信濃小谷地震 – Wikipedia
信濃小谷地震(しなのおたりじしん)は、江戸時代の正徳4年3月15日(1714年4月28日)に信濃国北西部で発生した地震。1714年正徳小谷地震とも呼ばれる[1] 地震の記録[編集] 正徳四年三月十五日戌刻過(夜五ツ半)(1714年4月28日21時頃)に小谷村を中心とする地震が発生した。尾張藩の奉行、朝日文左衛門重章の日記『鸚鵡籠中記』、および『江戸幕府日記』には、水野出羽守領分、信州松本大町組[注 1]で大地震、102石余の田畑が損亡、潰家194軒、半潰141軒、怪我人37人、死人56人、牛馬怪我20疋と記されている[2][3]。 『月堂見聞集』では死人は男32人、女25人、潰家33ヶ所となっている。白馬村大出で発見された古文書には15日夜戌亥刻から翌16日昼四ツ時(10時頃)まで33度震い、四ヶ条村、小谷まで皆々震い崩れ、54人が死に、350軒潰れ、坪の沢では大山抜け崩れ大堤になり塩島新田まで2里(約8km)が水没したとある[3][4]。 『新編信濃史料叢書 第五巻』、『中土村誌』には、千国村で山崩れがあり、人家田畑残らず亡所となり、人30人、牛馬8疋が死亡し、家9件が倒壊、堀ノ内村(四ヶ庄:神城、北城、小谷、中土)では人14人、牛馬36疋が死亡し、家48件が倒壊、中谷村・上谷村では合計家18軒が押し崩され、姫川の天然ダム決壊で流失したとある[5]。 役所への被害届である『中谷村地震満水に付田畑指出帳控』には、地震による山崩れで天然ダムを形成し水没した田畑の面積が合計壱丁九反七畝廿九歩(約19,633m2)、その見積もりが拾壱石九升四合弐勺と記されている。 『松代町史』によれば、宝永4年の地震に比すれば震動が少なく家屋の被害も軽微であったが、半時(約1時間)ばかりの間に4度の震動があったという。『江戸幕府日記』によれば、松代領では、潰家48軒、寺社潰3、田畑の損が420石余、道路の破損が38ヶ所に上った[6]。善光寺では本堂が破損し、二天東西の石垣が悉く崩れ石塔がほとんど転倒した[7]。 『菖蒲氏年代記』によれば、出羽の余目、『津軽藩御日記』によれば江戸においても有感であった[2]。 資料調査をまとめた地震調査研究推進本部のプロジェクトによれば、小谷村の坪ノ沢では全戸が壊滅する被害だったほか、小谷村の中小谷や白馬村の堀之内でも過半数の家屋が倒壊した[8]。また、姫川右岸にある岩戸山の斜面崩壊により姫川に天然ダムが形成された。結果、5570万m3規模の湛水が生じ、3日後に決壊し下流に被害[9]。 地域 推定震度 出羽 余目(e) 信濃 善光寺(5-6), 小谷(6), 白馬(6), 大町(6),
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