Month: April 2022

柳英里紗 – Wikipedia

柳 英里紗(やなぎ えりさ、1990年4月30日- )は、日本の女優、ファッションモデル、元子役・ジュニアアイドル。神奈川県出身。アメリカ・ハワイ州生まれ。コギトワークス所属。 人物・来歴[編集] 幼少期から雑誌やCMのモデル、子役として活動。近年は映画への出演が多い。 デビュー時より柳英里紗、2003年11月よりELISA、2005年4月より柳英里沙、2007年9月より柳英里紗と改名。 血液型はA型。特技は英会話、卓球。 『あしたの私のつくり方』で共演した前田敦子と仲が良く、一緒に映画を観に行く程である[1]。 映画[編集] ウェブシネマ[編集] 夏のゴンドラ(2006年、岡田茂監督、短編) LISMOドラマ 婚前特急-ジンセイは17から-(2009年) LISMOドラマ 婚前特急-ジンセイやっぱ21から-(2011年) 配信ドラマ[編集] テレビドラマ[編集] その他テレビ番組[編集] CM[編集]

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伊雑宮 – Wikipedia

伊雑宮(いざわのみや、正式名:伊雜宮)は、三重県志摩市磯部町上之郷にある神社。式内社(大社)論社で、志摩国一宮。 皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮の一社。度会郡大紀町の瀧原宮とともに、「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれる。2013年(平成25年)の年間参拝者数は93,267人[1]。 社名について[編集] 「いぞうぐう」とも呼ばれるほか、「磯部の宮」・「磯部の大神宮さん」とも呼ばれる。 「伊雜宮」と書くのが正式だが、「雜」は常用漢字体で「雑」と表記することが多い(本項では後者を用いる)。 伊雑宮は内宮(皇大神宮)別宮で、内宮背後の島路山を越えた志摩市磯部町上之郷にある。伊勢神宮別宮14社のうち伊勢国外のものは伊雑宮(志摩国)のみ。また神田を持つ唯一の別宮である。 当宮は、10社ある内宮別宮の中で荒祭宮、月讀宮、瀧原宮に次ぐ順位とされる。 一般に、伊雑宮を志摩国一宮とする。しかし、志摩国一宮は鳥羽市の伊射波神社(いざわじんじゃ)とする異論もある。 明治以降、式年遷宮のためのお木曳行事が伊勢神宮に準じ20年に一度行われる。正宮では1年次と2年次の2回であるのに対し、瀧原宮と伊雑宮の別宮2社では1年次のみである。第62回神宮式年遷宮の伊雑宮御木曳は2006年(平成18年)4月16日に催された[2]。第61回までは志摩市の磯部地域内のみだったが、合併による志摩市誕生により、この第62回では同市中心部の阿児地域内でも初めて曳かれることとなった[2]。お白石持は2014年(平成26年)11月22日に、遷御は同年11月28日午後8時にそれぞれ執行された[3]。 他の境外別宮と同様、神職が参拝時間内に常駐する宿衛屋(しゅくえいや)があり、お札・お守りの授与や、神楽や御饌の取次ぎを行なう。 鳥居前町には鰻料理店・中六や神武参剣道場、伊雑宮のおもてなし処・御師の家などがある。 804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』では天照大神御魂とされる。中世から近世の祭神には諸説あり、中世末以降は伊雑宮神職の磯部氏の祖先とされる伊佐波登美命と玉柱命(または玉柱屋姫命)の2座を祀ると考えられた。  伊雑宮御師である西岡家に伝わる文書において、祭神「玉柱屋姫命」は「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれる。同じ箇所に「瀬織津姫神天照大神分身在河」とある。両神はつまるところ同じ神であると記されている。明治以降、伊雑宮の祭神は天照大神御魂一柱とされる(神宮要綱)。 鎌倉時代成立とみられる『倭姫命世記』によると、伊勢神宮の内宮を建立した倭姫命が神宮への神饌を奉納する御贄地(みにえどころ)を探して志摩国を訪れた際、伊佐波登美命が出迎えた当地を御贄地に選定して伊雑宮を建立したとされる。神宮ではこの説を採るが、一般には『倭姫命世記』が史書とされないこと、また該当箇所は伊雑宮神官が後世に加筆したとされることから、創建は不詳とすべきである。また、近世以前の志摩国では、伊雑宮周辺の土地のみが水田による稲作に適したことから当社が成立したとする説や、志摩国土着の海洋信仰によるとする説などあるが、定説ではない。 804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』及び927年(延長5年)の『延喜太神宮式』に、「天照大神の遙宮(とおのみや)」と記載があるため、それ以前から存在したとわかる。 平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)では、伊勢平氏の地盤だった伊勢国への源氏勢の侵攻が予想され、伊勢志摩両国を平家が警備した。養和元年(1181年)1月、伊雑宮は源氏の味方となった紀伊の熊野三山の攻撃を受け、本殿を破壊され神宝を奪われてしまう。熊野三山の勢力はさらに山を越えて伊勢国に攻め込むが、反撃を受け退却した。1159年の平治の乱では平家に味方した熊野三山が、治承・寿永の乱では源氏に味方した理由として、当時の熊野三山と対立した伊勢神宮を平家が優先したためとされるが、この事件により、神職が権力者の庇護を得るために歴史の捏造を行ったとする説がある。 江戸時代には伊雑宮の神職が中心となり伊雑宮を本来の内宮とする偽書を作成し、先代旧事本紀大成経事件の舞台となる。 本殿は内宮に準じ、内削ぎの千木と、偶数の6本の鰹木を持つ、萱葺の神明造。本殿周囲にある瑞垣と玉垣にはそれぞれの門がある。 境外所管社[編集] 佐美長神社[編集]

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呂齮 – Wikipedia

呂 齮(りょ ぎ、生没年不詳)は、秦末の官僚で、南陽郡の郡守をつとめたが、劉邦に降伏した。史記本文には姓の記載はなく、『齮』と名があるのみであるが、『漢紀』に姓が記載されている[1][2][3]。 史書の登場に至る経緯[編集] 二世二年(紀元前208年)後9月[4]、劉邦は楚の懐王(後の義帝)により武安侯に封じられ、彭城の西方にある秦の土地の攻略を目指していた。 二世三年(紀元前207年)同年3月、劉邦は西に進軍し、劉邦は秦の将である趙賁の軍を撃破して[5]、開封を攻めたが、開封は落とせなかった。そこで、劉邦はさらに西方に向かい、白馬・曲遇の東において、秦の将である楊熊を撃破した。楊熊は滎陽に敗走する。 同年4月、劉邦は潁陽を攻めて落とす。また、洛陽の南にある轘轅に進軍したところで、張良が兵を率いて劉邦に従軍する。劉邦は、轘轅を攻略し、かつての韓の地にあった10余りの城を降伏させた[6]。 この頃、劉邦の軍は、尸の北において、趙賁の軍を撃破するが、洛陽の東において秦軍に敗れた。劉邦はこのルートから関中侵攻を断然せざるをえず[7]、劉邦は騎兵を軍にまとめて、南方の南陽郡へと進軍した。 事績[編集] 紀元前207年夏6月、秦の南陽の郡守であった呂齮は、犨の東で劉邦とその配下の樊噲と戦ったが、敗北した。劉邦は南陽郡の攻略を行い、呂齮は陽城の郭(外城)の東で劉邦と再度、戦った。しかし、劉邦とその配下の張良と曹参によって陣営を陥落させられて[5][6]、敗走した。この戦いでは劉邦配下の樊噲と灌嬰も活躍している[8]。呂齮は、南陽郡の宛に籠って城を守った。 同月、秦の主力を率いる章邯は、楚及び諸侯の軍の率いる項羽に降伏を約定しようとしたが、項羽は約定が定まらないため、章邯を攻撃した。 同年7月、劉邦は、呂齮が守る宛を通過して、西に向かおうとした[9]。この時、張良が劉邦を諫めた。「沛公(劉邦)が急いで関中に入りたいと願っても、秦の兵はいまだ多数おり、剣難の地に隔たれています。今、宛の城を落とさなければ、宛の軍が我が軍を後ろから攻撃し、強い秦が前にいることになり、(前後から攻撃されて)とても危険なこととなります」。そこで、劉邦は夜間に、軍を進軍してきた道と別の道から引き返させて、旗指物を改め、夜明けに宛の城を3重に囲んだ。この戦いでは劉邦配下の樊噲が一番乗りをした[8]。 呂齮は自決しようとした[10]。しかし、呂齮の舎人である陳恢が呂齮に、「死ぬのは(私の計略を試してからでも)遅くはありません」進言した。呂齮の同意を受けた陳恢は城を乗り越え、劉邦に会見していった。「私はあなたが先に咸陽に入ったものが関中の王となる約束されたと聞いています(楚の懐王(後の義帝)が項羽・劉邦ら楚の諸将に誓ったと言われる一番先に咸陽に入ったものを関中王にするという約束事のこと。懐王の約)。宛は大きな都であり、連なる城は数十あり、人民は多数であり、兵糧の蓄積は多くあります。官吏や民衆は降伏すれば、必ず殺害されると考え、それゆえに皆、城壁に登って城を堅く守っているのです。今、あなたが日を尽くして宛に留まって攻めれば、あなたの兵士の死傷者は必ず多数にのぼるでしょう。あなたが兵を率いて宛から去れば、宛は必ずあなたを後方から襲うでしょう。あなたは、前進すれば、咸陽(に先に入ったものが関中王になるという)の約束に失敗し、背後には強い宛に対する憂いがあるのです。あなたの為に図るには、宛が降伏する代わりに、その郡守(呂齮のこと)を(侯に)封じて、宛を守らせて、兵士を率いて西進するに越したことがありません。いまだ降伏していない諸城は、このことを聴いたら争って開門して、あなたを待ち、あなたは通行する時に煩わされることがなくなるでしょう」。劉邦は「その通りである」と答えて、呂齮を殷侯に、陳恢に千戸を封じて、南陽郡を平定し[5]、さらに西に向かった。 呂齮のその後の処遇は不明である。 降伏後[編集] 同月、章邯率いる秦軍は、項羽率いる楚軍に降伏することを伝え、殷墟において開盟した。項羽はこれを受け入れ、章邯は雍王に封じられた。 同年8月、劉邦が数万人を率いて、秦の咸陽を守る武関を攻めて、打ち破った。 高祖元年(紀元前206年)10月、秦王の子嬰が劉邦に降伏した。 ^ 『漢紀』高祖皇帝紀第一

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野口悦男 – Wikipedia

野口 悦男(のぐち えつお、1947年12月12日-2008年11月23日)は、日本の温泉をフィールドとして活動した評論家・ジャーナリスト。日本温泉遺産を守る会代表。日本温泉科学会会員。 「にごり湯」「野湯」「立ち寄り湯」「源泉掛け流し」などの温泉の特徴を表す用語を創り出した[1][2][3]。これらの用語は、温泉関係の書物、観光案内等に用いられるまでに広まった。 「日本秘湯を守る会」との関係が深く、『「日本秘湯を守る会」が現在のかたちで存在するのは、野口悦男さんのご苦労の賜物である。』とは、同会長・佐藤好億の弔辞である。 埼玉県日高市出身。國學院大學時代は山岳部に所属。写真家の三木慶介に師事して、世界中をまわって山岳カメラマンとして活躍。また、ヒマラヤ山脈のナンダ・デヴィでスキーによる縦走をするなど冒険家としても活動したが、怪我がもとで山岳カメラマンを辞し、日本各地の温泉への入湯に傾倒した。山麓のいで湯の写真を撮影していたことで、1970年代半ばから日本テレビ系列の深夜番組『11PM』の秘湯を紹介するコーナーに協力した。 1998年頃に大動脈解離で倒れてからも、投薬と通院をしながら取材を続け、2000年に日本の温泉3000湯、2007年には3292湯の入湯を達成。訪れた温泉宿は延べ8000軒を超えた。この間、温泉に関する著書を多数表したほか、ムックの監修、雑誌への寄稿も多い。2001年には、作り物でない本物の温泉を残そうと、「日本温泉遺産を守る会」を創設して代表に就任した[3]。温泉を取り上げた旅行番組等にもしばしば出演、温泉関連のウェブサイト上でも多々取り上げられたり言及されたりしており、「温泉達人」の異名をとった。自身の活動の集大成として、「温泉の文化と安心を考える会」の発足準備中、2008年11月23日に胸部大動脈瘤破裂で急逝[4]。死去の直前まで精力的に温泉の入浴・取材を続けた[5]。 日本百名湯 (山と溪谷社) 極上にごり湯百選 (山と溪谷社) 温泉達人・野口悦男が選ぶ日本百名湯(山と溪谷社) 日本百名湯厳選の宿 (山と溪谷社) 日本百名湯一軒宿の湯 (山と溪谷社) 日本百名湯露天風呂の宿 (山と溪谷社) からだにやさしい療養温泉 (山と溪谷社) 温泉遺産 -源泉かけ流しの宿と歴史的建造物、温泉文化のすべて (実業之日本社) 1万円の厳選宿200選 (実業之日本社) とっておきの温泉 危ない温泉

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浅野喜市 – Wikipedia

浅野 喜市(あさの きいち、1914年3月8日 – 1993年4月3日)は、日本の写真家。京都府京都市下京区生まれ。1930年京都市旧制四条商業学校卒業。33年東郷カメラで写真を始める。39年歩兵第9連隊に臨時召集、中支に転属。43年召集解除。49年高桑勝雄の指導で外国サロン出品。51年英国ロイヤル、パリ、ロンドン、シカゴサロン等に入選。53年国内の主要な写真コンテストで受賞。太平洋画会の会友に推挙される。二科会写真部会員。(社)日本写真家協会会員。全日本写真連盟副会長。 京都の町、古い風景などを撮影した。 著書(写真)[編集] カメラ京都ガイド 臼井喜之介共著 白川書院 1964. 京都ポケット叢書 京都御所と仙洞御所 文: 門脇禎二 光村推古書院 1964. スイコブックス 京のくらし 伝統と風俗

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りさいくるずー – Wikipedia

りさいくるずー(第1作)りさいくるずーまもれ!もくようびは資源ごみの日(第2作) 監督 べんぴねこ 出演者 海老塚幸穏べんぴねこ松井恵理子後藤ヒロキ 音楽 桑原理一郎 制作会社 coyote 配給 東映 公開 2019年4月26日(第1作)2020年8月14日(第2作) 上映時間 11分(第1作)9分(第2作) 製作国 日本 言語 日本語 テンプレートを表示

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エレグア – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “エレグア” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年11月) エレグア像の一例 エレグア(Elegua またはラテンアメリカでは、Elegguá、Eleguá、 Eleggua、Ellegua等の表記でも知られている) はヨルバ人の伝統的宗教(Yoruba religion) における神の顕現を反映する精霊または神的なもの、 または、精霊信仰的な信仰概念オリシャ(英語版、ドイツ語版、スペイン語版、ペルシア語版)(Orisha)の1つである。 エレグアは、 天使ミカエル、 聖人パドヴァのアントニオ、

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サン=テティエンヌ国立高等鉱業学校 – Wikipedia

サン=テティエンヌ国立高等鉱業学校(サン=テティエンヌこくりつこうとうこうぎょうがっこう、フランス語: École nationale supérieure des mines de Saint-Étienne、略称: EMSE)は、フランスの工学系グランゼコール。1816年創立。 同校は、当初、鉱山技師の養成校として創立されたが、工業技術の発達や社会の変化とともに、工学分野一般の技術者を養成する学校となり、現在に至っている。 ルイ16世の勅令により1816年に創立されたローヌ=アルプ地方で最も古い高等教育機関である。創立当初の目的は王室鉱山の運営にあたる技術者を養成であった。当時、鉱業はフランスの主要産業であり、鉱山労働者の安全から鉱山経営まで専門の技術が要求される産業であった。サン=テティエンヌ鉱業学校の最初の学長であるボーミエ(Beaumier)はフランスで最初の鉄道をサン=テティエンヌとロワール河谷間に沿ってアンドレジュ・ブウテオンまで、距離にして21キロに渡って敷設した。この鉄道敷設の目的はサン=テティエンヌ周辺から産出される石炭を輸送することだった。当時、坑夫学校(Ecole des Mineurs)と呼ばれていたこの学校の学生たちもその計画達成のために協力した。その学生たちの中には発電用水力タービンの発明者であるフルネーロン(Fourneyron)がいた。後の卒業生の中には農学の創始者の一人で化学者のブサンゴー(Boussingault)、日本の鉱業の近代化と深い関わりを持つコワニエ(Coignet)などの名前が見られる。 1882年に学校は鉱山学校(鉱業学校、Ecole des Mines)となり、2年後には準備クラスを終えた学生を入学試験により選抜して受け入れるようになった。その後、1890年に学位を授与する権利を得た。1925年よりサン=テティエンヌ国立高等鉱業学校(Ecole nationale supérieure des mines

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