Month: February 2021

岡田隆 (外交官) – Wikipedia

岡田 隆(おかだ たかし)は、日本の外交官。外務省総合外交政策局審議官、内閣官房内閣審議官、ジュネーブ国際機関日本政府代表部大使、サイバー政策担当大使(2015年)、在英国大使館公使を経て、2020年よりアフガニスタン駐箚特命全権大使を務めている[1][2]。 目次 1 人物・経歴 2 カブール陥落への対応 3 同期入省 4 出典 人物・経歴[編集] 東京都出身。1984年東京大学教養学部卒業後キャリア外交官として外務省入省。1999年在南アフリカ共和国日本国大使館一等書記官。2001年在南アフリカ共和国日本国大使館参事官。同年外務省北米局北米第二課日米協力推進室長。2002年外務省総合外交政策局総務課企画官。2004年外務省総合外交政策局総務課外交政策調整官。2005年外務省大臣官房広報文化交流部総合計画課長[3]。 2006年内閣官房内閣参事官(内閣官房副長官補付) 内閣官房拉致問題対策本部事務局政策企画室長。(小泉政権時、中山参与の下、日本人拉致被害者帰国に尽力。) 2008年外務省欧州局政策課長。2009年在タイ日本国大使館公使。2012年在ジュネーブ国際機関日本政府代表部大使。2014年外務省大臣官房審議官(国会担当)。2015年外務省大臣官房審議官兼総合外交政策局(大使)、領事局。同年内閣官房内閣審議官(内閣情報調査室) 、内閣官房内閣情報調査室次長。2017年在英国日本国大使館特命全権公使[3]。 2020年アフガニスタン国駐箚特命全権大使[3]。 カブール陥落への対応[編集]

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神姫バス津山営業所 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “神姫バス津山営業所” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年11月) 神姫バス津山営業所(しんきバスつやまえいぎょうしょ)は岡山県津山市大谷622番地1にある神姫バスの営業所。営業所略号は、『津』である。 前身は、岡山県英田郡大原町古町1612-1(現・美作市古町1612-1)にあった大原営業所。 1975年、中国ハイウェイバス開業に伴い、大原営業所が岡山県英田郡美作町入田(当時、現・美作市入田)に移転し、湯郷営業所となる。それまでの大原営業所は湯郷営業所大原出張所に変更。 2000年10月1日、湯郷営業所が岡山県津山市大谷622-1に移転し、津山営業所となる。それまでの湯郷営業所大原出張所は津山営業所大原出張所に変更。このとき、高速路線が津山営業所、一般路線は大原出張所の担当に分かれ、大原出張所はウエスト神姫大原営業所に管理委託されることとなった。 津山営業所は高速路線を担当し、東は京都駅、西は出雲市駅と広範囲の路線を管理している。 神姫バス 津山営業所 大原出張所は岡山県北部(津山市・勝央町・美作市(旧勝田町・美作町・作東町・大原町・東粟倉村))[1]の一般路線を担当していたが、岡山県内の一般路線廃止に伴い、閉鎖された。美作共同バスへの移管に際しては引き継がれなかった。 高速路線(津山営業所管轄)[編集] 廃止路線[編集] 一般路線(大原出張所管轄)[編集]

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トライアンフ・TR – Wikipedia

トライアンフ・TRは、イギリスの自動車メーカー・トライアンフが1953年から1981年まで生産したスポーツカーのシリーズ名である。TRとはTriumph Roadstarの頭文字である。最初のTR1はプロトタイプに終わり、生産型はTR2からTR8となる。 TR1(1952年)[編集] 1952年秋のロンドン・モーターショーでデビュー。主に主要輸出先のアメリカにおいてMG・ TDとジャガー・XK120の中間の市場を狙う目的で、わずか8週間で開発された観測気球的なプロトタイプである。 当時のスタンダード・トライアンフのチーフスタイリスト、ウォルター・ベルグローブによる、起伏の大きいフェンダーと寄り目のヘッドライトを特徴とするデザインは後のTR2・TR3・TR3Aと共通だが、この時点ではテールは丸く短く、スペアタイヤを背負っていた。シャシーは1936年登場のスタンダード・フライング9の梯子型フレームに、トライアンフ・メイフラワーのダブルウイッシュボーン式独立・後輪リーフリジッドのサスペンションを取り付けたものであった。エンジンはスタンダード・ヴァンガードのOHV1991ccSUツインキャブレター付き75馬力で、車両重量も775kgと軽量であったので、最高速は90マイル(144km/h)に達した。なお、ホイールベースは2240mmであったが、これは1976年のTR6まで共通であった。 特にそのセミクラシックなスタイルが好評であったため、市販化が決定し、発売に向けてさらに開発が行われることになった。わずか8週間の開発期間では十分な熟成ができるはずもなく、操縦性など技術上の問題が未解決で、そのまま発売できる状態ではなかったのである。 TR2(1953-55年)[編集] TR2として市販化されるにあたっては、BRMの開発エンジニア・ケン・リチャードソンを招いてフレームが強化されて操縦性を改善すると共に、エンジンも圧縮比を8.5に引き上げて91馬力にチューンアップされた。この結果、840kgという軽量な車重にも助けられて、最高速度170km/h、0-400m加速18.6秒という、当時としては十分な高性能をマークすることとなった。車体もテール部分が延長され、トランクが設けられた。当時の価格は595ポンドと、MG・TFよりわずか5ポンド高、ジャガー・XK120の半額近くに設定され、性能に対し極めて割安であったため、市場では好評をもって迎えられた。TR2の累計生産台数は8,636台で、内5,521台がアメリカに輸出された。 また、1954年のRACラリー総合優勝など、ラリーや耐久レースでも好成績を収め、トライアンフは英国の代表的なスポーツカーメーカーの一つとして認知されることとなった。 TR3(1955-1957年)[編集] TR2のマイナーチェンジ版で、格子状のフロントグリルが付けられたことが外観上の変更点である。エンジンは95馬力に強化され、最高速度175km/h、0-400m加速は18.1秒となった。また、1956年10月以降、前輪ディスクブレーキがオプション装備となった。16,847台が生産された。 TR3A(1957-1961年)[編集] 再度のマイナーチェンジでヘッドライト位置がやや後退し、フロントグリルの幅も広げられ、それまでは内側のひもを引いて開けていたドアには初めて外部ハンドルが付けられた。しかしその反面、車両重量は965kgに増加した。このためエンジンは再度100馬力に強化され、最高速度177km/h、0-400m加速は18秒を切ることとなった。58,097台が生産された。なお、TR4登場後の1961-62年には、その2200ccエンジンとギアボックスを持つ「TR3B」が対米輸出用に少数生産された。 TR4(1961-1965年)[編集] TR4は当時のトライアンフ各車のデザインを手がけていたイタリアの新進デザイナー・ジョヴァンニ・ミケロッティによる、寄り目のヘッドライトは受け継いだものの、全く新しいボディを与えられて登場した。しかし、ホイールベースはTR1-3と同じ2240mmのままであり、トレッドが10cm拡大され、ステアリングギアがラック・ピニオン式に変更、4段ギアボックスがフルシンクロ化されるなどの改良は受けたものの、シャシーは基本的にはTR3と同じはしご型フレームが踏襲された。エンジンは2138ccに拡大され、出力は100馬力のままであったが、最大トルクは大きくなった。(日本へは従来の1991ccエンジン付きが輸入され、5ナンバー登録された) 巻き上げ式のサイドウインドウの装備など居住性は向上したものの、TR4はスマートな外観とは裏腹にTR3Aの旧式な操縦性・乗り心地を受け継いでおり、1962年に登場したライバルのMG・Bなどに比べて見劣りするようになっていた。TR4は40,253台が生産され、37,761台がアメリカはじめ日本を含む各国に輸出された。 TR4A(1961-1965年)[編集] 外観上はフロントグリルが変更され、サイドモールが追加となった程度の変更であったが、後輪サスペンションがセミトレーリングアーム式独立となり、ロードホールディングと乗り心地が大幅に改善された。また、ダッシュボードは木目張りに改められた。車両重量は1015kgに達し、2138ccエンジンは104馬力に強化されたものの、性能はTR4と同等かやや低下していた。また、ラジアルタイヤが標準装備となった。なお、価格上昇を嫌ったアメリカ市場にはリジッドアクスル仕様が輸出された。(トランクリッドの「IRS」バッジの有無で識別される) TR4Aは28,465台が生産され、25,390台が輸出された。 TR5(1967-1968年)[編集]

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ルノー・14 – Wikipedia

ルノー・14(Renault 14、ルノー・キャトーズ)は、フランスの自動車製造会社、ルノーが1976年から1983年の間に生産した乗用車である。 フォルクスワーゲン・ゴルフやシトロエン・GSなどがひしめき、後のCセグメントとなるヨーロッパで最も重要な小型ファミリーカークラスに向けて投入されたルノーの切札であった。1970年に操業を開始したドゥエー工場の主力生産車となった。 ボディは5ドアハッチバックのみの展開で、縦置きFWDに固執していたルノーが初めて横置きFWDレイアウトを採用した記念すべきモデルでもある。とはいえそのパワーユニットはPSAと共同開発したものでエンジン、ギアボックスは先にデビューしていたプジョー・104と共通である。 スタイリングは一見簡素だが、ウェッジシェイプや前後のフェンダーに膨らみを持たせた処理など、他のメーカーが何年も後になって採用したデザインをすでに取り入れており、1976年の工業デザイン賞を獲得するなど、専門家からの評価は高かった。しかしその斬新なスタイリングを洋梨に見立てた広告が一般大衆には受け入れられず早々に打ち止めになったり、販売も芳しくないスタートだったという。広い室内やフルフラットや取り外しのできるリアシートなどもセールスポイントだったが、早期のボディ腐食問題などもあり、評判は悪化した。 1980年にマイナーチェンジを実施、フロントマスクなどを小変更したフェイズ2へ移行。後にルノーは装備を充実させるなどして評判の巻き返しを図ったが、最初に付いてしまったイメージを拭えないまま、7年という短命で999,193台を生産したのち1983年に後継のルノー・9/11に後を譲った。2000年代には母国フランスでも滅多に見ることはない希少モデル。日本市場への正規導入はなかった。 エンジン[編集] デビュー当初はLとTLの2トリムのみで全車プジョー・104と共通の1,218cc SOHC直列4気筒のX5G型(58hp/43kW)を後方に72度傾けて、ギアボックスをエンジン下に抱え込み、上部の空いたスペースにはスペアタイヤが搭載されたダンテ・ジアコーサともアレック・イシゴニスともまた違うプジョー方式であった。 1979年に追加されたTSは1361cc(69hp/51kW) X6J型を搭載。 組み合されるトランスミッションはギアボックスは4段MTと5段MT(1982年からTSに標準、他はオプション)。 外部リンク[編集]

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禅譲 – Wikipedia

この記事は言葉を濁した曖昧な記述になっています。Wikipedia:言葉を濁さないを参考に修正してください。(2013年11月) この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “禅譲” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年3月) 禅譲(ぜんじょう)は、君主(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。 中国伝説における禅譲[編集] 中国の伝説上の聖天子は、血縁関係によらず有徳の人物に帝位を譲ったとされる。例えば、五帝と呼ばれる天子たちは、堯が舜に禅譲し、舜が禹に禅譲した。このような伝説は、儒家が過去を理想化する中で生まれた。実際の権力交代では武力や流血、権謀術策が少なからず伴ったと考えられるが、文献が書かれたその時々の権力への正当性の付与や、儒家の思想の根幹たる「礼」を成立させるためにこのような理想化が行われたと考えられる。 中国史に限らず、太古は王位にさしたる利権がないがゆえに世襲とならず(世襲という概念が存在せず)、有力者が王位を継承していた事情を反映している可能性もある[1]。 歴史上の禅譲[編集] 歴史上禅譲と呼ばれているものは、実際には簒奪に近いものであり、王朝の正統性を保証する演出として行われ続けた。 中国[編集] 中国史で最初の禅譲は、前漢の最後の皇胤(皇太子)孺子嬰から王莽への譲位で、これを受けて新王朝が開かれた。その後も、王朝交代の度に禅譲が行われた。 (禅譲した王朝)

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ニール・ジョンストン – Wikipedia

ドナルド・ニール・ジョンストン (Donald Neil Johnston, 1929年2月4日 – 1978年9月28日) は、アメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手。出生地はオハイオ州チリコシー、出身大学はオハイオ州立大学。1950年代のアメリカ男子プロバスケットボールリーグNBA、フィラデルフィア・ウォリアーズで活躍したビル・ラッセル登場以前のリーグトップセンターであり、1956年には同チームを優勝に導いた。1990年には殿堂入りを果たしている。 ニール・ジョンストンことドナルド・ニール・ジョンストンは、オハイオ州立大学入学当初は無名の選手で、1年目は7試合の出場で1.9得点と寂しい成績に終わった。2年目のシーズンには成長が見られ、20試合の出場で9.0得点の成績を残した。 大学時代のジョンストンは野球選手の面で先に頭角を現し、在学中にはMLBのフィラデルフィア・フィリーズと契約を結び、下部リーグのテレホート・フィリーズで2年半、投手としてプレイし、その間カレッジバスケは休業状態となった。結局プロ野球選手としては芽が出ず、最後のシーズンを3勝9敗という成績で終えた後、プロバスケットボール選手になることを決意した。彼のマネージャー、ジム・ワードの支援のもと、NBAのフィラデルフィア・ウォリアーズのチームキャンプに参加。見事1951-52シーズンのロスター入りを果たし、ジョンストンのNBAでの生活がスタートした。 バスケット選手としては目だった実績のないジョンストンだが、1年目のシーズンはエド・マイカンの控えセンターとしてプレイし、6.0得点5.3リバウンドとまずまずの成績を残した。当時のウォリアーズはジョー・ファルクス、ポール・アリジン、アンディ・フィリップら好選手を揃えたリーグ屈指の強豪チームだったが、ジョンストンが加入したこのシーズンは33勝33敗と成績が落ち込み、さらにはオフにアライジンがチームを離脱するという事態に見舞われ、翌1952-53シーズンは12勝57敗という大不振に陥る。このチームの窮地に立ち上がったのがジョンストンであり、ジョンストンがリーグのトップセンターに上り詰める契機となった。ジョンストンはこのシーズンにリーグ史上稀に見る大成長を遂げ、前季の6.0得点から22.3得点13.9リバウンドと一気に数字を伸ばし、得点王を獲得。さらにオールNBA1stチームにも名を連ね、名実共にリーグトップセンターに君臨する。ウォリアーズはジョンストンのあまりの変貌振りと、チームのあまりの不振ぶりにチームの大改造を決意し、主力選手だったフィリップとマイカンを放出することで、ジョンストン中心のチームとして再出発を図ることにした。 翌1953-54シーズンにはジョー・グラボウスキーやジャック・ジョージらが加入したことでウォリアーズの新しい核が出来上がると、さらに続く1954-55シーズンには一時NBAを離れていたアライジンがウォリアーズに復帰し、ウォリアーズの陣容は充実さを増した。そしてジョンストンはトップセンターとしてますます成長し、3シーズン連続で得点王に輝き、1954-55シーズンには1631得点(平均22.7得点)1085リバウンド(平均15.1リバウンド)を記録して得点王とリバウンド王の二冠を達成したリーグ最初の選手となった。 そして1955-56シーズン、ウォリアーズは45勝27敗の好成績を記録して4シーズぶりにプレーオフに進出すると、プレーオフを勝ち抜いてファイナルに進出し、フォートウェイン・ピストンズを4勝1敗で破って優勝を果たした。 以後もジョンストンは毎晩20得点10リバウンド以上を稼ぎ出す優秀なセンターとして活躍するが、ウォリアーズは1956年の優勝を頂点に停滞する。そしてウォリアーズでの8シーズン目を迎えた1958-59シーズンにジョンストンを膝の故障が襲い、28試合に出場した後、現役から退いた。 NBA通算成績は516試合の出場で10023得点(平均19.4得点)5856リバウンド(平均11.3リバウンド)だった。 引退後の翌1959-60シーズンからウォリアーズのヘッドコーチに就き、2シーズンに渡って采配を振った。通算成績は95勝59敗、勝率.617だった。 プレースタイルと業績[編集] ジョンストンの最大の武器は何処からでも決められるフックシュートだった。彼のシュートは高い決定力を誇り、フィールドゴール成功率1位には3度輝いている。 個人成績[編集] レギュラーシーズン[編集]

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兵庫県立豊岡総合高等学校 – Wikipedia

兵庫県立豊岡総合高等学校(ひょうごけんりつ とよおかそうごうこうとうがっこう)は、兵庫県豊岡市加広町に所在する公立の高等学校。 2003年に、兵庫県立豊岡実業高等学校と兵庫県立豊岡南高等学校を統合し設置された。県北部では唯一の工業系高校である。 設置学科[編集] 環境建設工学科 電機応用工学科 総合学科 創造科学系列 人文社会系列 経営ビジネス系列 ライフデザイン系列 環境建設工学科・電機応用工学科は県下全域から出願可能である。また総合学科に係る推薦入試も県下全域から出願可能である。 兵庫県立豊岡実業高等学校[編集] 1918年(大正7年) – 豊岡町立豊岡商業補習学校として開校。 1924年(大正13年) – 豊岡町立豊岡商工実修学校と校名変更。工業部、女子部を増設。 1935年(昭和10年)

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ロマンス劇 – Wikipedia

後期ロマンス劇(こうきろまんすげき、The late romances)とは、ウィリアム・シェイクスピアの後期の作品群を分類して指す用語である。単純にロマンス劇(The romances)と呼ばれることが多い。この分類に含まれる作品は『ペリクリーズ』、『シンベリン』、『冬物語』、『テンペスト』などであるが、『二人の貴公子』をここに加えることもある。この用語は、エドワード・ダウデンの著書『シェイクスピア:精神と芸術の批評的研究』(“Shakespeare: A Critical Study of His Mind and Art” 、1875年)において最初に用いられた。 ジョン・ヘミングスとヘンリー・コンデルは、ファースト・フォリオを編纂するにあたって上記の作品群を喜劇の部に収録している(悲劇の部に入れられた『シンベリン』を除く)が、批評家の間にはこれらを喜劇と見なしてよいものかという躊躇があったために、ロマンス劇というカテゴリーが生み出された。というのも、これらの作品はむしろ中世のロマンス文学に類似するものであり、いわゆる喜劇とは多くの点において異なっているものだからである。シェイクスピアのロマンス劇には、以下のような特徴が共通している。 長きにわたって離散していた家族が再会してハッピーエンドを迎えるという、救いにいたるプロット。 魔法その他のファンタスティックな要素。 デウス・エクス・マキナ。しばしばギリシア神話やローマ神話の神として現われる(『シンベリン』におけるジュピター、『ペリクリーズ』におけるダイアナなど)。 「文明的」な場面と「牧歌的」な場面の混成(『テンペスト』における紳士階級と島民など)。 「そして詩行は初期作品の叙情的スタイルへの回帰であるが、円熟し、深みを増している」[1]。 シェイクスピアのロマンス劇は、17世紀初頭の演劇界における二つの大きな新情勢からも影響を受けている。一つは、ジョン・フレッチャーが創出し、ボーモント&フレッチャーの初期の合作で展開された悲喜劇の革新である。もう一つは、同時期にベン・ジョンソンとイニゴー・ジョーンズによって主導された、宮廷仮面劇の最先端をゆく会心作である。

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