Month: November 2021

ロドリゴ・サンチェス・ロドリゲス – Wikipedia

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スペイン君主一覧 – Wikipedia

称号: 国王 敬称 陛下His Majesty the King スペイン君主一覧(スペインくんしゅいちらん)では、スペインおよび現在のスペインにつながるイベリア半島の諸国を統治してきた君主の一覧を挙げる。 西ゴート王国[編集] アストゥリアス王国[編集] ガリシア王国[編集] グラナダ王国[編集] レオン王国[編集] ナバラ王国[編集] カスティーリャ王国[編集] アラゴン王国[編集] カタルーニャ君主国[編集] カスティーリャ=アラゴン連合王国(1479年 – 1516年)[編集]

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中国蝗災史 – Wikipedia

中国に被害を与えてきたトノサマバッタ 中国では、トノサマバッタによる大規模な農被害、いわゆる蝗害(蝗災)が天災の一つに数えられている。その存在は多くの資料に頻繁に見られ、地域規模ですべての食料を食い尽くしてしまう。これが民衆に与える被害は甚大なもので、餓死者が大量発生するのはもちろん、人肉を食うといった事態も多発した。国家や地方政権に与える影響も当然大きく、それまで続いていた戦争が勝敗・優劣に関係なく停止したり、時に民衆暴動が起こり王朝が崩壊する場合もあった。本記事ではこのような中国蝗災史について解説する。 中国では昔から、蝗災(蝗害)・水災(水害)・旱災(旱魃)が3大災害の扱いを受けている[1]。そもそも【蝗】の字は農作物を襲う蝗の惨害をどう防ぐか、救うかに「皇」帝の命がかかっているというので虫へんに皇と書くとする説がある[2]ほどで、政治と蝗害は密接に関わってきた。『貞観政要』巻第八・務農第三十にある唐の太宗が蝗を飲み込んで蝗害を止めたという伝説にも、その関係性が表れている。 鄧拓の1937年の著『中国救荒史』によると、秦漢代の蝗害は平均で8.8年おき、宋代には3.5年おき、元代には1.6年おき、明清代には2.8年おきであり、中国は世界規模で見ても蝗害を多く受けてきた地域の一つである。中国の蝗害のほとんどはトノサマバッタによるものである。 明末の農学者徐光啓は著書『除蝗疏』(ウィキソース)の中で「政府が非常時の食を蓄えておかずに飢餓の被害が広がったとすれば、それは人災というべきものである。飢餓の主因は3つ、洪水、旱魃、バッタである(國家不務畜積、不備凶饑人事之失也。凶饑之因有三、曰水、曰旱、曰蝗)」と述べている。旱魃の後には蝗害が発生しやすく、農作物の被害を一層大きくする。 殷周[編集] 古くは殷代の甲骨文にも蝗害の記録が見られる[3]。 周代の詩篇『詩経』には「既方既皁、既堅既好。不稂不莠、去其螟螣。及其蟊賊、無害我田穉。田祖有神、秉畀炎火」とバッタの駆除の様子が詠われている[4]。 漢代[編集] 紀元前175年(文帝6年)4月、旱魃と蝗害が起こっている(『漢書』文帝紀[5])。 この他に『後漢書』志第十五には建武22年、23年、28年、29年、30年、31年、中元元年、永平4年、15年、永元8年、9年、永初4年、6年、7年、元初元年、2年、延光元年、永建5年、永和元年、永興元年、2年、永壽3年、延熹元年、熹平6年、興平元年、建安2年と連綿として蝗害が起きた様子が綴られている。 後漢の思想家王充は著書『論衡』巻16の中に「虫食穀者、部吏所致」と記載している[6]。また蔡邕は「蝗者、在上貪苛之所致也」と自説を述べている[7]。 魏晋南北朝時代[編集] 西晋の永嘉4年(310年)、幽并司冀秦雍六州で蝗害が発生。東晋の建武元年(317年)にも司冀并青雍の五州に蝗害が発生したとする(『晋書』)。 北魏の孝文帝の時期、癸亥(483年)、営州で蝗害が発生したので、詔を下し、官庫を開いて窮民を救済した旨の記述がある(『北史』巻二・魏本紀第二)。 唐代[編集] 623年の記録として「夏にバッタが発生し、作物を食い荒らして民を苦しめた。儒学者は、祭礼を怠っているから旱魃が起こり、魚貝が害虫に変わったのだと主張した」[原文 1]と書かれている(『新唐書』[8])。 628年(貞観2年)、首都長安に旱魃が起こり、飛蝗も大発生した。『貞観政要』には皇帝太宗自身が視察を行った様子が書かれている[9][10]。 715年、淮河流域で「羽音、風雨の如し(声如風雨)」というレベルで飛蝗が大発生し、当時の宰相の姚崇は汴州刺史の倪若水に命じてその駆除を実施し[11]、その量は14万石(約2万5千立方メートル)に上っている[12]。

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基礎的財政収支 – Wikipedia

基礎的財政収支(きそてきざいせいしゅうし)は、公会計において、過去の債務に関わる元利払い以外の支出と、公債発行などを除いた収入との収支である。プライマリー・バランス(英: primary balance)ともいう。 歳出は国債費と政策的経費の和であるため、プライマリー・バランス額の定義式は次のようになる[1][注釈 1]。ただし、国債の元金償還費と国債利払い費は、国債費に該当する。 プライマリー・バランス額 =(税収 + 税外収入)− 政策的経費 税外収入としては、国有財産売払収入、日本中央競馬会納付金、印紙収入(郵便局販売分)等があります。[4] 政府貨幣発行益も税外収入となりますので、プライマリー・バランス額の式を書き換えると次のようになります。 プライマリー・バランス額 =(政府貨幣発行益等の税外収入+税収)− 政策的経費 = 政府貨幣発行益等の税外収入 +(税収 −  政策的経費) したがって、(税収 −  政策的経費)が赤字であっても、政府貨幣発行益などの税外収入が十分に大きければプライマリー・バランス額は黒字となります。 基礎的財政収支が均衡していれば、毎年の政策的な経費が税収などの毎年の収入でまかなわれていることになる。この場合、この年の債務の増加は利払い分だけであり、利子率と経済成長率が同じであれば公債の対国内総生産(GDP)比は一定となる。 基礎的財政収支は、国民経済における3つの主要な部門収支の1つであり、その他は民間部門と海外部門である。基礎的財政収支と民間部門収支と海外部門収支の合計は0になる。そして全ての部門が同時に黒字または赤字になることはない。基礎的財政収支が黒字であるときは、残り2部門における合計収支の赤字によって相殺され、基礎的財政収支が赤字の場合はその逆になる。 主流のマクロ経済学では、国民経済が不況で需要不足の状態の場合、基礎的財政収支の赤字を拡大する積極財政で民間部門に黒字を供給して経済を刺激する財政政策が求められる[5]。逆に経済が過熱して需要が過剰な場合は、基礎的財政収支の均衡や黒字を目指す緊縮財政で需要の引き締めをすることが求められる。

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芋 – Wikipedia

「いも、イモ」はこの項目へ転送されています。ナイジェリアの州については「イモ州」をご覧ください。 芋(いも)とは、植物の根や地下茎といった地下部が肥大化して養分を蓄えた器官である[1]。特にその中で食用を中心に利用されるものを指すことが多い。但し、通常はタマネギのような鱗茎は含めない。 なお、「イモ」という品種があるわけではなく、上述した特徴があるものを総称してイモと呼んでいるだけである。たとえばジャガイモはナス科であり、 サツマイモはヒルガオ科である。 食品栄養上の特徴[編集] 芋はデンプンなどの炭水化物を多く含み栄養価も高いことから、世界には芋を主食としている地域が多数ある。ジャガイモやサツマイモのように、痩せた土地でも耕作が出来ることから、原産地から移出された先で主食作物としての地位を得たものもある。例えば、アンデス山脈原産のジャガイモは、ヨーロッパとロシアで主食に準じる重要性を占めている。 一般に芋の栽培は穀物の栽培と比べて容易で、天候の変化にも強い。面積あたりの生産量が多く、面積あたりのカロリー生産量でも、芋のほうが穀物より多い[2]。そのため日本のサツマイモの様に飢饉対策作物として栽培された例や、重税や非食用作物の栽培を強制された農民が自分たちの食用に栽培する事がある。 栄養上の主な成分はデンプンだが、比率としては穀物と比べて遜色ないタンパク質も含む。しかし含有水分が多いので、重量あたりでみるとカロリー・タンパク質とも穀物より少ない[3]。たくさん食べるか、他の食物で補うかしなければならない。もっとも、太るまで食べ過ぎることがないというのは、現代的には健康によい特徴とも言える[4]。 水分量が多いことは腐りやすさにもつながり、穀物と比べると保存が利かず、貯蔵や輸送管理に困難がある[5]。 工業的に澱粉が分離精製される。また、蒸留酒の原料ともされてきたが、近年ではアルコール燃料(バイオエタノール)の原料ともされる。 植物としての特徴[編集] 芋をもつ植物は、その進化の過程で種子による子孫繁栄よりも栄養繁殖器官(塊根、塊茎、球茎、担根体など)による同一個体の複製を目指した植物ではあるが、有性生殖の機能は完全には失っておらず、花や種を付ける。栽培に適した地域であるほど花や種を付ける事が多い。この花や種は繁殖手段として必ずしも有効なものではないが、ウイルスによる遺伝子汚染の影響が少ない真正種子は親とは異なる性質を持つことから、芋植物の品種改良は採種を介して行われる場合も多い。 芋は地上に出た部分で光合成を行い、地下の肥大部分すなわち芋に栄養を蓄えて、葉や茎が枯れてしまう冬や乾季を芋のみの状態で過ごし、成育に適した季節が訪れると再び芽を出して育つ。多くの芋は多年草で、種子から育てると一年以内に芋が大きくならない。種芋から育てて一年以内で収穫するのが普通だが[6]、中にはコンニャクイモのように数年越しで育てる芋もある。但し、無性生殖によって単一品種のみが栽培された場合には特定の植物固有の病気が蔓延しやすくなる傾向(連作障害)もあり、それが原因となってジャガイモ飢饉のような飢饉を招いた例もある。 食料としての芋は焼く・煮る・炒めるといった簡単な調理で食用とすることが可能なものが多い。しかし例えばキャッサバのように有毒な栽培種もあり、害虫や他の動物に食べられる被害にあい難い利点があり、毒抜きして食用にされる。一般的なジャガイモであっても発芽部分や緑色になった皮には嘔吐や腹痛・下痢や頭痛といった食中毒程度の被害が主ではあるとはいえ毒性が存在し、その食用には注意を要する[7]。 俗語と芋[編集] 古くから甘くて美味しい石焼き芋は人気がある 栽培場所を選ばず安定供給が可能なため、得易く安価な食料として庶民に広く親しまれてきた。しかし、「何処でも得られる食料」ゆえ、蔑まれる傾向も見られる。いわゆる「イモ」というと「洗練されていない」の意味を含んだ、いわゆる「ダサい奴」という意味で使われる蔑称となる。芋料理は、しばしば「田舎料理」(郷土料理)の代表に挙げられる。(例:九州大学生をカリカチュアライズした菓子『いも九』) 芋づる式 サツマイモのつるを引っ張ると、芋が連なって一度に取れることから、一度に取得できること又は一つが取れると連なって取れる事を指す。 芋を引く

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白仁燁 – Wikipedia

白 仁燁(ペク・イニョプ、백인엽、1923年2月18日[1] -2013年12月14日)は韓国の軍人・教育者。本貫は水原。号は雲峰(운봉)。 朝鮮戦争開戦時、韓国軍第17連隊長として甕津半島で防御戦闘を指揮。仁川上陸作戦にも第17連隊長として参加した。兄は軍人、企業人の白善燁(ペク・ソニョプ)。 1923年[† 1]、日本統治下の朝鮮半島、平安南道江西郡江西面で父・白潤相、母・方考烈の間に生まれる。姉に白福燁、兄に白善燁[2]。近在では比較的裕福な中規模地主の家系であったが、父が死亡すると一家は困窮し、母と子供3人で平壌に移り住んだ[3]。母と姉が働くことで家計は安定し、白善燁と白仁燁は進学することが出来た[4]。 平壌中学を卒業後、父が卒業した明治大学経済学部に進学。学徒出陣して陸軍少尉(航空兵科)。岐阜陸軍航空整備学校に勤務中、終戦。 平壌に復員したが仕事はなく、満州国軍中尉だった兄と共に、親戚のツテで民族派指導者の曺晩植の平安道人民政治委員会で働き始めた。兄の白善燁は事務所の受付で、白仁燁は警護担当だったという。ソ連の後押しで金日成らのパルチザン派が権力を掌握し始めると赤衛隊が曺晩植の警備隊を解散させた。警備隊の隊長だった白仁燁は赤衛隊に目を付けられ、共産主義体制下で身の危険を感じていた丁一権[† 2]と共に南下した[5]。 韓国軍[編集] 丁一権とともに韓国軍の前身である南朝鮮国防警備隊に入隊、1946年1月22日付けにて軍事英語学校[† 3]を卒業。軍番10023番。任少尉。任官後、第1連隊勤務ののち、第4連隊(光州)D中隊長。 1947年3月、第4連隊第2大隊長、任少佐。 1948年5月5日、陸軍内に航空部隊が創設され初代部隊長に就任。しかし空軍創設要員として配属された崔用徳、金貞烈、張徳昌、李英茂、朴範集、李根晳、金英煥が、経歴や年齢において自分とは比較にならないほどの大先輩だと知り、就任からわずか数週間で部隊長を辞退してしまった[6]。 1948年8月、第12連隊(群山)副連隊長。1948年10月19日からの麗水・順天事件には、第12連隊第2大隊、第3大隊を率いて出動した。 1948年11月20日、新設の第17連隊(始興)初代連隊長。1949年11月15日、国境紛争の頻発していた甕津半島[† 4]に移駐。のち任大佐。1950年3月より、第17連隊は甕津(オンジン)地区を警備する、陸軍本部直轄の独立した連隊戦闘団となった。 ソウル北西の甕津半島は地形的には北から南に伸び、半島付け根の部分に38度線が横切っていたため、韓国側にとって甕津地区が島のような飛地になっており、仁川から海路で連絡するには10ノットのLSTで6時間かかった[7]。 第17連隊は歩兵三個大隊、砲兵一個大隊(第7砲兵大隊)を基幹に42キロメートルの警備正面を担当していた。第17連隊では開戦直前の1950年6月22日ごろより国境線の北朝鮮軍の輸送が活発になり、相当な準備をしている状況を把握、陸軍本部に報告すると共に第一線部隊に警戒令が発令されていた。6月23日も同様で、6月24日には大規模な不法侵入だと判断した。甕津地区の当初計画では、敵の大規模攻撃の際には直ちに仁川に撤退することになっていたが、アメリカ軍顧問は楽観的で、敵の攻撃が開始される前の撤退は出来るものでもなく、結果撤退の時機を逸していた[8]。 朝鮮戦争[編集]

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九九式普通実包 – Wikipedia

九九式普通実包(きゅうきゅうしきふつうじっぽう)とは、日本陸軍が使用した7.7mm弾薬の名称である。九二式実包と薬莢の外形がほぼ同じであり、九九式小銃、九九式短小銃、九九式軽機関銃用の弾薬として使用された。本実包は、半起縁または無起縁の九二式実包を使用する九二式重機関銃や、九七式実包(後に九二式実包に改称)を使用する九七式車載重機関銃、無起縁の九二式実包を使用する一式重機関銃[1][2][3]等の各種7.7mm銃からも発射可能であった。また、日本海軍が開発した四式自動小銃でも使用された[4]。本実包の規格は7.7mm×58である。 1919年(大正8年)12月、来たるべき小銃口径改正に備え、将来採用されるべき7.7mm歩兵銃および騎銃の設計要領書が陸軍技術本部より提示された。同時に使用実包の設計要領も示され、実包全長80mm、薬莢全長58mm、薬莢起縁部外径12.1mm等、この時点で後の7.7mm小銃用実包の薬莢外形がおおよそ決定された[5]。その後も幾度か7.7mm小銃の試験が行なわれたが、いずれも性能不足により採用には至らなかった。なお、この時に設計された実包は、作動の確実性を期すために薬莢起縁部外径を12.7mmとした他は、ほぼ同仕様のまま八九式普通実包として航空機関銃用に採用された。また、この起縁部外径を増した薬莢は九二式重機関銃でも使用された。 1938年(昭和13年)10月、三八式歩兵銃に使用されていた三八式実包は口径が6.5mmであることから威力が小さく、また生産・補給の観点から7.7mm重機関銃との弾薬共通化を図る必要に迫られたことから、陸軍技術本部により新型7.7mm小銃の開発が始められた。この実包の外形は九二式普通実包と同一とし、さらにこれより反動を抑えることが必要とされた[6]。 同年12月に弾薬の生産・補給効率の向上等を図るため企図された弾薬統制要領[7]に基づき、九二式実包が無起縁となることが決定した。これに伴い九九式小銃および九九式軽機関銃でも無起縁の九二式実包を用いて開発が進められていたが、小銃および軽機関銃用としては反動が強すぎたため、装薬および弾丸重量を減らした九九式普通実包が開発されるに至った。 本実包は人馬の殺傷を目的とする。それまでに制定されていた九七式普通実包に比べ、より近距離目標の射撃に適していた。また、本実包は九二式重機関銃、九七式車載重機関銃、九九式小銃、九九式短小銃で共用できた。 弾丸はマンガン黄銅で被甲してあり、弾身は硬鉛第二種を使用した。弾長は31ミリ、弾径7.9mm、弾量約11.8gである。装薬には三番管状薬、または九九式用新試製方形薬(試製三番小銃薬、後に四番小銃薬へと変更[8][9][10][11])2.8gを使用した。薬莢および雷管は九七式車載重機関銃弾薬九七式普通実包と同一のものを使用した。実包全体の重量は25.5gで、全長は80mmである。なお、九九式普通実包の弾丸前部の形状は、九二式普通実包のものと較べるとやや丸みを帯びている。 本実包は九九式小銃、九九式短小銃、九九式軽機関銃の制定に伴い、主として小銃および軽機関銃用として使用し、併せて九二式重機関銃、九七式車載重機関銃にも使用できる実包として審査が行なわれた。審査は1938年(昭和13年)10月、1939年(昭和14年)3月、同年6月、同年12月にわたり、伊良湖射場と富津射場において弾道性と殺傷能力を試験した結果、実用に適するものと認められ、1940年(昭和15年)3月31日に「九九式軽機関銃弾薬九九式普通実包」として仮制式制定が上申された[12]。 本実包に採用された弾丸は、前部から中部にかけての被甲厚が厚く、かつ後部が薄くなっており、1913年(大正2年)2月に制定された三八式実包の新型弾丸と同様に、弾丸の重心を後部に移し、かつ圧拡作用が良好になる様に企図されていた。 その他の弾種[編集] 以下の弾種が存在した。 なお「兵器細目名称表」においては、弾薬の名称は「九九式○○銃弾薬(○○式)○○実包」、「九九式○○銃弾薬空包」という型式で呼称する。後に名称の簡易化を図るため、従来同一の弾薬でありながら銃毎に制定してあった弾薬の名称が、全て「七粍七銃弾薬(○○式)○○実包」、「七粍七銃弾薬○○銃空包」へと統一された[13]。 狭窄射撃実包[編集] 実包射撃要領教育用の弾薬。 実包全体の長さは61mm、重量は14.26gであった。弾丸は銅製被甲とし、弾身には鉛を使用した。装薬として無煙拳銃薬0.25gを装し、使用する薬莢および雷管は九九式普通実包と同一である。 本実包は1939年(昭和14年)10月に伊良湖射場で、同年12月に富津射場で試験が行われ、その結果機能は概ね良好で、射距離15mおよび20mにおける命中精度も良好であったことから実用に適すると認められ、1940年(昭和15年)3月に仮制式制定が上申された[14]。 後に名称統一のため、「小銃狭窄実包」へと改称された[13]。 空包[編集] 演習用の弾薬。小銃用のものと機関銃用のものとがあった。 小銃用のものは、空包全体の長さは80mm、重量は12gであった。弾丸は洋紙製中空紙弾を使用した。装薬として一号空包薬0.8gを装し、使用する薬莢および雷管は九九式普通実包と同一である。 本空包は1939年(昭和14年)10月に伊良湖射場で試験が行われ、その結果機能は概ね良好であったことから実用に適すると認められ、1940年(昭和15年)3月に仮制式制定が上申された[14]。

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方世玉 – Wikipedia

方 世玉(ほう せいぎょく、フォン・サイヨク)は、清代の武侠小説・『乾隆游江南』(聖朝鼎盛萬年青)、『少林小英雄』、『万年青』などに登場する伝説的な武術家。創作上の人物ながら、実在したかのように語られ、さまざまな小説、映画、ドラマの題材となっている。 広東省肇慶の出身とされ、この地域を中心に伝承されてきた。父は方徳、母は武林の名手である苗翠花。幼い頃から母から武術の訓練を受ける。 10歳のときに武術の達人を試合で殺してしまい、追っ手から逃れるために福建少林寺に入山。そこで修行を積む。 下山後、民衆を苦しめる悪人たちと戦い、人々から尊敬を集めるが、清朝政府による福建少林寺焼き討ちの際に若くして死亡してしまう。 登場する作品[編集] 清代武侠小説[編集] 『乾隆游江南』(聖朝鼎盛萬年青) 『少林小英雄』 『万年青』 映画[編集] 人名は方世玉を演じた俳優 『新少林寺方世玉打擂台』 1928年・・・王天聰 『方世玉打擂台』 1928年・・・任潮軍 『方世玉打擂台』 1938年・・・新馬師曾 『方世玉二巻之胡恵乾打機房』

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松平恆雄 – Wikipedia

日本の政治家 松平 恆雄 まつだいら つねお 参議院議長時代 生年月日 1877年4月17日 出生地 日本 福島県会津郡若松城下 御薬園(現・福島県会津若松市) 没年月日 (1949-11-14) 1949年11月14日(72歳没) 死没地 日本 東京都品川区荏原 出身校 東京帝国大学法科大学政治学科卒業(現・東京大学法学部)

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チョコボレーシング 〜幻界へのロード〜 – Wikipedia

『チョコボレーシング 〜幻界へのロード〜』(チョコボレーシング げんかいへのロード、Chocobo Racing)は、1999年にスクウェア(現スクウェア・エニックス)が発売したプレイステーション用レースゲーム。ファイナルファンタジーシリーズ(以下、FFシリーズ)に登場するチョコボがレースを行う。 1999年3月18日の発売後、同年12月22日発売の『チョコボコレクション』の同梱タイトルの1つとして収録、2001年12月20日には廉価版「PS one Books」で再び単品で発売、2009年2月10日には「ゲームアーカイブス」対応ソフトとしてPS3とPSP向けに配信と、計4回リリースされている。 チョコボをはじめとするキャラクターによるレースゲーム。オリジナル要素として、レース中に使用できるアビリティや、コース中で拾える魔石などがある。 音楽はエンディングテーマを除き全てFFシリーズのBGMのアレンジであるが、サガシリーズの音楽担当である伊藤賢治が本作品の音楽を担当している。 ゲームシステム[編集] アビリティ[編集] キャラクターセレクト時にアビリティを1つだけ選ぶことができる。時間の経過により左上のゲージが溜まっていき100%になると使用できる。また、ゲージが100%まで溜まると自動的に発動するアビリティも存在する。ゲージの溜まる速度(AGS)はアビリティによって異なる。 ダッシュ 使用すると数秒スピードが上がる。比較的AGSが早い。 はばたき 一定時間飛ぶことができ、コース上の大半の障害物をよけられる。落下ポイントなどはよけられない。 グリプル 一定時間マシンが固定されグリップの安定度が増す。名前はFFシリーズの魔法「スリプル」より。 ぶんどる 他のプレイヤーの持っている魔石を1つ奪い取ることができる。奪えなかった場合はランダムに魔石が手に入る。

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