開催となった。サムスン・ライオンズは同年から本球場をホームスタジアムとして使用し、4月1日、初のプロ野球公式戦として斗山ベアーズとのレギュラーシーズン開幕戦が開催された。 2017年7月15日、初めてプロ野球オールスター戦が開催された。 大リーグ、フィラデルフィア・フィリーズの本拠地であるシチズンズ・バンク・パークを参考に設計されており、韓国の野球場としては初めての八角ダイヤモンド型を採用し、多くの観客席を設置することを可能とした[2]。内外野フェンスは同じくシカゴ・ホワイトソックスの旧本拠地のコミスキー・パークの様に一直線となっている。球場のコンセプトは「コンパクト」であり、観客とプレイヤーの距離を短くする事でプレイの熱気を感じやすくさせようとする意図がある。その為かファウルグラウンドは極端に狭く、ファウルラインから観客席の一番近い場所まで5mしかない[3]。 スタンドは内野席に関しては2階席も設置しており、2015年までの本拠地だった大邱市民運動場野球場の収容人数約14,000人の倍以上となる約29,000人の収容が可能。ただし1塁側(ビジター側)は2階席が少なく、代わりにプレミアムシートが設置される。内野ベンチ横には「エキサイティングゾーン」と名付けられたフィールドシートも設置される他、独立したスカイボックスとバーベキュー席、ファミリー席、芝生席、サポーターズ席、ティーフロア、砂遊びゾーンなど、11のテーマで構成された5000席のイベント席が配置されている。 通路はオープンコンコース式に設計されており、されに大型モニターがコンコース内の至る所に設置されており、観客が試合中にトイレや売店などに行く際も試合を観戦できるようになっている。 本塁は南西に位置しているが、これは内野スタンドの観客を東北方向を向けることで、観戦の際に日差しが目に入らないよう配慮されたためである。また内野スタンドの日陰は最大限確保されている。 スコアボードはライトスタンド後方に高さ20.4m、幅36メートルの全面表示式の大型映像装置を設置。形状はダイヤモンドを模している。 ダッグアウトの割り振りは、大邱市民運動場野球場と同様にホームチームのサムスンが3塁側を使用する。 アクセス[編集] 大邱都市鉄道公社2号線・大公園駅5番出口より50m。

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八股榎大明神 – Wikipedia

八股榎お袖大明神(やつまたえのきおそでだいみょうじん)は、愛媛県松山市にある神仏習合の祠である。神紋は五つ捻じ玉。 松山城の堀の南東(東堀端)に位置し、松山市役所の前に社地がある。本殿横に榎の大木が生えている[1]。 この祠の起源は、かつて勝山城(現在の松山城)にすんでいた神通力をもつ狸、お袖が1830年(文政13年)にこの地に生えていた榎の大木に住み着いたのに始まるとされる[2]。 祠が置かれていた榎の大木は明治44年(1911年)に松山電気軌道が開通する際に邪魔になるからと切られてしまい、この時に上一万(現在の勝山町2丁目)の常楽寺境内の六角堂に合祀された。この堂には現在も八股榎大明神が祀られている[3]。 後に別の榎の下に祠が建てられた。その榎も伊予鉄道が路面電車の複線化を進める際に切られることとなったが、切り倒す作業は難航し、結局昭和9年(1934年)に石井村の喜福寺に移植された。しかし古木のためその後間もなく枯れてしまった[4]。直後に大井村の大井駅で一人の女学生が降車し、それがお袖狸の化身ではないかと噂になり、小西村の山奥の明堂という小さな堂に移り住んだということにされ、一時的にそこへの参詣者が増加した[5]。 その後お袖狸は松山城の堀端に帰り、昭和20年代に生えた榎の木に棲み付いたとされ、昭和27〜28年頃に小さな祠が建てられた。その後昭和30年(1955年)に仮殿が造られ、翌年には本殿が造営された。以降信奉する民間人によって祭祀が続けられている[6]。 周辺施設[編集] 外部リンク[編集] ^ この近辺はかつては榎が多く生えており、江戸時代後期から昭和39年(1964年)までの地名「榎町」の由来にもなった(『日本歴史地名大系 第39巻 愛媛県の地名』 1980年 平凡社 369頁、『角川日本地名大辞典 38 愛媛県』 1985年 角川書店 142頁)。

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立花綾香 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “立花綾香” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年8月) 立花 綾香(たちばな あやか、1992年4月2日 – )は、日本のシンガーソングライターであり、アニメーション作品の音楽を総合的に手掛けるクリエイティブ・ユニット(K)NoW_NAMEのボーカルでもある。熊本県山鹿市出身。2019年11月20日にメジャーデビュー。 2010年よりシンガーソングライターとしての活動を開始[1]。 2010年、熊本県熊本市のイメージソング「ときめいて・くまもと」を歌唱[1]。 2011年に、YAMAHA主催The 5th Music Revolution

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