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Month: June 2022

ゴジラ キング・オブ・ザ・モンスターズ・イン・3D – Wikipedia

『ゴジラ キング・オブ・ザ・モンスターズ・イン・3D』(Godzilla: King of the Monsters in 3D)は、1983年に製作が予定されていたアメリカ合衆国の怪獣映画。『ゴジラシリーズ』では初となるアメリカ単独の映画化企画であり、監督を務める予定だったスティーヴ・マイナーがハリウッドに売り込み、複数のスタジオから反応があったものの、製作費を確保できずに製作は中止された。 ストーリー[編集] アメリカの軍事衛星に隕石が衝突し、それがきっかけとなり核ミサイルが地球に向けて発射されてしまう。核ミサイルは南太平洋上で爆発し、海底で眠っていた巨大な爬虫類型生物を目覚めさせてしまう。同じころ、日本の漁船が消息を絶つ事件が発生し、発見された漁船が調査のためサンフランシスコに曳航されてくる。ジャーナリストのダナ・マーティンは漁船に潜入し、そこで三葉虫と焼けただれた生存者を発見し、彼は「ゴジラ」という言葉を残して絶命する。 マーティンは古生物学者で恐竜の専門家であるジェラルド・バリンジャーに三葉虫を見せるが、彼は三葉虫が本物かどうか疑問を抱いていた。一方、タヒチ島では巨大生物が村を襲い始め、アメリカ軍の特殊部隊が対応に乗り出していた。同時期、ピーター・ダクストン海軍大佐はメキシコ沖で沈没したソ連の原子力潜水艦の調査部隊を指揮していたが、調査部隊はダクストンの宿敵で原子力潜水艦に搭載されている2発の核弾頭を狙うソ連政府のスパイであるボリス・クルショフに監視されていた。調査を進める中で、ダクストンは原子力潜水艦が巨大生物に対して核ミサイルを発射したことを記録したビデオテープを発見し、確保した核弾頭はソ連政府との交渉のためアメリカ軍が管理することになった。 ダクストンは息子ケヴィンを連れてサンフランシスコに帰還するが、すぐに新たな任務に従事するように命令される。ダクストン父子はバリンジャーと合流してバハ・カリフォルニア半島に向かい、そこで「家のような大きさ」の爬虫類型生物の死骸を目にする。ダクストンは、この死骸がビデオテープに写っていた巨大生物と同一個体であることに気付く。バリンジャーは巨大生物を恐竜の生き残りと推測するが、軍部は彼の意見を無視して巨大生物を「他の惑星から来た生物」と判断する。巨大生物が運ばれる中、バリンジャーは日本の古代神話に登場する龍にちなみ、巨大生物を「ゴジラ」と命名する。ゴジラの死骸は研究のためエンカバデロ(英語版)の軍用倉庫に保管されるが、カリフォルニア沖に成体のゴジラが出現し、石油掘削用のデリックやタンカーを破壊する。 バリンジャーは他の研究者たちがゴジラの体に触れたことで放射線障害を発症した姿を見て危機感を募らせ、ゴジラの幼体が「生きた原子炉」であると結論付ける。彼は幼体の死後も海難事故が多発していることから、ゴジラの成体が迫っていると警鐘を鳴らすが、軍部に一蹴されてしまう。そんな中、ケヴィンがクルショフに誘拐され、ダクストンは「身代金の代わりに核ミサイルを渡せ」と脅迫される。ケヴィンは隙をついて逃げ出すが、同時期にゴジラがサンフランシスコ湾に出現する。アメリカ軍はゴジラに対して攻撃を開始するが歯が立たず、ゴジラは怒りに任せて街を破壊する。事態に直面したダクストン、バリンジャー、マーティンは幼体が写っていた原子力潜水艦のビデオテープを利用してゴジラを誘い込み、核ミサイルでゴジラを倒すことを計画する。ダクストンは核ミサイルを搭載したヘリコプターで離陸するが、そこにケヴィンを連れたクルショフが現れ、核ミサイルを渡すように迫ってくる。直後にヘリコプターは墜落し、ゴジラの手の中に落下したクルショフは、ゴジラの放射熱線を浴びて死んでしまう。 街を破壊するゴジラは軍用倉庫に保管されていた幼体の死骸を発見し、悲痛な咆哮を上げる。一方、バリンジャーとマーティンはアルカトラズ島に向かい、そこでビデオテープを再生してゴジラを注意を引き、ダクストンは戦闘ヘリコプターの試作機「スコーピオン78」に残った核ミサイルを搭載して離陸する。しかし、離陸する際に副操縦士が転落したため、ケヴィンが代わりに操縦を補佐することになった。ケヴィンはゴジラを殺すことに反対するが、ダクストンに言われてやむを得ず核ミサイルを発射する。核ミサイルはゴジラに命中するが、直後にケヴィンはスコーピオン78から転落する。転落したケヴィンはゴジラに助けられるが、致命傷を負っていたゴジラはその場で息絶えてしまう。死にゆくゴジラを見つめながら、ケヴィンは涙を流していた。 企画[編集] 私は子供のころから(ゴジラの)ファンでした。大人になってから観てみると、これは良い映画にリメイクできると思ったのです。私のオリジナルのアイディアは3Dでやるということでした。ちょうど『13日の金曜日PART3』を作ったばかりで、3Dで良い映画を作りたいと思っていたところで、ミニチュアは素晴らしい3D効果を生み出すと考えたのです。だから、本当に良いモンスター映画を作ろうということと、3Dでやることが組み合わさったのです。権利を手に入れる必要があったので、日本に行って東宝の人たちと契約し、私と東宝の共同出資で映画を開発することになったのです。 —企画の成り立ちを語るマイナー 1983年、スティーヴ・マイナーは『ゴジラシリーズ』の権利を所有する東宝に接触し、「巨額の予算、A級俳優、高額を投じた特撮」によるハリウッド製作のゴジラ映画の企画を持ち込んだ。マイナーは「昔からのゴジラファン」であり、ゴジラというキャラクターをリメイクすれば「良い映画」が作れると考えていた。交渉の末、彼は東宝と共同出資で企画を進めることになった。 脚本[編集] マイナーはフレッド・デッカー(英語版)に脚本執筆を依頼し、数週間後に第一稿が完成した。デッカーの起用について、マイナーは後に「偶然だった」と語っている。一方、デッカーは元々ゴジラファンではなく、オリジナル版『ゴジラ』を「安っぽい映画」と感じていた。彼は企画への参加について「彼(マイナー)は安っぽい映画は作りたくなかったし、私もただの特撮やビルを破壊することには興味がありませんでした。私が最初にスティーヴに言ったのは、”この映画が単に巨大モンスターがビルを破壊するだけのものになったら、お終いだよ”ということです」と語っている。

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くるまば草 – Wikipedia

クルマバソウ。本来は白い花を咲かせるが、劇中では新種の黒い花が見つかり、騒動が巻き起こる 『くるまば草』(くるまばそう、ドイツ語: Waldmeister)は、ヨハン・シュトラウス2世が作曲した全3幕のオペレッタ。 ザクセン王国の小村の住民たちが、クルマバソウの煎じ出しを飲む効能について悩む物語である[1]。1895年12月4日、アン・デア・ウィーン劇場において初演された[2]。初演時、シュトラウス2世は序曲だけを自分で指揮し、後の3幕はアドルフ・ミュラー2世が指揮した[3]。この初演にはブラームスとリヒャルト・ホイベルガーも足を運んでおり、ブラームスは上出来な芝居と台本を称賛した[2]。またシュトラウス2世の音楽について、ブラームスは以下のように評している。 「 ああいうのに作曲したいんだ。とにかくシュトラウスのオーケストレーションは凄い。そりゃ(シュトラウスの)音楽は、昔のほうが良かった。でも作品全体としては立派なもんだよ[2]。 」 シュトラウス2世の後期の舞台作品の中では最も成功したものになり、88回公演された[3]。音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックは、次のような熱烈な称賛を送っている。 『くるまば草』は初めから終わりまで楽しさいっぱいである。そこが以前の作品、『ジプシー男爵』『ジンプリチウス』『パスマン』『りんご祭り』とは違うところだ。前の作品は少なくともシーンによっては、悲劇か感傷劇の様式と危うく紙一重だった。……『くるまば草』はシュトラウスのオペレッタの中では、罪のない中産階級を素材にしている点だけでなく、音楽の喜劇性が絶えず維持されている点で一番効果的な『こうもり』の、あの見慣れた道に戻っている[3]。 — 『Die Neue Freie Presse』紙、12月6日付 このオペレッタの初演に際して、シュトラウス2世は人気の喜劇役者アレクサンダー・ジラルティ(ドイツ語版)と仲たがいしてしまった[4]。家庭問題からジラルティが出演を最後まで渋ったことが原因であった[4]。『ウィーンのカリオストロ』以来、ジラルティはシュトラウス2世のオペレッタに欠かせない重要な存在であったが[5]、この作品を最後に彼がシュトラウス2世のオペレッタに登場することはなくなった。 序曲について[編集] 記念写真に収まるシュトラウス2世とブラームス(1894年) 序曲のなかに、フルートで演奏されるワルツが登場する[6]。このワルツは最後に華やかな対旋律をまとって繰り返されるが、この対旋律はブラームスが書き込んだものといわれる[6]。ただし、筆跡鑑定によるとオリジナル・スコアにはシュトラウス2世の筆跡しかなく[7]、おまけにブラームスが対旋律とともに書き込んだといわれる「ブラームスによる対位法!」という言葉も見当たらず[7]、事実ではない創作された逸話だと思われる。 序曲のワルツの一部 楽譜1 8

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増位山大志郎 – Wikipedia

この項目では、第179代大関について説明しています。その弟子であり実子である第212代大関については「増位山太志郎」をご覧ください。 増位山 大志郎(ますいやま だいしろう、本名:澤田 國秋、1919年(大正8年)11月3日 – 1985年(昭和60年)10月21日)は、兵庫県姫路市出身の大相撲力士。入門時は三保ヶ関部屋、のち出羽海部屋所属。最高位は東大関。身長174cm、体重116kg。得意手は突っ張り、押し、左四つ、内掛け。 5代目増位山。1935年(昭和10年)1月場所濵錦の四股名で初土俵。若い頃から有望視され幕下時代には当時連勝街道をひた走っていた横綱・双葉山に目をつけられ「いつかあいつに土をつけられるんじゃないか」と言われたことがあるという。稽古の時には双葉山から「おい若手、こい」と言われて感激したという[1]。その双葉山には1944年(昭和19年)1月場所11日目、小結の増位山は5回目の対戦で勝って恩返ししている(この場所11勝4敗の好成績)[1]。 1940年(昭和15年)1月場所新十両。1941年(昭和16年)1月場所新入幕で、この場所から増位山の四股名を名乗り[2]、場所成績は10勝5敗。1944年5月場所は関脇に進んだが、その後3場所続けて負け越し、1945年(昭和20年)6月場所は平幕から再スタート。1947年(昭和22年)5月場所は小結の地位で左足首関節捻挫により全休し、翌10月場所で8勝3敗の好成績を残して技能賞を受賞した[1]。その後は順調に出世して1948年(昭和23年)5月場所小結で7勝4敗、10月場所関脇で10勝1敗、前場所優勝して綱取りの東冨士との優勝決定戦を制して初優勝、場所後大関に昇進した[3][1]。手首を曲げての上突っ張りと押し、組んでも寄り、投げ、足癖と名人相撲を見せた[3]。 大関2場所目となる1949年(昭和24年)5月場所に羽島山との同部屋決戦を制して13勝2敗で優勝した時には横綱を期待され3ツ揃いの化粧廻しまで用意されたがこの場所で相次いで両手の小指を傷め、さらに肋間神経痛などに苦しみ連続して途中休場、1950年(昭和25年)1月場所後に引退した。1950年1月25日付の報知新聞紙上には「どう頑張ろうとしても体がいうことをきかない。そのうえけがとあってはとても再起はできないと観念した」と本人のコメントが掲載されていた。しかし2日目の同紙には「増位山引退取止め」との見出しが躍り、記事によるとひとまず引退を思いとどまり、出羽海にもその旨を申し入れ、それでも再起困難の場合は改めて引退届を提出するらしいとある。同月27日付に復帰を目指しているという旨の本人のコメントが掲載されていたが、3月17日に正式に引退。引退相撲は1951年(昭和26年)1月場所千秋楽の翌日、1月29日であり、断髪式では現役横綱の羽黒山、千代の山も鋏を入れ、引退後は年寄・三保ヶ関として後進の指導に当たっていた。その後体調の回復で現役復帰を希望し、1951年12月28日、立浪部屋で行われた力士会で楯山、秀ノ山、武蔵川などが協会側として力士側に「今後、引退廃業した力士でも事情によれば、土俵への復帰の途を開いてやりたい」と提案したものの、羽黒山から「引退相撲まで終わったのに筋が通らない」「協会の親心は分からないでもないが、その運営を誤るといろいろ悪い面も出てくるだろうし、今までのような土俵一筋に打ち込む厳しい気持ちも人によっては緩んでくると思う」(報知新聞1951年12月29日付)と最終的には否決されている[1]。この時、増位山の復帰とまとめての採決にされてしまって、現役復帰しそこなったのがまだプロレスラーになる前の力道山であった。実際のところ力道山は後援者で明治座社長の新田新作の働きかけを無視してプロレス転向を既に決めており、増位山も現役復帰を最後は断念する方向で納得していた[4]。 元大坂相撲の小部屋である三保ヶ関部屋を再興し、しばらくは弟弟子の増巳山しか関取のいない状況であったが、1960年代に大竜川が十両に昇進してから活気付き、横綱・北の湖、長男でもある大関・2代目増位山、大関・北天佑などを育てた[1][3]。自身の現役時代に日の目を見ることのなかった3ツ揃いの廻しは弟子の北の湖が横綱になったことでようやくその使命を果たすことができた[1]。定年まで勤め、部屋を実息の大関増位山に譲って隠居した。相撲協会を停年退職したためか、愛弟子北の湖の断髪式では鋏は入れたが、止め鋏を入れたのは息子(増位山、北の湖の兄弟弟子)だった。 長男の2代目増位山が新十両に昇進した1969年には数え年で50歳になっていたが、稽古場で相撲を取ると技術だけでなく力でも2代目増位山は三保ヶ関に敵わなかったという。そんな2代目増位山は相撲協会を停年退職した後の記事で三保ヶ関を「超人タイプ」と評した[5]。 北の湖の引退相撲から1ヶ月も経たない1985年10月21日死去した。わずか1日違いで北の湖の実父も死去し、葬儀の日程が重なり、周囲は実父の葬儀を優先するように薦めたが、北の湖は「師匠は自分にとって(実の)親以上」という理由で実父の葬儀を欠席し、師匠の葬儀に出席した[6]。 エピソード[編集] 大関に上がって横綱を目指していた頃に断酒したが、その内に肘から肩にかけて激痛が走り、この痛みが治らず不本意な形で引退した。ところが引退後に酒を再開するとその痛みは治った[5]。 力士たちを型にはめず伸び伸びと育てたが、掲げた道場訓の1つには「自由とは規則を忠実に守ることである」という言葉があった。これに関して三保ヶ関は「要は相撲取りになった以上は、初心を忘れぬように相撲に打ち込むことだ。入門した時の純粋な気持ちに戻れば、決して大局を見逃すことはない」と話していた[7]。北の湖の若手時代のある時、増位山は「言ってもわからないやつは、叩いてもわからない」と力士を竹刀で叩くことを止めた。その後大竜川を皮切りに関取が続々育ったのは、そのおかげであったという見方もある[8]。 趣味が多彩で絵や歌が上手く特に絵は1971年(昭和46年)からは連続して二科展に入選する程の腕だった。肖像画も描いたが題材にした依頼者が次々亡くなるのを見てやめてしまったという。絵は精神を鍛えるのにも有効と考え弟子の指導にも取り入れたという。絵の趣味は弟子の北の湖や息子の増位山にも受け継がれている[9]。息子の増位山はさらに歌の趣味も受け継いで現役時代から歌手活動を行い、停年で協会を去った後は本格的なプロ歌手となった。 絵に関しては「相撲の絵は偉い人がいっぱい描いている。でも、うまいヘタは別にして、力士経験者で、その生活、感情などをよく知っているのはワシだけ。偉い人の栄羽廻しの結び目がおかしかったり、着物の衿の上下が違っていたりするけど、ワシはちゃんとそこまで描いている」と自画自賛していた[9]。 なお「増位山」は、故郷である兵庫県姫路市の山名で、もともと姫路藩お抱えの力士が名乗っており14代横綱境川も襲名したことのある[10]、由緒ある四股名である。 息子の増位山は「俺なんかの大関は本当に“引っかかった”大関だけど、うちのおやじは横綱に上がってもいい大関だった」と評している[11]。

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ポリイン – Wikipedia

ポリイン(Polyyne)は、単結合と三重結合が交互に現れる(-C≡C-)nの構造を持つ有機化合物である。最も単純なものはジアセチレンで、構造式は、H-C≡C-C≡C-Hである。 これらの物質は、オリゴイン(oligoyne)[1]または、炭素が無限に繋がった仮想上の同素体であるカルビン(-C≡C-)∞に因んでカルビノイド(carbinoid)とも呼ばれる[2][3]。この物質の合成については、1960年代以降、何度も主張されてきたが、これらの報告には議論がある[4]。実際、この物質は、初期の多くの有機合成の試みにおいて、カルビンの短鎖として同定された[5]。 ポリインは、アセチレン及びその誘導体の重合で得られ、単結合と二重結合が交互に並んで骨格が形成されるポリアセチレンとは異なる。クムレンとともに、ポリインは、その堅さによって他の有機鎖から区別され、そのため分子ナノテクノロジーにとって有望な材料である。またポリインは、水素の少ない星間雲からも検出されている。 ポリイン合成の最初の報告は、銅(I)フェニルアセチリドが空気の存在下で酸化二量化し、ジフェニルブタジインが形成される様子を観測したカール・グレイサーにより1869年に行われた[3]。 1950年代には、様々な技術を用いて、nの値が4か5までのポリインH(-C≡C-)nが合成された[6]。1971年頃、T・R・ジョンソンとD・R・M・ウォルトンは、Hay’s catalystを用いた鎖二量化反応中にポリイン鎖を保護するため、-SiR3(通常、Rはエチル基)を保護基として用いた[6][7]。この技術を用いて、彼らは、純物質としてはmが8まで、溶液としてはmが16までのEt3Si-(C≡C)m-SiEt3のようなポリインを得ることができた。 nが2から6までのH(-C≡C-)nHの構造を持つアルキンは、1856年かそれ以前から知られていたアセチレン誘導体である炭化銅(I)を塩酸で部分的に酸化したものの、分解生成物から検出することができる[8]。 長いポリイン鎖は、発熱反応により分子間で架橋が起こるため、大量の時は本質的に不安定であると言われている[4]。研究の途中に爆発することもある[9]。しかし、末端の水素をtert-ブチル基やトリフルオロメチル基等の特に嵩高い保護基で保護することにより[1]、湿気や酸素に対してさえもかなり安定にすることができる[10]。1995年、この技術を用いて、300個以上の炭素からなるカルビン鎖の合成が報告された[10]。しかし、この報告は、検出された分子は直鎖のポリインではなくフラーレンのような構造だったのではないかとの論争に晒されている[4]。 10個のアセチレン基(20炭素)長で構成され、フレシェ型の芳香族ポリエーテルデンドリマーで末端が保護されたポリインは、2004年に単離され、性質が調べられた[1]。2010年時点で、単離された最長のポリインは、22アセチレン基(44炭素)長で、トリス(3,5-ジ-t-ブチルフェニル)メチル基で末端が保護されたものである[11]。 R-(-C≡C-)n-Rの構造を持ち、nが8以上の合成ポリインは、しばしば結晶固体状態の、滑らかなカーブまたは螺旋形の骨格構造を持つ。例えば、保護基Rがトリイソプロピルシリル基でnが8の場合、X線結晶構造解析では、約25°から30°の角度で幅広い弧の形に曲がり、そのため各々のC-C≡Cは、直線から3.1°曲がっている。この幾何のおかげで、嵩高い保護基があるにもかかわらず密度の高い詰め込みが可能である。結果として、隣接分子の骨格間の距離は、架橋結合の範囲に近い約0.35-0.5 nmまで縮まる。この化合物は、低音ではいつまでも安定だが、融解する前に分解する。対照的に、n=4またはn=5のホモログ分子は、少なくとも0.5-0.7 nm離れたほぼ直線の骨格を持ち、分解することなく融解する[12]。 天然の存在[編集] 生物起源[編集] 幅広い生物がポリアセチレンを合成し[13][14]、その多くが医薬品としての性質を持つ。アセチレン脂肪酸1は、ヤドリギ科Paramacrolobium caeruleumの根の皮から単離された。この科の植物の茎や葉は、インドネシアでは癌の治療に用いられている。 天然色素チアルブリンB(2)は、オオブタクサから単離された。この型の化合物を含む植物は、アフリカやカナダの原住民が皮膚感染や腸内寄生虫の治療に用いてきた。 アメリカハリブキの内樹皮や根は、アメリカ原住民が様々な病気の治療に用いてきた。単離されたポリインの1つは、オプロパンジオール酢酸(3)である。ジヒドロマトリカリア酸(4)は、ジョウカイボン科から得られるポリインである。植物由来の他のポリインには、エナントトキシン、シクトキシン、ファルカリノールがある。 ポリインは、ニンジン、セロリ、フェンネル、パセリ、パースニップ等のセリ科の野菜でも見られ、細胞毒性を示す[15]。 Ichthyothere属は、イクチオテレオールと呼ばれるポリインを活性物質として含む。この物質は魚にとって非常に毒性が強く、そのため、Ichthyothere

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タルゴIV – Wikipedia

タルゴIV(Talgo IV、Talgo Series 4)は、スペインのタルゴ社が開発した連接式客車の名称。同社が製造していた客車から構造を一新し、車体傾斜機構を始めとした多数の新機軸の技術が導入された[1]。 長年に渡り増備が続いたタルゴIIIに代わり、1970年代以降の技術の進歩を取り入れた車種。下記の要素を導入した事で従来のタルゴIIIから車体をはじめとした構造を一新し、以降のタルゴの標準型車両となった。最高速度は180 km/hであった[1]。 車体傾斜機構[編集] スペイン国内はピレネー山脈、シエラネバダ山脈を始め山地や丘陵が多数存在する事から鉄道路線には曲線が多く設けられており、速度向上における長年の課題となっていた。そこで、1970年代から速度を抑える事無く曲線区間を走行する事ができる車体傾斜式車両の研究が始まり[注釈 1]、タルゴIVにおいて本格採用が実施された[1]。 タルゴIVに採用されたのは、台車の懸架装置の位置を車両全体の中心よりも高い位置に設置する事で、曲線通過時に車体が4度傾斜する自然振子式と呼ばれる方法であり、曲線通過時の超過遠心力が従来の車両の0.65 – 1.0 m/s2から1.2 m/s2に向上している。また、衝撃を緩和するダンパーシステムの刷新も行われており、振り戻しを始めとした乗り物酔いの原因となる有害な振動を防いでいる。 これらの特徴から、タルゴIVはスペイン語で「振り子」と言う意味の単語を加えたタルゴ・ペンデュラー(talgo Pendular)と呼ばれる事もある。 車体設計の一新[編集] アルミニウム合金の加工技術の進歩に伴い、タルゴIVは車体構造が一新され、押形加工を基本とした全溶接構造の直方体型の車体形状に改められた。また、車体長もタルゴIIIから伸び、前後に連結される車両は車体長12,170 mm、中間車両は13,140 mmとなった。

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アクタイオンの死 – Wikipedia

『アクタイオンの死』(伊: La morte di Atteone, 英: The Death of Actaeon)は、イタリア、ルネサンス期の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1559年頃から死去する1576年まで制作した絵画である。油彩。主題はギリシア神話の有名なエピソードである女神アルテミス(ローマ神話のディアナ)とテーバイの王族アクタイオンの物語から取られている。スペイン国王フェリペ2世のために制作された大規模な神話画連作《ポエジア》の1つとして制作されたが、結局フェリペ2世に届けられることはなかった。ティツィアーノの死後、絵画はハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトン、大公レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ、クリスティーナ女王、オルレアン・コレクションに所属した。現在はロンドンのナショナルギャラリーに所蔵されている[1]。 古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』によると、あるときアクタイオンはキタイロン山のガルガピアの谷間で仲間たちと猟犬を率いて狩りをした。しかしガルガピアの谷間はアルテミスに捧げられた聖域であり、ちょうど谷の一番奥まった場所にある洞窟の泉で狩りに疲れたアルテミスが従者のニンフたちとともに水浴びをしていた。そうとも知らずにアクタイオンは洞窟に入っていき、入浴しているアルテミスの裸体を目撃してしまった。怒った女神は泉の水をすくってアクタイオンにかけ、女神の裸を見たと言いふらすことが出来ないようにシカの姿に変えた。すると瞬く間にアクタイオンの頭から角が生え、耳がとがり、両手が前脚になった。逃走したアクタイオンは水面に映った自分の姿に驚いたが、口からはうめき声しか出てこなかった。彼はテーバイに帰るべきか、森に隠れているべきか迷っているうちに、猟犬たちに見つかって一斉に噛みつかれた。狩り仲間たちは猟犬をけしかけながらアクタイオンの姿を探したが、今狩ろうとしているシカがアクタイオンだとは気づかなかった。ディアナの怒りはアクタイオンが猟犬に食い殺されるまで消えることはなかった[2]。 制作経緯[編集] 『アクタイオンの死』はおそらく1559年6月にティツィアーノがスペイン国王フェリペ2世に宛てた手紙の中で『猟犬に傷つけられたアクタイオン』(Actaeon mauled by hounds)と呼んでいる、制作を開始し完成させたいと述べた2枚の絵画のうちの1枚である[1]。この作品は『変身物語』に触発されて1551年にフェリペ2世のために制作を開始し、ティツィアーノ自身が《ポエジア》と呼んだ『ダナエ』(Danae)、『ヴィーナスとアドニス』(Venus e Adonis)、『ペルセウスとアンドロメダ』(Perseo e Andromeda)、『ディアナとアクタイオン』(Diana

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パキケファロサウルス – Wikipedia

パキケファロサウルス(Pachycephalosaurus、’厚い頭を持つトカゲ’の意)は、中生代白亜紀後期のマーストリヒチアン(約7,000万~6,600万年前[1])の現北アメリカ大陸西部に生息していた、いわゆる石頭恐竜の代表的なものの一つ。 属名は「分厚い頭のトカゲ」の意。中国語名は「厚頭龍」(ホートーロン)。 体長4 – 8メートルとパキケファロサウルス科では最大級となる。吻端には嘴を持ち、前方の歯は湾曲し牙のような形態になっていた。鼻上には小さな骨質のコブ、後頭部には骨質の小突起があり、頭頂部は厚さ25 – 30センチメートルに達する緻密骨(ちみつこつ)のドームとなっていた。これが学名の由来である。胴体はどっしりとした作り。後肢と比べて短い前肢には5本の指があった。また後肢は長くほっそりとしており、速く走ることができたと推定されている。尾は結合組織で固められており、後方に真っすぐに伸ばされている。走る際はこの尾でバランスを取ったとされる。 頭骨と儀礼的闘争[編集] 頭突きではなく、頭で相手の体を押しているように復元したパキケファロサウルスの骨格標本[3]。国立科学博物館の展示。 パキケファロサウルスのもつ分厚い頭骨という驚くべき特徴から、パキケファロサウルス科はこの頭部を激しくぶつけあい、儀礼的闘争を行うことで群れ内部の順位を決めていたとする説が誕生した。実際に骨格を前へと突き出し、もっとも頭骨の厚い頭頂部を前方に向けると、背骨 – 尾が一直線になり、うまくショックを逃がすことができるというのである。また、捕食者に対する防御に使ったとの説もある。 しかしこの頭突き説には異論もある。確かに背骨は一直線になるかもしれないが、肝心の頭骨を前方に向けたままロックする構造が見当たらず、また頚椎の部分でショックを吸収するものが存在しないというのである。彼らの仮説からいえば、頭突きをした瞬間に頚椎を脱臼、もしくは骨折する可能性が大である。しかし、この説は筋肉を考慮していないという欠点がある。現に、現生哺乳類のビッグホーンの頚椎はこの恐竜より華奢な構造であるにも関わらず、助走を伴う頭突きを行うが、脱臼するようなことはない。これは筋肉に保護されているためと言われる。 また、ジャック・ホーナーらはこの頭骨の強度自体に疑問を呈している。頭突き説の根拠の一つに、頭骨内に衝撃を吸収できる構造を持っていることが挙げられていた。しかし、2004年に発表された論文によれば、これは幼体にのみ見られる構造で、成体では失われてしまうことが明らかになった。また同時に成体の頭頂部外側に角質層が存在していることが判明しており、角質の装飾物が存在し、これをディスプレイとして使用したとも推定されている。ただし、パキケファロサウルス自体の全身骨格はまれで(現在パキケファロサウルス科で全身骨格が見つかっているのはステゴケラスのみ)あるにもかかわらず、頭骨は完全な形で発掘されることが多い。これは、頭骨が他の骨格よりも頑丈であったことを示しているとの説もある。 これらの頭突き説などは全て発見された頭部のみ化石から想像していたものである。パキケファロサウルスの本格的な研究はこれから始まるといっても良い。 参考文献[編集] 関連項目[編集]

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独立宣言 (絵画) – Wikipedia

『独立宣言』(どくりつせんげん、Declaration of Independence)[注釈 1]は、アメリカ合衆国の画家ジョン・トランブルによる、アメリカ独立宣言の草稿を第2回大陸会議に提出する様子を描いた油彩画である。 この絵は、1817年に発注され、1819年に購入された後、1826年にアメリカ合衆国議会議事堂のロタンダに設置された。それ以前に同じシーンを描いたより小さなサイズの絵(現在はイェール大学美術館(英語版)に所蔵)があり、それを元に描かれた[1]。トランブルはこの絵を描くにあたって、絵の中の物の多くを実際に実物を見、第2回大陸会議が開かれた独立記念館を訪れた。 この絵は、独立宣言書の署名の様子を描いたものと誤って説明されることがある。この絵に描かれているのは、1776年6月28日に5人の起草委員が宣言の草案を大陸会議に提出する様子であり、同年7月2日に行われた署名の様子ではない[2]。 この絵には、独立宣言書に署名した56人のうち42人が描かれている。トランブルは当初、56人全員を描くつもりだったが、全員の肖像画を手に入れることができなかった。また、ジョン・ディキンソンをはじめとする、議論には参加したが署名はしなかった人物も描かれている。トランブルは、ベンジャミン・ハリソン5世の肖像画を入手できなかったが、息子のベンジャミン・ハリソン6世(英語版)が父親に似ていると言われていたことから、6世の姿を代わりに描いている。同様に、スティーヴン・ホプキンスについても、よく似ていた息子のルーファス・ホプキンス(英語版)の姿で代用している。独立宣言文の議論と署名は、大陸会議のメンバーが入れ替わる時期に行われていたため、この絵に描かれた人物全員が同時に同じ部屋にいたことは実際にはない。 この絵では、トーマス・ジェファーソンがジョン・アダムズの足を踏んでいるように見えることから、これは2人のライバル関係を象徴しているのではないかと言われていた。しかし、実際には2人の足は単に接近して描かれているだけである。この部分は、この絵を元にした2ドル紙幣(英語版)では正しく描かれている。 奥の壁には、独立戦争時にイギリスの連隊から奪い取ったトランペットやドラム、連隊旗が描かれている。これは、2ドル紙幣版など、一部の版では省略されている。 絵に描かれた人物[編集] トランブル『独立宣言』 クリック可能な画像: 顔の上にマウスカーソルを動かすとその人物がわかり、クリックすると対応する記事が表示される。 画像内の(人物の顔以外の)任意の場所をクリックすると、その画像のファイルページに移動し、拡大表示される。 描かれた人物の検索図 この絵に描かれている47人の人物に対する以下の数字は、アメリカ政府の出版物”Art of the Capitol”で使用されているものである。概ね左から右に振られているが、必ずしも順番通りではない。 画面左端で座っている4人:

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