ビトリア(カスティーリャ語:Vitoria, [biˈtoɾja])またはガステイス(バスク語: Gasteiz, [ɡas̺teis̻])は、スペイン・バスク州の州都であり、アラバ県の県都でもある。2言語の名称をハイフンでつなげたVitoria-Gasteiz(ビトリア=ガステイス)が正式名称であり、バスク自治州議会やバスク自治州政府はビトリア=ガステイスに置かれている。2012年の人口は242,223人であり、バスク州内ではビスカヤ県のビルバオに次いで人口が多い。住民の呼称はビトリアーノス(vitorianos)もしくはガステイスタラク(gasteiztarrak)であるが、伝統的にはババソロス(babazorros、バスク語で「豆を食べる奴」)と呼ばれた。2012年の欧州グリーン首都に選出された。 中世[編集] アラバ盆地の鳥瞰図(右辺が北) 今日のビトリア=ガステイスに相当する場所に、古代の集落としてガステイスがあった。581年、西ゴート族のレオウィギルドゥス(英語版、スペイン語版)王はヴァスコン人に対する勝利を祝し、ヴィクトリアクム (Victoriacum) という町を建設した。ヴィクトリアクムの場所はガステイスの集落があった丘だとされているが定かではなく、イルーニャ=ベレイアがあった場所やゴルベア山麓であるとする歴史家や専門家もいる。中世のガステイスの市街地はアーモンドの種子のような形状をしており、アラバ盆地唯一の丘であるために特権的な地位を与えられた。1050年から1100年の間に防壁が建設され、11世紀と12世紀にはナバーラ王とカスティーリャ王による戦いの際に守備拠点となった。 1181年、ナバーラ王国のサンチョ6世(賢王)はガステイスの集落があった丘の上に防御基地としてヌエバ・ビクトリア(Nueva Victoria)という町を建設し、この年が今日のビトリアの建設年とされている。1199年、ヌエバ・ビクトリアはカスティーリャのアルフォンソ8世の部隊に奪われ、カスティーリャ王国に併合された。ヌエバ・ビクトリアは次第に拡大し、1431年にはフアン2世から「市」の称号を得た。サハサラ、ミランダ・デ・エブロ、パンコルボ、サルバティエーラと共に、1463年にはアラバ組合の5つの町の1つとなった。 近世[編集] 17世紀のビトリア=ガステイス スペイン独立戦争中の1813年6月21日、町に近いサドーラ川沿いでビトリアの戦いが起こった。イギリス・ポルトガル・スペインが連合を組み、初代ウェリントン侯爵アーサー・ウェルズリーが率いる連合軍は、ジョセフ・ボナパルトとジャン=バティスト・ジュールダンが率いるフランス軍を破った。連合軍の勝利によってフランスのスペイン支配は終焉し、ビトリアの中心部にあるビルヘン・ブランカ広場には、ビトリアの戦いの記念碑「独立への記念碑」が建てられている。1813年中には勝利を祝ってヨハン・ネポムク・メルツェル(英語版)がルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに交響曲の作曲を委嘱し、10月に交響曲が完成。『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』や『戦争交響曲』という名で知られ、12月8日にウィーンで初演された。1854年から1856年にはコレラが流行し、運送屋通り(ナンクラレス家の拠点)や靴屋通り(ソト家の拠点)や鍛冶屋通り(アベンダーニョ家の拠点)などの入口にあり町内会の保護に役立っていた門が取り除かれるきっかけとなった。 1843年にはビトリアに中等教育機関が設立され、1853年-54年度に授業を開始した。この機関はかつてサンタ・クララ修道院だった場所を利用しており、現在のこの場所にはバスク自治州議会がある。1868年のスペイン名誉革命(英語版)をきっかけとして、1869年には学生が自主的に運営する自由大学が開校したものの、第2次カルリスタ戦争の勃発が理由で1873年-74年の年度開始前に活動を停止した。学部長はリカルド・ベセーロ・デ・ベンゴア、フリアン・アプライス、フェデリコ・バライバル(スペイン語版)などだった。バライバルは偉大なギリシア文学者として知られており、ビトリアにおける初のバスク語教師として課外授業を行った。中世から18世紀まで、ビトリアの人口や通りのレイアウトにはほとんど変化がなく、現在でもアーモンド型の旧市街にはベンダーニャ宮殿、フルニエ・トランプ博物館、エスコリアサ=エスキベル宮殿、サンタ・マリア大聖堂(旧カテドラル)など多くの歴史的建造物が残されているが、19世紀には市街地が狭く感じられるようになり、新古典主義での都市の拡張が行われた。 現代[編集] 現在のビトリア=ガステイスの並木道 民政移管期(英語版)の1976年3月3日にはストライキ運動中の労働者と警官隊が衝突し、サン・フランシスコ・デ・アシス教会でいわゆるビトリア事件(Sucesos de Vitoria)が起こった。内務大臣のマヌエル・フラガの命により、デモ行為として労働者が立てこもっていた教会内に向けて警官隊が銃を乱射し、5人が死亡して100人以上が負傷した。1980年5月20日にはバスク自治州議会がビトリア=ガステイスに州政府機関を置くことを決定し、ビトリア=ガステイスは事実上の州都となった。
Continue reading
Recent Comments