Month: November 2020

フレンチディップ – Wikipedia

フレンチディップ(英: French dip (sandwich) 、beef dip とも)とはホットサンドイッチの一種で、薄切りのローストビーフをフレンチロール(バゲット)で挟んだもの。別の種類の肉を使うこともある。調理過程で出た肉汁をディップソースとする(オー・ジュー(英語版))が、ビーフストックや薄めのグレイビー、ビーフコンソメが代わりに用いられることもある。肉以外には具が入らないのが基本だが、スイスチーズやタマネギを追加するバリエーションも存在する。アメリカ生まれのサンドイッチであり、名前の「フレンチ」は発祥地ではなくパンの種類を指す。カップに入れた別添えのソースにつけながら食べるのが一般的だが、最初に登場したころは異なっていたと見られる。 ロサンゼルスにあるコールズ・パシフィック・エレクトリック・ビュッフェ(英語版)[1]とフィリップ・ザ・オリジナル(英語版)[1][2]の二店がフレンチディップ発祥の店だと主張している。フィリップスではパンを最初から肉汁につけた「ウェット (wet)」で提供しており、コールズでは肉汁が別添えになっている。どちらの店でも「ダブル・ディップト (double dipped)」で注文するとパン全体をあらかじめ肉汁に浸してくれる。また両店とも、辛味の強い自家製マスタードがフレンチディップを注文する客に愛用されてきた[2]。 どちらの店が発祥かの論争は決着がついていない。両店とも設立は1908年だが、コールズは同年のうちにフレンチディップを売り出したと主張しており、フィリップスは店主フィリップ・マチウが1918年に作り出したとしている[1]。 フィリップス発祥説にはいくつか異なる説が存在する。ある説では、警察官もしくは消防署員に出すためのサンドイッチを料理人もしくは給仕が肉汁の鍋に落としてしまったのが始まりである。客はそれを気に入り、すぐに人気メニューとなったという。肉汁を無駄にするのを嫌った客がサンドイッチを浸すよう注文したという説もある。また別の証言によると、サンドイッチのパンが固いと文句を言われた料理人が鍋に溜まった肉汁につけたのだという。コールズ側の証言では、気の優しい料理人ジャック・ガーリングハウスが歯茎の腫れを訴える客のために考えたという話がある[3][4]。フィリップス説と同じいきさつをコールの店で起こったものとして語る証言もある。資料や具体的な証拠が不足しているため、この謎が解かれることはないかもしれない[1]。 現在フレンチディップはファストフード店、ダイナー、一般的なチェーンレストランなど多くの飲食店チェーンで提供されている。 同じような発想で作られたサンドイッチにバロン・オブ・ビーフと呼ばれるものがある[5][6]。 フレンチディップ。 ディップ用に肉汁(オー・ジュー)のボウルが添えられている。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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レオポルト・ハーガー – Wikipedia

ポータル クラシック音楽 レオポルト・ハーガー(Leopold Hager, 1935年10月6日 ザルツブルク – )はオーストリアの指揮者。ウィーン古典派(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト)の解釈によって知られる。 1949年から1957年までザルツブルク・モーツァルテウムにて鍵盤楽器(ピアノ、オルガン、チェンバロ)の演奏ならびに指揮法を学ぶかたわら、ベルンハルト・パウムガルトナー、ゲルハルト・ヴィンベルガー、ツェザール・ブレスゲン、ヨハン・ネポムク・ダーフィト、エゴン・コルナウトに作曲を師事。 1957年から1962年までマインツ市立劇場にて指揮者助手に任用され、1962年から1964年までリンツ国立歌劇場を指揮した後、1964年から1965年までケルン歌劇場の首席指揮者に任命される。その後は、1965年から1969年までフライブルク歌劇場の総監督に就任し、1969年から1981年までザルツブルク国立歌劇場とザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団の首席指揮者を務める。1976年10月にニューヨーク・メトロポリタン歌劇場にデビューし、《フィガロの結婚》を指揮。1981年にルクセンブルク放送交響楽団(現ルクセンブルク・フィルハーモニー管弦楽団)の首席指揮者に就任。欧米のその他のオペラハウスやオーケストラ(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など)にも客演指揮者として迎えられている。現在ウィーン・フォルクスオーパーの音楽監督を務める。 2004年までウィーン芸術大学にて指揮法の指導を行う。以前にクラウディオ・アバドやヘルベルト・フォン・カラヤン、ズービン・メータらが担当した伝説的な講義に連なるもので、クレメンス・クラウスやハンス・スワロフスキーらの著名な教師による直系の長い伝統を続けるものだった。 典拠管理 BIBSYS: 4065868 BNE: XX963334 BNF: cb13894878x (データ) DTBIO: 128544821

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王・皇帝 – Wikipedia

エドワード8世の署名名前「Edward」の後の「R」と「I」はラテン語で「王」と「皇帝」(’Rex’ と ‘Imperator’ の頭文字)を示す。 王・皇帝(おう・こうてい、英: king-emperor)(女性は女王・女帝〈queen-empress〉)は、ある領地では王、別の領地では皇帝の地位に同時にある統治者である。この称号は王国と帝国が合併することで大抵生じるが、2つの領土は地位が政治的あるいは文化的に異なっていると認められている。また、帝国の獲得による王の皇帝としての地位を示すため(あるいはその逆)も示す。 この二重称号は統治者の二重の役割を表わすが、統治者の威光を高めるためにも作られるかもしれない。しかしながら、どちらの場合も、統治の合併が単にある国家がもう一方によって吸収される併合ではなく、むしろ統一とほぼ対等な立場での合同であったことを示した。しかし、イギリスの君主制の場合は、皇帝が王よりも高い地位にあるという示唆は「emperor-king(empress-queen)」ではなく「king-emperor(queen-empress)」という称号を作ることによって避けられた。 大英帝国[編集] イギリス王は、イギリスが「インド反乱」と呼ぶ抵抗運動の後、1858年に東インド会社から英領インドの統治を公式に引き継いだ。これ以降、新たな英領インドはインド省を通してホワイトホールから直接統治された。1877年のデリー・ダルバール(英語版)に続いて、ヴィクトリア女王はイギリス政府によって皇帝の地位を与えられ、インド女帝の位に就いた。したがって彼女はQueen-Empress(女王・女帝)であり、後継者たちはジョージ6世まで「King-Emperor(王・皇帝)」と呼ばれた。この称号は正式な称号の短縮形であり、広く一般に使用された。 在位中のKing-EmperorまたはQueen-Empressは、名前の後に「R I」というイニシャル(レクス (英語版) ImperatorまたはRegina Imperatrix)あるいは省略形Ind. Imp. (Indiae Imperator/Imperatrix) を使用した(在位中のQueen-Empressヴィクトリアは「R I」というイニシャルを使用したのに対して、King-Emperorの3人の王妃は単に「R」を使用した)。 イギリス硬貨(英語版)と大英帝国、英連邦自治領の硬貨は常に「Rex

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祝杯の蠍団 リターン・トゥ・フォエヴァー – Wikipedia

祝杯の蠍団 リターン・トゥ・フォエヴァー(しゅくはいのさそりだん- Return To Forever)は、ドイツのハードロックバンド、スコーピオンズが2015年に発表したスタジオ・アルバム。 バンド結成50周年を記念した作品。過去に制作されながら未発表となっていたデモに新たなアレンジを施したリ・ワーク・トラックと新曲を収録している[3]。 通常盤 # タイトル 作詞 作曲 時間 1. 「Going Out With A Bang」 K. Meine,

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トレーリングアーム式サスペンション – Wikipedia

航空機のトレーリング着陸装置の脚 トレーリングアーム式サスペンション(トレーリングアームしきサスペンション、英語: trailing-arm suspension)は、スイングアームを用いた自動車のサスペンション形式のひとつであろ、スイング軸(ピボット)が車軸の前にあることから「トレーリング」の名が付いている。 なお、トーションビーム式サスペンション(Torsion-beam)をカタログ上で「トレーリングアーム式」と記述している場合もある。左右のトレーリングアームを非剛体(可撓式)のビームでつないだものがトーションビームサスペンションである。 独立懸架の形式としては長い歴史を持ち、組み合わされるばねはコイル、トーションバー、空気が一般的。マルチリンクやダブルウィッシュボーンとは異なり、アームとハブとは剛結である。 フォルクスワーゲン・タイプ1とその派生車のフロントサスペンションは、トーションバー・スプリングの取り付けに工夫を凝らした上下二段のトレーリングアームをもったダブルトレーリングリンク式で、この場合、リンクとハブは自由に動く。 スイング軸と車軸がほぼ平行のものはフルトレーリングアームとも呼ばれ、主に前輪駆動(FF)車の後輪に用いられる。スイングの軌跡から、ストローク時のトーとキャンバ変化がほとんどないが、車体ロール時には左右共に同じ方向のキャンバ角となる。 駆動輪に用いる場合、ドライブシャフトの屈曲や伸縮が少なくなるよう、スイング軸を水平方向に偏向させる。これはセミトレーリングアーム式と呼ばれ、ダイアゴナルスイングアクスルに比べ、スイング軸の角度は少ない(車軸に近い)。ストローク時のスイングの軌跡から、トーとキャンバーの変化が大きい。トーはバウンド(縮み)・リバウンド(伸び)側ともに内向き(トーイン)となり、安定方向に作用する。キャンバーは1G(静止状態)から縮むとネガティブ(ハの字)、伸びるとポジティブ(Vの字)となり、車体ロール時のタイヤの接地性を上げる効果があるが、横G限界での挙動変化はやや大きい。1950年代以降、欧州や日本の上級後輪駆動(FR)車の後輪に用いられてきたが、その後、自動車の速度の向上と重量の増加による高エネルギー化に伴い、ダブルウィッシュボーン、さらにマルチリンクに取って代わられた。 長所[編集] 独立懸架・車軸懸架の両方の形式に対応可能である。 短所[編集] 車高を下げると構造上アームが持ち上がった状態となってしまい、ホイールベースが極端に短くなりハンドリングに影響が出る場合がある。 トレーリングアーム セミトレーリングアーム 関連項目[編集]

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ヘレン・クレイグ・マッカラ – Wikipedia

ヘレン・クレイグ・マッカラ(Helen Craig McCullough, 1918年 – 1998年)は、米国の日本古典学者。多くの日本古典を英訳したが、ドナルド・キーンやエドワード・G・サイデンステッカーほど日本での知名度は高くない。 カリフォルニア州生まれ。1939年、カリフォルニア大学バークレー校(政治学専攻)を卒業。太平洋戦争の勃発に伴い、コロラド州ボウルダーの海軍日本語学校に入る。終戦後来日し、通訳を務め、1950年、バークレーに戻り、修士号、博士号を取得。スタンフォード大学で講師を務めたのち、1969年、バークレーに戻り、1975年、教授。何度か来日し日本政府から褒章を受け、1988年、引退。夫も日本文学研究者のウィリアム・マッカラ。 Tale of Flowering Fortunes : Annals of Japanese Aristocratic Life in the Heian Period

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ビジネスプロセス管理 – Wikipedia

ビジネスプロセス管理(英: Business Process Management, BPM)は、人間、組織、アプリケーション、文書といった知識に関するオペレーション的ビジネスプロセスを設計・制定・制御・分析するための手法・技術・ツールといったマネジメントと情報技術(IT)の交差する分野である[1]。「オペレーション的ビジネスプロセス(Operational Business Process)」とは、組織が日々の業務で繰り返し行うビジネスプロセスであり、組織の責任者が行う戦略的意思決定プロセスとは正反対の概念である。1990年代に人気となったビジネスプロセス・リエンジニアリングと異なるのは、BPM では一回限りの革命的な変化ではなく、継続的なビジネスプロセスの発展を目指しているという点である。BPM は IT による管理技法を伴うことが多い。 BPM の適用範囲は、組織活動の管理対象全体であり、必要に応じてそのビジネスプロセスを改善する。そのような考え方は特に目新しくないが、ビジネスプロセス管理システム(BPMシステム)と呼ばれるソフトウェアツールの登場によって、ビジネスプロセス管理が迅速かつ安価に可能となった。BPMシステムはビジネスプロセスの実行を監視し、経営者が勘ではなくデータに基づいて分析したり変更を加えたりできるようにする。 ビジネスプロセス管理(BPM)= ビジネスプロセス・リエンジニアリング(BPR) × PDCAサイクル ビジネスプロセス管理の活動[編集] ビジネスプロセス管理の活動は、設計、実行、監視の3つに分けられる。 プロセス設計[編集]

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相続証明書 (ドイツ) – Wikipedia

1983年にエメリッヒ地方裁判所によって発行された相続証明書 相続証明書(ドイツ語:Erbschein)とはドイツで遺産を相続する正当な相続人であることを証明する公開文書形式の公的証書である。(民事訴訟法第417条) 相続人が誰であるか、誰が相続人なのか、どのような処分の制限があるのかを法的取引のために定める証書である。相続証明書は相続時の相続法に基づいて作成されるため、後で変更することは基本的に考慮されていない。 相続証明書は遺言者が亡くなった場合に誰が正当な相続人なのか、利害関係のある第三者に対しても明確にする証書となる、法的な取引における不確実性を排除する公文書となる。相続証明書の交付と効果は民法第2353条から第2370条及び第352条に規定されている。 内容と要件[編集] 相続証明書には相続人と共同相続人の場合には共同相続人の相続分が記載されている。(家族問題および自主的管轄権の問題における手続きに関する法律第352a条)さらに、遺言書の執行順序や仮相続・後相続の順序など、相続権の制限を示している。(家族問題および自主的管轄権の問題における手続きに関する法律第352b条) 相続権の証明は法律や契約で定められている場合を除き必ず相続証明書によって証明される必要はない。 [1] 特に土地に関しては法規制がある。原則として、土地登記簿に対する相続権の証明は、相続証明書によってのみ行われる(土地登記法第35条第1項第1文)。ただし、遺言者が公然と、例えば(公正)遺言書や公正相続契約書を作成している場合には、実務上重要な例外が適用される。この場合は遺言書は開封手続きと同時に相続証明書に代わるものとなる。(土地登記法第35条第1項第2文)公的遺言によって相続権が証明されていないと土地登記所が判断した場合(遺言の文言が不明確であったり、後に書かれた自筆の遺言によって一部修正されている場合など)相続証明書の提出を求めることができる。(土地登記法第35条第1項第2文)また、土地登記所では土地登記法第36条に基づき、不動産に限って簡易な譲渡証明書による相続権の証明を認めている。 契約上の規制は、特に信用機関の一般条件に見られた。これによると、相続証明書の提示を要求することができる。ほとんどの銀行は公証人の遺言書が提示され、関係する金額が少額で、責任宣言書に署名した場合にのみ、例外を認めた。しかし、連邦最高裁は2013年10月8日の判決 [2]で、約款で相続証明書を一律に主張することは許されないとしている。それ以降は、特定のケースで相続権に個別の疑義がある場合を除き、原則として相続証明書を要求できなくなった。現在では、原則として、公正証書遺言と開封手続き辞令を併用すれば十分である。 そもそも、遺言者の有効な委任状で、死亡によって終了しないもの(死後委任状)や、死亡によって有効になるもの(死後委任状)があれば、相続証明書は必要ない。委任された遺言執行者は対外的には遺産を処分することができるが、自身が唯一の相続人でない場合には、内部的には相続人の指示に拘束され、相続人に対して責任を負う。相続人が誰であるかが争われている場合、相続証明書があれば明確になる。 契約書に「死亡時の受取人」が記載されていれば相続証明書は必要ない。この場合、権利の移動は相続法に基づいて行われるのではなく、遺産をうけとるのは相続人ではなく、契約書に記載された受取人が直接受け取ることになる。これは、生命保険の場合が多いが、預貯金やその他の資産の場合もありえる。 公示効果[編集] 相続証明書が発行されても、実際に誰が相続権を持っているか客観的な法的状況は変わらない。しかし、民法第2365条は相続証明書で指定された人が実際に相続人(指定された株式の単独相続人または共同相続人)であり、そこに指定された以外の人には相続権が無いという反論可能な推定を確立する。この推定は、法律で定められた相続証明書の内容のみに限定され、そこに記載されているその他の内容(遺言執行者の人物、相続人の法的能力、法定または遺言上の不服申し立ての理由など)には適用されない。民法第2365条の法定推定は、相続証明書に記載された相続人に有利に働くだけでなく、例えば、遺産の負債に関して不利に働く。 この相続証明書の公示効果は、民法第2361条に基づく裁判所による取下げもしくは無効宣言、または民法第2362条に基づく引渡しによってのみ終了する。発行された相続証明書が後に誤りであることが判明した場合、検認裁判所は職権でその証明書を取り消すか、無効であることを宣言しなければならない。相続証明書は、その発行のための前提条件が当初満たされていなかったり、その後存在しなくなったりして、裁判所がその相続証明書が発行されるべきではなかったと確信した場合、誤ったものとみなされる。そして無効になった場合は相続人は新しい修正された相続証明書を申請する。 実質的な相続人は、推定相続人に対して、遺言検認裁判所への相続証明書の引き渡しを請求することができる。(民法2362条1項) 相続証明書の公信力は、民法第2366条、2367条に規定されている。ここでは、民法第2365条の推定の範囲内で公信力が成立しており、これは相続証明書の法的内容に限定される。 ここでいう「公信」とは、善意の第三者(取得者など)に実際に見せなくても、相続証明書が存在するだけで決定的な意味を持つということである。民法第2365条および第2366条によれば、相続証明書で特定された者が取得または処分の取引を行った場合、善意の取得者にとって相続証明書の内容は正しいものとみなされる。このように、相続証明書は、実際にはない相続権を善意の取得者に代替するものである。したがって、相続証明書の存在下で相続人とされる者から財産を取得した者は、その者が善意で行動していた場合は法的な所有者となる。 一方、相続証明書には、売却した物や債権が本当に相続財産に属するかどうかは何も書かれていない。所有権に関しては、法的な一応の証拠は示されていない。例えば、相続証明書には、故人が売却された物の所有者なのか、債権者なのか記載されていない。

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河内淳一のディスコグラフィ – Wikipedia

河内淳一のディスコグラフィー(かわうちじゅんいちのディスコグラフィー)は河内淳一がこれまでソロ名義で発売した全作品についてまとめた項。発売日はすべてオリジナル版の日付を示している。また、芸名を用いていた時期の作品もここに含めている。 シングル[編集] Carry On(作詞:麻生圭子・作曲:河内淳一・編曲:志熊研三) Day After(作詞:竹花いち子・作曲:河内淳一・編曲:新川博)公式の再結成ではないがコーラスに桑田佳祐・今野多久郎・小島良喜・琢磨仁・松田弘と、KUWATA BANDのメンバーが参加している。 恋に落ちた日~Anyday You Love Me~(作詞:大津あきら・作曲:河内淳一・編曲:新川博)桑田佳祐がバックボーカルで参加した曲で、アサヒビール『三ツ矢サイダー』のCMソングに起用された。また、大津あきらの追悼アルバムにもこの歌は収録されている。 Angel(作詞・作曲:Steve Kipner・Bobby Caldwell・編曲:新川博) DREAM OF YOU(作詞:芹沢類・作曲:河内淳一・編曲:志熊研三) SO MUCHI I

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チェルディッチ (ウェセックス王) – Wikipedia

チェルディッチ(Cerdic、? – 534年)はウェセックス王国の王。イングランドに上陸したアングロサクソン人の王であり、ウェセックス王室の始祖として考えられているが、年代記自体の表記が考古学的な証拠と矛盾が多く、実在性がはっきりしない。また、現代の英語ではセルディックと読まれる。日本語ではケルディックと書かれることもある[1]。 アングロサクソン年代記の記述[編集] アングロサクソン年代記によると、495年にチェルディッチは、息子キュンリッチとともにハンプシャーへ3艘の船で上陸した。そして、現地の王ナタンレオド(Natanleod)と戦い、508年に敗死させ、519年に再び戦闘、ここでウェセックス王国を創設したと伝えられている。また、一連の戦いの中でワイト島も占拠し、後発で現れた自らの縁者に与えたと言う。チェルディッチは534年に没し、息子のキュンリッチが跡を継いだと言う。 年代記の文面通りで行けば、チェルディッチは現在のイギリス王室の始祖とも言える[2]。 現代における史的考証[編集] しかし、アングロサクソン年代記の初期の歴史著述は矛盾しており、現代イギリスの歴史学者デヴィット・ダンヴィル(en)は、チェルディッチの上陸が538年から554年の間である事を指摘している。また、チェルディッチはバドン山の戦い(Battle of Mons Badonnicus)[3]でブリトン人に敗北したサクソン人の首長ではないかと一部で唱える者もいる[4]。もし、前述のダンヴィルが修正を加えたようにチェルディッチの上陸した時期が538年-554年であれば、この説は正しくないことになる。また、バドン山の戦いの敗者はチェルディッチではなく、別のアングロサクソンの首長(たとえばエレ)であると言う者もいる。 年代記の書き伝えるチェルディッチの行動地域にも疑問がある。彼の活動した地域はサウザンプトンの北部であったが、考古学的な見地からすると、アングロサクソン人の中心地はむしろ北部のドルチェスター・オン・テムズ(Dorchester-on-Thames、ここにウェセックス王国は最初に司教区を設置した)にあり、サウザンプトン近郊はむしろ7世紀前半に新しく獲得した土地で新たに司教区を建てた地域であった。そして、古来父祖の地であったドルチェスターは後年マーシアの攻勢に圧迫され放棄されるなど、ウェセックスの起源は当時の伝承よりももっと複雑な経緯を辿っていた。 また、興味深いことではあるが、「チェルディッチ(Cerdic)」という名前はゲルマン起源というよりもブリトン起源であることが指摘されている。これに対しては、彼がアングロサクソン人の父とブリトン人の母を持ち、母方の親族から名づけられたのではないかという説明づけがなされている。もしそうであるならば、彼の活躍した時期にはブリテン島において侵略者アングロサクソン人と現地ブリトン人の間にある程度の文化的、人的な交流が既に存在していた可能性がある。 チェルディッチは伝説的な人物に過ぎず、実在の証拠はないと主張する者も一部にはいるが、この説は全体から見れば少数の意見である。しかし、チェルディッチが存在する史料は9世紀後半に後付されたものであったことも事実である。ウェセックスの起源に関しての伝承は恐らくはその当時何かしらの形で存在していたであろうが、400年の年月が経った時点での伝承が正確であるとは考えにくい。 ^ 大沢一雄訳『アングロ・サクソン年代記(朝日出版社)』より ^ チェルディッチの血統はウェセックス王家を通じてエグバート(12世の孫)、アルフレッド大王(14世の孫)の始祖となり、系譜を辿ると、ウィリアム1世(22世の孫)を通じて現在のエリザベス2世(49世の孫)にまでつながり、イギリス王室の血統は1500年以上となる。 ^ ラテン語でモンス・バドニクスの戦い)Battle

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