Month: February 2022

チェリャビンスク市電 – Wikipedia

チェリャビンスク市電(ロシア語: Челябинский трамвай)は、ロシア連邦の都市・チェリャビンスク市内に存在する路面電車。市内に総延長68.7 kmの大規模な路線網を有し、2020年現在、トロリーバス(チェリャビンスク・トロリーバス(ロシア語版))と共にチェリャビンスク市の完全子会社であるチェリャブゲット(ЧелябГЭТ)によって運営されている[1]。 チェリャビンスクの街に路面電車を建設する計画はロシア帝国時代から存在しており、1906年から幾度にも渡って議論が行われたが、第一次世界大戦やロシア革命の混乱もありどれも実現する事はなかった。その後、ソビエト連邦(ソ連)成立を経て路面電車建設計画がようやく実行に移されたのは、チェリャビンスクの急速な発展に対応するための都市インフラ整備計画が本格的に始動した1931年の事だった。上下水道と共に建設が進んだチェリャビンスクの路面電車が開通したのは1932年1月5日の事である[1]。 当初の路線網はチェリャビンスク駅と市内を結ぶ全長6.2 kmの区間であったが、翌年以降大規模な延伸が行われ、1937年時点で全長43.7 km、年間利用客数3,360万人という大規模な路線網が築かれた。また、開通当初は車庫や整備工場が存在しなかったが、1933年に設置された仮の車庫[注釈 1]を経て1938年に常設の車庫である1号車庫(депо № 1)が完成した。それ以降も路線網の拡張は続き、1941年時点で総延長は49.1 kmとなった。一方、翌1942年からはトロリーバス(チェリャビンスク・トロリーバス(ロシア語版))の運行が始まり、当時チェリャビンスク市電を運営していた路面電車信託(Трамвайного треста)はチェリャビンスク路面電車・トロリーバス管理公社(Челябинский трамвайно-троллейбусное управление、ЧТТУ)への改名が実施された[1]。 第二次世界大戦(大祖国戦争)終結後もチェリャビンスク市電は市内各地に路線網を拡大し、1961年には115 km、1971年には176 kmへと拡大した。これに合わせて1967年には新たな車庫となる第2車庫(депо №2)が開設された他、1970年からはソ連の標準型路面電車であるKTM-5(71-605)の大量導入が始まり1978年までに従来の車両は全て置き換えられた。また、1983年以降チェリャビンスク市電は乗客自身が乗車券への刻印を行う信用乗車方式が用いられている。ただし、チェリャビンスク近郊の都市・コペイスク(ロシア語版)へ向かう路線(コペイスク市電)については1976年に廃止されている[1][3]。 ソビエト連邦の崩壊後も長距離区間の廃止などの規模の縮小はあったものの、2020年時点でもチェリャビンスク市電は総延長68.7

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和竜市 – Wikipedia

和竜市(わりゅう-し)は中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州に位置する県級市。 面積5069平方キロメートルで長白山の東山麓に位置している。市内の最高峰は甑峰山(1677m)で主要河川は図們江。 1644年(順治元年)以降、清朝により入植が厳しく制限されていた市域は1714年(康熙53年)に琿春協領が設置されるとその管轄下に置かれた。1881年(光緒7年)に琿春副都統を設置し入植を解禁すると人口が増加、1884年(光緒10年)5月には李氏朝鮮との通商を監督するために和竜峪通商局が設置された。翌年には越墾局を設置、1894年(光緒21年)には撫墾局と改められ図們江北岸の開墾地の監督に当たった。1910年(宣統2年)、李氏朝鮮を保護国とし勢力を拡大する日本に対する牽制を目的に和竜県が設置された。 1993年7月5日に県級市に改編され現在に至る。 1917年 朝鮮の民族宗教「大倧教」 (檀君教)が全組織を和龍県に移し、翌年11月に武力抗争を標榜した「戊午独立宣言」を発表、徐一は金佐鎮らとともに義兵を集めて重光団を組織し武力で日本に抵抗 1920年10月18日~23日 青山里戦闘。朝鮮から間島に出兵した日本軍と、間島で活動を活発化させていた朝鮮人の反日武装組織(金佐鎮、李範錫らが率いる独立軍)が、和龍の青山里・百雲坪・漁浪村などで衝突 1922年8月 和龍県知事、朝鮮人に帰化勧誘と退去を命令 1929年1月 和龍県警察第5区分所長が非帰化朝鮮人の土地所有権を認定しないと言明 1930年8月 和龍県長は陳天章(和龍県総社長・農務会長)に命じ軍警を派遣、強制的に朝鮮開拓民の帰化手続きを済ます 1933年2月12日 日本軍が和龍県漁浪村のゲリラ根拠地を襲撃。中共和龍県委書記の崔相東、中隊長の金世らが死亡。後に「漁浪村13勇士」と呼ばれる 1934年12月 吉林省に属していた延吉県、汪清県、和龍県、琿春県の4県に奉天省に属していた安図県を加え、間島省を創設し朝鮮人の省長を任命する 1945年11月中旬 中共和龍県委が創立される 1946年5月8日 和龍県で人民公開審判大会を開き8名を審判 1946年6月中旬 中共吉遼省委から派遣された大衆運動工作団52名が和龍県に到着 1946年8月下旬 和龍県保安団で隊伍整頓作業が進行し問題視された人物を粛清 1950年11月17日 米軍機は和龍県勇化区富岩洞の村に対して機銃掃射する。爆弾2個で民家8軒を破壊 1950年11月29日 米軍機2機が和龍県崇善区古城村に機銃掃射し爆弾を投下、牛3頭を殺害。同日には古城小学校が破壊される 1968年9月7日 劉鴻文を隊長、王雲徳を副隊長とする和龍八家子林業局の毛沢東思想宣伝隊90人余りが延辺農学院に進駐 1971年1月4日~ 和龍県内における図們江の水利工事で数日にわたって工事現場で火事が発生、7件の爆発事故が起き、2人が死亡した。そのうち2件の爆発事故では石が対岸の北朝鮮領内まで飛び、数軒の住宅が壊れる

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朝鮮語版ウィキペディア – Wikipedia

朝鮮語版ウィキペディア(ちょうせんごばんウィキペディア、한국어 위키백과)は、ウィキペディアの朝鮮語版である。2019年3月5日現在、448,005項目の記事がある。2002年10月に設置された。 ウィキペディアの最上位ドメインが.comだった際、ko.wikipedia.comに旧バージョンのMediaWikiが分かれていたが、ハングル処理に問題があり、朝鮮語による投稿すらできない状態だった。2002年10月に、新たなサポートウェアを使うことでハングル処理が解決され始めたが、一番多く利用されるInternet Explorerでは文字エンコーディングに問題が依然存在した。 朝鮮語版ウィキペディアの最初の記事はジミー・カーターであるといわれる。 ウィキペディアの統計によれば、2002年10月から2003年7月まで10ヶ月の間に、ページ数が13から159に増え、2003年7月と8月にかけての1ヶ月で159から365に増えた。2003年9月からは、Internet Explorerのエンコーディング問題がなくなり、韓国のメディアでも2回ほどウィキペディアが紹介され、参加者が増えることとなった。 2006年2月12日に項目数が2万に達し、同年12月14日午前12時(韓国時間・UTC+9)ころに3万項目に達した。2万項目達成時から3万項目達成時まで約10ヶ月である。2007年8月2日には4万項目に達した。3万項目達成時から4万項目達成時まで約9ヶ月である。2008年1月4日に5万項目を突破。同年4月24日に6万項目、同年8月7日に7万項目、同年11月20日に8万項目、2009年2月25日に9万項目、同年6月4日に10万項目突破。 2021年3月現在で58万項目を超えている。なお、2018年1月現在において長いページの第1位は육십이견(六十二見、775,392バイト)、2位は최진실(チェ・ジンシル、606,295バイト)、3位は대한민국 제5회 지방선거 기초의원 선거구 목록(第5回全国同時地方選挙の基礎議員選挙区一覧、319,370バイト)である。 文法は韓国で主に使われているハングル正書法が用いられる。 朝鮮半島の記事に関して、韓国が実効支配している地域については韓国の表記を、北朝鮮が実効支配している地域については北朝鮮の表記を使用する。南北に跨る場合は、人口比率や利用者数の側面から韓国側の表記を優先するが、北朝鮮側の表記もなされることが望ましいとされる。 2011年1月現在、管理者は25名(うち、ビューロクラットは5名)いる。 フェアユース画像の使用はできない。これは韓国の著作権法にはフェアユースそのものに関した条項がないためである。 問題点[編集] スタブ記事の発展が求められているが、あまり活動的とはいえないため、そのままとなっているものも多い[1]。

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源義忠暗殺事件 – Wikipedia

源義忠暗殺事件(みなもとのよしただあんさつじけん)とは、狭義では天仁2年(1109年)2月3日に源義忠が襲われて2日後に死去した事件であり、広義ではその事件から源義綱父子の追捕と義綱の佐渡への配流をいう。 源義忠暗殺[編集] 嘉承元年(1106年)7月1日に河内源氏の棟梁源義家が没すると、河内源氏の棟梁は義家の三男義忠が継いだ。3年後の天仁2年(1109年)2月3日夜、義忠は何者かに斬りつけられ、2日後に死亡した。 美濃源氏の源重実が容疑者として左大臣源俊房の邸内で検非違使に逮捕されたが間もなく放免された。その後、現場に残された太刀が、義家の弟である源義綱の三男の源義明のものであることが判明し、今度は義綱と義明に嫌疑の目が向けられた。捜査の結果、義明の乳母夫であり滝口武者である藤原季方が義忠殺害の犯人であると断定された。義綱と、嫡男義弘ら5人の息子達は身内の人間に容疑がかけられたことに憤慨し、義綱の弟源義光の所領がある近江国甲賀郡の甲賀山(鹿深山)へ立て籠もった。一方、義明は病を理由に行動を共にせず、藤原季方の館に籠った。 源義綱父子の抵抗[編集] 甲賀山に籠った義綱らに対し、白河院は棟梁を継いだばかりの義忠の甥源為義に義綱父子の追討を命じた。更に、源義光も為義を支援したので、義綱らは窮地に追い込まれた。 為義軍が甲賀山への攻撃を開始すると義綱方は各所で敗退し、ついに義綱は降伏しようと言い出した。しかし、無実であるのに降伏するとは到底納得できない息子たちは憤激した。特に白河院の判官代となっていた義弘は主人である白河院からの追討ということもあり、自分たちの身の潔白を証明するための自害に意を強くしており、父義綱にも潔く切腹するように言い寄った。それでも義綱は投降しようとしたので義弘は父に範を示そうと兄弟たちの中で真っ先に自害することにし、高い木に登ってそこから谷底に飛び降りて投身自殺した。その後、次男義俊も兄に続いて投身自殺、四男義仲は為義軍が放った炎に入って焼身自殺、五男義範は切腹し、六男義公も自害して果てた。こうして次々と息子たちが自害していく中でただ一人残された義綱はついに甲賀郡の大岡寺で出家し、為義に投降した。 一方で藤原季方邸に籠る義明と季方も白河院の命を受けた美濃源氏で検非違使判官源重時による攻撃を受けた。重時は最初に義忠暗殺犯として逮捕された源重実の弟であった。義明軍は重時軍に二百余人の死傷者を出させるほどの奮戦をしたが最後は義明、藤原季方二人とも自害して果てた。 そして、義綱は佐渡に流された。 真相[編集] こうして義忠の暗殺犯は義綱、義明、藤原季方とされて事件は解決したかに思えたが、真実は違った。真犯人は義忠の叔父であり義綱の末弟である源義光であった。 一般的な説としては義光が兄義家の没後に野心をおこし、河内源氏の棟梁の座を狙った、と言うものであるが、しかし、結果的に河内源氏が凋落し、その主人である藤原摂関家も勢力を落し、院政を敷く白河院が一番得をしているので、源氏の勢力を削ごうと白河院が義光を上手に利用したなどの説がある。 義光は源義忠の暗殺を行うため、郎党の鹿島三郎こと平成幹に義忠の郎党になるように命じ、義忠に近づけさせてその郎党とさせた。 そして、かつて後三年の役で活躍し、自らの郎党であると同時に義家の郎党でもあり、その三男の義明の乳母夫で滝口の武士でもある藤原季方に密かに義明の刀を持って来るように命じた。義光はその刀を平成幹に渡し、それで源義忠を襲わせた。背後から襲われた義忠は大けがをしたがそれでも抵抗し、成幹も大きなけがを負ってしまった。そして襲撃後、成幹はこれみよがしに義明の刀を現場に捨てて行った。 成幹は義光の元へ戻り結果を報告した。負傷していた成幹に対し、義光は弟であり園城寺僧の快誉宛の書状を持たせて養生するように言い、園城寺に向かわせた。実はその書状には成幹を処分せよとの指示がなされており、その書状を受け取って読んだ快誉は口封じのために成幹を生き埋めにして殺害した。のちにこの経緯が漏れたことから、成幹が誰かにこの一連の事件の真相を伝えていた可能性がある。 もう一人の郎党である藤原季方は自分が騙されていたのを知って憤激したのか、源義明と運命を共にした。 いつしか源義光が一連の事件の真犯人であったことが世間に広まっていき、居場所がなくなった義光は自身の勢力基盤である常陸国に逃亡した。 義光の最期については大治2年(1127年)10月20日に園城寺で死去したとする説が有力であるが、一方で殺害されたとの説もある。暗殺した義忠の遺児である河内経国によって討たれたとの説である。 結果[編集] これにより河内源氏は義忠・義綱という2人の実力者を失い、義光も暗殺事件の黒幕であることが発覚したため失脚。強力な後見人のいない為義は主人である藤原摂関家とともに白河院の院政によって京での勢力は衰退していった。

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チャールズ・レノックス (初代リッチモンド公) – Wikipedia

チャールズ・レノックスCharles Lennox 初代リッチモンド公 初代リッチモンド公チャールズ・レノックス(ゴドフリー・ネラー画) 在位 1675年 – 1723年 称号 オウビーニュイ公 出生 (1672-07-29) 1672年7月29日 イングランド王国、ロンドン 死去 (1723-05-27) 1723年5月27日(50歳没) グレートブリテン王国、サセックス 配偶者 アン・ブルデネル

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ドラゴンボールZ – Wikipedia

『ドラゴンボールZ』(ドラゴンボールゼット、DRAGON BALL Z)は、鳥山明の漫画『ドラゴンボール』を原作とするテレビアニメ。1989年4月26日から1996年1月31日まで、アニメ『ドラゴンボール』の続編としてフジテレビ系列で毎週水曜日 19:00 – 19:30(JST)に放送された。全291話+スペシャル2話。 略称表記は『DBZ』[1]。 『ドラゴンボール』其之百九十五のサイヤ人編から最終話までをアニメ化。前作『ドラゴンボール』(以下、『元祖』)からタイトルを変更し、新番組として制作された。 本シリーズのアニメ化作品では最も長い約6年10ヶ月ものロングランとなるなど、人気面で絶頂を迎えた作品である。これは東映および東映アニメーションが製作したアニメ作品としては、2007年に『ONE PIECE』に記録を塗り替えられるまで最長の年数で、一話完結ではないアニメが5年以上放送されたのは当時としては異例であった。 日本のみならず世界40カ国以上で放映された。フジテレビは子供達の楽しみも考え、水曜日のプロ野球中継を減らしていた。特に人造人間編の頃には、優勝決定などの重要な試合以外は本作を通常放送し、番組終了後の19時30分から野球中継する場合もあった。初代オープニングテーマ『CHA-LA HEAD-CHA-LA』も170万枚[2]のヒットとなった他、本放送中に劇場公開版アニメが断続的に制作され、本放送中の春と夏に東映系の映画館にて公開された。 平均視聴率は、20.5%(関東地区)[3]、最高視聴率は、関東で、27.5%(1994年2月23日放送。第218話「バレちゃった!! サイヤマンは孫悟飯」。関東地区)[4]関西地区は、34.1%(1991年11月13日放送。第116話「悟飯に一瞬の勝機!! あの魔凶星を撃て…」)。 2003年には、全話とTVSP2話に加え、OVA『ドラゴンボールZ サイヤ人絶滅計画』を収録した「DVD-BOX」が発売。また2006年より、単品DVDが各巻5話 – 6話収録で発売された。本番組はBSフジや東京MXテレビなどの一部の地方局などでも再放送されていた(地域によって異なる)[注釈 2]。

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甲斐神社 (嘉島町) – Wikipedia

甲斐神社(かいじんじゃ)は、熊本県上益城郡嘉島町上六嘉にある神社で、 郷土の武将甲斐宗立・甲斐宗運公を祭神とする神社であるが、宗立公を手足の神様である足手荒神として祀った神社として有名で、九州各地にある足手荒神信仰の総本社である[1]。六嘉村大字上六嘉字中郡にあったことから[2]、中郡甲斐神社という[3]通称は足手荒神。足手荒神社ともいう[4]。中郡甲斐神社という神社名は戦後、神社本庁の被包括宗教法人として昭和28年に宗教法人成立の際に当時の代表役員によってつけられた宗教法人上の神社名であり、正式な神社名は甲斐神社である[5]。 手足の神様として篤く信仰されていることから、主に手足の病気平癒、運動選手等による無病息災、交通安全の参拝が多い。 主祭神:甲斐宗立(かいそうりゅう)公 – 甲斐親英ともいう。宗立は出家後の法名。 配神:甲斐宗運公 – 宗立の父。生涯不敗の武将として知られる。 戦国時代末期の天正15年(1587年)、九州を平定した豊臣秀吉の命にて肥後国を治めることとなった佐々成政の太閤検地に反発し、国衆、民衆が一揆を起こす(肥後国人一揆)。 肥後国衆であった御船城城主の甲斐宗立や、菊池武国、隈部親永等は三万五千の国人を率い、佐々成政の居城隈本城を攻める。一揆勢は果敢に隈本城を攻めるも、落城まで少しのところで、成政を応援する豊臣秀吉方の大部隊が九州、四国から駆けつけ、また宗立の家臣による寝返りもあり[6]、一揆は失敗に終わってしまう。 一揆に失敗し手足に致命的な傷を負いながらも[7]何とか現在の嘉島町上六嘉の地まで逃れた甲斐宗立は、この地にて里人(甲斐神社斉主の祖先)から手厚い手当を受けたという[6]。敗軍の将であるにもかかわらず、これを匿っての献身的な看病にいたく感激した甲斐宗立は、「魂魄この世に留まり子々孫々を見守り、手足に苦しむ者を救いやるであろう」と言い残して死ぬ[6]。後に、その霊を弔うために祠を建てたのがこの神社の起こりであるとされる[6][8]。 もっとも、甲斐宗立の最期については諸説ある。文献史料では、毛利勝信の兵に捕えられ殺されたとするものが多く[9]、佐々成政の家臣・松原五郎兵衛に攻められ、六嘉村の地蔵堂で自刃したとする説もある[10][11] 。 また、六嘉村には、戦に敗れて追われた甲斐宗立が、六嘉村にあった泉福寺[12](専福寺[13])に逃げ込んでここで切腹し、そのため寺は潜伏寺、あるいは切腹寺と呼ばれたとの伝承がある[14][15][16]。なお、この点に関し、甲斐神社の建立主[17]である荒尾群平[18]は、宗立は泉福寺で切腹したと見せかけ、今の甲斐神社の地で介抱を受けた上で、切腹したとしている[19]。 一方で、明治政府の命により熊本県が作成した地図の1つ、「肥後国託麻郡小山村」(現在の熊本市東区小山町)の地図には、「陵墓」として、村の東、御船塚官山に甲斐宗立墓と言われるものの記載があり、ここと六嘉村と真の宗立墓がどちらにあるかは不明だとされていた[20]。 絵馬の代わりに手型や足型を奉納する。社殿に並ぶ立体的な手型足型 積上げられた板状の簡略化された手型足型。 建立主・荒尾群平によれば、甲斐神社(足手荒神)は、上益城郡六嘉村において300余年[21]の往古より神霊この所にありとする[19]。 もっとも、明和9年(1772年)に著された『肥後国志』は、上六箇村に甲斐宗立が逃げて来て死んだとの伝承を書くが、「墓所不分明」としていた[22]。また、『肥後国志』の明治17年(1884年)の補は、明治17年当時、六箇村に甲斐宗立の霊を祀る祠である足手荒神が存在したことを書くが、この祠について『肥後国志』本文にも、他の書物にも見えないとし、「何年ノ創立ニ係ルヤ不分明」としていた[23][24]。

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全国ママさんバレーボール大会 – Wikipedia

全国ママさんバレーボール大会(ぜんこくママさんバレーボールたいかい)は、朝日新聞社と全国ママさんバレーボール連盟が主催するママさんバレーの日本一決定戦である。 開催地は持ち回りである。第1回は1970年で、全国家庭婦人バレーボール大会名義で開催された。出場チームは、各都道府県大会優勝チーム(北海道は2チーム)と開催地枠の合計49チームである。全試合3セットマッチで、A – D組の優勝チーム同士が総理大臣杯決定トーナメントに進み、最終的に優勝チームに内閣総理大臣杯が贈られる。 2010年大会(群馬県にて開催)以降は、A – D組の各組優勝決定までしか試合は行われず、4チームが優勝という結果になった。総理大臣杯には下関レッズ(山口県代表)が選出された。さらに新型コロナの影響で2020年は中止。21年も緊急事態宣言のため11月にミニトーナメントとして開催。 歴代優勝チーム[編集] 太字は内閣総理大臣杯受賞チームである。 1971年:藤沢クラブ(神奈川) 1972年:碩田クラブ(大分) 1973年:下諏訪いずみ(長野) 1974年:玉垣クラブ(三重) 1975年:八万体協(徳島) 1976年:宇品クラブ(広島) 1977年:玉川同好会(東京) 1978年:砂取クラブ(熊本) 1979年:上尾クラブ(埼玉) 1980年:本山クラブ(兵庫) 1981年:潮見ママA(宮崎)

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磐之媛命 – Wikipedia

磐之媛命(いわのひめのみこと、生年不詳 – 仁徳天皇35年6月)は、古墳時代の皇妃。『日本書紀』では磐之媛、『古事記』では石之日売、その他、いはのひめ、磐姫とも記す[1]。仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり[2]。仁徳天皇2年に立后。葛城襲津彦の娘で、武内宿禰の孫にあたり、皇族外の身分から皇后となった初例とされる[1]。孝元天皇の男系来孫(古事記では玄孫)。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母[2]。記紀によるととても嫉妬深く、仁徳天皇30年に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮(現在の京都府京田辺市多々羅付近[3])に移り、同地で没した。 嫉妬にまつわる逸話[編集] 古事記下巻仁徳天皇条には「その太后石之日売命、甚(いと)多く嫉妬(ねた)みたまひき。故、天皇の使はせる妾(みめ)は、宮の中に得臨(えゆ)かず、言立てば、足もあがかに(=地団太踏んで)嫉妬みたまひき」という記述が見られるように、妬み深い人物として知られる。その様から他の妾が宮殿に会いに行けず、仁徳天皇は宮殿を離れた時か、彼女が宮殿から出かけた時に迎えいれるしかなかったという。ただ、裏を返せばそれだけ仁徳天皇が多情であったということであろう。『古事記』には、仁徳は黒日売(くろひめ)という美女を見初めたが、黒日売は石之日売の嫉妬を怖れて国に帰ったという話を伝えている。『日本書紀』には、仁徳が女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を気に入ったが磐之媛の嫉妬が強くて召し上げられないと嘆く話が出てくる[4]。 天皇が八田皇女(八田若郎女)を宮中に迎えたことへの太后の怒りについては記紀ともに伝えている[2]。太后が豊楽(とよのあかり。酒宴のこと[5])の準備のために、料理を盛る木の葉御綱柏(みづなかしわ)を採りに紀伊の国へ行った留守中に、天皇が八田皇女を後宮に納れたことを知り、採取した御綱柏をすべて海に投げ捨て、天皇の元へ戻らなかった。『古事記』では、独り身を歌った八田皇女の天皇への返歌が添えられており、そのことから、八田が身を引き天皇と石之日売は和解したという研究者の解釈がある[6]。また、その後起こった女鳥王(八田皇女の妹)とその夫・速総別王の討伐(仁徳に求婚された女鳥王は石之日売の怒りを怖れて速総別王と結婚したが仁徳の怒りを買って二人とも殺害された)ののちの酒宴に再び石之日売が登場し、討伐を実行した武人・山部大楯連(やまべのおおたてのむらじ)の妻が女鳥王の腕輪をつけていることに気付き、「主君の屍から腕輪をはぎ取り、妻に与えるとは無礼だ」と激怒し、山部を死刑に処した、と記している[6]。『日本書紀』では、天皇の浮気を知った磐之媛は実家の葛城高宮を懐かしみ、近くの筒城(筒木)岡に宮室を造営して以後そこに暮らし、天皇が面会に来ても会うことはなく筒城宮で没したと伝える[2](『日本書紀』では八田皇女の妹夫婦討伐の話は太后の死後としている)。研究者の大久間喜一郎は、太后が八田皇女を頑なに認めなかったのは、豪族出身の太后に対し、八田皇女は応神天皇の娘であるため、格上の家柄の女性を宮中に迎えたくなかったからではないかとしている[2]。また、天皇が即位後に、それまでの妻に代わって位の高い女性を皇后に改めて迎える例は多々あるが、八田皇女が皇后となるのは太后の死後であり、太后の4人の息子のうち3人が連続して天皇に即位したことから見ても太后の権威は大きかったと推測している[2]。 日本最古の歌集とされる万葉集には彼女の愛情の深さを表す歌が四首収められている。なお、ここでいう「君」はもちろん仁徳天皇を指す。 君が行き日長くなりぬ 山たづね迎へか行かむ 待ちにか待たむ かくばかり恋ひつゝあらずは 高山の磐根し枕(ま)きて 死なましものを ありつゝも君をば待たむ 打ち靡くわが黒髪に 霜の置くまでに 秋の田の穂の上に霧らむ 朝霞何処辺の方に わが恋ひ止まむ 3首目の意味は「豊かな私の黒髪が白くなるまであなたを待ちましょう」という意味であり、この歌を詠んだのが上記と同一人物とは信じられず、後の時代に別の誰かによる創作とも考えられている。 外部リンク[編集]

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