Month: December 2021

寺社本所領事 – Wikipedia

寺社本所領事(じしゃほんじょりょうのこと)は、応安元年6月17日(正平23年/1368年7月2日)に室町幕府によって出された法令[1]。応安大法(おうあんのたいほう)・応安の半済令(おうあんのはんぜいれい)とも。 室町幕府第3代将軍足利義満が就任して最初の評定始の際に定められた法令である。また、後述のように室町幕府の所領訴訟に対する基本方針を定めた法令とされ、従来の半済令とは一線を画した法令でもある。 この法令が出される前年貞治6年11月25日(正平22年/1367年12月17日)に2代将軍足利義詮が危篤となり、10歳の嫡男義満が家督を継承し、その後見のために細川頼之が管領に就任した。年が明けると義満は元服するが、政治の実務は頼之が行い、その状態は18歳を迎える永和元年(天授/1375年)まで継続される(もっとも、名実ともに義満親政が始まるのは康暦の政変以後のことである)。 この法令の直後に頼之が近江国守護職佐々木氏頼(六角氏頼)に対して発給した御教書の中で、この法令に北朝後光厳天皇の勅許が付けられていること、来月(応安元年7月)までに具体的な実施状況の報告を求める旨が述べられている。幕府の命令を天皇が勅許の形で追認するという形式が取られている(「大法」という言葉には幕府・朝廷両方から出された重要法令の意味もあるとされている)という点でも特異な法令であると言える。更に9月17日には実務にあたる守護代を招集して将軍(義満)の御前で大法の執行の命令が出されている(『東寺百合文書』応安元年10月付「東寺雑掌頼憲申状」)。 天皇・院・摂関家の所領及び寺社を本所とする一円知行地に対する半済は撤廃して、年貢の究済(完納)を命じる。その他の諸国の本所領については当分の間、本所の雑掌と預かり人(半済令によって所領を占拠している武家)が半分ずつに分割する(事実上の下地中分)。預かり人が命令に従わず、全部あるいは半分以上を所領とした場合にはこれを厳罰として本所領は全て本所側に返還する。ただし、一円知行地であっても、俗人が名前を借りて知行しているだけのものであれば、撤廃の対象にはならない。(撤廃される)一円知行地でも、(引き続き)半済が公認されている地であっても速やかに本所の雑掌に半分を引き渡すこと。 これまで半済令の対象となっていなかった一円知行地についてはこの法の規定に関わらず今後も半済を行ってはならない。 寺社を本所とする一円知行地のうち幕府が誤って半済を認めた所領については、幕府が代替地を見つけるまで当面は本所と武家が半分ずつ領有する。 半済令によって本所領を占拠している地頭が武家ではなく、幕府より勲功によって地頭職を与えられた公家の場合であっても、公家を地頭とする一般の本所領とは区別して武家の地頭と同様にこの法令の規定に従う義務を有する。 この時期、室町幕府は幼少の将軍を擁して南朝側と対峙している状況にあり、危機的状況に置かれていた。そのような中で室町幕府が擁する北朝及び有力権門である摂関家や寺社との連携を強化することでこの危機を乗り切ろうとした。更にこれは半済法でありながら、その内容は室町幕府の所領に関する政策と訴訟に対する姿勢を内外に示した法令であった。 長い間続いた南北朝の内乱の中で兵糧確保のために出された半済令であったが、これによって守護などの武家が各地の荘園などを事実上の押領を行うこととなり、京都などにあった本所は年貢収入を受け取ることは出来なくなった。この法令では長年のこの押領状態を解消するために本所と武家による所領の分割を命じたのである。これは本所にとっては所領の半分を失うことになるため、天皇の勅許を取り付けて公家などの伝統的勢力から構成される本所の抵抗を排除した。その一方で半済令を盾に所領を占拠してその年貢収入の全てを握っていた武家に対してもその半分の支配権が公に認められた代わりに残り半分に相当する年貢を必ず本所に供出する義務を負う事となり、実質的には収入が半減することになった。そのために朝廷の所領についてはともかく、寺社・公家の所領に関しては武家は軍事的実力を背景に下地中分・返還には応じず、殆ど効力がなかったと考えられている。 更に従来の半済令が期限を「当年一作」、施行地域を「戦乱の国々」としていたのに対して、この法令では期限が「暫く(当分の間)」、施行地域を「諸国」と文面が改められたために各地の守護が戦乱などを口実に幕府の許しを得ずに行ってきた半済・押領を追認・永続化させる法的根拠を与え、武家(守護)による守護領国制の確立を促した。更に代替地の規定は幕府が代替地探しに積極的な態度を見せなかったことで、暫定措置であった半済の継続が永続的なものとされていった。その他の規定に関しては、その多くが前将軍・義詮時代に出された諸法令の焼き直しに過ぎなかった。 とはいえ、当時の京都には在倉制の対象となっていた鎌倉府支配地域以外の守護の多くが集まっており、かつ守護代までを召集して将軍御前において実施とその結果報告を求めさせるという幕府の措置は、これまで幕府の命令を様々な口実をもって遵守してこなかった守護や守護代に対しては一定の効果があったとする見方もある。そして、これ以降室町幕府からは土地政策に関する大規模な法令が出されることなく、成長した義満の親政期においてもこの法令が土地政策に関する基本方針として守られ続けるとともに、公武において彼の政治権力が確立されるようになると、その実効性も上がるようになる。明徳2年(元中8年/1391年)、仙洞御領出雲国横田荘を押領したとして守護山名満幸が全ての守護職を解任され、この件が明徳の乱の直接的な原因となって満幸は討たれるが、これはこの法令の規定が遅ればせながら実際に効果を持ち始めたことを示すとともに、幕府法(この場合は「寺社本所領事」)に違反した守護は解任され、従わなければ軍事力で鎮圧するという室町幕府の守護統制が確立される事件ともなった。 この法令によって意図されたものとしては、今後の室町幕府の土地に関する基本的原則と所領訴訟に対する姿勢が確立して、結果的には守護領国制が事実上公認されたこと、半済から守られることとなった天皇家や摂関家との関係を強化して後年の義満による朝廷・院政支配への道を開いたことの意味の方が大きいと言える。 ^ ただし、最初の半済令である観応3年7月24日の半済令及び同年8月21日の付属法(いわゆる「観応3年令」)及び貞治6年6月27日の追加法(半済地の返還を促した規定)も「寺社本所領事」と称され、延文2月9月10日に出された半済令も「寺社本所領条々」と呼ばれている。 参考文献[編集] 桑山浩然「室町幕府の政治と経済」(2006年、吉川弘文館)ISBN 4642028528 早島大祐「首都の経済と室町幕府」(2006年、吉川弘文館)ISBN 4642028587

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ビレッジマンズストア – Wikipedia

開催日 タイトル 備考 2013年 ビレッジマンズストア自主企画”待望のワールドツアーin東名阪” 2014年 ビレッジマンズストアpresents「爆裂ヒーローショウ」3マン w/In 197666 2014年 ビレッジマンズストア決起集会 2014年 ビレッジマンズストア”刃の上を君と行く”リリースツアー w/THE PINBALLS / 描ク物語 / pilot /

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ル・オブジェ・アール・スタジオ – Wikipedia

株式会社ル・オブジェ・アール・スタジオ(英称:STUDIO L’OBJET ART CO.,LTD.)は、テレビ番組の美術製作・大道具および背景セット・オブジェを行う制作プロダクションである。 大道具を担当している番組の大半が、日本テレビ系のものである。 主な作品[編集] テレビ番組[編集] 情報[編集] 設立時(1963年10月) – 1969年12月 レギュラー番組 単発・特別番組 1970年代 レギュラー番組 単発・特別番組 1980年代 レギュラー番組 単発・特別番組 1990年代

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西武園ゆうえんち – Wikipedia

西武園ゆうえんち(せいぶえんゆうえんち)は、埼玉県所沢市大字山口2964にある遊園地。メインゲート前に埼玉県と東京都の都県境があり、駐車場の一部が東京都東村山市に属する。 西武鉄道が所有し、グループ会社の西武レクリエーションが運営していたが、2020年10月1日よりとしまえんを運営していた株式会社豊島園が商号を「株式会社西武園ゆうえんち」と変更し運営している。一部のアトラクションは、西武グループの横浜・八景島シーパラダイスにおいても同系統機種が導入されている。 夏休み期間中は毎週土曜・日曜に花火大会が開催されていた。リニューアル後は「大火祭り」と称し、毎日開催されている。 2010年11月、西武園ゆうえんちを含む西武園エリア一帯のネーミングを西武鉄道運営のコミュニティサイトで募集し、満場一致で「所沢西武 アッハの森」(ところざわせいぶ アッハのもり)に決定した[3]。 2021年5月19日にリニューアルオープンした[4]。昭和レトロをテーマに、商店街やアトラクションなどが新設された。リニューアルに伴い、所沢西武 アッハの森の名称使用を完全に終了し、現在は各種広告での使用はしていない。 1947年(昭和22年)10月 – 蓮沼門三の修養団の公民道場[注 1]を買収。営業休止していた西武村山線の東村山駅-村山貯水池駅間を1948年4月1日に再開して建設資材を輸送した。 1950年1月25日 – 東村山文化園[5][6][注 2]として開園。 1951年9月16日 – 西武園へと改名[注 3]。

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イオンモール広島府中 – Wikipedia

イオンモール広島府中(イオンモールひろしまふちゅう)は、広島県安芸郡府中町にある、イオンモールが運営しているショッピングセンターである。 ダイヤモンドシティ・ソレイユ(DIAMOND CITY SOLEIL)として開業。開業当初は約200店舗だった。2007年9月22日に、運営会社のダイヤモンドシティがイオンモールと合併した事に伴い、イオンモール広島府中ソレイユに変更。更に、2011年10月21日には現名称イオンモール広島府中に再改称された[補足 3]。 旧名称の一部であるソレイユ(SOLEIL)とは、「太陽」を意味するフランス語で、建物は太陽をイメージしたデザインとなっている。店舗スペースは、店舗棟が1階から3階までの全フロアと4階の一部(シネマコンプレックス)に設けられ、それ以外のスペースは開放式の駐車スペースになっている。駐車場棟が5階建てで、敷地面積約126,000 m2、延床面積約256,000 m2、店舗面積約98,000 m2[補足 4]の中にビールの香りが残る活気と賑わいのある街づくりをコンセプトに作られ、インフォメーションに蒸留釜が流用されている他、以前は工場時代の煙突がシンボルタワーとして活用されていたりと、所々にビール工場の名残を伝える物が残されている。また、天井は非常に高く設定されている。 開業時の施設所有者はキリンビールで、キリンビール広島工場の跡地に「キリンビアパーク広島」と併設される形で所在していた。 イオンと、専門店の一部店舗で電子マネー「WAON」「ICOCA(Suicaなどの相互利用が可能な、交通ICカードも可)」「iD」「QUICPay」が使用できる。 核テナントは、建物の西側にイオンスタイル広島府中(1F・2F)[補足 1]。東側にサブ核ゾーンのL.A.S(1F – ROJI Dining[補足 2]、2F – UNIQLO、GU、3F

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ロズウェル (ニューメキシコ州) – Wikipedia

ロズウェルのメインストリート ロズウェル(Roswell)は、アメリカ合衆国ニューメキシコ州の南東部、チャベス郡に位置する都市で郡庁所在地。 2005年の国勢調査によると、人口は45,199人で、ニューメキシコの5番目に大きい都市である。灌漑農業、酪農、牧場、製造業、流通業、そして石油生産の中心地である。1891年に創設されたニューメキシコ軍人養成大学(NMMI)の本拠地である。ビター湖国定鳥獣保護区は都市の北東数マイルのペコス川沿いに位置している。 ロズウェルは現在、1947年に発生した「ロズウェルUFO事件」と呼ばれる事件に、その名前が冠せられていることによって世界中に知られている。ただし、実際の墜落地点はロズウェルから約75マイルのところであり、むしろコロナの街に近かった。それでも、調査と残骸の回収は地元のロズウェル陸軍飛行場によって取り扱われた。 ロズウェル周辺の地域の最初の非先住民の入植者は、ミズーリ州から来た開拓者の集団だった。1865年に彼らは現在のロズウェルがある地点の15マイル南西のところに入植しようと試みたが、水が欠乏したためにその地点を放棄せざるをえなかった。 1869年、ネブラスカ州オマハ出身の実業家ヴァン・C・スミスと、彼のパートナーのアーロン・ウィルバーンは、現在のロズウェルの場所に2つのアドベ煉瓦の建物を建てた。ヴァン・C・スミスは、インディアナ州ラファイエットの著名な法律家であったロズウェル・スミスと、アメリカ合衆国特許庁長官ヘンリー・リーヴィット・エルズワースの娘アニー・エルズワースの息子であった。二つの建物は、コミュニティの交易所、雑貨店、郵便局、そして宿泊所として役立った。 1871年、スミスは連邦政府に建物周辺の土地の権利を申請し、1873年8月20日に、彼はこの町の最初の郵便局長となった。一般的にこの日が都市としてのロズウェルの公式なスタートの日付と歴史家は見ている。彼はこの町を、彼の父のファーストネームにちなんで、ロズウェルと呼んだ。 ロズウェルはもともとはリンカーン郡に所属していたが、1887年以降はチャベス郡に所属する。ニューメキシコ州ロズウェル郵便局はZIPコード88201を使う。 1877年、キャピタン、ジョセフ・キャロウェイ・リーはスミスの所有地の権利を買い取り、1年後リーの義理の父親、W・W・ワイルディ少佐がウィルバーンと他の2 人の入植者の所有地を購入した。ワイルディはこれらを彼の娘、サリー・ワイルディ-リーに贈与し、ロズウェルその周辺の土地のほとんどがリー家の所有となった。リー家はリンカーン郡戦争(1877-1879)のあいだも平和と秩序を保持し、ロズウェルを当時のニューメキシコ州南東部の他のほとんどの町より安定した地域にした。 1891年に大規模な帯水層が町の近くのネイザン・ジャッファの所有地、ジャッファ牧場で発見された。この水源の発見は、この地域の最初の大きな成長と発展を加速させる結果となった。1893年に鉄道が町を通って敷設されたときにも成長は続いた。 ロズウェルはロバート・H・ゴダードによって行われた液体推進ロケットの技術の研究によっても知られている。ゴダードは1930年代前期にロズウェルに来て、ロケット学の分野を高めるための多くの実験を行った。 第二次世界大戦中、近くのオーチャード公園に戦争捕虜収容所が置かれた。ドイツ人の戦争捕虜は、ノーススプリング川の土手の舗装などの、ロズウェルの主要なインフラ整備に使役された。一部の捕虜は異なるサイズの石材を使って、北岸の土手を覆う石材のなかに鉄十字の輪郭をつくった。後に、鉄十字は薄いコンクリートの層で覆われてしまった。1980年代に、河床清掃のクルーがコンクリートを取り除き、もう一度その輪郭をあらわにした。鉄十字のすぐ南にあった小さな公園は、それからアイアンクロス公園として知られるようになった。1996年11月11日、この公園はPOW/MIA公園(戦争捕虜・行方不明者公園)と改名された。この公園は、ドイツ空軍からロズウェル市に寄贈された、ベルリンの壁のかけらを展示している。 1980年代はじめ、大手バス製造のトランスポーテーション・マニュファクチャリング・コーポレーション(TMC)はロズウェルに工場を開いた。この工場は再開と閉鎖を繰り返し、失業率の周期的な振動を引き起こした。TMCはバス製造を止めてしまった。ノヴァバス社が同じ建物を使ってバスを製造したが、これも閉鎖された。このプラントは2003年にミレニアム・トランジット・サーヴィシズ社によって再開された。 2002年、ロズウェルは主にウォーカー空軍基地の閉鎖からの回復にちなんで全米都市賞に指名された。 ロズウェルは北緯33度23分14秒 西経104度31分41秒 / 北緯33.38722度 西経104.52806度

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双葉町立双葉北小学校 – Wikipedia

双葉町立双葉北小学校(ふたばちょうりつふたばきたしょうがっこう)は、福島県双葉郡双葉町にある町立小学校[2]。2011年発生の東日本大震災および福島第一原発事故により、いわき市にて授業を行っている[3]。 略歴[編集] 1873年設立の日新小学校、前田小学校および1879年設立の郡山小学校の3校が、双葉町立双葉北小学校の始まりである。1886年、3校は統合し新山小学校となり、1905年、長塚尋常小学校として分離した。1947年、長塚村立長塚小学校、1956年、双葉町立双葉北小学校に改称した。2011年の東日本大震災および福島第一原発事故により休校となったが、2014年、避難先のいわき市にて授業を再開した。 年表[編集] 1873年6月 – 日新小学校設立。前田小学校設立 1874年7月 – 日新小学校が長塚小学校に改称 1879年6月 – 郡山小学校が長塚小学校より分離設立 1886年 5月31日 – 前田小学校・長塚小学校・郡山小学校が統合し、新山村大本町30番地に新山小学校設立 12月 – 新山高等小学校に改称

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教育科學研究 – Wikipedia

本来の表記は「敎育科學研究」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。 『敎育科學研究』(きょういくかがくけんきゅう)は教育学雑誌。敎育科學研究會が発行した不定期発行誌。同会の機関誌。1939年(昭和14年)に発刊された。なお、同時期に同研究会の機関誌『教育』も並行して刊行され続けていた[注釈 1]。発刊当初より留岡清男が会の幹事長資格において編集作業を管理し編集兼発行者を務め、山田清人が編集実務を担当した[注釈 2][注釈 3]。本誌中に会員1,000名獲得を目標として明示した[1]。会員の治安維持法違反容疑による教科研事件の発生ののち1941年(昭和16年)に廃刊された。全17号刊行。 成立の経緯[編集] 教育科学研究会は、1939年(昭和14年)8月4日から8日まで、法政大学を会場として、第1回教育科学研究協議会を開催した。後援は、教育科学同志会[注釈 4]と岩波書店『教育』編集部。この頃、教育科学研究会の機構整備が行われ、城戸幡太郎が会長に留岡清男が幹事長に就任した。このあと、9月20日に『敎育科學研究』創刊。教育科学研究会の成立より前から参加者の活動と岩波書店『教育』の刊行活動は並行して行われていたが、『教育』の実質的体裁は商業誌であったため、その内容を会の活動事項が独占することもなく、また、会の機関誌として公言することもできないことから、会の組織活動が活発になって、地方の支部との連絡や、新しい支部をつくるときの手がかりにするために創刊された[2]。 創刊号には、第1回教育科学研究協議会直後の本部情勢と各地からの第一報を掲載した。当初は16ページ仕立てであったが、のちに32ページに変わった。地方会員との連絡、交流の内容が主で、運動上の方針とか、論説のようなものも載せたりした[3]。大東亜戦争開戦後の時代にとられた興亜政策において、文部省が主導した新教育政策樹立運動の中の科学振興策が科学的企画性に乏しいことを批判して、同研究会の教育科学運動の研究内容を補完的に提供することを企図した。岩波書店発行の雑誌『教育』の刊行とともに会の活動が進展し、特に教育に関する研究調査活動の重要性を標榜する行為が、科学的企画性の根拠として主張された。会員による大政翼賛運動への参加とともに国策としての教育改革への会の活動成果の還元が常に問われ、総ページ数の少ない機関誌としての『敎育科學研究』の記事の内容を定めることとなった。 注釈[編集] ^ 機関誌『教育』は、1933年(昭和8年)以来の継続刊行。『敎育科學研究』の発刊とともに準機関誌的存在となった。もとは岩波講座『教育科学』の附録として刊行されていた『教育』が1933年の講座終了とともに独立して、月刊誌として発行された。当初約1万部。編集に城戸幡太郎、留岡清男。編集部員として菅忠道、山下徳治も参加。編集兼発行者は長田幹雄。城戸幡太郎『教育科学七十年』北大図書刊行会 1978年 p.273 ^ 留岡は、のちに事務局長資格を兼任。 ^ 教育科学研究会発足当初事務所は雑誌『教育』編集部のあった岩波書店の一室に設けた。その後、1939年頃事務局は法政大学の児童研究所内に置かれていた。城戸幡太郎『教育科学七十年』北大図書刊行会 1978年 p.99、『敎育科學研究』1939年11月号

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ボレアース宗谷 – Wikipedia

ボレアース宗谷 鴛泊港に接岸中の「ボレアース宗谷」 基本情報 船種 フェリー 船籍 日本 所有者 東日本海フェリー→ハートランドフェリー 運用者 東日本海フェリー→ハートランドフェリー 建造所 内海造船瀬戸田工場(680番船)[1] 姉妹船 フィルイーズ宗谷(準同型船)[1] 航行区域 沿海[1] 船級 JG[1] IMO番号

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淡島神 – Wikipedia

淡島神(あわしまのかみ)は、日本の民間信仰の神である。 和歌山県和歌山市加太の淡嶋神社を総本社とする全国の淡島神社や淡路神社の祭神であるが、多くの神社では明治の神仏分離などにより少彦名神等に置き変えられている。淡島神を祀る淡島堂という寺も各地にある。 婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神とされ、江戸時代には淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がった。 淡島神の本体[編集] 淡島神(淡島明神)の本体については以下の様に様々な伝承がある。 少彦名神とする説。少彦名神が医薬の神とされていることや、『古事記』や『伯耆国風土記』に、国造りを終えた少彦名神が粟島(あわしま)から常世の国へ渡って行ったとする記述があることによる。加太淡島神社を始めとする多くの淡島神社がこの説を採っており、祭神を少彦名神、および、ともに出雲の国造りをした大国主神としている。 伊弉諾神と伊弉冉神が国産みを行った際に、両神の2番目の子として「淡島」が登場する。しかし、最初の子である蛭子神と同じく、不具の子であったために葦船に乗せて流され、子の数には数えないとしている。 住吉明神の后神であるとする説。淡島神は天照大神の6番目の御子神で住吉明神に嫁いだが、婦人病にかかったことにより粟島に流されてしまったため、そこで婦人病の人々を救うという誓いを立てたという[1]。これは和歌山市加太と対岸の友ヶ島が住吉神社の社領であったことから後世に附会されたものと考えられる[2]。 婆利塞女(ばりさいじょ)説。第3の説とも関係するが、俚俗に婆利塞女は16歳の3月3日に歯を染めて住吉明神に嫁いだが(その際に紀伊国の紀の岬から摂津国の住吉浦まで干潟と化したのでそこを通行したという)、その後婦人病を患ったために夫婦の仲に障りを来す事を嘆き、形代を作ってその障りを除いたといい、加太の淡嶋神社に女子から人形が奉納されるのはそれに縁るという[2]。なお、同名の神女に頗梨采女がおり、その頗梨采女は牛頭天王の后神とされている。 2番目と3番目の説は、「舟に乗せて流された」という点が共通し、1番目の説も少彦名神が舟に乗って海の彼方から来たと伝えられるので、舟でやって来るという点は共通している。また3番目と4番目の説は女神で婦人病に神験ありという点が共通し、淡島神は女神だから女性を守るという信仰も根強い。ただ、加太淡嶋神社では神功皇后が祀られており、神功皇后自体にも安産や病気平癒の御利益があるため、1番目の説が男神だから女性を守らないということにはならない。 淡島神を祀る社寺[編集] 総本社である淡嶋神社を始め、淡島神を祀る各地の神社は多く淡島(嶋)神社や粟島(嶋)神社を称している。また、下記は少彦名神を祀る淡島堂が存在する寺院である。 粟嶋堂宗徳寺(京都市下京区) 八幡山浄光院森巖寺(東京都世田谷区) 浅草寺淡島堂[3](東京都台東区) 参考文献[編集] 『神道大辞典』(平凡社、昭和12年刊の縮刷復刻版)、臨川書店、昭和44年 ISBN 4-653-01347-0 関連項目[編集]

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