Month: August 2019

ナフィサトゥ・ティアム – Wikipedia

ナフィサトゥ・”ナフィ”・ティアム(Nafissatou “Nafi” Thiam、フランス語発音: [tʃam]、1994年8月19日 – )は、混成競技を専門とする、ベルギーの陸上競技選手。リオデジャネイロ2016大会と東京2020大会の2度、オリンピックの七種競技で金メダルを獲得している。男女含めてオリンピックの陸上競技で2大会連続で金メダルを獲得した初めてのベルギー代表選手であり、七種競技で2大会連覇を果たしたのはジャッキー・ジョイナー=カーシー以来2人目である[3]。東京大会では開会式でベルギー選手団の旗手を務めた。 2020年2月現在、ベルギーの七種競技・やり投・走高跳のベルギー記録保持者である。2019年には七種競技の走高跳で世界新記録を樹立したことがある。 2017年の世界選手権と2018年のヨーロッパ選手権(英語版)の覇者であり、2019年の世界選手権銀メダリストである。2017年にはIAAF世界最優秀選手賞を受賞した。 ジュニア時代[編集] ベルギー人の母とセネガル人の父の間に、ブリュッセルで生まれた。7歳の時に陸上競技を始め、2009年(14 – 15歳)に初めて国内大会優勝を経験し、すでに七種競技を専門としていた。当時の憧れの選手はスウェーデンのカロリナ・クリュフトであった[4]。フランス・リールで開かれた2011年世界ユース選手権の七種競技で、5366点をマークし4位に入賞した。しかし、翌2012年の世界ジュニア選手権は5384点の14位に沈んだ。 ベルギーのヘントで2013年2月3日に開かれた大会で、五種競技に出場し、5種目のうち4種目で自己ベストを更新し、4558点の世界ジュニア室内新記録をマークした[5]。ティアムが破る前の世界ジュニア室内記録は、ティアムの憧れの人であるカロリナ・クリュフトが2002年に樹立した4535点であった。ティアムはベルギーの女子陸上競技選手で初めての世界記録保持者となった[6]。ところが、ヘントの大会は当日のドーピング検査を欠いていたため、同年3月に世界新記録として公認されないことになった。(翌日にドーピング検査が行われたが、国際陸上競技連盟(IAAF、当時)の締切を過ぎていた[7]。) 2013年7月18日、ヨーロッパジュニア選手権の七種競技で金メダルを獲得し、6298点のベルギー新記録を達成した。 シニア時代[編集] 2014年は、ヨーロッパ選手権の七種競技で銅メダル、2015年はヨーロッパ室内選手権の五種競技で銀メダル、ヨーロッパU23選手権の走高跳でも銀メダルを獲得した。 2016年リオデジャネイロオリンピックで七種競技に出場し、8月13日に6810点をマークして金メダルを獲得した。7種目のうちの5種目で自己新記録を出しており、イギリス代表のジェシカ・エニス=ヒル(前回覇者)を破っての勝利であった[8]。メダル獲得当時の年齢は21歳11か月であり、七種競技の金メダリストとしては史上最年少記録である[9][10]。そこでティアムは閉会式のベルギー選手団の旗手に選ばれた[11]。 2017年シーズンは3月3日にセルビア・ベオグラードで開かれたヨーロッパ室内選手権の五種競技優勝(4870点)で幕を開け、5月28日のハイポミーティング(オーストリア・ゲツィス)の七種競技でも優勝した。この時の記録は7013点で、7種目中5種目で自己新記録をマークし、ハイポミーティングで7000点を超えた史上4人目の選手になった。今大会でマークしたやり投の記録59m32はベルギー新記録であり、やり投が専門の選手よりも好投したことになる[9]。7月にはジャッキー・ジョイナー=カーシー、カロリナ・クリュフトに次ぐ歴代3位に名を連ねた。8月6日にはロンドンで開かれた世界選手権の七種競技に出場し優勝、ベルギー史上初の世界選手権金メダリストになった[9]。 2018年8月10日、ヨーロッパ選手権七種競技で優勝し、カロリナ・クリュフト、ジェシカ・エニス=ヒルに次ぐ史上3人目のオリンピック・世界選手権・ヨーロッパ選手権の3冠達成者となった。2019年6月27日、デカスター(英語版)(フランス・タランス)で優勝し、その中で記録した走高跳の2m02は、七種競技中で行われる走高跳の記録としては世界新記録となった[12]。同年10月2日、世界選手権の七種競技に当季世界最高記録保持者として出場、金メダルが期待されたが、イギリス代表のカタリナ・ジョンソン=トンプソン(英語版)がライバルとして立ちはだかった。ティアムが肘の怪我に苦しみ、やり投の記録が振るわない一方、ジョンソン=トンプソンはイギリス新記録かつ世界歴代6位となる6981点をマークして金メダルを獲得した。優勝こそ逃したが、ティアムの記録は他の選手よりは良く、銀メダルを獲得した。 2021年3月5日、ポーランド・トルンで開かれたヨーロッパ室内選手権で、4904点をマークして優勝した[13]。8月5日の東京オリンピックでは6791点をマークし、2個目の金メダルを獲得した。

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運動の積分 – Wikipedia

運動の積分 (うんどうのせきぶん, integral of motion) とは、古典力学において、系の時間発展に際して時間変化しない物理量のこと。保存量 (conserved quantity) や恒量[1]、運動の定数 (constant of motion)、第一積分[2] (first integral) あるいは単に積分とも呼ばれる[3]。一般に力学の問題が与えられたとき、系の自由度の数に等しい数の第一積分を見出すことができれば、その問題を「解く(求積する)」ことができる(リウヴィルの定理)ため、その存在あるいは具体的な表示を調べることは力学(特に可積分系)の研究において基本的である。 N{displaystyle N} 次元空間 RN{displaystyle mathbb

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青木大和 – Wikipedia

青木 大和(あおき やまと、1994年3月9日 – )は、日本のパラアルペンスキー選手、実業家、元政治活動家。東京都出身。 NPO法人「僕らの一歩が日本を変える。」創設者[1]。NPO法人「Rights」元副代表理事[2]。 晃華学園小学校、法政大学第二中学校を経て、法政大学第二高等学校に入学。入学から4か月後に休学し、「何か自分を変えたい」とアメリカへ留学。[3]。 2012年、10代の政治関心の向上、および政治参加の拡大を目的とする団体「僕らの一歩が日本を変える。」を設立。同年夏、討論会イベント「僕らの一歩が日本を変える。 高校生100人×国会議員」を議員会館で開催して、話題となる[1]。 2013年、AO入試で慶應義塾大学法学部に入学。 2014年10月、僕らの一歩が日本を変える。がNPO法人取得[4] 2014年12月、小学校4年生を騙りNPO法人を利用したドメインで自民党批判サイトを作成したことを受けて僕らの一歩が日本を変える。代表を辞任。 2016年1月、不慮の事故により脊髄損傷の大怪我を負う。一度は下半身不随の診断を受けるが、リハビリにより歩行できるまでに回復[5]。 2016年、コミュニティハウス「アオイエ」事業を立ち上げ、2017年に法人化。同法人・株式会社DADAの代表取締役を務める[6]。2020年に株式会社DADAを離れ、同社からスピンオフした株式会社EXxの代表取締役に就任。 中学・高校時代にアルペンスキー部に所属していたこともあり、2020年パラリンピック出場を目指し活動を開始[5]。 2022年2月8日、2022年北京パラリンピック・アルペンスキー日本代表に選出[7]。男子大回転(立位)30位、男子回転(立位)26位。 活動履歴[編集] 2013年12月27日、高校生の次世代起業家サミットで講演。「“高校生”というブランドを戦略的に使おう」と成功の秘訣を語った[8]。 2014年2月から、現代ビジネスで青木大和「絶望世代が見る日本」の連載を開始[9]。 2014年1月、きん商の学生起業家輩出プロジェクト「K-POWERS BUSINESS」の選考に合格し、5期生として教育を受ける[10][11]。

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久美愛厚生病院 – Wikipedia

久美愛厚生病院 情報 正式名称 岐阜県厚生農業協同組合連合会久美愛厚生病院 英語名称 Kumiai Kousei Hospital 前身 高山久美愛病院 標榜診療科 内科、心療内科、小児科、外科、脳神経外科、整形外科、皮膚科、産婦人科、眼科、耳鼻咽喉科、泌尿器科、放射線科、リハビリテーション科、麻酔科 許可病床数 300床一般病床:288床感染症病床:4床結核病床:8床 開設者 岐阜県厚生農業協同組合連合会(JA岐阜厚生連) 開設年月日 1948年 所在地 岐阜県高山市中切町1-1

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ゆうがたサテライト – Wikipedia

『ゆうがたサテライト』は、テレビ東京系列局ほかで2016年(平成28年)11月7日から放送されている平日夕方の経済情報・ニュース番組、およびスポットニュースかつミニ番組である。放送時間は毎週月 – 金曜日16:54 – 17:00。通称は『ゆうサテ』[1]。 『NEWSアンサー』の後継番組で、テレビ東京の本社が港区の住友不動産六本木グランドタワーに移転したことを機に放送を開始。テレビ東京系列夕方ニュース枠では初めて、経済情報へ特化することを明確に打ち出している[2]。これは、各局とも同じ内容になりがちな夕方ニュース枠を、『経済報道』という切り口で差別化を図る戦略であり[3]、番組タイトルも『WBS』、『Newsモーニングサテライト』同様に同局の経済ベルト番組に付けられる“サテライト”の名を持つ。 前身番組『NEWSアンサー』よりも放送時間を25分拡大するが、これは、2003年4月改編で『TXNニュースアイ』の放送時間を25分に縮小(金曜版は2004年4月改編を以って縮小)して以来13年ぶりに30分を超える大型の夕方ニュース枠となる。 初代のメインキャスターには、狩野恵里(テレビ東京アナウンサー)を起用した。放送開始の約1か月前(2016年10月16日)まで『モヤモヤさまぁ〜ず2』を担当するなど、バラエティ番組を中心に活動してきた狩野が、平日帯の報道番組でキャスターを務めるのは本番組が初めてであった[4]。 2017年9月4日放送分から大幅にリニューアル。メインキャスターに池谷亨が加わるとともに、スタジオセットなどを一新した。それまでは外から放送していた天気コーナーもスタジオ内での放送に変わった。 2017年11月3日放送分で、狩野がメインキャスターを卒業した。第1・2子(双子)の懐妊に伴って産前産後休暇を取得することによる措置で、同月6日放送分からは、先輩アナウンサーの塩田真弓とフリーアナウンサーの戸室穂美がキャスター陣に加わる[5]。 2018年4月2日放送分からはテレビ東京にて月 – 金曜日17:30 – 17:55に『青春高校3年C組』が開始(関東ローカル[6])[7]されることに伴い、放送時間が25分短縮された(16:54 – 17:20、前番組『NEWSアンサー』の番組末期と同じ放送時間)[8]。枠縮小後は17:15 – 17:20がローカル枠となる。 2019年9月30日放送分からは、同日からテレビ東京の報道番組のフォーマットがYouTubeで配信している「テレ東NEWS」のものに統一[9]されたことから、テロップが「テレ東NEWS」仕様のものに刷新されたほか、当番組のニュースも配信されている。

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リングにかけろ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “リングにかけろ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2010年3月) 『リングにかけろ』は、車田正美による日本の漫画作品。略称は「リンかけ」。登場キャラクターの次の世代を描いた続編『リングにかけろ2』が『スーパージャンプ』(青年漫画誌)にて連載された。 『リングにかけろ1』(- ワン)として2004年秋にテレビ朝日でアニメ放映された(後にスカパー・ANIMAXでも放送)。 開始当初は貧しい家庭に育った気弱な少年の高嶺竜児が、プロボクサーだった亡き父の遺志を継いで世界チャンピオンを目指すべく、姉の菊の教えを受けて成長していくスポ根漫画で、試合の内容も現実的なものだったが、途中から路線を変更。実際のボクシングとはかけ離れた技(作中ではフィニッシュブローまたはニュー・スーパー・ブロー、略してNSBとも称されている)を持ったボクサー同士が超人的な戦いを繰り広げる内容へと変貌した。 この路線変更は大当たりし、当時の『週刊少年ジャンプ』の看板漫画となった。車田自身も当時改装した集英社ビルの階段部分をリング階段、もしくは車田床と呼び「集英社ビルが改装出来たのも『ジャンプ』が300万部突破出来たのも『リンかけ』人気のおかげ」とネタにし[1]、最終回は『ジャンプ』史上初となる巻頭カラーで締めくくるなど(通常は一番最後に掲載されることが多い)有終の美を飾った[2]。累計発行部数は1300万を記録している。 登場するボクサーのフィニッシュブローは、当初は原理が説明されているものもあったが、次第に理屈付けは省かれて、技の名前を叫んだボクサーによって対戦相手が吹っ飛ばされる構図が、見開きや大ゴマで描かれるパターンが多用されるようになった。その演出も派手なものが多く、物語の終盤で高嶺竜児が身に付けた技「ブーメランテリオス」などは同じ絵のコピーを見開き内に無数に貼り付けるなど、表現方法は様々なものが試された。また、世界大会編ドイツJr.との戦いにおいては物理学の応用によるフィニッシュブロー破りを描写し、ギリシア十二神編ではギリシア神話の神々を対戦相手として登場させるなど、ジャンルを問わず幅広いアイディアを取り込んでいる。 あらすじ[編集] 主人公の少年・高嶺竜児が姉の菊から学んだボクシングにより、次々と現れる強敵を退けつつ仲間達と友情を深めて成長し、最終的に宿命のライバルであるボクシングの天才児・剣崎順を倒して世界チャンピオンに輝くまでの軌跡を描いている。 明確な章立てはされていないが、ストーリーの流れで大まかに分けると以下のような構成になる。 上京編 都大会編

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森田欽二 – Wikipedia

森田 欽二(もりた きんじ、1917年12月11日 – 1979年4月13日)は、日本の政治家、教育者。自由民主党衆議院議員(1期)。 目次 1 来歴・人物 2 家族 3 脚注 4 参考文献 来歴・人物[編集] 福岡県甘木市(現・朝倉市)出身。福岡県立朝倉中学校を経て福岡県福岡師範学校卒。甘木市立石小教諭、福岡県視学委員を務めた後、1947年(昭和22年)に福岡県議会議員となる。以来6期当選を重ね、1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)まで県議会議長に就いた。1972年(昭和47年)に県議を辞任し、第33回衆議院議員総選挙で福岡1区から自由民主党公認で立候補したが落選。次の1976年(昭和51年)第34回衆議院議員総選挙で初当選する。衆議院では農林水産委員を務め農林行政に対する高い見識と実行力で注目された。県議時代は教職の経験を生かしで教職員の待遇改善、辺地の学校教育などに実績を挙げる一方、日本教職員組合の理解者であると同時に組合との対決もしばしばであった。両筑平野用水事業の事業上の生みの親として江川、寺内両ダムを完成させた政治力と、1978年の福岡市の異常渇水時に両筑平野の農民を説得して福岡市へ両ダムから救援送水させた功労は大きい。過労のため肝臓を傷め、翌年福岡大学病院にて死去した。 息子は朝倉市長を2期務めた森田俊介[1]。 ^ 福岡市議会 平成23年第1回定例会(第6日)

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