Month: April 2022

湯本長伯 – Wikipedia

湯本 長伯(ゆもと ながのり、1949年(昭和24年)- )は、日本の工学者。前日本大学工学部教授。専門は、社会構造設計、産学連携学、情報体系学・設計データベース研究。工学博士 (早稲田大学) 。早稲田大学芸術学校、同理工学部建築学科非常勤講師、東京大学大型計算機センター、埼玉県の女子短期大学教授、慶應義塾大学大学院非常勤講師、旧・九州芸術工科大学教授や九州大学教授、産学連携学会初代会長・名誉会長などを歴任。長野県生まれ、東京都出身。 早稲田大学・慶応義塾大学講師を経て、2001年に旧・九州芸術工科大学教授に就任。2003年には、同大学と九州大学の統合に伴い九州大学所属となる。また2年間の準備を経て、同年に発足した産学連携学会の初代会長に就任し、後に理事・名誉会長を歴任。2013年に九州大学を定年退官し、日本大学工学部教授に就任した。その他、環境計画学会代表などの学協会役員を歴任。母校である東京都千代田区の旧・永田町小学校校舎を始め東京都心の廃校校舎再生を通じ、生活環境の再構築研究にも関わった。宮崎県都城市の旧都城市民会館の保存再生活用にも取り組み、同タイトルのコンペティションも主催。現在は、文化財としての保存活用に、力を入れている。 1949年長野県生まれ。両親ともに東京に居住していたが、焼け野原の東京を避けて長野県小布施町で出生。 東京都に育ち、旧・永田町小学校(廃校、一時は麹町中学校校舎として使用、現在は使用されていない)、麹町中学校、開成高等学校卒業。[1] 1972年-早稲田大学理工学部建築学科卒業。 1974年-同修士課程修了。 1980年-同博士課程修了。 1982年-工学博士(早稲田大学)、建築の設計方法論等の建築論設計論研究に加え、情報研究を開始。日本で最初の、建築系機械可読型データベースを作成。東京大学大型計算機センターにて、利用を公開した。その後に、CAD・CG等のコンピュータによる設計関係作業の、システム化研究を進める。 1980年〜、出版への誘いを契機に、インテリア系生活関連空間の研究および、家具等のプロダクトデザイン関連研究を開始。インテリアプランナー、インテリアコーディネーターの資格試験および、教育普及に関わる。IC試験には、27年間の長きに渡り関わる。 1990年〜94年にかけて、東京大学大学院工学研究科に内地留学。土木分野も含めた広範な社会構造設計研究を開始。知の生産に関する方法論や、知的資産の蓄積、知的財産権などの研究蓄積を、統合する研究を開始する。 2001年-旧・九州芸術工科大学・地域共同研究センター教授。産学連携・知的財産を専門とするが、芸術系教員としてデザイン等の創造・創作活動も行う。 2003年-大学統合により九州大学産学連携センター(英文名:芸術科学技術共同研究センター)教授、産学連携学会初代会長。特定非営利活動法人・産学連携学会の登録商標《プロメテウスの火》をデザイン。著作権を除き商標権は同学会に無償譲渡。メールニュースの形式もデザイン。 2013年-日本大学工学部建築学科教授、都市建築インテリアの空間設計と、家具等のプロダクトデザインや舞台美術など、幅広く生活や空間に関連する存在物の設計教育に関わる。 博士論文[編集] 『産学連携入門』JST科学技術振興機構

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丘のむこうに – Wikipedia

レッド・ツェッペリン > レッド・ツェッペリンの作品 > 丘のむこうに この項目では、レッド・ツェッペリンの楽曲について説明しています。その他の「Over the Hills and Far Away」については「オーヴァー・ザ・ヒルズ・アンド・ファー・アウェイ (曖昧さ回避)」をご覧ください。 「丘のむこうに」 レッド・ツェッペリン の シングル 初出アルバム『聖なる館』 B面 ダンシング・デイズ リリース 1973年3月28日 録音

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若潮芳雄 – Wikipedia

若潮 芳雄(わかしお よしお、1913年8月26日 – 1991年2月25日)は、神奈川県横浜市磯子区出身で、1940年代に活躍した大相撲力士である。本名は石渡 芳雄(いしわたり よしお)→榊 芳雄(さかき – )。最高位は東前頭6枚目(1948年5月場所)。得意手は左四つ、掛け投げ、頭捻り。 来歴・人物[編集] 1931年に陸奥部屋へ入門し、同年3月場所で初土俵を踏んだ。1937年5月場所にて、十両に昇進。その後は幕下への陥落も経験したが、すぐに返り咲き、1941年5月場所で入幕を果たした。 身長171cm、体重85kgという小兵ということもあって自分より大きな力士に対しては苦戦し、自己最高位は東前頭6枚目にとどまった。だが、小兵ゆえの利点を生かし、相手の懐に飛び込んで、頭捻りや無双を駆使するなど業師として活躍。廃業まで1度も十両に落ちることなく、8年、18場所にわたって幕内を維持した。 1949年10月場所、幕内下位で途中休場して十両陥落が決定的になったため、同場所限りで廃業した。 力士としては珍しく、酒が飲めなかった。 1991年2月25日、逝去。77歳没。 主な成績・記録[編集] 現役在位:40場所 通算成績:204勝233敗7休 勝率.467

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祈り〜A PRAYER – Wikipedia

『祈り~a prayer』(いのり ア プレイヤー)は、東日本大震災によって大切な家族を失ってしまった子供たちや被災者への応援歌として、作曲家の河邊一彦(元海上自衛隊東京音楽隊隊長)により作詞・作曲された楽曲。ソプラノと吹奏楽及び合唱曲。 自身、幼少期に交通事故で母親を亡くした経験のある河邊が、海上自衛隊音楽隊就役中に東日本大震災で肉親や友人を亡くした人々を勇気づけようと作った曲である[1]。 2011年9月にピアノとベースと歌という形で初演、同年12月には吹奏楽バージョンも初演され、以来、東北地方を含む各地の公演で演奏された。冒頭は哀しさなどが表現され、やがて「希望」がよみがえり、「夢」が実現し、いつか明るい「未来」が来ることを祈り、歌われている[2]。 2013年にUNIVERSALレーベルから海上自衛隊東京音楽隊の演奏、三宅由佳莉(3等海曹)の歌唱によりCD化された[2]。 なお、この楽曲の正式な作品タイトル(正題)は『祈り~A PRAYER~』及び『イノリ A PRAYER』並びに『INORI A PRAYER』、副題は『イノリ ア プレイアア』及び『INORI A PUREIAA』であり[3][注 1]、日本音楽著作権協会(JASRAC)が一部の著作権を管理している(作品コード:183-1329-9)。 この楽曲の正式な日本語タイトルは全角の大文字表記となっています(固有名詞)。半角英数字への書き換えは作品の尊厳や著作者の意図や主張を損ったり、類似名の他の著作物と混同したりする虞(知的財産権 ‐ 著作権を侵害する虞)があるとともに、WP:引用要件の「改変」に当たる虞があります。 「海上自衛隊東京音楽隊/三宅由佳莉」のシングル[編集] 「祈り〜a prayer」は2013年8月28日に発売となったアルバム『祈り〜未来への歌声』のリード曲として収録されていたが、反響が大きく急遽9月25日にシングルCDとしての発売が決定した[4]。9月24日にはNHK総合で放送の『NHK歌謡コンサート』に出演し、ゴールデンタイムのテレビ番組で初披露した[5]。 「海上自衛隊東京音楽隊/三宅由佳莉」のアルバム『祈り〜未来への歌声』は、オリコン週間ランキングで初登場18位[6]、クラシック部門では初週から4週連続1位を獲得[7]、第55回日本レコード大賞企画賞受賞[8]など、自衛隊音楽隊創設以来初となる実績を残した(詳細はアルバム『祈り〜未来への歌声』の項を参照)。

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基地システム通信部隊 – Wikipedia

基地システム通信部隊(きちシステムつうしんぶたい)とは、各自衛隊の駐屯地(分屯地)、施設や基地などに所在する各部隊に対する各種通信手段の提供及び同組織の構成・維持・運営を主任務とする。 陸上自衛隊[編集] 陸上自衛隊では構成・保守担任区分に応じ中央通信系と地方通信系に区分し、中央通信系の構成・維持・運営をシステム通信団隷下の中央基地システム通信隊が、地方通信系の構成・維持・運営を各方面通信群又は方面システム通信群隷下の基地システム通信大隊がそれぞれ担任する。 方面通信群は隷下に1個の基地システム通信大隊を持つ。これは古くからあった基地通信大隊に、比較的新しい歴史のシステム管理隊を組み入れたものである。基地システム通信大隊はその隷下に1個の基地システム通信中隊(以前は方面総監部のある(よって方面通信群本部や基地通信大隊本部もある)駐屯地に中隊本部があった基地通信中隊であったもの)と、師団や旅団の管内に合わせて置かれた2~4個の基地通信中隊(それぞれの師団・旅団司令部のある駐屯地に中隊本部があるもの)を持つ。北部、中部を除く基地システム通信中隊、及び全ての基地通信中隊は更に師団・旅団の担当区域内の駐屯地へ派遣隊を分派する。 これによって各駐屯地・分屯地の所在部隊に対する各種通信手段の提供及び同組織の構成・維持・運営を行わせる。方面通信群所属人員の約6~7割を占めており、常続不断の通信確保に従事する任務(交替制勤務)の特性から全隊員が同一駐屯地に集結することはない(但し、群や大隊によって競技会などが開催され、殆どの中隊・派遣隊から代表隊員が参集する機会はある)。 有事(各種出動・災害派遣等)の際には基地システム通信部隊が平素から構成・維持している回線に野外通信部隊が加入することで最大限の能力を発揮する。後方支援部隊であるが、その地位・重要性は第一線部隊のそれに何ら劣ることはない。 基地システム通信部隊(中央基地システム通信隊、基地システム通信大隊隷下の基地システム通信中隊・基地通信中隊)は、次の部隊からなる編合部隊である。詳細は通信科 (陸上自衛隊)の項を参照。 隊本部及び本部付隊(中央基地システム通信隊のみ、基地システム通信中隊及び基地通信中隊は中隊本部) 信務電信隊(電報処理及び無線電信を担当) 電話隊(有線通信を担当) 搬送隊(多重通信及び衛星通信を担当) システム運営隊(中央基地システム通信隊及び基地システム通信中隊のみ:諸職種混成) ネットワーク運営隊(中央基地システム通信隊及び基地システム通信中隊のみ) 中央通信系[編集] 地方通信系[編集] 通常、方面システム通信群直轄部隊として運用され、方面隊に分散する駐・分屯地所在部隊等に対する通信組織の構成・維持・運営を担当する。基地システム通信中隊は方面総監部所在駐屯地に、基地通信中隊本部はおおむね師団・旅団司令部所在駐屯地に駐屯している。大隊長は2等陸佐、中隊長は3等陸佐を基準として補職される。 海上自衛隊[編集] 海上幕僚監部及び各地方総監部所在基地に「システム通信隊本部」を置き、そこからさらに数個の分遣隊を置いている。 航空自衛隊[編集]

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本堂氏 – Wikipedia

本堂氏(ほんどうし)は、武家・華族だった日本の氏族。中世から近世初頭にかけて出羽国山本郡(現在の仙北郡)[注釈 2]に勢力を有し、戦国時代後期には本堂城を拠点とする小大名に成長した。江戸時代には常陸国志築8000石を領する旗本(交代寄合)として存続し、明治維新期の官軍への貢献で加増されて大名となり、華族(男爵)に列した。 始祖伝承[編集] 鎌倉時代前半に陸奥国和賀郡に土着し、南北朝時代に出羽国山本郡(現在の仙北郡)に進出した和賀氏の庶流と考えられる氏族である。和賀氏・本堂氏は清和源氏を称し、源頼朝の末孫を称するが、正確な出自は不明である(和賀氏参照)。 流人であった頼朝には、伊東祐親の娘(伝承上「八重姫」の名で知られる)の間に生まれた男子(「千鶴丸」)があったが、祐親によって殺された、という伝承がある。『寛永諸家系図伝』(以下『寛永系図』)には、この男子が猟田平右衛門に養育されて奥州和賀に住して「和賀の御所」と呼ばれ、その三男が出羽本堂に住して本堂氏の祖になったという家伝を載せる[2]。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)編纂時の呈譜では、千鶴を匿い養育したのは南部光行となっており[2]、千鶴は「源忠頼」を名乗って「和賀の御所」と呼ばれたとされ[3]、忠頼の三男の忠朝(母は猟田平右衛門尉の娘)が出羽本堂に進出して本堂氏の祖になったとする[3]。『寛政譜』按文では、頼朝の末裔とする家伝は「おぼつかなし」という『寛永系図』按文の評価を引いているが[3]、『寛永系図』を踏襲して始祖が頼朝の落胤との説のある大友氏(その支族である立花氏)・島津氏とともに「清和源氏 為義流」に系譜を配列している[2]。 仙北の小領主[編集] 『奥南落穂集』によれば、和賀薩摩守基義が観応3年(1352年)将軍足利尊氏より安本(横手市)・阿条字(美郷町)・雲志賀里(仙北市角館)の3郷を与えられたという。当初、角館を本拠とする戸沢氏と姻戚関係を結んだものの、安東氏や小野寺氏、戸沢氏の諸勢力に組み入れられることなく、元本堂城(美郷町)を本拠とした。戦国時代後半には一帯を支配する小大名に成長し、天文年間(1532年 – 1555年)には山城であった元本堂城から平城の本堂城(美郷町)に移ったと考えられる[4]。 『寛政譜』本文では本堂義親から系譜を起こしている[3]。本堂義親は戸沢氏と戦って鶯野(大仙市)で戦死、その子の本堂頼親も金沢城主(横手市・美郷町)との戦いで野口で戦死し、その子の本堂朝親も姉婿成岡弾正に加勢して三郡城主と戦った際に波岡で戦死している[3]。 朝親の子・本堂忠親は、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に参陣[3]。同年9月、上杉景勝の家臣藤田信吉による検地に協力している。同年12月19日、これらにより、本堂忠親は秀吉から元本堂、黒沢などの中郡(現在の仙北郡南東部)11か村、8,983石余の知行地が本領安堵された(『本堂宛秀吉知行朱印状』)[注釈 3]。忠親は九戸政実の乱に際しては大谷吉継に属し[3]、秀吉の朝鮮出兵にあたっては肥前名護屋におもむいた[3]。文禄2年(1593年)に「牧使城」(晋州)攻撃(晋州城の戦い参照)の派兵が計画された際には秋田実季などとともに名前があがっており、兵25人の軍役が割り当てられている(『浅野家文書』)。 なお『寛政譜』において本堂家は、忠親が嫡流に当たる和賀氏の家督を継いだとの主張を行っている[3](同時期に和賀忠親が存在するが、経歴は別人である)。 江戸幕府の大身旗本として[編集] 忠親の子・本堂茂親は、関ヶ原の戦いで徳川方につき、六郷政乗と協力して、仙北境で小野寺義道と戦った[3]。戦後、常陸国新治郡志筑(しづく)(現在の茨城県かすみがうら市)8,500石に移封[3]。茂親の子・本堂栄親は、弟の本堂親澄に500石を分知し、知行は8000石となった[5](本堂親澄の家は子の代で無嗣断絶)。栄親の子・本堂玄親のときに初めて知行地に赴く暇が与えられる(参勤交代の開始)[5]。以後、子孫は江戸幕府の旗本(交代寄合)として存続した。 戊辰戦争時の当主親久は新政府に与し、その功によって1万110石の諸侯に列せられた(志筑藩)。1884年(明治17年)、男爵を授けられた。 本堂氏系図 太字は当主、実線は実子、点線は養子。※ 清和源氏為義流とする場合。

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レンフェ251形電気機関車 – Wikipedia

レンフェ251形電気機関車(れんふぇ251がたでんききかんしゃ・スペイン語: Serie 251 de Renfe)は、スペインの国有鉄道・レンフェ[注釈 3]の電気機関車[3]。 日本からやって来た機関車ということから、本形式以前にスペインへ導入されていた三菱設計の電気機関車とともに、“Las Japonesas”(ラス・ハポネサス – 日本の、日本人という意味)と親しまれている[3]。 導入までの経緯[編集] スペイン北部のヒホンとレオンを結ぶヴェンタ・デ・バニョス=レオン線(スペイン語版)は、両都市の間に聳えるカンタブリア山脈を越える[4]。同山脈は古期造山帯と新期造山帯の境界に位置する、イベリア半島の中では標高が高い山脈の一つで、それに伴い同線には標高1,021 mから1,270 mの地点を通るパハーレス越えと呼ばれる区間が存在するが、この区間は勾配を上げるために曲線が連続し、さらにそのうちの350カ所の区間は曲率半径が300 mから350 mとなっていることから、そのような路線に適応した性能を持つ機関車が求められており、早くから電化工事が行われ、イギリスのイングリッシュ・エレクトリックおよびバルカン・ファウンドリーで製造された277形電気機関車(スペイン語版)が活躍していたが、老朽化が進行していたことから、より強力で粘着力のある高性能な電気機関車が求められていた[3]。 そこで、路線の運営・管理を行うレンフェは、当時最新の技術であったチョッパ制御を採用した電気機関車を2形式発注することを決定[3]。一つはドイツおよびスイスの企業、クラウス・マッファイとブラウン・ボベリを筆頭とする連合へ発注され、もう一つは日本の三菱グループへ発注された[3]。こうして、三菱グループが開発したのがこの251形電気機関車である[3]。 ヴェンタ・デ・バニョス=レオン線の路線図濃い赤色 レオン・ヒホン間の標高断面図 車両の概要[編集]

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サルギス – Wikipedia

この項目では、モンゴル帝国の人物について説明しています。アルメニア系の人名については「サルキス」をご覧ください。 サルギス(Sargïs, ? – ?)は、モンゴル帝国のオッチギン王家に仕えたウイグル人。『元史』などの漢文史料では撒吉思(sājísī)と記される。 『元史』によるとサルギスはウイグル国の大都督多和思の次子として生まれ、後にチンギス・カンの末弟テムゲ・オッチギンにビチクチ(書記官)として仕えるようになったという。 テムゲ・オッチギンの死後、その長子ジブゲンが早世したため、その息子タガチャルがオッチギン・ウルス当主に就くこととなった。ところが「庶兄」のトデ(脱迭)はタガチャルが未だ幼いことを理由にこれを廃して自らがオッチギン・ウルスの当主になろうと企んだ。これに対してサルギスとオッチギン家の千人隊長コルコスンは当時先代カーングユクの寡婦として実権を握っていたドレゲネに直訴したため、タガチャルは「皇太弟宝」を与えられて正式にオッチギン・ウルス当主就任を認められた[1]。 サルギスとコルコスンはこの功績によってオッチギン・ウルス内で重きをなし、ウルスを南北に分断してカラウン・ジドゥン(「黒山」の意,現在の大興安嶺山脈)の北側をコルコスンが、南側をサルギスが治めることになった[2][3]。 第4代皇帝モンケによる南宋親征が始まると、サルギスはタガチャル率いる左軍ではなくモンケ直属の中軍に所属した。釣魚山攻めの際には「勝勢に乗じて一挙に江南を平定してしまうのが良いでしょう」と建言し、モンケから嘉されている。しかし釣魚山攻めの最中にモンケは病死してしまい、次代のカーン位を巡ってクビライとアリク・ブケの間で帝位継承戦争が勃発することとなった。正当性はアリク・ブケ側の方にあり多くの諸王はアリク・ブケ派についたが、サルギスはタガチャルの下に馳せ参じてクビライ派につくことを力説したため、タガチャルはクビライ派につくことを決意した。タガチャルの勢力は帝位継承戦争において大いに活躍し、結果として帝位継承戦争はクビライの勝利に終わった。戦後、サルギスの功績を聞いたクビライは北京宣撫の地位、コンギラト部出身の宮人、金帛・章服を下賜してその功績に報いた[4]。 1262年、李璮の乱が始まると、サルギスはクビライの命によって宗王カビチとともに叛乱鎮圧に出陣した。李璮の居城が陥落し李璮が処刑されると、カビチは住民を鏖にしようとしたが、サルギスはカビチを説得してこれをやめさせた。この功績によってクビライはサルギスにまず山東行省都督の地位を授け、更に経略・統軍二使兼益都路ダルガチに任じようとしたが、サルギスはこれを当初断った。しかしクビライはサルギスの辞退を許さず、また京城の住宅、益都の田地、李璮の財産の一部を下賜した。サルギスは益都路ダルガチとして李璮の乱後の農具不足解消、遊牧領主の田地荒らしの解消などに尽力し、また元李璮の部下でサルギスを殺して南宋に寝返ろうとした毛璋の討伐なども行った。享年は66歳で、後に襄恵と諡されている[5]。 ^ 『元史』巻134列伝21撒吉思伝「斡真薨、長子只不干蚤世、嫡孫塔察児幼、庶兄脱迭狂恣、欲廃嫡自立。撒吉思与火魯和孫馳白皇后、乃授塔察児以皇太弟宝、襲爵為王」(村上1972,342/杉山2004,47頁) ^ 『元史』巻134列伝21撒吉思伝「撒吉思以功与火魯和孫分治、黒山以南撒吉思理之、其北火魯和孫理之」 ^ 杉山2004,46-48頁 ^ 『元史』巻134列伝21撒吉思伝「従憲宗攻釣魚山、建言乗勢定江南、帝嘉納焉。憲宗崩、阿里不哥争立、諸王多附之者、撒吉思馳見塔察児、力言宜協心推戴世祖、塔察児従之。及世祖即位、聞撒吉思所言、授北京宣撫、賜宮人甕吉剌氏、及金帛・章服。及至鎮、鋤奸抑強、遼東以寧。会高麗有異志、帝遣使究治、則委罪於其臣洪察忽、械送京師。道遼東、撒吉思訪知洪察忽以直諫迕意、即奏疏為直其事、帝命釈之」 ^ 『元史』巻134列伝21撒吉思伝「李璮叛、命撒吉思帥師従宗王哈必赤討之。李璮伏誅、哈必赤欲屠城、撒吉思力争曰『王者之師、誅止元悪、脅従罔治』。因撫摩其人、衆情大悦。授山東行省都督、遷経略・統軍二使、兼益都路達魯花赤、辞不拜、上言山東重鎮、宜選貴戚臨之、帝不許。賜京城宅一区・益都田千頃、及璮馬群・園林・水磑・海青・銀鼠裘之属。兵後民乏牛具、為之上聞、験民丁力、官給之。統軍抄不花田遊無度、害稼病民、元帥野速答爾拠民田為牧地、撒吉思随事表聞。有旨、杖抄不花一百、令野速答爾還其田。璮故将毛璋欲率諸部謀執撒吉思以帰宋、璋党上変、乃襲璋斬之。撒吉思嘗慕古人挙親挙讎之義、叛帥故卒、得与子姓参用、公論多之。山東歳屡歉、為請於朝、発粟賑恤。又奏蠲其田租、山東人刻石頌徳。卒年六十六。後贈安辺経遠宣恵功臣、諡襄恵」 参考文献[編集] 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年

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