Month: July 2020

元 (王朝) – Wikipedia

「元朝」はこの項目へ転送されています。元旦を意味する元朝(がんちょう)については「元日」を、気象予報士については「関口元朝」をご覧ください。 大元 大元 ᠳᠠᠶᠠᠩᠶᠡᠬᠡᠮᠤᠨᠭᠭᠤᠯᠤᠯᠤᠰ (国旗) 元の版図疆域1372萬平方公里(1294年) クビライ家皇統は1388年まで存続。北走後も1635年まで北元として存続。 元(げん)は、中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国であり、そのうち中国本土とモンゴル高原を中心領域として、1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル人が建てた征服王朝である。 正式国号は、大元(だいげん)で、ほかに元朝(げんちょう)、元国(げんこく)、大元帝国(だいげんていこく)、元王朝(げんおうちょう)、大モンゴル国(だいもんごるこく)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で、国姓は「奇渥温」である。 定義と名称[編集] 伝統的な用語上では、「中国を征服したモンゴル帝国が南北に分裂した内紛を経て、正統な中華帝国になった国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある[注釈 1]。 中国王朝としての元は唐崩壊(907年)以来の中国統一王朝であり、大都(現在の北京)から中国とその冊封国やモンゴル帝国全体を支配し明(1368年 – 1644年)に追われて北元になってからはモンゴル高原に戻った。中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国漢人の伝統体制に同化されず、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」統治法を行った。一方、後述するように行政制度や経済運営の特徴は南宋の仕組みをほぼそのまま継承している。 元は、1260年、チンギス・ハンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝に即位したクビライ(フビライ)が1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立し、モンゴル語ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス (、ローマ字表記:Dai-ön Yeke Mongγol Ulus)

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無能なナナ – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 独自研究が含まれているおそれがあります。(2017年4月) 言葉を濁した曖昧な記述になっています。(2017年4月) 『無能なナナ』(むのうなナナ)は、原作:るーすぼーい、作画:古屋庵による日本の漫画作品。スクウェア・エニックスの『月刊少年ガンガン』にて、2016年6月号から連載中[1]。2020年10月から12月まで全13話のテレビアニメ版が放送された。 あらすじ 能力者と呼ばれる特殊な能力を持った少年少女たちがいた。彼らは”人類の敵”と呼ばれる怪物と戦うため、孤島の学園に集められ、日夜訓練を行っていた。中島ナナオもその1人であったが、能力を誰にも見せない彼は無能と呼ばれクラスの中で嘲笑の対象となっていた。ある日、2人の転入生がナナオの前に現れた。転入生の1人である柊ナナに半ば強引に背中を押される形でナナオはクラス委員長に立候補した。他の立候補者2人の戦いを能力で鎮めたナナオが委員長に決まった。しかし、その日の学校からの帰りにナナオはナナに崖から突き落とされる。実は能力者達こそが”人類の敵”であり、ナナは能力者達を秘密裏に始末させるために”委員会”から送られた刺客だったのだ。 次々に能力者達を始末するナナだったが、もう1人の転入生である小野寺キョウヤから疑いの目を向けられるようになる。また、純真な心を持つ犬飼ミチルと交流することによって、ナナの能力者への気持ちに変化が生じる。 登場人物 主要人物 柊ナナ(ひいらぎ ナナ) 声 – 大久保瑠美[2] 本作の主人公。ツインテールの女子生徒。 一切の異能力を持たない無能力者で、委員会の命である「能力者たちの抹殺」のためにナナオたちのクラスに転入する。 幼少期に両親を能力者に惨殺されて以来、能力者のことを強く憎んでいる。警察がナナの前で「犯人は子供部屋の窓から侵入した」と口を滑らせたことから両親が殺害されたのは自分のせいだと思っており、それが強いトラウマになっている。年の離れた兄が1人いるが、ナナが生まれる前に家を出ており面識はない。両親の死後は親戚中をたらい回しにされていた。 同級生の前では敬語を使い、「あまり空気は読めないが人見知りしない明るい性格」を演じている。また洞察力の高さを利用して、自身の能力は「読心術」だと偽っている。委員会からは、能力者たちの調査時の能力と推定殺害人数が記録された端末を支給されており、優先順位の参考にしている。 物語開始当初は思慮深く冷酷な性格で、ためらうことなく能力者たちを抹殺していたが、情報提供のための「犬」として扱っていたミチルと交流するうちに徐々に彼女に感化され、「能力者が善人だった場合」を仮定して物事を考えるようになるなど人間らしい感情が芽生え始めている。また、ミチルがナナのためにナナの心の傷を本気で癒そうと尽力していたことを知ったことをきっかけに、ミチルに真の友情を感じるようになる。 小野寺キョウヤ(おのでら

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丸山完二 – Wikipedia

丸山 完二(まるやま かんじ、1940年1月5日 – )は、兵庫県西脇市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ。 ファッションデザイナーの丸山敬太は実子。 西脇高校卒業後は1958年に立教大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは1年次の同年、2年次の1959年に3度の優勝を経験。3年次の1960年秋季リーグでは打率.365で首位打者となり、一塁手としてベストナインにも選出された。リーグ通算64試合出場、237打数68安打、打率.287、0本塁打、25打点を記録。大学同期に青野修三、寺本勇がいる。 1962年に国鉄スワローズへ入団。1年目の同年は開幕直後から一塁手、外野手として起用され、一番打者に定着。規定打席(28位、打率.210)にも達して新人王候補にも挙がったが、城之内邦雄にタイトルを奪われた。この年、当時国鉄のエースで強打者でもあった金田正一は打席に立って4度敬遠されているが、次打者となったのはいずれも丸山であった。結果は3打数3安打1四球で、4度目の9月24日の広島戦は11回裏1死二塁の場面で広島は金田を敬遠。延長では3度目、サヨナラの場面では7月7日に続く2度目であったが、丸山は大石清からサヨナラ二塁打を放っている。金田敬遠、丸山勝負は1963年の中日戦の9回サヨナラの場面もあるが、この時は三塁ゴロに倒れている[1]。 1963年も移籍入団の高林恒夫と立教コンビを組みチャンスメーカーとして活躍。1964年には5月に故障して長期欠場を余儀なくされるが、7月には復帰。その後もレギュラーとして活躍を続けるが、若手の台頭で出番が減った。1968年に学生時代に経験のある三塁手にコンバートされる。危惧された守備も堅実にこなし、城戸則文の後継として定位置を獲得、数少ない外野から内野へのコンバート成功例となった。1970年には外野手に復帰する。1971年限りで現役を引退。 引退後はヤクルトで二軍守備・走塁コーチ(1972年 – 1975年)→一軍外野守備・走塁コーチ(1976年 – 1979年)→一軍守備コーチ(1980年 – 1982年)、一軍守備・走塁コーチ(1983年, 1987年 – 1990年)、二軍総合コーチ(1984年 –

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支持政党なし (政治団体) – Wikipedia

支持政党なし(しじせいとうなし)は、日本の政治団体である。略称は「支持なし」。2013年7月1日結党。 2014年の衆議院総選挙時には、識者や一部から紛らわしい名称との指摘があり、物議を醸していた[1][2]。 第24回参院選での支持政党なしの選挙運動車。助手席で演説を行っているのは代表の佐野秀光(2016年7月9日、東京都渋谷区) 初代代表の佐野秀光は第45回衆議院議員総選挙(2009年)、第22回参議院議員通常選挙(2010年)、第46回衆議院議員総選挙(2012年)に立候補経験があり、政治団体「新党本質」を結成した経緯があった[3]。 第47回衆議院議員総選挙[編集] 比例北海道ブロック 党派別得票数(第47回衆議院議員総選挙)   支持政党なし (4.19%) 2014年の第47回衆議院議員総選挙において、比例北海道ブロックから、代表の佐野と佐野の義母・本藤昭子の2名が立候補した[4]。北海道での立候補について佐野は「定数が8の北海道では候補者を2人擁立すれば比例代表で立候補できる」、「(北海道の風土は)外部の文化や人を受け入れやすい」と説明した[5][6]。選挙に先立ち、政治団体「支持政党なし」結成届を総務省に提出、政治団体名の届け出は既存政党と同一名称や類似名称でなく、代表や比例候補者の氏名を想像させる名前でなければ、公序良俗に反しない限り原則自由として、同名での結成が認められた[7][8]。但し、団体名が一般語彙に近いこともあり、蓮舫(当時、民主党参議院議員)が「支持政党なし、は政党名です」とTwitterで注意喚起をする[9]など、「『支持政党なし』は団体名」との周知が一部で行われた。また、投票時の略称などの記載の取り扱いについて、北海道選挙管理委員会や札幌市・旭川市の選挙管理委員会によると、佐野側が指定した略称の「支持なし」のほか、「政党なし」、「支持政党」、「支持」と記載されていた場合、「支持政党なし」の有効票になるが[5][10]、「なし」については、道の選管は無効票になるとコメント[4]、最終的には各開票所の開票管理者が判断することとなった。なお、当初は佐野が略称を「なし」にする予定で事前に総務省に2回確認に行き「他にそのような名前が出てこなかったら大丈夫」と言われて了解を貰っていたが、NHK北海道での政見放送収録直前に総務省から略称が「なし」ではダメという話となったために佐野が略称を「支持なし」とした経緯がある[11]。 抽選の結果、投票所での比例代表選挙の政党名簿の並び順が一番右端となった[12]。 同選挙では議席の獲得には及ばなかったものの、「新党本質」で出馬した2009年総選挙の得票数(7,399票)[5]を大きく上回る104,854票を獲得[4][13]、同ブロックの次世代の党と社会民主党の両国政政党を上回った[4]。 但し、前述の通り「紛らわしい」党名であったため、一部メディアからは「有権者をだます意図があった」と批判された。 北海民友新聞は「名称が紛らわしいとの批判が一部であった」と言及した[14]。 信濃毎日新聞は「有権者をミスリードするとの批判はある」と論評した[15]。 朝鮮日報は「『選挙制度の特性を悪用した詐欺』と批判する声が続出している」と報じた[16]。 佐野は選挙翌々日の12月16日、ジャパンタイムズの取材に対して「私は有権者に対して、有権者自身の正直な意見―選挙で支持する政党がないこと―を表明する選択肢を提供したかった」と説明した[9]。また、佐野系の団体の票が急伸したことについて、産経新聞は「普段の選挙であれば『支持政党なし』は無効票になり数字として表れないが、今回は有効票になった」[7]、毎日新聞は「我々は無党派層のための代替の選択肢であったと信じている」[17]と、佐野の発言をそれぞれ伝えた。 アメリカのニュースサイト International Forecaster

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木股大輔 – Wikipedia

木股 大輔(きまた だいすけ、1983年1月28日 – )は、日本の覆面レスラー。リングネームは問題龍(もんだいりゅう)。DRAGON GATE所属。 APEキマタ[編集] 2006年12月9日に若手選手育成のため作られたDRAGON GATE NEXの旗揚げと共に、猿をモチーフにしたAPEキマタのリングネームでルパン松谷戦でデビュー。猿を模したコスチュームで動きも猿らしく身軽でバナナが大好物で見つけると追いかけていく習性があった。「飼育員」としてバッファロー吾郎がセコンドに付いたこともあった。「ギミック」の為にお笑い試合が多く、活躍の機会に恵まれず、2007年12月から山に帰ってしまい、一時期、行方不明になる。 超神龍(2代目)[編集] 2008年1月11日に行われたDRAGON GATE NEXにて、超神龍(2代目)として、トザワ戦で再デビューし、勝利する。当初は全身コスチュームであったが、後に上半身を露出させたコスチュームに変更。 5月14日、土井成樹と吉野正人に新ユニット(後のWORLD-1)のメンバーになるかと思われたが、控え室に土井の携帯電話を取りに行かされただけだった(その後、m.c.KZ.が加入)。 Gammaからオープン・ザ・ガンマゲート王座に「中国からの刺客~」、「2代目~」、「元APEキマタこと~」として3度連続で逆指名された。2度目、3度目では勝利したにもかかわらず、理不尽な判定により、王座獲得はならなかった(その後、Dr.マッスルに扮した吉野正人にプレートはプレゼントされた)。 ダイエット7番勝負で成長を見せた戸澤に触発され、「自分もやりたい」と直訴したところ、ドン・フジイの提案により、なんと50番勝負が行われることに。対戦相手は団体内選手の他にも、ザ・ターボマン、佐藤悠己、岡田かずちか(現:オカダ・カズチカ)、グラン浜田がいる(結果は1勝1分け48敗) 11月8日の岐阜大会にて地元であることを明かし、B×Bハルクと組み、YAMATOとサイバー・コングを相手にツインゲート・コントラ・引退マッチを行い敗北、自らマスクを脱ぎ引退を宣言するが、ハルクに止められあっさり撤回した。11月28日の武勇伝・拾壱でグラン浜田と対戦するも敗北[2]。 2009年、KAMIKAZE、WARRIORS-5が結成された際には意味深な発言(ユニット加入を希望)していた。1月17日には、ザ・ターボマンの持つメキシコ州ウエルター級王座に挑戦した。 4月18日、望月成晃をパートナーにオープン・ザ・ツインゲート王座次期挑戦者チーム決定トーナメント1回戦にて勝利するが、2回戦で敗北。その後、望月に八つ当たりし、5月5日に愛知県体育館大会出場権争奪マッチが行われることになった。

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エドワード・ジェームズ – Wikipedia

エドワード・ウィリアム・フランク・ジェームズ(英: Edward William Frank James, 1907年8月16日 – 1984年)は、イギリスの詩人。富豪で、シュルレアリストの支援者でもあった。 父は画家のウィリアム・ドッジ・ジェームズ、祖父はフェルプスドッジの創設者の一人であるダニエル・ジェームズ。 1907年生まれ。オックスフォード大学クライスト・チャーチ校で学ぶ。12歳で父の遺産を相続[1]。在学中に詩人ジョン・ベチェマン(1906-1984)の第一詩集の出版を支援。その後、サルバドール・ダリやルネ・マグリット、マックス・エルンストなどシュルレアリストの活動を支援した[2]。 1940年、アメリカ合衆国ニューメキシコ州タオスを訪れる。1947年メキシコ中部サン・ルイス・ポトシ州南端の山間の村ヒリトラ(Xilitla)で、土地32haをメキシコ人の友人プルタルコ・ガステルム名義で入手。以降、亡くなるまでこの地にジャングルのなかにコンクリート建築を中心とした不思議な楽園ラス・ポサス(Las Pozas)をつくり続けた[3]。 マグリットは、彼の肖像として『複製禁止 La reproduction interdite』(1937年)を残している(現在ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館所蔵)。 参考資料[編集] ^ “Coventry &

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普代村立普代小学校 – Wikipedia

普代村立普代小学校(ふだいそんりつふだいしょうがっこう)は、岩手県普代村にある公立小学校である。 現在、普代村にある唯一の小学校であり、同じく普代村にある唯一の中学校である普代村立普代中学校と小中一貫教育を実施している。 村全域が学区である。 1876年8月 – 本校を創設し、普代小学校と称す。鳥居・茂市・芦渡・太田名部・白井・堀内・黒崎に各分教場を置く。 1897年9月 – 本校舎を普代村13地割字普代87番地(旧役場)に新設する。 1901年4月 – 鳥居・茂市・芦渡分教場の学区を本校から分離し鳥茂渡小学校を創設し、3分教場を廃止する。 1911年4月 – 白井・堀内分教場の学区を本校から分離し堀内尋常小学校を創設し、2分教場を廃止する。 1926年11月 – 校舎を普代村13地割字普代169番地(現管理センター)に新設落成する。 1941年3月 –

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