Month: November 2019

安東弘樹 Let’s Go Friday – Wikipedia

『安東弘樹 Let’s Go Friday』(あんどうひろき レッツゴーフライデー)は、ニッポン放送制作・NRN系列で放送されているバラエティ番組。 番組概要[編集] ニッポン放送2020年度の金曜ナイターオフ番組枠において、同年8月まで平日午後のワイド枠にて放送していた『DAYS』月曜のパーソナリティであった、元TBSテレビアナウンサーの安東弘樹を同枠のパーソナリティに起用することを、安東が『DAYS』の最終回で明言し[2]、その後9月9日に同局で行われた社長定例記者会見の場で発表された[3]。 また、同局子会社に所属している田中がパートナーとして出演し、番組コンセプトは「同い年の2人が送る、下世話な時間」と称しているが、番組構成としてナイターオフ恒例の内包番組とスポーツコーナとコーナーの構成の一部を『DAYS』から横滑りでリバイバルさせている。番組放送中は、リスナーからのメール若しくはTwitterのツイートを紹介しており、ハッシュタグ「#andy1242」[4]で募る。 2020年度は新型コロナウイルスによる社会・経済的影響で、NPB公式戦の開幕が後ろ倒しされた変則日程の為、ネット局とニッポン放送ローカルの放送開始日に差異が生じ、ネット局の方が終了日時も後ろ倒しされた。この現象は2021年度も2020年東京オリンピック・パラリンピック開催に伴う、NPBのレギュラーシーズン中断に伴う日程後ろ倒しに伴い、同様の編成を敷く事を決定した[5]。 現在[編集] パーソナリティ[編集] 安東弘樹(フリーアナウンサー、元TBSテレビアナウンサー) – 2020年10月2日 – 2021年3月26日、2021年10月1日 – 2022年3月25日 パートナー(アシスタント)[編集] 田中美和子(タレント、フリーアナウンサー)

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アントワネット (お笑い) – Wikipedia

アントワネットは、ワタナベエンターテインメントに所属していた日本のお笑いコンビ。 メンバー[編集] 山口のみワタナベコメディスクール13期(2010年10月入学、2011年9月卒業)出身[15]。結成は2013年4月[16]。 M-1グランプリ2016では準々決勝進出[17]。翌2017年のM-1グランプリでも準々決勝まで進出[16]。2018年1月1日放送の「ぐるナイおもしろ荘」(日本テレビ)で準優勝[18]。 2人の出会いは学生芸人が出演する大学お笑いライブ。事務所に所属できないまま養成所を卒業し、ツッコミができる相方を探していた山口が加藤パーチク(元門出ピーチクパーチク)の紹介で小澤を誘いコンビ結成。その時2人は顔見知り程度の仲でしかなく、お互いどんな人間なのか特に知らないままコンビを組んだ。 コンビを結成して2週間、ワタナベエンターテイメントの事務所ライブ「NEWCOMER!」に出演したところ一発で所属が決まる。 2022年3月いっぱいで解散することをお互いのTwitterで発表[19]。 最初期は正統派漫才をしていたが、小澤が「山口の女子力の高さを活かさない手はない」と思い立ち、山口を王子様キャラとしての漫才に転向。山口が色々と王子様のトリセツを解説し、これに小澤が半ば呆れた感じでツッコむというスタイルの漫才を多く披露していた[20][21]。小澤はこのスタイルについて「猛獣使いのような気分」と話している[20]。しかしこのスタイルは2019年頃にやめ、山口がダジャレを連発するおじさんキャラの漫才へと変化した[22]。 賞レース成績[編集] M-1グランプリ[編集] 年度 結果 会場 日程 エントリーNo. 2015年(第11回) 2回戦進出[16] [東京] 雷5656会館ときわホール 10月15日(木)

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豊橋市消防本部 – Wikipedia

豊橋市消防本部(とよはしししょうぼうほんぶ)は、愛知県豊橋市の消防部局(消防本部)。 1948年3月7日 豊橋市消防本部及び豊橋市消防署を開設する。 1948年9月14日 消防本部庁舎が落成する。 1950年1月22日 東部出張所を開設する。 1950年5月2日 南部出張所を開設する。 1956年8月8日 二川出張所を開設する。 1957年7月8日 救急業務を開始する。 1966年9月1日 石巻分遣所を開設する。 1968年10月1日 前芝分遣所を開設する。 1969年1月11日 消防音楽隊が発足する。 1969年4月1日

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企業内高等学校 – Wikipedia

企業内高等学校(きぎょうないこうとうがっこう)は、かつての日本に数多く存在した高等学校の一形態であり、設置者は企業系列の学校法人であった。在学中の生徒には一般の高等学校と同様の教科と共に工業科など系列企業で働くのに必要とされている知識を習得させ、卒業後は系列企業の従業員として活躍できる人材の育成を目的としていた。 目次 1 企業内高等学校一覧 2 企業系列の学校法人 3 脚注 4 関連項目 企業内高等学校一覧[編集] 石川島工業高等学校(石川島播磨重工業、1977年閉校) 科学技術工業高等学校(富士電機、1961年創立、1973年閉校) 印刷工芸高等学校(共同印刷、1978年に日本プリンティングアカデミー(専門学校)に改組) 近江高等学校(近江絹絲紡績、現在は一般校に転換) 鐘紡長浜高等学校(鐘紡、1988年閉校) 三和高等学校(日本曹達、1963年閉校) スタンダード高等学校(スタンダード靴、1979年閉校) 林第二高等学校→誠信高等学校(林紡績、現在は一般校に転換) 静清高等学校(相川鉄工、現在は一般校に転換)

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廣瀬俊 – Wikipedia

廣瀬 俊(ひろせ しゅん、1989年4月13日 – )は、日本の漫画家・漫画原作者。 幼少期から絵の上手さを褒められることが多く、小学生の頃から漫画や風景画を描いていた[1]。中学生の頃に父親を亡くし、後に自分の名前を付けたのが父親だと知ると、自身の名を世に広めようと漫画家を志す[1]。 20歳のときに初めて持ち込みした『ASATO-アサト-』でMGP(マガジングランプリ)の奨励賞を受賞する[2]。最初は自分で作画も行なっていたが[1][2]、賞では毎回「話は良いが絵が下手」という批評を受けていた[2]。自信のあった4度目の新人漫画賞への応募作も奨励賞に終わり落ち込んでいたが、担当編集に励まされ、前々から考えていた『煉獄のカルマ』の設定を話すとすぐさま『煉獄のカルマ』の連載が決まった[2]。そこで編集長から原作者としてお願いされ、春場ねぎを作画に据えて2014年10月22日発売の『週刊少年マガジン』47号より連載を開始した[2][3]。 2017年9月6日発売の『週刊少年マガジン』40号より『青春相関図』の連載を開始すると[4]、読者から「クセになりそう」「続きが気になる」と評価を受けた[5]。同作の連載終了後、他のジャンルの作品をいくつか考えていたがなかなか次の連載が決まらずにいた[2]。そんなとき編集長から「人の嫌な面を書くのが上手い」と言われたことをきっかけにアイディアを練り、2020年3月23日から『マガジンポケット』にて『復讐の教科書』の連載を開始する[2][6]。 ファンタジーが好きで、最初はファンタジー作品ばかりを描いていた[2]。 作品にいじめをテーマとしたものが多い理由については、『煉獄のカルマ』は自殺の是非、『青春相関図』は人間関係、『復讐の教科書』は復讐の是非をテーマに描こうとした際、いじめという切り口がそれぞれのテーマを表現するにあたって最適だと思ったためと語っている[1]。 作品リスト[編集] 連載[編集] 煉獄のカルマ(作画:春場ねぎ、講談社『週刊少年マガジン』2014年47号 – 2015年35号)全5巻 青春相関図(作画:三宮宏太、講談社『週刊少年マガジン』2017年40号 – 2018年14号)全3巻 復讐の教科書(作画:河野慶、講談社『マガジンポケット』2020年3月23日 –

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リフティングボディ – Wikipedia

代表的なアメリカのリフティングボディ機であるX-24A。 リフティングボディ(英: Lifting body)は、極超音速での巡航を前提とした航空機、ないしはスペースプレーン等のような大気中を飛行することがある一部の宇宙機に使われる、機体を支える揚力を生み出すように空気力学的に工夫された形状を有する胴体のことである。遷音速から超音速域での飛行時に特に大きな抗力発生源となる通常の固定翼機型の翼を廃し、その分必要になる浮揚力を胴体から賄うために利用されることが多く、1960年代に開発されたアメリカの実験機M2シリーズやX-24などが本形態を採用した代表的機体である。 リフティングボディとは機体全体で揚力を得られるような形状にした機体である。機体の一部が盛り上がった形状を取る。一般に高速で軽量なものほど流線型に近くなり、低速で重量があるものほどずんぐりした形状になりやすい。 固定翼機では胴体に取り付けられた翼(主翼)によって大部分の浮揚力を生み出しているが、この翼は揚力発生機構であると同時に最大の抗力発生源でもある。特に有翼型宇宙往還機(スペースシャトル等)において、帰還時の滑空には大きな揚力を生む広い翼が必要であるものの、打ち上げの加速時には翼は非常に邪魔な存在となる。なぜなら大気圏中における高速飛行時には空気抵抗と断熱圧縮によって尖った形状の部位に局所的な応力および熱が集中するからであり、胴体から飛び出した翼には特に大きな負荷がかかり、それが機体の致命的な損傷を招く可能性もある[1]。そのような事情により、翼をより小さく、出来ればなくしたいというモチベーションが生まれ、リフティングボディの研究の素地となってきた。 一般的に流体中に置かれた物体にはそれがどのような形状であってもある程度の揚力が発生するが、流体力学的に何ら工夫されていない形状では揚力に比して抗力が大きく、その物体を浮揚させるだけの揚力を得ることは困難である。そこでリフティングボディでは胴体を滑らかに、なるべく丸く整形することで抗力を可能な限り減少させ、かつ積極的に揚力を生み出すような形状(一種の翼型)にまとめている。このような工夫によって極力翼を小さくし、揚力と抗力の妥協を図っている。 ただしリフティングボディは、一定の速度(低速時)においては揚力発生効果は小さく、抗力のほうが大きい。これは「抗力の一部である誘導抗力は翼幅荷重の二乗に比例する」ためである。つまり幅の小さい形状の物体は誘導抗力が大きく、ひいては揚力に比べて抗力が大きくなる。固定翼機の主翼が横幅が広い形状であるのは、このためである。しかしながら抗力に占める誘導抗力の割合は、高速になればなるほど減少する。超音速領域においては、そのほかの原因で生じる抗力が非常に大きく、誘導抗力は無視してよい。一方で揚力は速度の2乗に比例するため、高速になればなるほど揚力発生に特化した形状でなくても、大きな揚力を発生できる事になる。よって超音速や極超音速といった特殊環境下では、リフティングボディは発生抗力の小ささ故にむしろ通常の翼の性能を上回り、機体を支えるのに十分な揚力を供給することができる(ウェーブライダー)。 以上のようなコンセプトにより、特に胴体だけの機体を指すこともあるが、それなりに大きな翼を持っていても、揚力を目的とした大型の胴体を持つ機はリフティングボディ機に含めることもある。なお、機体全体が翼(薄翼)となっている全翼機とはその形態や応用目的の違いから区別されることが多い。また近年提唱されているブレンデッドウィングボディ(Blended Wing Body、略称BWB)と一見共通する部分もあるが、両概念の提唱や実証を行っているNASAやアメリカ空軍ではそれらを別個のものとして扱っている。 主な歴史[編集] 左からX-24A、M2-F3、HL-10。 X-24から引き継いだリフティングボディを採用したX-38の三面図。 風洞実験中のX-43の模型。 最初期に現れたリフティングボディ機はアメリカの航空機設計家ビンセント・ブルネリが1921年に開発したRB-1である[2]。RB-1は胴体幅が広く、その機軸にそった縦断面が分厚い翼型をしている特異な外観の複葉機であり、胴体で発生する揚力が機体の浮揚に貢献する設計となっていた。以後もブルネリは同様の航空機を設計したが、その多くは必要となる浮揚力の半分程度を胴体で発生させるというものであった。ただしブルネリの設計は後述するNASAの実験機のように高速性を狙ったものではなく、浮揚力の増大による効率の改善と搭載量の増加を意図したものであり、それは現代のBWBに通じるものであった[3]。 リフティングボディがその狭義の概念と代表的な形態を確立するのは1950年代に本格的な宇宙開発が開始された後のことである。当時の宇宙船は大気圏への再突入時に滑空性と操舵性が考慮されていないカプセル型のものであったが、1950年代半ばにNACA(NASAの前身)のエームズ研究所が通常の飛行機と同様の着陸によって基地へ帰還できるような宇宙船の発案を行い、リフティングボディの概念が形成されることとなった。 エームズ研究所の案を初めて実行に移したのはドライデン飛行研究所のデール・リード(Dale Reed)率いるチームであり、1962年から機体の試作を行った。そうして翌1963年、外皮に合板を使ったグライダーであるM2-F1が完成し、自動車や輸送機に曳航されて空力特性のテストが行われた。さらに同年、M2-F1で得られたデータを基に大出力ロケットエンジンXLR-11を搭載した全金属製の後継機M2-F2の製作が開始され、1966年にノースロップの手によって完成し、B-52に懸架されて空中分離・滑空試験が行われた。このM2-F2は1967年に着陸事故を起こしてひどく損傷したものの、事故の教訓から機体後部中央に垂直安定板を新設したM2-F3として生まれ変わり、より安定性の高い機体となったことが確かめられた。 また同時期にNASAのラングレー研究所が設計し、ノースロップが製造したHL-10(en:Northrop

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新井正男 – Wikipedia

新井正男(あらい まさお、1925年 – 2019年1月6日[1])は、日本の法学者・弁護士。英米法学者。中央大学名誉教授。埼玉県出身。 目次 1 略歴 2 著書 3 脚注 4 外部リンク 1950年、中央大学法学部卒業。同大学院法学研究科修了。 同法学部助手。1955年、同法学部助教授。1963年イギリス・ロンドン大学、アメリカ・ミシガン大学に研究留学(~1965年)。1962年、中央大学法学部教授。通信教育学部部長、中央大学附属中学校・高等学校校長を歴任。1996年中央大学定年退職。同名誉教授。弁護士登録。 1982年、学位論文「判例法理論の研究」で、法学博士(中央大学)[2]。 『イギリス法講義』(文久書林、1960年初版・1967年増補版) 砂田卓士と共編『英米法講義』(青林書院新社、1971年初版・1992年補訂版) 『イギリス法の基礎』(文久書林、1973年初版・1984年第3版) ゴードン・ボーリー、オーブリー・L・ダイヤモンド共著池上俊雄と共訳『消費者保護:イギリス法の歩み』(中央大学出版部、1975年初版・1995年新版第3刷)

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布袋町 – Wikipedia

布袋町(ほていちょう)は、かつて愛知県丹羽郡にあった町。 現在の江南市の南部である。 戦国時代の生駒屋敷は、布袋町内の小折(現・江南市小折町)に所在し、織田信長の側室吉乃及び長男織田信忠、次男織田信雄、長女徳姫(五徳)は生駒屋敷にて出生したと言われている。 江戸時代は、ほとんどが尾張藩領であった。明治以後、丹羽郡役所他の行政機関が置かれ、丹羽郡の中心となった。現在でも江南警察署(旧布袋町大字木賀=江南市木賀町)、江南保健所(旧布袋町大字小折=江南市布袋町)などは江南市制前の布袋町の区域内に所在するが、現在の江南市役所本庁は江南駅(旧・古知野駅)近隣の赤童子町(旧・古知野町大字赤童子)に所在し、布袋駅前の布袋ふれあい会館内に江南市役所布袋支所がある。 1878年(明治11年) – 丹羽郡小折村が分離し、小折村(現在の江南市小折町など)と布袋野村(現在の江南市布袋町など)になる。 1889年(明治22年)10月1日 – 丹羽郡小折村、布袋野村、五明村、曾本村が合併し、小折村になる。 1894年(明治27年)11月26日 – 小折村が町制施行し、布袋町になる。 1906年(明治39年)5月1日 – 丹羽郡布袋町に秋津村の一部(旧・安良村、寄木村、東大海道村、力長村、今市場村)、栄村の一部(旧・木賀村、中奈良村)が編入される。秋津村の残りの部分(山王・石枕・尾崎・北野)及び栄村赤童子はこのとき古知野町に編入され、昭和29年の合併により江南市の一部となった。 1912年(大正元年)8月6日 – 名鉄犬山線開業。布袋駅設置。 1922年(大正12年)3月24日

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朝霧カフカ – Wikipedia

朝霧 カフカ(あさぎり カフカ、1984年[1]3月17日 – )は、日本のシナリオライター、漫画原作者、ライトノベル作家。愛媛県出身[1]。 元々は自動車会社に勤めるサラリーマンだった[2]。働いて2,3年目からシナリオライターになることを意識していたが[3]、会社が忙しかったため仕事をしながら物語作りを行うということもできず[4]、2012年の始めに会社を辞める[3]。 その後はシナリオ関係の就職活動の準備をしつつ[4]、まずは無料で見てもらえるものを作ろうと考え[2]、「昔からやってみたかった」という動画の投稿を始める[4]。プロになるには職歴が大事という考えによる、名刺代わりになる作品としての動画制作でもあった[3]。そうしてニコニコ動画で発表された動画「ゆっくり妖夢と本当はこわいクトゥルフ神話」は大きな反響を呼び[4]人気となる[2]。 動画をアップしてから4か月が過ぎたころに、『月刊少年エース』の編集長に2週間後に企画を3つ持ってくるよう話を持ちかけられ、その後『ヤングエース』の編集部からも声がかかる[3]。そして打ち合わせの後『文豪ストレイドッグス』で商業デビューする[2]。同作品の前日譚であるノベライズ『文豪ストレイドッグス 太宰治の入社試験』で小説家としてデビューする[5]。「ゆっくり妖夢と本当はこわいクトゥルフ神話」は後に『水瀬陽夢と本当はこわいクトゥルフ神話』として漫画化され、朝霧が原作を担当した。 影響を受けている作品は多数あり、その1つとして漫画『ジョジョの奇妙な冒険』を挙げている[6]。 少年時代にはRPG『ドラゴンクエスト』を好んでおり、RPG制作ソフト『RPGツクール』にもはまって話作りばかり行っていた。その時に話作りのスイッチが入ったのかもしれないと述懐している[3]。物語作りにおいては、漫画や小説、ゲームといった媒体にはこだわっておらず、その媒体に最適化された物語を作りたいと考えている[4]。 漫画原作[編集] 小説[編集] ドラマCD[編集] TVアニメ『文豪ストレイドッグス』オリジナルドラマCD やや非凡なる日々(2016年) ゲーム[編集] ラヴヘブン(2014年9月[7]・12月[8]、2015年4月[9]・11月[10]、2016年4月[11]・6月[12]) – 『文豪ストレイドッグス』とのコラボレーションシナリオ監修

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