Month: June 2020

郡山ジャンクション – Wikipedia

この項目では色を扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。 郡山ジャンクション(こおりやまジャンクション)は、福島県郡山市にあるジャンクションであり、東北自動車道と磐越自動車道が接続されている。 1990年(平成2年)10月に東北自動車道から磐越自動車道の会津若松・新潟方面が開通し、その5年後の1995年(平成7年)8月に磐越自動車道のいわき方面が開通した。 そのため、ダブルトランペット型と呼ばれる一般的なトランペット型インターチェンジを2つ組み合わせた形状となっている。 また、進路別に路面が色分け(白線の内側に破線がある)されており、誤進入防止に役立っている。 例えば、東北自動車道上り線から磐越自動車道上り線へ行く場合、「いわき方面」に2度分岐した後、東北自動車道下り線からの合流があり、その先で左へカーブを描きながらもう一度「いわき方面」へ入らなければならない。 接続している路線[編集] 逆走事故[編集] 2008年(平成20年)2月13日17時40分 (JST) 頃、軽乗用車が逆走事故を起こした。このJCT特有の形状故の事故と考えられている。2月中旬における郡山市でのこの時間は「夜間」と呼べる暗さで、色分けが十分に機能していなかった可能性もある。 経緯は以下の通りとされる(報道[要文献特定詳細情報]による推測)。 福島・仙台方面より南下してきた軽乗用車は、東北道上り線から分岐した。 磐越道で会津若松・新潟方面へ行くべく、■オレンジ の案内に従って支線内移動を開始した。 ■ブルー の案内と共有された支線からの分岐も、東北道下り線を緒とする支線との合流も、問題なかった。 ところが、方向感覚が混乱したためか、磐越道下り線との合流点でUターンしてしまったと見られる。 逆走中の軽乗用車から見て左の車線=順方向から見た追い越し車線を東に約2km走って、2トントラックと正面衝突した。 衝突相手のトラック運転手は、「前を走る大型トラックを抜こうと追い越し車線に出たら、軽乗用車が現れた」と述べている。

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リスボン県 – Wikipedia

リスボン県 県都 リスボン 地方 リスボア地方(一部はアレンテージョ地方) 過去の州 エストレマドゥーラ州(一部はリバテージョ州) 面積 2.800 km² 人口 2.135.992人 人口密度 774人/km² 地方自治体数 16 教区数 226 ISO 3166-2:PT

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塚越智朗 – Wikipedia

塚越 智朗(つかこし ともあき、1972年12月22日 – B型)は、日本のシンガーソングライター、プロデューサー、タレント。 メディア・イベント出演[編集] 1997年12月~1998年1月 ラジオCM『サッポロ黒ラベル』“CMソングオーディション”自作自演曲オンエア(J-wave、FM802、北海道ノースウェーブ)。 1999年3月 NTV『いつみても波瀾万丈』再現ドラマ主役:モト冬樹役(中学生以降すべて)出演。 1999年11月 『横浜みなとみらい21フェスティバル』ダンスパレードアフリカンチームテーマソング「Halo」の作詞とボーカル出演。 2000年2月 テレビ朝日『タケシムケン』ニセバカ殿役で出演。 2000年2月 TBS『ビッグウェンズデイ』“ナリキリくん浜田省吾”で出演。 2000年2月 TOKYO FM系列CSミュージックバード『X3 FILE』(「Halo」オンエア)。 2000年3月 テレビ朝日『びっくりハンター』出演。 2002年1月 AM北日本放送『アッキー・ユッキーのChot Choco Chip』ゲスト出演。 2002年12月 桶川市べに花ふるさと館にて、男女ユニット「Fortune」でクリスマスコンサート(ワンマン)。 2003年1~3月 映画『黄泉がえり』出演。

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高千穂丸 (フェリー) – Wikipedia

高千穂丸(たかちほまる)は、日本カーフェリーが運航していたフェリー。 就航当初は日本最速のフェリーで、本船と美々津丸の就航により、京浜航路の所要時間は5時間短縮され、従来より1隻少ない2隻での毎日運航となった。 本船と美々津丸の就航により、従来就航していたせんとぽーりあは、広島 – 日向航路へ転配、はいびすかすは大阪 – 日向航路へ転配、ぶーげんびりあは予備船となった[3]。 航路[編集] 京浜航路 美々津丸と本船の2隻で毎日運航した。下り便は、川崎港18時発、日向港翌15時着(所要時間21時間)、上り便は、日向港19時発、川崎港翌15時着(所要時間20時間)で運航された。 大阪航路 神戸航路 この節の加筆が望まれています。 船室[編集] 船室タイプの一覧[1] クラス 部屋数 定員 貴賓室 2名×2室

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ほえろブンブン – Wikipedia

『ほえろブンブン』は、「COM」等で連載されていた村野守美による日本の漫画作品(原題は『ほえろボボ』)、およびこれを原作とする和光プロダクション制作のテレビアニメ、マッドハウス制作の劇場アニメである。 当初は「ほえろボボ」というタイトルであったが、一部地域において放送コードに抵触する惧れがあったため、テレビアニメ化に際して「ほえろブンブン」に変更された。 本作は、小さな雄の子犬・ブンブンの冒険と成長を描いた冒険漫画である。 『ほえろボボ』のタイトルで「COM」及び「COMコミックス」1971年9月号から1972年3月号にかけて第1部が連載された。第2部の連載はされることなく作者の村野が2011年3月7日に死去した[2]ため本作は絶筆の作品となった。 「COM」「COMコミックス」での連載後、「週刊少年マガジン」1972年7月9日号(29号)から9月10日号(39号)にかけてリメイク版(舞台が日本に変わるなど設定が変更されている)が連載されたほか、「月刊テレビランド」1973年3月号から9月号にかけて2度目のリメイク版が連載されている。 後に村野は、「COM」「COMコミックス」に連載されたものが本編で、他誌に連載されたものは別伝であると語っている。 その後、1981年にテレビアニメ化されたのに伴い、「ほえろブンブン」とタイトルを変えて3度目のリメイク版が「テレビランド」「中日新聞」「東京新聞」に連載された。 ストーリー[編集] 生まれてすぐ飼い主に捨てられた小さな雄の子犬・ブンブン。ブンブンは母犬を探す旅路の中で、優しい老犬・ノラや他の犬達と出逢い、逞しく成長してゆく。果たして彼は、無事母犬に再会できるのであろうか? 飼い主である謎の男は闘犬のブリーダーであり、アラスカのホッキョクグマに勝てる最強のマスチーフ犬に鍛え上げるために、わざとブンブンを野良犬の社会に放ったのだった。 Grand comics「ほえろボボ〈第一部〉」全1巻(1978年、翠楊社)※COM版 アクションコミックス「ほえろブンブン」全2巻(1980年、双葉社)※COM版に加筆修正を加えたもの ヒーローコミックス「ほえろブンブン」全3巻(1980年、日本文芸社)※東京新聞ほか版 電子書籍「ほえろブンブン」全4巻(2000年、eBookJapan)※東京新聞ほか版 アニメ版[編集] 以下のアニメ作品が制作されている。それぞれにストーリーの繋がりは全くない。 企画書・パイロットフィルム[編集] ほえろボボ[編集] 1972年頃によみうりテレビで企画されていたが、諸般の事情で幻に終わった企画。早稲田大学演劇博物館に企画書が所蔵されている。1973年には本作のリメイク版が連載されていた「テレビランド」において「テレビ化決定」との煽り文句が掲載されていた。

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北園みなみ – Wikipedia

北園 みなみ(現:MINAMI KITASONO)(きたその みなみ、1990年1月12日[1] – )は、日本のミュージシャン、シンガーソングライター、作曲家、編曲家。長野県松本市出身。2012年からM.Kitasonoとして活動を開始する。2014年に名義を北園みなみに変更。2017年10月31日まで株式会社ポリスターに所属していた。2018年12月26日 – 2021年1月10日は「大沢建太郎」名義で活動していた。2021年からは、活動名義をM.KItasonoの正式表記である「MINAMI KITASONO」としている。 メディア露出に制限をかけており、現時点(2020年10月)では一切顔出しをしていない。 2018年2月21日、黒澤鷹輔(黒澤よう)、佐藤望と共にバンド・Orangeadeとして1stシングルをリリース。 2018年12月26日、Orangeadeの1stアルバム「Broccoli Here」のリリースを機に名前を大沢建太郎に変更[2]。 2019年10月1日、Orangeadeの公式ホームページにおいて、著しい素行不良を理由にバンドを解雇されたことが発表された[3]。 2021年1月10日、自身のツイッターにおいて、活動名をMINAMI KITASONOに変更することを発表した[4]。 管や弦のアレンジにこだわりも持つ。スコアは手書き派だが、ソフトに移行しつつある。 最も得意とする楽器はエレキベースで、一時期はジャコ・パストリアスの採譜と完コピに努めた。 音楽の嗜好は、23歳ごろからクラシックに移行し始め、最近はバロック期の多声音楽に傾倒する。 座右の銘は、餅は餅屋(略すと餅々〈もちもち〉になるため)。

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スルターン・グーリーの霊廟=モスク複合 – Wikipedia

スルターン・グーリーの霊廟=モスク複合あるいはグーリーヤ(英語: Ghuri Complex, アラビア語: مجموعة السلطان الأشرف الغوري‎, ラテン文字転写:majmū‘a al-sulṭān al-ašraf al-Ḡūrī )[1]は、エジプトのカイロ旧市街を南北に走るムイッズ通りに面して互いに向き合う2つの建築物群を中心に成立するイスラーム教の宗教複合である。1503年から1505年の間にスルターン・カーンスーフ・グーリー(ガウリー)により建てられた。東側にはスルターン・グーリーの霊廟とハーンカーとサビールとクッターブがあり、西側にはモスクとマドラサがある[2]。2018年現在では、東側建築物群全体が史跡として観光客に開放されており、西側建築物群全体がモスクとして利用されている[3]。 スルターン・アシュラフ・カーンスーフ・グーリー(ガウリーとも。在位1501年-1516年。)はブルジー・マムルーク朝最後のスルターンであり、「グーリー」という通称は彼が駐屯していた兵舎の名称である。彼は元はタルスースを治めており、その後アレッポの宰相に出世し、1484年のオスマン帝国への軍事遠征のときに軍功を積んだマムルーク騎士であるが、1516年にアレッポ郊外でオスマン帝国軍との交戦中、味方のハイル・ベクの裏切りののち死んだ。遺体は見つからず、彼がひと財産を費やして建てた自分の霊廟に、遺体は入っていない[2]。他のマムルーク・スルターンの例にもれずグーリーも、活発で酷薄な迷信深い暴君であったとされるが、その一方で彼は、音楽と詩と花をこよなく愛し、スーフィーや聖人といった敬虔な人々に惹かれる、洗練された文化人であった。王朝の経済状態はひどい有様であったが、王権を誇示しようとする思いに駆られ、グーリーは王権を象徴する建築物を建てるために多額の費用を費やし、多くの財産を没収した。 レイアウト[編集] 簡潔に「グーリーヤ」とも呼ばれるこの霊廟複合は、カイロ旧市街の中心(いわゆるバイナル・カスライン)を南北に走るムイッズ通りとアズハル通りが交差する場所に建ち、ムイッズ通りを挟んで向かい合う東西2つの建築的構造を有するレイアウトに特徴がある。 西側はミナレットを具備するモスクからなり、東側は霊廟、ハーンカー、サビールとクッターブが一体になった施設からなる墓廟建築複合である。建築物群は両側とも第1層に市場・商店が入っており、街路からつながってスークを形成している。また木製の庇が東側建築と西側建築の間に張りわたされており、これがムイッズ通りに日陰を提供している。ドームとミナレットは街路により分離されているが、青い陶製の装飾により統一されており、単一の調和的な建築であるとの思いを見る者に抱かせる。この青い陶製の装飾は、アズハル・モスクにスルターン・グーリーが奉献したミナレットの装飾と同様のものである。 グーリーヤは南から近づくと、ミナレット及びドームが次第に姿を現すように設計されている。ファサードが街路の方向に合わせて作られていない点は、他の宗教建築複合と異なるところである。ファサードはグーリーヤの両端の向きに合わせて作られており、これにより、霊廟側のサビール=クッターブの北側突出部とモスク側のマドラサのミナレットの南側突出部を角とした、半分閉じた正方形の空間が作り出されている。当該正方形の内部にありながら外部に開かれた空間は露天商に貸し出され、その賃料はグーリーヤの維持に使われる。 東西の建物のファサードは、壁の高いところに高い浮彫が施されるなどといった、いくつかの特徴を共有している。扉が設置される箇所の壁のくぼみには黒と白の大理石が表面に貼られている。モスクの隅角に設置された支柱は、コプト様式とビザンツ様式の柱頭を持つが、これはマムルーク朝期の工匠が先イスラーム時代の意匠を真似たことを示している。ミナレットはズワイラ門から見えるほど非常に高く、四角柱の形状をした4層のミナレットである。このミナレットは19世紀まで最上層に4基の構造物を持っていたが、このような構造を持つものとしてはカイロでもっとも古い建築であった。19世紀に、この最上層の構造物が一度崩壊し、5基の構造物を持つように改修された。モスクの内部は舗装され、壁面には黒と白の大理石が表面に貼られている。 ハーンカーと霊廟[編集]

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個人情報の保護に関する法律 – Wikipedia

この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 個人情報の保護に関する法律(こじんじょうほうのほごにかんするほうりつ、英語: Act on the Protection of Personal Information [1]) は、個人情報の有用性に配慮しつつ、個人の権利利益を保護することを目的とした個人情報の取扱いに関連する日本の法律[2]。略称は個人情報保護法。この法律では個人情報の定義を「生存する個人に関する情報であって、この情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの」としている。 2003年(平成15年)5月23日に成立し、一般企業に直接関わり罰則を含む第4〜6章以外の規定は即日施行された。2年後の2005年(平成17年)4月1日に全面施行した。 個人情報保護法および同施行令によって、取扱件数に関係なく[3]個人情報を個人情報データベース等として所持し事業に用いている事業者は個人情報取扱事業者とされ、個人情報取扱事業者が主務大臣への報告やそれに伴う改善措置に従わない等の適切な対処を行わなかった場合は、事業者に対して刑事罰が科される。 誤解されやすいが、統計法に基づいた国勢調査のような日本国の基幹統計調査には、回答拒否・虚偽申告者に罰則規定があり、統計法第52条により個人情報保護法は適用されない上に、第13条の3により調査回答義務がある[2][4][5][6]。 背景[編集] 個人情報保護法が制定された背景として以下の7つが挙げられる[7]: 構成[編集] 章 章の内容 節

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ニルス・グスタフ・ノルデンショルド – Wikipedia

ニルス・グスタフ・ノルデンショルド(Nils Gustaf Nordenskiöld、1792年10月12日 – 1866年2月2日)は、鉱物学者。息子は鉱物学者、探検家のアドルフ・エリク・ノルデンショルドである。 当時、スウェーデン王国の一部であった南フィンランドのMäntsälä生まれ。ヘルシングフォシュ(現在のヘルシンキ)とスウェーデンで鉱物学を学んだ後、フィンランドの鉱物検査官に任命された。フィンランドはそのときまでにロシアに割譲されており、自治権を持つ大公国となっていた。 1819年10月3日、ロシア科学アカデミーの通信会員に選ばれた。同アカデミーはピョートル1世の命により1724年1月28日(2月8日)の元老院布告により設立された。1853年には、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員にも選ばれている。 それまでフィンランドやロシアで知られていなかった多くの鉱物を記述・発見した。1820年、フィンランドの鉱物に関する最初の科学的ハンドブックとして有名な論文を発表した。また、外国のジャーナルにも多くの論文を発表し、北欧以外の国でも注目されるようになった。後年、息子のアドルフ・エリク・ノルデンショルドとこの知識を共有し、探検家として有名になることを約束した[1]。 1823年にフィンランドに戻り、1828年にヘルシングフォシュに新設された鉱業委員会の監督官に任命され、1865年に亡くなるまでその職にあった。 原石の発見[編集] アレキサンドライトの原石 議論はあるもののよく知られた話によると、アレキサンドライトは、1834年のアレクサンドル皇太子(後のアレクサンドル2世)の誕生日である4月17日にノルデンショルドにより発見され、彼にちなんで命名された[2]。アレキサンドライトを発見したのはノルデンショルドであるが、彼がアレキサンドライトを発見し、アレクサンドルの誕生日に命名したとは考えられない。ノルデンショルドが最初に発見したのはレフ・ペロフスキー伯爵から受け取った新発見の鉱物試料を発見した結果であり、彼は最初エメラルドだと思っていた。硬度の高さに戸惑っていたものの彼は調査を続けていた。その日の夜にろうそくの光の下で試料を見ていたところ、石の色が緑ではなくラズベリーレッドに変わっているのを見て驚いた。後日、彼は金緑石の新種の発見を確認し、”diaphanite”(ギリシア語で「2」を意味する”di”、「見えない」を意味する”aphanes”、「現れる」を意味する”phan”)という名前を提案した。しかし、Perovskiiはこの貴重な標本を皇室に納め自身が皇室に取り入れられるために、1834年4月17日、後に皇帝となる人物に献上し、彼に敬意を表してアレキサンドライトと命名した[3]。 他の鉱物[編集] ノルデンショルドにより記述された他の鉱物には以下のものがある。 1849年には「ウラルのクリソライト」と呼ばれるものを調べ、それがアンドラダイトガーネットが豊富な緑色の種類であることを発見した。1854年、この石にデマントイド(「ダイナモンドのような」という意味)という名前を提案した。 ^ Alexandrite chronological backstory. (2006,

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