Month: March 2022

小笠原貞宗 – Wikipedia

小笠原 貞宗(おがさわら さだむね)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃守護。 正応5年、信濃国松尾(現・長野県飯田市)に生まれる[5]。北条貞時から偏諱(「貞」の字)を受けている[注釈 1]ことから明らかであるように、当初は鎌倉幕府に仕えていた。 元弘元年(1331年)からの元弘の乱では新田義貞に従い、足利尊氏(高氏)らとともに後醍醐天皇の討幕運動を鎮圧に加わり、北条貞直に属して楠木正成の赤坂城を攻めた(『光明寺残篇』)。 元弘2年/正慶元年(1332年)9月、北条高時が京へ派遣した上洛軍のなかに小笠原彦五郎(貞宗)の名がある[7]。しかし、高氏が鎌倉幕府に反旗を翻すとこれに従い、鎌倉の戦いに参加する[5]。建武元年、この功績により信濃国の守護(信濃守守護)に任ぜられた[5][8]。 中先代の乱では北条残党により国衙を襲撃されて国司を殺され、鎌倉進軍を阻止できなかったが、鎮圧後、尊氏が後醍醐天皇から離反すると(建武の乱)、これに従った[5]。乱における国衙焼失後、後醍醐天皇の任命した後任の国司堀川光継を筑摩郡浅間宿に出迎えている。建武3年/延元元年(1336年)には足利方の入京により後醍醐天皇が比叡山へ逃れる。この際、9月中旬、貞宗は上洛の途中、近江で新田義貞と脇屋義助を破り、援軍に来た佐々木道誉ら足利方本軍と共に、後醍醐方の兵糧を絶つ目的で29日まで琵琶湖の湖上封鎖を行い、これが決定打となって建武の乱は10月10日に終結した(近江の戦い)(『梅松論』下[9])[10][5]。 その後も一貫して北朝側の武将として金ヶ崎の戦い、青野原の戦いなど各地を転戦し、暦応3年/興国元年(1340年)6月には幕命により、上野国守護上杉憲顕と共に、越後の妻有荘(現・新潟県津南町)に新田義宗を攻め、また、同年10月には、遠江から信濃南朝方の拠点である伊那谷に入った北条時行を大徳王寺城に破り、康永元年/興国3年(1342年)には高師冬の救援要請を受けて常陸に北畠親房を攻めた。 建武2年9月には安曇郡住吉荘を、正平2年/貞和3年4月には近府春近領を与えられ、信濃府中に進出する足掛かりを得た。正平2年/貞和3年5月26日(1347年7月5日)[1]、京都で死去[5]。56歳没[1]。子の政長が家督を相続した。 小笠原流礼法について[編集] 現在も続く小笠原総領家では貞宗を小笠原流礼法の中興の祖としている。貞宗は弓馬術に礼式を加え、弓・馬・礼の三つを糾法と称し、小笠原伝統の基盤を作った[11]。さらに、後醍醐天皇より「小笠原は武士の定式なり」との御手判と「王」の字を家紋に賜った。特に騎射に優れ犬追物を復活させ晩年には今川氏、伊勢氏、小笠原氏の三家の武家礼節の書「三義一統」を著した。剃髪し開善寺(飯田市)を創立し俗に開善寺入道と称されている。 参考文献[編集] 内外書籍株式会社編 「梅松論 下」 『新校群書類従』 16巻 内外書籍、1928年、121-143頁。doi:10.11501/1879789。NDLJP:1879789。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879789/88。  今井尭「小笠原系図」『日本史総覧』3(中世

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町田祥子 – Wikipedia

町田 祥子(まちだ ようこ、1939年2月2日[1]– )は、日本の女優。本名は同じ[1]。 東京都[1]豊島区巣鴨出身。十文字高等学校卒業[1]。プロモーション・プラスワンに所属していた[1]。 来歴・人物[編集] 1956年に「ミス松竹」に選ばれ、松竹に入社。 翌1957年に映画「土砂降り」でデビュー。 1968年に劇団欅に参加。 特技は日本舞踊[1]、清元[1]。 主な出演作品[編集] 映画[編集] 土砂降り(1957年、松竹) ※デビュー作 嵐の中の 抱擁 おもかげは遥かなり(1957年、松竹) – おすみちゃん 気違い部落(1957年、松竹)

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バッキンガム公 – Wikipedia

バッキンガム公(バッキンガムこう、英: Duke of Buckingham)は、かつて存在したイギリスの公爵位の一つ。バッキンガムの名を冠した公爵位には1444年創設のスタッフォード家所有のバッキンガム公爵位(イングランド貴族)、1623年創設のヴィリアーズ家所有のバッキンガム公爵位(イングランド貴族)、1703年創設のシェフィールド家所有のバッキンガム=ノーマンビー公爵位(イングランド貴族)、1822年創設のグレンヴィル家所有のバッキンガム=シャンドス公爵位(連合王国貴族)がある。いずれも剥奪されたか廃絶しており、現存していない。 1444年-1521年のバッキンガム公(スタッフォード家)[編集] はじめてバッキンガム公爵に叙される第6代スタッフォード伯爵ハンフリー・スタッフォード(1402–1460)は、幼い頃の1403年7月21日に死去した父第5代スタッフォード伯エドワード・スタッフォード(英語版)からスタッフォード伯爵位とスタッフォード男爵(英語版)位を継承し、1420年にはヘンリー5世のフランスでの作戦に従軍したが、1422年の王の崩御でその遺体とともにイングランドに帰国。ヘンリー6世の側近となり、1444年9月14日にバッキンガム公爵に叙爵された[1]。薔薇戦争でもランカスター派としてヘンリー6世に従ったが、1460年7月10日のノーサンプトンの戦いでヨーク派に敗れて殺害された[2]。 そのため、その孫の第2代バッキンガム公爵ヘンリー・スタッフォード(1454–1483)はエドワード4世から疎まれ、キャサリン・ウッドヴィル(英語版)との望まぬ縁組を押し付けられ、これが彼を1483年のリチャード3世による王位簒奪支持に追いやった。しかしそのわずか3カ月後にはヘンリー・テューダー(ヘンリー7世)を擁立してリチャード3世に対する反乱を起こした。すぐに鎮圧され、裁判なしで私権剥奪のうえ処刑された[3][4]。 そのため、その息子の3代バッキンガム公爵エドワード・スタッフォード(1478–1521)は、当初爵位を継げなかったが、ヘンリー7世がリチャード3世から王位を簒奪して即位してテューダー朝が始まった1485年には議会法により爵位を回復された[1]。しかし枢機卿トマス・ウルジーから敵意を向けられ、1521年5月には大逆罪で私権剥奪のうえ処刑された[1]。 1623年-1687年のバッキンガム公(ヴィリアーズ家)[編集] ついでバッキンガム公に叙されるのはステュアート朝のジェームズ1世の寵臣ジョージ・ヴィリアーズ(1592–1628)である。彼はジェントリの息子だったが、1614年に宮廷入りしてから急速に昇進し、主馬頭(英語版)や海軍卿などの要職を歴任した。爵位も急速に昇進し、1616年8月27日にはヴィリアーズ子爵(Viscount Villiers)、バッキンガム州におけるワッドンのワッドン男爵(Baron Whaddon, of Whaddon in the County of Buckingham)に叙位され、1617年1月5日にはバッキンガム伯爵(英語版)に叙位された。同年3月14日にはこの3つの爵位について自身の男系男子に次いで、同母兄弟ジョン・ヴィリアーズ(英語版)とクリストファー・ヴィリアーズ(英語版)の男系男子への継承が認められた。さらに1618年1月1日にはバッキンガム侯爵(Marquess of

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松山まつり – Wikipedia

松山まつり(まつやままつり)は、四国四大祭りのひとつで、日本の愛媛県松山市で行われている祭である。 1966年(昭和41年)に松山市、松山商工会議所、南海放送、愛媛新聞社の四者で主催した「松山おどり」がその始まりである(松山おどりの名称は1971年の第6回まで)。 毎年、8月11日から13日までの3日間行われ、野球拳おどりや野球サンバの連(踊りのグループのこと)とチームが街を練り歩く。11日は野球サンバ、12日は野球拳おどり(企業連)、13日は野球拳おどり(団体連)が実施されている。野球サンバと野球拳おどりに関しては、「野球拳#踊りとしての野球拳」も参照されたい。 また、前後して松山港まつり(花火大会)が三津浜港で行われ、数十万人の人出がある。 松山まつり前夜祭[編集] 1983年以降、南海放送サンパークで行っていた花火まつりを、2001年からは三津で行われる松山港まつりと統合することで中四国最大級の花火大会となった。三津ふ頭からは目の前でワイド・スターマインや特殊な花火を観られることに人気があり、県内外からも沢山の人が見物にやってきている。 野球サンバ[編集] 1日目はサンバのリズムで軽快に練り歩く。野球サンバには野球拳の踊りを振りに取り入れないといけない決まりがある。この事から野球拳おどりの派生と考えることが出来る。野球サンバの曲には新旧の2バージョンがあり、連はどちらを使用してもかまわない。 野球拳おどり[編集] 2日目と3日目は野球拳おどりが開催される。郷土芸能であり、服を脱いだりする行為は無い[1]。最近はロック調のバージョンがいくつかリリースされており、若者の参加が増えている。また、当日参加出来る市民連も存在する。 過去の松山まつり[編集] 松山市営球場では、祭の3日目にミュージックナイターと呼ばれる、盛大なクライマックス・イベント(ブラスバンドの演奏行進や花火の打ち上げなど)が行われていたが、2003年の開催を最後に、球場の老朽化による2004年の球場撤去に伴って無くなった。それと同時に、夏祭りの雰囲気を演出していた、祭り期間中の堀之内(松山城の三之丸)に展開していた露店も消滅した。これは球場の屋根を利用した露店が多かった為である。 2014年の「第49回松山まつり」は台風11号の影響で8日から10日まで松山城山公園で開催されたイベント「まつこいパーク」と、踊りでは9日に行われる予定だった野球拳おどり(団体連の部など)は中止となった[2]。10日の野球サンバは通常通り行った[3]。一部中止は1966年以来初めてである[4]。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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高円寺パルサー – Wikipedia

高円寺パルサー(こうえんじ-)は、日本のお笑いコンビ。2007年1月結成、2012年6月解散。 フリーで活動して来たが、2009年11月からホリプロコムに所属(預かり)となっていた。 かねごんが2013年5月6日に公式ブログでコイコイに改名すると発表した[1]。 ハッシィが2013年5月15日に『R藤本の水曜はじけてまざれ!』番組内で海山昆布に改名[2]。2019年1月17日には海山昆布から昆布ちゃんに改名している[3]。 メンバー[編集] ハッシィ(橋本)(1981年6月10日 – )主にツッコミ担当。 立ち位置:右 本名:橋本尊史(はしもとたかし) 血液型:B型 身長:170cm 体重:68kg 北海道函館市出身 趣味:ファミコン、アニメ鑑賞 特技:モノマネ、ラッピング、漫画の模写など アニメ「サザエさん」のタラちゃんのものまねを得意としている。 東京NSC9期生。 かねごん(金子)(1983年3月2日 –

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マムーニア – Wikipedia

マムーニア(Mamunia)は、ポール・マッカートニーとリンダ・マッカートニーによる楽曲。1973年のウイングスのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』に収録された。また、アメリカではシングル「ジェット」のB面としてリリースされたが、将来のシングルA面候補とされたため、「レット・ミー・ロール・イット」と差し替えられた[1][2][3]。 曲および歌詞[編集] 「マムーニア」は1973年初めにマラケシュで作曲された[1]。タイトルは当時マッカートニー一家が滞在していたホテル「マムーニア (Mamounia)」にインスパイアされた物である[1][2][3]。「Mamounia」はアラビア語で「安全な避難所」を意味する[1][2][3]。作家のジョン・ブラニーによると、ポールはこの語を「再生のメタファー」として使用したとする[1]。「マムーニア」はアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』中のタイトル曲や「ブルーバード 」と共に、脱出と自由のテーマを信奉する[4]。曲のヴァースでは、「雨」を人々が直面する困難な時の比喩として使用する[5]。雨にうんざりしている様子を歌った歌詞は、ポールがラゴスで体験したことそのままを表しており、曲のメッセージは、皆が厳しい時に直面しても不平を言わずに、自分の「安全な避難所」に焦点を合わせた方が良い、と言うものである[5]。 「マムーニア」はラゴスで録音された『バンド・オン・ザ・ラン』収録曲の中で、最初のものであった[1][5]。ポール・マッカートニーはリードボーカルとベースを担当し、デニー・レインがギターとバックボーカル、リンダ・マッカートニーもバックボーカルを担当した[1]。バスドラムはポールのローディーが担当している[2]。「マムーニア」は「ブルーバード」同様にアコースティック曲である[6]。音楽評論家のロバート・クリストガウは曲のイントロを「アフロ・ソウル」と表現した[7]。曲とリフレインのキーはAメジャー、ヴァースはCメジャーである[5]。作家のチップ・マディンジャーとマーク・イースターは曲を「浮かぶようにとても軽い調子」と評したが、「厳しく旋律的だ」とも述べている[2]。 パーソナル[編集] 批評家によるコメント[編集] ヴィンセント・ベニテズ教授はこの曲を「マッカートニーのポップスのスタイルの典型的な例」と記した[5]。ブラニーは「明るくて快活なポップソング、人生の中で良いことを祝い、等しく楽しむ[1]。」と著した。「モジョ」誌は「ナイーブな知恵の真珠[8]」と記した。作家のロバート・ディマリーとマイケル・ライドンは「『マムーニア』は『ソリッドなB面曲』」と著した[9]。ポール・マッカートニーの伝記作家、ピーター・カーリンは「『マムーニア』は(ビートルズの)『レイン』より気楽な感情へのアプローチを取る。[10]」とした。作家のティム・ライリーも「レイン」との関係性に同意し、「レノンの『レイン』の淡いリライトであるが、『スマートな2つのキーの枠組み』を称賛する。」とした[11]。 プロモーションビデオ[編集] プロモーションビデオは1974年7月に制作された[2]。プロデューサーはジム・クィック[2]。ビデオの大半はアニメーションで、ポールは登場しない[2]。「The Dave Cash Radio Show」で初めて放送され[2]、2007年の『ポール・マッカートニー・アンソロジー 1970-2005』に収録された[12]。 ドン・フレミングが2003年の『バンド・オン・ザ・ラン』のリメイクでカバーしている[13]。ラリー・ペイジは1990年代中旬のアルバム『John Paul George Ringo』『Imagine』でカバーしている[14]。

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牧之原台地 – Wikipedia

牧之原台地の地形図 牧之原台地または牧ノ原台地(まきのはらだいち)は、静岡県中西部、遠州地方南東部にある台地。布引原とも[1]。大井川下流域と菊川に挟まれた洪積台地である[1]。現在の島田市、牧之原市、菊川市にまたがっている。 江戸時代までは、麓の村(現在の大字)の入会地、いわゆる草刈り場であり、未開拓の原野が広がっていた[1]。「牧場」があったことが地名の由来とされるが、定かではない[1]。現在でも大字の続きまたは飛び地となっているところが多い。 明治期になって、江戸から静岡に移封された徳川家達に従った新番組などの幕臣へ1470町(約1455ヘクタール)、大井川の渡船許可により失業した川越人足に204町(約202ヘクタール)払下げられたが、元の入会地を利用していた住民との紛争が多発した[2]。台地ということもあり、農業用水はもちろんのこと生活用水の確保にも事欠いたことから[3]、多くの脱落者が出たが、農民らによる茶園開墾も進み、現在の大茶園が形成された。結果的に農家一戸あたりの耕作面積は広いが、人口密度は希薄で、車社会になる前は、バス停から二里も歩かなければならないところもあり、極めて不便なところであった。 第二次世界大戦中に海軍の大井海軍航空隊基地が建設され、跡地は矢崎グループの工場などになっている。 戦後も慢性的な水不足は続き、茶園で不可欠な農薬の散布などに必要な水の確保にも苦労があった。地元からの要望により、1978年より国営牧之原農業水利事業が始動。水源を大井川の長島ダムに求め、導水路を経て牧之原揚水場により台地へ水を引き上げて配水する工事が進められた。台地上に樹枝状に広がる80kmあまりの幹支線水路が完成したのは1996年であった[4]。 北端部の標高は270m、南端部の標高は40-50m[1]。全長は約25km[1]。北側から南側へかけて緩く傾斜している[1]。樹枝状の地形であり、幹となる台地のほかに、東方と南東方に支脈となる台地が延びている[1]。古代には大井川の扇状地だったとされている。 静岡県有数の茶産地である。石が多く、水はけが良い赤土で弱酸性である。温暖な気候であるため、静岡県でも早場所の茶園であり、4月中旬には新茶ができあがる[5]。 米作などには向かない不毛の土地であったが、明治維新の後、無禄士族対策のため、牧之原台地に多くの士族が入植し、開拓作業が始まった。茶樹を植えることが推奨されたため、現在のような茶畑が広がる日本一の製茶地帯になった。 関連項目[編集]

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一色重之 – Wikipedia

一色 重之(いっしき しげゆき)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。通称は右馬三郎。 菩提寺、長福寺(西条市)の山門 壬生川大庄屋一色範江が寄進 以下は、特に出自はあくまで伝承である。 天正8年(1580年)、丹後国宮津城(現・京都府宮津市)の落城前に外祖父である河野通泰(村上通泰)との縁により、子の重直、重次(6歳の双子)、家臣赤澤某、伊藤嶋之助、佐和小十郎等十余名を連れ、伊予国宇摩郡へ来た。一族は当時新居郡の旗頭であった高峠城(高外木城・たかとき)石川通清の食客となり、新居郡萩生村に居住。その後、桑村郡旦ノ上村へ居住。そして、旦ノ上村の青野六太夫只正の娘を重次の嫁に迎え縁者となった。天正18年(1590年)、摂津麻田藩青木一重の代官となっていた重之は、命により古城に居た周敷郡北条村の地頭越智勘左衛門を討って移り住み、そこを「三ツ屋」と称した。 また、文禄2年(1593年)5月13日、重之は代官となっていた次男の重次、嫡男の重直らと共に周敷郡周敷村三谷城主の荒井藤四郎考宣(なりあきら)を討った(豊臣秀吉の朝鮮出兵の軍費のためか、新領主による過酷な年貢の取立てがあったようで、一揆を企てた三谷城の荒井氏を攻め滅ぼした。道前一揆である)。 そして、重之の嫡男である重直が三谷城主となり、重直は周布、重次は三津屋を治めた。その後、一色家は三津屋村・周布村・壬生川村・明理川村明の四か村で大庄屋を務めた。明治以後は、一色家から周布村長・壬生川村長・壬生川町長を数多く輩出している。 長男:重直(通称・右馬助、後に喜兵衛、法名:元眞宗廣居士) – 寛永16年(1639年)9月7日死去 次男:重次(通称・丑之助、後に弥兵衛、法名:盛月閑光居士) – 寛永4年(1627年)7月22日死去 法要など[編集] 重之公380回忌法要[編集] 一色右馬三郎重之380回忌法要 昭和63年(1988年)4月10日、菩提寺の東海山長福寺(西条市)にて法要が行われる。三蔵院宝積寺隣の地域墓地へ参拝した後、来賓である全国一色同族会の方々を交えて懇親会が行われた。 重之公他の先祖墓を移転[編集] 平成20年(2008年)、重之並びに先祖の墓を三津屋地区の有志が移設。三蔵院宝積寺は一色家が丹後に居た頃に親交があった丹波国、福知山の修験僧三蔵が一色家を頼ってきて三津屋に住み、後に三津屋地域墓地のそばへ寺を建立したものである。西条市の管理墓地であった為に旭新開墓地へ移転する事となった。

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いのうえ – Wikipedia

株式会社いのうえは岡山県倉敷市にある葬祭業。 1913年、前身となる「井上葬具店」を井上峰一の祖父である井上英二(ひでじ)が創業。[1] 井上家は代々酒津界隈に住む郷士の家柄で、郷士は武士の身分だが、長らく平和の続いた時代では土着の百姓とあまり変らず、猟をしたり田畑を耕したり、時には大商家の手伝いなどもしていた。井上英二の父は40歳の若さで亡くなり、高等小学校を卒業すると大工に弟子入りをした。そして、20歳になるまでには一通りのことはこなせるまでものを身に付けていた。奉公先が宮大工の流れを汲んでいたため、英二自身も大工というよりは建具職人としての技術を得意としたが、そのことが将来独立して葬具店を営む契機となった。 明治時代以前は、地区の世話役が葬儀の段取りを全て行い、喪主も世話役の指示に口を挟むことはなかった。しかし、幕藩体制の崩壊で人々の往来が激しくなった市街地ではあちらこちらから異なる習慣や職業の人たちが流入したことにより、以前のようなまとまりが次第に難しくなった。明治の末頃からは葬儀一切を行なう新しい職種としての葬儀屋が必要とされるようになり、いのうえ葬具店を創業するに至った。 昭和25年頃には倉敷市役所でも葬儀サービスを始めて、バス型の霊柩車を稼動させるようになったため、京都まで出かけて宮型の霊柩車を購入する。昭和30年代頃には道具類の用意だけでなく、葬儀全般に亘って依頼を受けることが次第に多くなり、葬儀に関わる人員の手配なども行なうようになった。ニーズは、葬具専門店から葬儀社へと変わりつつあった。 昭和40年(1965年)1月、それまでの個人商店だった「井上葬具店」に替えて「有限会社井上葬儀」を設立。代表取締役に井上峰一の父である井上哲二が2代目社長へ就任。昭和50年代に入ると、核家族化による住居の狭さや、マンションなど高層建築に住む人の増加などで葬儀専門ホールの必要性が感じられるようになってきた。特に、マイカー時代の到来で会葬様式が変化し、駐車場を完備した斎場建設の検討を始める。 1977年(昭和52年)2月、井上哲二は12年前に設立した有限会社井上葬儀を株式会社いのうえに改組。 1985年(昭和60年)4月30日、2代目・井上哲二が会長になり、井上峰一が3代目の代表取締役社長に就任。 1990年(平成2年)6月に株式会社いのうえ総本社・エヴァホール倉敷が完成。西日本随一の規模となり数々の葬儀、法要が営まれ、全国でもトップクラスにランクされるようになる。 1997年(平成9年)4月、会報誌『儀礼文化』を創刊。現在では「綜合葬祭式場エヴァホール」、「家族葬のファミリエ」、「自浄庵」を岡山県内にグループ全体で19の葬祭場を展開する。その他のグループ会社として仏具店の株式会社鵬林やペットのセレモニーを行う「ペットピア」を展開している。 2013年(平成25年)創業100年を迎える。 社是[編集] 1.  私たちは何よりも人の命を尊び人の心を大切にします。 1.  私たちはあらゆる人の幸福と繁栄を願います。 1.  私たちは地域社会の発展のため貢献します。 1.  私たちは儀礼の心を育み後世に伝承します。

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