Month: October 2021

留守第54師団 – Wikipedia

留守第54師団(るすだいごじゅうよんしだん)は、1943年2月から1945年3月まで置かれた留守師団で、地域防衛と徴兵・訓練などに携わった大日本帝国陸軍の部隊である。はじめ姫路師管、1945年に長野師管を管轄した。長野師管区部隊の発足とともに廃止になった。 姫路師管で編成[編集] 近畿地方西部と中国地方東部を範囲とする姫路師管は、1940年に作られた第54師団の管区であった[1]。留守第54師団は、1943年2月17日の昭和18年軍令甲第17号で臨時編成された[2]。南西方面に派遣される第54師団の代わりに、姫路師管の防衛と管区業務にあたるためである[3]。部隊名は第54師団に由来するが、別の師団長と別の指揮系統を持つ別部隊である。上級部隊は中部軍管区を管轄する中部軍であった。 長野師管に移転し、師管区部隊に転換[編集] 姫路師管は1945年1月22日制定(24日公布)の昭和20年軍令陸第1号による陸軍管区表改定によって、2月11日に廃止された[4]。同時に新設されたのが長野師管で、留守第54師団は移動して東部軍管区司令部の下に入り、長野師管を管轄することになった[5]。 1945年2月9日制定(10日公布)の昭和20年軍令陸第2号で、臨時的性格の留守師団をやめ、常設の師管区部隊をおく制度が定められた[6]。同日の軍令陸甲第25号により、留守第54師団司令部に4月1日をもって長野師管区司令部に改称するよう命じられた[7]。留守第54師団の司令部と各部隊は3月31日に復員(解散)した[2]。 部隊の編制[編集] 戦後に作成された『帝国陸軍部隊調査表 集成表』による[2]。「中部46部隊」等は部隊の通称号である。 留守第54師団司令部 歩兵第111連隊補充隊(中部46部隊) 歩兵第121連隊補充隊(中部47部隊) 歩兵第154連隊補充隊(中部48部隊) 捜索第54連隊補充隊(中部50部隊) 野砲兵第54連隊補充隊(中部51部隊) 工兵第54連隊補充隊(中部52部隊) 第54師団通信隊補充隊(中部53部隊) 輜重兵第54連隊補充隊(中部54部隊) 平林盛人 陸軍中将 – 1945年3月29日まで。同日に長野師管区司令官[8]。

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神田鐳蔵 – Wikipedia

神田 鐳蔵(かんだ らいぞう、1872年8月29日(明治5年7月26日)- 1934年(昭和9年)12月8日)は、明治から昭和にかけて日本の金融界で活躍した実業家。神田銀行創立者。 愛知県須成村(現・蟹江町)の酒造り「紅葉屋」の長男として生まれ、名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)を経て、1893年に名古屋株式取引所の仲買人となり株で一儲けしたが破産し上京、1900年に有価証券仲買業「紅葉屋商店」創業、鉄道株で巨富を得る[1][2][3]。同業者の排斥を受けるなか、渋沢栄一が設立した第一銀行の取引を得て、薄利であるため他の仲買人が敬遠していた公債取引で利益を上げた[3][4]。1902年より「紅葉屋英文レポート」を発行して日本の証券を宣伝し、1904年に有価証券金庫銀行必要論を渋沢に陳情し知遇を得る[5]。 1910年組織を改め(資)紅葉屋商会とし、翌年には国債証券の保護預りも行う紅葉屋銀行を設立、大蔵省勤務の帝大出を招いて担当させた[6][7]。渋沢の支援で国債輸出などを行なって活躍し(英文レポートが功を奏し一時は外貨輸入の3分の1が神田によるものだった[8])、「証券界の鬼才」と呼ばれたが[1][2]、株仲間からはその凄腕ぶりから兜猶(兜町のユダヤ人)とあだ名された[9]。一方で、逗子開成中学校が1910年の七里ヶ浜ボート遭難事故で大きな負債を抱え廃校の危機に陥ったときには、負債の一部を肩代わりして同校校主となり、その窮状を救った[2][10]。1912年に財界視察のため欧米諸国を巡遊[10]。1914年に第2次大隈内閣が成立すると非募債主義から公債の用命がなくなり、政府筋とは疎遠となる[11]。 1918年に銀行名を神田銀行と改め、1920年の農工貯蓄銀行破綻の際には負債を全額引き受け多くの預金者を救った[12]。不動産や保険業でも成功したが1921年の金融恐慌により業績不振となり1927年に破産した[1][2][13]。 破綻直前の1926年には、京都の浮世絵商・松木善右衛門から浮世絵を買い上げ、神田コレクションとしたが[14][15]、破産により流出し、現在は平木浮世絵美術館が所有する。 実家は明治5年で創業300年になると言われる酒造りの老舗で[16]、父親の清三郞は家業のほか地元では儒者としても知られていた[8]。 妻のさわ(1887年生)は、日本女子大学校を卒業[10]。 岳父の清水百太郎は渋沢の第一銀行名古屋支店支配人だったが神田銀行に移り、幹部を務めた[17][18]。妻の弟の清水景吉は鐳蔵が買収した東華生命保険の重役を務めた[19]。 妻としたのは何人かいたようで、39歳のときには名家出身の妻を求める募集広告も出したという[20]。庶子の神田俊二は俳優。 参考文献[編集] 『神田鐳藏翁 : 風雲六十三年』紅葉會、紅葉會、1953年5月。NCID BA45028662。 外部リンク[編集]

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植物防疫法 – Wikipedia

この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 植物防疫法(しょくぶつぼうえきほう、昭和25年5月4日法律第151号)は、農業生産の安全及び助長を図ることを目的に、輸出入や国内移動にあたって植物を検疫し、あるいは植物に有害な動植物を駆除・蔓延防止するための規制を定める日本の法律である。 対象生物の定義[編集] 植物防疫法の対象となる生物について、一般社会あるいは生物学で用いられる用語とずれがある。 植物 単に植物と言った場合には次の「有害植物」を除くものとされている。また植物体の全体だけでなく、種子や果実といった一部分や、筵や菰といった加工品も含めて同等に取り扱う。法には「顕花植物、しだ類又はせんたい類に属する植物」とあり、現代的な分類体系では陸上植物に相当する。したがって藻類やキノコなどは含まれない。 有害植物 有用な植物を害する「真菌、粘菌、細菌、寄生植物及びウイルス」とあり、かなり広義の植物が含まれる。 有害動物 有用な植物を害する動物。この動物とは、法に「昆虫、だに等の節足動物、線虫その他の無脊椎動物又は脊椎動物」とあり、5界説でいう動物界に相当すると思われる。原生動物が含まれるかどうかは条文上定かでない。 検疫有害動植物 有害植物や有害動物のうち、国内での存在が確認されていないものや、国内措置がとられているものなどを対象に、省令(植物防疫法施行規則)や告示で定められた動植物。まずリスク分析により有害性の明らかなものが施行規則の別表に規定され、リスク分析が未了のものが告示で規定されている。原則的に輸入が禁止される。 国際植物防疫[編集] 一般に植物の輸入は制限されている。原則として輸出国の政府機関による検査証明書が必要であるほか、特定の植物は輸入禁止となる。規制の強い順に以下の区分があり、施行規則や告示で細かく指定されている。 輸入禁止品 原則として輸入できないものであり、試験研究などの目的で農林水産大臣の許可を得た場合に限って輸入できる。 国内未発生で侵入時に農産物への被害が大きく、輸入時の検査では発見が困難な病害虫が付着する可能性がある植物 検疫有害動植物そのもの 土のついた植物や土そのもの 条件付き輸入解禁品

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第11回日本フットボールリーグ – Wikipedia

第11回日本フットボールリーグは2009年3月15日から同年11月29日まで行われた日本フットボールリーグ(JFL)のリーグ戦である。SAGAWA SHIGA FCが2年ぶり2回目の優勝を果たした。 参加クラブ[編集] 第11回JFLの参加クラブは以下の通りである。このうちFC町田ゼルビア、V・ファーレン長崎およびホンダロックが前シーズンの全国地域サッカーリーグ決勝大会からの昇格クラブである。 ※前年度成績=特記なきものは第10回JFL(2008年)の成績である。 色付のチームは2009年シーズン開幕時において レギュレーション[編集] リーグ・試合形式[編集] 年間2回戦総当り、1チーム34試合(全306試合)を行い、勝ち点により順位を決定する。全34節を17節ごとに前期・後期に分け、前期の順位によって天皇杯の出場権が与えられる。 試合は前後半90分で行い、決着がつかなければ引き分けとなる。勝利には勝ち点3、引き分けには勝ち点1、敗北には勝ち点0が与えられる。 Jリーグ準加盟クラブのJリーグ加盟の成績面の条件は年間順位4位以上。その上でJリーグ臨時理事会の承認を得られれば次年度からJ2に参入することができる。 JFLの17位・18位は所属する地域リーグに自動降格し、全国地域リーグ決勝大会の1位・2位はJFLに自動昇格する。JFLの16位と全国地域リーグ決勝大会の3位が入れ替え戦を行う。なお、Jリーグに加盟するチームが出た場合、1チームなら16位までが残留、17位が入れ替え戦出場。2チームなら17位までが残留、18位が入れ替え戦出場となり、3チーム昇格の場合は入れ替え戦出場チームはなくなる。また、JFL加盟チームの廃部、合併等も上記降格条件に影響する可能性がある。 天皇杯への出場枠[編集] 前期終了時の上位4チームに第89回天皇杯の出場権が与えられる。 強化費[編集] 各試合において勝利チームに勝利チーム賞6万円を支払う。 最終成績[編集] 順位 クラブ名

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宮内和也 – Wikipedia

宮内 和也(みやうち かずや、1990年頃 – 2007年6月)は、日本の高校生。大阪府出身。小学2年生で悪性腫瘍を患いながらも[1]、モササウルスの古生態学的研究に生涯を捧げ、日本学生科学賞や日本地質学会優秀賞を受賞[2]。2007年没。研究は小西卓哉に引き継がれ、また各種メディアで特集された[1]。きしわだ自然友の会会員[3]。 生い立ち[編集] 大阪府岸和田市にて生まれる[1]。小学1年生(6歳)で古生物学への関心を抱く。小学校での自由研究では自身で採集した化石とそのレポートを提出し、岸和田市のコンクールで特選を受賞した[4]。 小学2年生[1](8歳)で悪性腫瘍を患っていることが判明し、余命10年と診断される[5]。それ以降、音楽をはじめとする他の趣味を諦めて古生物学研究に時間を費やす。当初は恐竜などのモササウルス以外の古生物の研究も行っていたが、最終的に研究対象をモササウルスのみに絞ることになった[1]。飛翔館高等学校に進学後、後述する日本地質学会の研究発表から9か月後にあたる[1]2007年6月に死去[5]。17歳没[1][2]。 中学3年から高校1年にかけての約2年間で、入院生活を挟みながら前後長1メートルを超えるモササウルスの頭骨模型を製作。この製作過程でモササウルスの下顎の関節の機能に着目し、モササウルスが関節を用いて口を左右方向にも大きく開き、発生する水流と共に獲物を吸い込んで捕食していたと仮説を立てた[1]。 2005年には大阪市立科学館で開催された第6回「こどものためのジオ・カーニバル」で研究発表を行い[2]、2005年と2006年に大阪府学生科学賞を受賞[2][4]。高校2年生であった2006年には日本地質学会の小・中・高地学研究発表会で発表し、優秀賞を受賞した[1]。日本学生科学賞も受賞している[2][4]。没後、受賞論文「モササウルスの食性を考える」は日本古生物学会の発行する雑誌『化石』に掲載された。論文の体裁は真鍋真と大路樹生が整えた[6]。 2010年にはきしわだ自然資料館でモササウルスの特別展が開催され、宮内による上記の頭骨模型と研究論文が展示された[4]。2021年には、テレビ放送の視聴者の提案で、福岡県大牟田市内の飲食店で1/10サイズのモササウルス全身模型や貝化石などと共に大型模型が展示された[5]。 2018年にはモササウルスの研究者である小西卓哉が自宅を訪問し、宮内の研究の引継ぎを申し出た。宮内の化石コレクションや製作した模型はそのまま保管されていた[1]。 2019年には『NHKスペシャル』「恐竜超世界」[1]、2021年には『ダーウィンが来た!』「史上最強!海の王者モササウルス」[7]が宮内の研究に基づいて制作されている。 外部リンク[編集]

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ハリス・マン – Wikipedia

1971年モーリス・マリーナ 1979年オースチン・アレグロ 1975年トライアンフTR7 ハリス・マン(Harris Mann, 1938年4月-)は、イギリスの自動車デザイナーである。 1970年にBLMCのチーフスタイリストに就任し、1970年代後半に退職するまでモーリス・マリーナ、オースチン・アレグロ・トライアンフ・TR7/8・BL・プリンセスなどの、この時代の同社製乗用車をデザインした。 当時、経営・労務の混乱から開発能力・品質管理の両面で最悪の状態に陥っていたBLにおいて、しばしば奇をてらい過ぎたアンバランスなデザインに走り、これがそのまま生産化されてしまうことで、当時のBLニューモデル群が市場の不評を買う一因を作った。手掛けたスタイリングの多くは後年に至るまで評価が低く、後のマイナーチェンジで他のデザイナーによって改変された事例が多い。 1938年ロンドン生まれ。ウェストミンスターの技術学校を卒業し、最初にバス車体メーカー・Dupleに就職、後にレイモンド・ローウィの事務所に転じた。短期間の兵役を終えた後にルーツ・グループ(商用車のコマーを担当)、そしてイギリス・フォードに入社した。フォードではチーフデザイナーのロイ・ヘインズの下、初代エスコート・初代カプリのデザインを補佐した。 ヘインズは1967年にBMCに転じたが、その際マンを誘い、二人はともにカウリーの旧モーリス工場にあったBMCのデザインスタジオに移った。マンの最初の仕事は当時のベストセラーカー・フォード・コーティナ(2代目のデザインはヘインズの作品であった)の対抗馬として開発されていたモーリス・マリーナのデザインであった。1970年、カウリーのスタジオがオースチン系のロングブリッジ工場に統合された際にヘインズは退職、32歳のマンがBLMC乗用車のデザイン責任者となった。ただしジャガーではウィリアム・ライオンズが、ローバーではデビッド・ベイチュがそれぞれスタイリング部門を掌握しており、統合は不完全なものであった。 BLMCで彼はまずヘインズが進めていたオースチン・アレグロのプロジェクトを引き継ぎ、続いて’Diablo’というプロジェクト名であったBL・プリンセスのデザインを行った。更にトライアンフ・TR7/8を手がけた。 マンのデザインした各車はいずれも当時のBLMC/BLが抱えていた品質上の問題もあって、マーケットには決して好評には受け入れられなかった。マンはプリンセス・TR7に見られるように極端なウェッジシェイプ(くさび形)のデザインを好んだが、ボディ全体のプロポーションや、ディテール例えばテール部分のデザインとのマッチングなどへの配慮は充分とは言えなかった。また、彼はアレグロで四角いステアリングホイール(ブラウン管テレビのスクリーンのような形)を試みたが、これも不評でわずか2年で通常の丸型に戻された。 結局、マリーナは1980年にジョルジェット・ジウジアーロによって大幅に手直しされてモーリス・イタルに、プリンセスも1982年に前後デザインを大幅に改造して5ドアハッチバック化されたオースチン・アンバサダーとなり、TR7には1979年にオープンモデルが登場して不評だったルーフ部分の重苦しさが解消されるなど、多くの場合、マンのオリジナルデザインには彼の退職後、大幅な修正が加えられた。また、1970年代末以降に発表されたローバー・メトロやオースチン・マエストロなどのBL製新型車のデザインは後任のチーフスタイリストであるイアン・ビーチ(英:Ian Beech )が、デビッド・ベイチュの助言の下で行うこととなった。 退職後彼はフリーランスのデザイナーとなって、1990年代のローバー各車のMG化(ZR・ZS・ZTへの再デザイン)にも関与した。

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大晦日 – Wikipedia

この項目では、日本伝統の年越しについて説明しています。 大晦日(おおみそか)は、1年の最後の日。天保暦(旧暦)など日本の太陰太陽暦では12月30日、または12月29日である。現在のグレゴリオ暦(新暦)では12月31日。翌日は新年(1月1日)である。大晦(おおつごもり)ともいう。日本では、年神を迎えることにちなむ行事が行われる。 名称[編集] 旧暦では毎月の最終日を晦日(みそか)といった。晦日のうち、年内で最後の晦日、つまり12月(または閏12月)の晦日を大晦日といった。元々“みそ”は“三十”であり、“みそか”は30日の意味だった。ただし、月の大小が年によって変動するので、実際には29日のこともあった。後の新暦の12月31日を指すようになった。 大晦日を大つごもりともいった[1]。「つごもり」は、晦日の別名であり、「月隠り(つきごもり)」が転じたものである。 文化[編集] 日本における大晦日という慣習は、日本文化に古くからある「歳神様」(としがみさま)、または「歳徳様」(としとくさま)への信仰に基づく儀礼から生じており、これらは歳徳神などとも呼ばれるその年一年間を司る神様である。年の初めから来られるため、「正月様」(しょうがつさま)とも呼ばれ、各年によって来られる方向が異なり、その方角は「恵方」と呼ばれる。この神様は神社のような宗教施設ではなく各家々に訪れると昔から信じられていたため、神様をお迎えし食事を共にしたりするために大晦日から「年籠り」(としごもり)をして(元旦に恵方にある近所の神社へ参拝する恵方詣りをすることもあるが)元旦も家で過ごすことが一般的であった。後に歳神様が家に来られるという観念がほとんど無くなり、一般庶民が正月三が日などに神様に願いを伝えるためにこちらから神社へ参賀する「初詣」を行うようになっているが、そのきっかけは、明治20年代(1887年(明治20年) – 1896年(明治29年))に官公庁から始まった元旦に御真影を拝む「新年拝賀式」と、1891年(明治24年)の「小学校祝日大祭日儀式規定」により元旦に小学校へ登校する「元旦節」などを経て、関西の鉄道会社が正月三が日に(恵方とは無関係な方角の)神社へ初詣を行うというレジャー的な要素を含んだ行事を沿線住民に宣伝しこれが全国にまで広まったことで、年籠りという習慣は次第に失われたとされる[2]。 日本の平安時代に行われていた大晦日の宮廷儀礼の1つに「鬼やらい」とも呼ばれる「追儺」(ついな)がある。年の変わり目という最大の節分において、「鬼」で表現される良くない何かを追い払うために方相氏(ほうそうし)と呼ばれる恐ろしい扮装・いでたちの導士によって執り行われる古い行事であるが、これが後の節分行事に変化したとされる[3]。恐ろしい姿の演者としては、日本の郷土文化として大晦日や旧正月などに「なまはげ」などが行われている。 大晦日の行事[編集] 大晦日には、様々な年越しの行事が行われる。年越しの夜のことを除夜(じょや)とも言う。かつては、除夜は年神を迎えるために一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になる、皺が寄るとかいった俗信があった[1]。また、大晦日の伝統的な風習には以下のようなものがある。 年越し蕎麦(地方によっては他の食事) 除夜の鐘(108つの煩悩を祓う) 二年参り(初詣) 雑煮(古くは、大晦日の夜から一日が始まるため既に新年であり、正月の食事をとる家庭もある) お年取り(長野県などで行われるごちそうなどを食べる行事)[4] 晦日祓い -「みそかっぱらい」ともいう。主に関東で行われている。大掃除の済んだ大晦日の深夜、家中の部屋を小さな幣束で払ってまわり、最後に使用した幣束を鬼門の方角の土や、辻に刺して立てておく。晦日払い。 神社仏閣や各地方では伝統的な行事が行われ、その他にも年越しを祝うイベントが行われる。また、そういった行事やイベント、初日の出など元旦のイベントの為に移動する人が多いため、鉄道などの交通機関が日常は営業時間外となっている深夜に営業する事もある[5]。

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バンコク – Wikipedia

この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(タイ語の文字)が含まれています(詳細)。 バンコク都(バンコクと、フランス語: Bangkok,[bāːŋ kɔ̀ːk], 聴く[ヘルプ/ファイル])正式名称クルンテープマハーナコーン(กรุงเทพมหานคร,[krūŋ tʰêːp mahǎː nákʰɔ̄ːn])は[1]、タイ王国の首都。タイでは、クルンテープ(กรุงเทพ,[krūŋ tʰêːp], 聴く[ヘルプ/ファイル])の通称で呼ばれている[2]。 人口8,249,117人(2010年)、面積1568.737 km2。都市圏人口は2018年時点で1600万人を超えており、世界有数の大都市圏を形成している[3]。ASEAN経済の中心地で、東南アジア屈指の世界都市でもある。 タイの王宮や政治の中枢機関が集中しているだけでなく、交通と宿泊施設の整ったバンコクは多くの各国要人を招き、アジアで2番目に多くの国際会議が開かれる都市であり[4]、政治的に多大な影響力を持つ。 名称について[編集] バンコクの儀式的正式名称は非常に長く、下記のとおりである。 กรุงเทพมหานคร อมรรัตนโกสินทร์ มหินทรายุธยา มหาดิลกภพ นพรัตนราชธานีบูรีรมย์ อุดมราชนิเวศน์มหาสถาน อมรพิมานอวตารสถิต สักกะทัตติยวิษณุกรรมประสิทธิ์

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ランドルフ・チャーチル夫人 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ランドルフ・チャーチル夫人” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年5月) ランドルフ・チャーチル夫人(Jeanette, Lady Randolph Churchill, 1854年1月9日 – 1921年6月9日)は、アメリカ生まれのイギリス人名士。最初の夫であるランドルフ・スペンサー=チャーチル卿との間にイギリス首相ウィンストン・チャーチルをもうけた。 結婚まではジェニー・ジェローム(Jennie Jerome)、結婚後はレディー・ランドルフ・チャーチル(Lady Randolph Churchill)と称した。短くジェニー・ランドルフあるいはジェニー・チャーチル(Jennie

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家相 – Wikipedia

家相(かそう)とは、土地や家の間取りなどの吉凶を見るもの。 風水と同じく中国から伝来したが、日本の神仏習合思想が深く関わりをもち、風水とは違い、日本独自の発展をしたものである。 太極思想、陰陽道も大きく影響した[2]。陰陽道の最盛期といわれる平安時代中期頃から、病気や疾病、地震、火災、天災など、すべてを神の祟りが起こすものと考えられ、祟りを起こす神の存在を鬼に例えて恐れたといわれる[4][5][6]。 鎌倉時代前期に著された「陰陽道旧記抄」に「竈、門、井、厠、者家神也云々」とあり、井戸、竈、厠など、病気に直結する場所を神格化させ、諸々の宅神から祟りをうけぬよう祭祀を行い、併せてその位置を判断していた、それが家相の原点である[8]。 家相の原点[編集] 宮城を造営する際、君主が世界を支配するために天(神)と繋がる中心点が重要であるとして太極殿を建てた。当時を模して建てたものの代表的なものに、平安神宮外拝殿がある。 太極(中心点)が、万物の根源、陰陽の根源とつながるものと考えられ、万物には当然のごとく神が宿ることから、そこに建てる重要な柱を太極柱と呼ぶことになる。地方によっては、大国主の神をお祀りすることから大黒柱ともいい、太い柱を大黒柱と一概にいうわけではない。 伊勢神宮正殿に見られる心御柱(しんのみはしら)も、日本の神が、木や柱を依り代(よりしろ)とするため、神が依り憑く神籬 (ひもろぎ)としている。 そういった中心点を大切にし、そのうえで統制者は、京城内を結界(聖と俗を分離)し、人々が暮らす京城内に災い事が起きないよう四角四境の祭祀を行った。代表的なものに、京城四隅疫神祭(都)、宮城四隅疫神祭(内裏)があり、鬼門、裏鬼門を恐れるのでなく、四方を平等に崇めていた[13]。 歴代天皇は、正月元旦、早朝から四方を拝され、年災消滅、五穀豊穣を祈る四方拝といわれる祭祀を行い、それは寛平二年(890)から、平成期の明仁天皇まで1100年以上も続いている。北東の鬼門、南西の裏鬼門(人門、病門)、対角である北西(天門)、東南(風門、地門)を、現在でも四方を囲み結界をつくり、その土地に災いが起きぬよう祭礼を行う地鎮祭は簡略されたものである。 もうひとつの家相の原点として、高貴な建物を建てる棟梁を「番匠」(ばんしょう)といい、建築すべてに携わるものに災いが起きぬよう邪気を祓い去る陰陽道の祭祀祭礼の儀法を持ち合わせていた。その儀式を「番匠棟上槌打」といい、戦国時代、陰陽師が迫害を受けても刀鍛冶と同様、高い地位に位置付けられた「番匠」が口述伝承し、のちに書物化した「木割書」(きわりしょ)から、家相は生み出されたものであると、名工大名誉教授、内藤昌は述べている。しかし、その番匠ですら様々な流派で混乱し、ばらばらであった。この儀式を保存するため、昭和43年、番匠保存会が設立され、2014年、300年ぶりに再建される興福寺で、この儀式が披露された。 鬼門の発祥の地 [編集] 十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったり、京都御所の北東角の軒下に木彫りの猿が鎮座し、鬼門に対抗し(猿ヶ辻)といわれ、築地塀がそこだけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきた。京都御所の築地塀が鬼門、北東方位を凹ませてつくられていることから、「御所が鬼門を避けている」「除けている」と考えられ、それが鬼門を除ける手法とされてきた。東京芸術大学、東京工業大学名誉教授 清家清の著書 「現代の家相」には、「家相の教え通りに凹ませている」と書かれている。現代でも人々は縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、ヒイラギやナンテン、オモトを植えたり、鬼門や裏鬼門(南西)から水回りや玄関を避けて家作りをする場合がある。京都のNPO法人が2015年、京都市内中心部だけで、ビルや店舗、一般住宅など、約1100か所に鬼門除けがあるという調査が記述されている。四角く囲って玉砂利を敷いたり、ヒイラギ、ナンテンを植えている調査結果が発表されている。 京都御所の築地塀 北東角の部分 京都御所の内部には鬼の間が存在していた。鬼の間とは、京都御所において仁寿殿の西、後涼殿の東にある清涼殿、南西隅の部屋であり、裏鬼門の位置にある。飛鳥部常則が康保元年(964年)に鬼を退治する白沢王像を描いたとされている。壁に描かれていた王は、一人で剣をあげて鬼を追う勇姿であり、それを白沢王といい、古代インド波羅奈国(はらなこく)の王であり、鬼を捕らえた剛勇の武将であると伝わる。順徳天皇が著した禁秘抄に絵の記述がある。 現在の建物(鬼の間)に、白澤王の絵は描かれていない。なお、明治時代の『禁秘抄講義』3巻上(関根正直著)に引用されている、江戸中期の随筆「夏山雑談」には、白沢王は李将軍、「白澤王」としても記されている。 つまり、京都御所、天皇家が鬼の災い、神の祟り(自然災害、火災、疫病の蔓延)を恐れて、築地塀を凹ませていた、という解釈より、逆に庶民に災いごとがふりかからぬよう、皇室が一手に猿ヶ辻の凹みで受けとめて、御所内部の清涼殿、鬼の間に導いて鬼を切り倒し、世の安泰を願っていた、そう解釈したほうが自然であり、現代でも皇居の間取りは公開されておらず、外から見ただけの塀の凹みだけを受けて、庶民が単純な考えで鬼門除けに繋がったと考えた方が理に適うと、家相を研究する小池康寿の著書で主張する。猿ヶ辻に関しても前述とは別に、御所を守護する日吉神社の神の使いが猿だったことから、「猿ヶ辻」と呼ばれるという説もある。 中心の位置[編集]

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