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Month: June 2022

葉暮橋 – Wikipedia

この項目では、国道140号の桟道橋について説明しています。波久礼橋については「寄居橋」をご覧ください。 葉暮橋(2014年11月) 葉暮橋(はぐればし)は埼玉県秩父郡長瀞町矢那瀬の荒川に平行するように架かる国道140号の桟道橋である。古くから秩父往還における難所の一つでもあった。橋の袂の熊谷側は大里郡寄居町末野の区域に掛かる。 葉暮橋は寄居町と長瀞町の境界の場所に建設されている、荒川の左岸側の斜面に設けられた橋長104.9メートル、幅員6.5メートル 支間長15メートルの7径間の鋼製桟道橋である[1]。橋の形式は単純プレートガーダー橋(鋼鈑桁橋)である[1][2]。歩道は谷側のみに設けられている。 橋の伸縮継手は荷重支持型鋼製伸縮装置が使われている[3]。橋は秩父方面に向けて地形に沿った緩やかな左曲線の橋となっている。すぐ山側を隣接して秩父鉄道が通る。また、橋の谷側は玉淀湖(荒川)である。親柱および高欄は谷側のみに設置されており、山側は橋が秩父鉄道の煉瓦製の護岸擁壁と一体化しているため設置されていない。コミュニティバスも含め、橋を通る公共交通機関は存在しない。 橋の南詰(熊谷側)は熊谷県土整備事務所と秩父県土整備事務所との管轄の境界であり、それを示す標柱が立てられている。国道と称しているが国道140号は補助国道であり、全区間県管理である[4]。 上武鉄道の煉瓦造りの護岸擁壁。この護岸擁壁の脇に橋が架けられた。 寄居から先、葉暮橋が架けられた場所は崖崩れの多発地帯で、かつては破崩(はぐれ)や端崩とも呼ばれた[5]熊谷・秩父間における交通の最大の難所であった[6][7]。 山が渓谷に迫る狭隘かつ急峻な地形で、徒歩は最短距離である左岸側の川縁の道を通り、荷物は馬は通行不能なため、竿舟を用いて舟運で運搬するか、現在の八高線荒川橋梁のやや下流側の地点にある「子持瀬の渡し」[8]で荒川の対岸に渡り、奥武蔵北部の釜伏峠や粥新田峠(かゆにたとうげ)の峠道を迂回して曽根坂峠から大野原へ至っていた[9][7][10]。秩父は馬の利用が多いため、峠道を利用する場合が多く、沿道には馬頭観音が多数存在する[9]。 秩父鉄道の前身である上武鉄道が、現在の場所に山側の地山を掘削して谷側である荒川の川岸に浸食作用による崩落防止を兼ねた高さ30メートルの煉瓦積の擁壁[6][7]を築いて線路敷設の用地を生み出し、その天羽に線路を通すなど、難工事の末1911年(明治44年)に開通している[11]。この付近の秩父往還の痕跡である古道はこの工事による他、現在の国道140号の建設により消失している[12]。 道路の方は地理的な制約から周囲に道路を通す用地が無いため、秩父鉄道の煉瓦造りの護岸側壁のすぐ脇に橋脚を立てて荒川に乗り出すような形の桟道橋を架けることとなった。急傾斜地の工事で作業スペースが充分でなかったが、1953年(昭和28年)3月に橋は開通した[6][1]。橋長104.9メートル、幅員5.5メートルで歩道は設置されていなかった。橋名は破崩から取り、葉暮橋と名付けられた[13]。 施工は上部工を桜田機械工業(サクラダ)、下部工を斉藤組[1][14]が担当した。 橋の開通間もない1953年(昭和28年)5月18日に「二級国道甲府熊谷線」となり、国道の橋に昇格、1965年(昭和40年)に道路法改正に伴い、現在の一般国道140号として指定施行されている。1972年(昭和47年)に橋の谷側に隣接して幅員2メートルの歩道専用の側道橋が完成した[6]。側道橋はより谷側に架けられているため、熊谷側に1径間分長くなっている。この側道橋の完成により、交通の隘路はやや改善が図られている。 1974年(昭和49年)頃、橋の拡幅工事や下部工補強工事が行われた[1]。これにより幅員は現在の6.5メートルに拡げられた。2013年度に秩父県土整備事務所により橋の伸縮継手を、耐久性のある荷重支持型鋼製伸縮装置の物に交換された[3]。また、2013年9月から2014年3月にかけて橋脚2基の耐震補強が実施された[15]。 葉暮橋より望む玉淀湖 付近の山腹には破崩関の跡があるほか、線路の周辺には江戸時代の秩父往還の痕跡が残されている[6]。 橋の谷側の荒川は1964年(昭和39年)6月に竣工した玉淀ダムによって堰き止められ玉淀湖となっている。玉淀湖の水質は透明度が高く、秋は紅葉の穴場である[16]。玉淀湖ができる前の荒川は奥玉淀とも呼ばれ、長瀞渓谷の様な渓谷美の自然景観を造り出していて玉淀ライン下りでにぎわっていた。 国道140号の葉暮橋から波久礼駅前にかけての約600メートルに亘り、歩道が設置されていないことから、地元自治体より歩道を設置する要望が出されている。現道の拡幅事業の一環として整備する予定である[17]。 波久礼駅

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レイ・ハラカミ – Wikipedia

レイ・ハラカミ(本名:原神 玲(はらかみ れい)、1970年12月10日 – 2011年7月27日)は、日本のミュージシャン。広島市出身[1]。京都芸術短期大学卒業。 楽曲はテクノ、エレクトロニカが大半である。 若干高音の抜けが悪い、透明感、浮遊感、不規則性を持つサウンドと、叙情的なメロディが特徴である。作品制作には、ほとんどのパートで1996年に発売された旧式のMIDI音源である、ローランドのSC-88Proしか用いておらず、そのSC-88Proのサンプリング音を逆再生する手法で独特の音を奏でている。SC-88Proに搭載されている、32kHzサンプリングのPCM音源が音のこもりを生んでいるようである。 細野晴臣とのラジオ対談でOpcodeのEZ Visionをシーケンサーとして使用していると発言をしている(『Daisy Holiday』(2005年6月5日、InterFM)。 既にサポート終了していたことから、Mac OS 9 上で稼働させていた。 1996年、サブライムレコーズからリリースされたKEN ISHIIの変名プロジェクトFlareのリミックスでデビュー。以降、日本科学未来館プラネタリウムでの上映番組中の楽曲(「暗やみの色」として発表)やCM音楽、くらもちふさこ原作の少女漫画「天然コケッコー」映画版のサントラや、UAやくるり、GREAT3、イルリメなどのプロデュースやリミックスなど数多く手掛けた。 矢野顕子からその音楽の特異性を認められ、矢野独断による「世界遺産」の認定を受けている(ユネスコの世界遺産とは全く無関係)。2007年には矢野顕子とレイ・ハラカミによるユニット、yanokamiとしてもデビューした。 2011年7月27日19時頃、脳出血のため急死[2]。40歳没[3][4]。 ディスコグラフィー[編集] yanokami名義[編集]

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ポリモーフィズム – Wikipedia

ポリモーフィズム(英: polymorphism)とは、それぞれ異なる型に一元アクセスできる共通接点の提供[1]、またはそれぞれ異なる型の多重定義を一括表現できる共通記号の提供[2]を目的にした、型理論またはプログラミング言語理論(英語版)の概念および実装である。この用語は、有機組織および生物の種は様々な形態と段階を持つという生物学からの借用語である[3]。多態性、多相性と邦訳されることが多い。 ポリモーフィズムは、通常以下の三種に分けられる。 アドホック多相(ad hoc polymorphism)- 恣意的な型の集合に一つの共通接点を提供する。関数オーバーロード、Mix-inの一実装、型クラスなど。 パラメトリック多相(parametric polymorphism)- 詳細化されていない型要素を内包する抽象的な型に記号表現を提供する。ジェネリクスや関数型言語の型構築子など。 サブタイピング(subtyping)- サブタイプ多相(subtype polymorphism)やインクルージョン多相(inclusion polymorphism)とも。上位型をその下位型の数々で代替できるようにする[4]。オブジェクト指向の多態性はこれを指す。 この他に、ロー多相(英語版)(row polymorphism)とポリタイピズム(polytypism)[5]も挙げられることがある。対義語はモノモーフィズム(Monomorphism)である。 ポリモーフィックな型システムの研究は1960年代から始められている。クリストファー・ストレイチーの1967年論文Fundamental Concepts in Programming

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閃乱カグラ ESTIVAL VERSUS -少女達の選択- – Wikipedia

『閃乱カグラ ESTIVAL VERSUS -少女達の選択-』(せんらんカグラ エスティバル・バーサス -しょうじょたちのせんたく-)は、2015年3月26日にマーベラスから発売されたPlayStation Vita及びPlayStation 4用ゲームソフト。略称は「EV」。『閃乱カグラ』ゲームシリーズ6作目にして、『閃乱カグラ SHINOVI VERSUS -少女達の証明-』の正統続編。本作は『SV』の月閃闘諍録の後日談でありシステムと物語の設定も『SV』に準じる。Microsoft Windows(Steam)用では2017年3月18日に配信開始した。 2016年3月17日には限定特典の「桜水着」を追加した「桜エディション」が発売された[3]。 主なシステムの変更点[編集] メインストーリー「真説少女忍法帖」はチームごとのシナリオがなくなり、忍部屋も全チーム共通のメニューになった。 各キャラクターのアーケード任務「百華繚乱記」は条件を満たさないと選択できない。 絶・秘伝忍法の使用条件は「巻物が5本以上」(体力を減らす必要ない)になった。また、レベルさえ上げればストーリーを進めなくても使用できる。 特定キャラクター(雪泉、飛鳥、雅緋、焔、日影)の覚醒形態が絶・秘伝忍法の効果になった。 桜エディション[編集] 2016年3月17日発売の特別版。ゲーム本編の内容は同じだが、「桜水着」のダウンロード用のプロダクトコードが同梱される。パッケージイラストは桜水着を着たキャラクター5人が描かれた絵柄になる。価格も2015年に発売された通常版よりも値下されている。店舗限定特典も用意される。PS4版のみでVita版は発売されない。

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はなしょー – Wikipedia

はなしょーは、日本の女性お笑いコンビ。所属事務所はワタナベエンターテインメント。 メンバー[編集] 杵渕 はな(きねぶち はな、 (1993-05-24) 1993年5月24日(28歳) – ) 本名は杵渕華(きねぶち はな)[1]。 埼玉県大宮市(現・さいたま市)出身[2]。 身長152cm。 特技は剣道(二段)、弓道(初段)。趣味は歌唱。点描画、写経(般若心経)[3]。 中学生時代の部活は剣道部[4]。父はデザイナー[4]。点描画も独学で学んだ[4]。 好きな言葉は「朝鍛夕錬」[2]。 King & Princeの岸優太のファン。ファンクラブにも入っている[5]。 宮藤官九郎と彼の作品を好み、『木更津キャッツアイ』でコメディを学んだという[4]。

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廖仲愷 – Wikipedia

廖 仲愷(りょう ちゅうがい、1877年4月23日 – 1925年8月20日)は清末民初の革命家・政治家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党では容共左派の指導者として知られる。仲愷は字で、名は恩煦。別名に夷白。筆名に屠富、淵実。祖貫は広東省恵州府帰善県。兄は廖鳳書。妻は何香凝。子は廖夢醒、廖承志。 清末の活動[編集] アメリカ合衆国サンフランシスコで、客家の銀行員の家庭に生まれる。1893年(光緒19年)に母を伴って帰国し、1896年(光緒23年)には香港に赴いて英語を習得した。翌1897年(光緒24年)10月に何香凝と結婚している。1902年(光緒28年)に日本へ留学し、早稲田大学経済予科を経て中央大学政治経済科に入学した。 1903年(光緒29年)9月、日本を訪問した孫文(孫中山)に廖仲愷は初対面している。翌年から孫の指示で天津において革命派の地下活動を開始し、1905年(光緒31年)9月1日、何香凝の紹介で中国同盟会に加入した。1909年(宣統元年)夏、中央大学を卒業して帰国し、清朝の法政科挙人となった。これにより、吉林巡撫陳昭常の下で翻訳(通訳)をつとめながら、密かに革命派の活動を続行する。 1911年(宣統3年)10月、武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、廖仲愷は広東に戻って革命派陣営に加わり、広東省軍政府総参議兼理財政となる。まもなく南方政府代表として、袁世凱陣営の北方代表との南北交渉に臨んだ[1]。 民国初期の活動[編集] 1913年(民国2年)3月、宋教仁が暗殺されると、廖仲愷は北京に赴いて反袁世凱活動を展開した。しかし同年の第二革命(二次革命)失敗に伴い、孫文と共に日本へ亡命している。翌年、東京での中華革命党結成に参加し、財政部副部長に任ぜられた。1916年(民国5年)4月、孫文とともに帰国し、反袁活動のための資金収集に奔走している。 1917年(民国6年)、廖仲愷は孫文を支援して護法運動に従事したが、翌年に護法軍政府が7総裁制に改組され、主席総裁岑春煊が実権を奪うと、孫に従って上海に逃れた。1919年(民国8年)8月、孫の指示で胡漢民・朱執信らと共に雑誌『建設』を創刊する。廖はこの雑誌で孫の三民主義を大いに宣伝している。 1921年(民国10年)、孫文が広州に戻って非常大総統となると、廖仲愷は財政部次長兼広東省財政庁長に任命される。翌1922年(民国11年)6月、陳炯明が反孫クーデターを起こした際に、廖は陳の軍により一時拘禁されてしまったが、何香凝らの支援のおかげで危地を脱し、上海で孫に合流した。 同年8月、ソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェが中国を訪問し、孫文と聯ソ・聯共について話し合う。翌月には、廖仲愷が孫文の委任を受けてヨッフェと共に東京を訪問し、引き続きこれらの件について協議した。1923年(民国12年)1月、「孫文・ヨッフェ共同宣言」が公表され、平等にして友好な中ソ関係の樹立について宣布されている。廖はその後もソ連との交渉を担当し、「聯ソ、聯共、扶助農工」の三大政策の確立に尽力した。 同年春に孫文は広西軍・雲南軍の協力を得て陳炯明を撃退し、広州で陸海軍大元帥となった。このとき、廖仲愷は大元帥大本営財政部長兼広東省長に任ぜられている。また、中国共産党との連携を確立するための交渉や制度準備にも取り組んだ。 中国国民党での活動[編集] 1924年(民国13年)1月、中国国民党が結成され、第1次全国大会を開催した。このとき、廖仲愷が主導してきた準備に基づき、第1次国共合作も成立している。廖は引き続き大本営財政部長をつとめた他、党中央執行委員、党常務委員、党政治委員会委員、党工人部長、党農民部長、黄埔軍官学校党代表、軍需総監、大本営秘書長などの要職を兼任している。聯ソ・聯共路線の推進に加え、黄埔軍官学校の教育制度整備、労働団体・農民団体の組織にも尽力した。 1925年(民国14年)3月、孫文が死去すると、廖仲愷は引き続き容共左派の路線をとる。また、陳炯明討伐(東征)や反乱した楊希閔・劉震寰の討伐に際しても、前線に赴いて指揮をとった。しかし次第に、国民党内の主導権をめぐる争いから、反共右派との対立が先鋭化していく。 同年8月20日、廖仲愷は広州での国民党中央常務会議に出席し、党本部の正門を出たところを、突然刺客に襲撃、暗殺された。享年49(満48歳)。この暗殺が国民党右派の差し金によることは確実とされるが、首謀者が誰かについてははっきりとしていない。結局のところ、廖の政敵にして右派実力者である胡漢民が首謀者と疑われ、一時失脚に追い込まれてしまう。それでも、胡が本当に暗殺指示をなしたかどうかは不明である。 家族[編集]

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双十協定 – Wikipedia

双十協定(そうじゅうきょうてい)とは、日中戦争の戦闘終結後、中国国民党と中国共産党とが締結した協定。両党が分裂している局面を終結させ、戦後中国に統一した政権を樹立させることを目的に発表した会談の要旨で、民国34年(1945年)10月10日に調印されたことから双十協定と呼ばれる。正式名称は政府と中共代表の会談紀要(政府與中共代表會談紀要)。 日中戦争終戦後、中国の平和的発展を脅かす外的要因が減少しつつあったことに伴い、抗日という同一目標に向け共同作戦(第二次国共合作)を採用したことで戦争中には表面化していなかった、中国国民党と中国共産党との間の政治矛盾が浮上してきた。日中戦争によって、多大なる犠牲者を出した中華民国であったが、結局は西安事件の際にヨシフ・スターリンや中国共産党主席毛沢東の意図した通りに日本軍との戦いで損耗し切った状態であり、毛沢東主席率いる中共は日本軍と国民党軍の相打ちを実現させた事で戦力の温存を図っていた。東北、華北、中原の各地区では、国共両党の軍隊が都市統治権と戦略物資の接収をめぐって争いが展開され、ソ連は東北地区にあった元日本軍の兵器と戦略物資を獲得しており、これが林彪が率いる東北共軍に流れていた。一方、日本敗戦とともにアメリカは、抗日戦末期に弱体化が著しかった国民党軍に大量の援助を行い、これによって新たに39個師団に武装・訓練をほどこし、アメリカ船をもって在中国日本人の本国送還を急ぎ、空路・海路から約40万の国民党軍兵士とアメリカ海兵隊5万人を華北に派遣・上陸させて北京、天津など重要都市を占領、かつ国民党軍にかわってアメリカ軍みずから華北の炭坑、鉄道などを接収した[1]。こうしたアメリカ軍による北上作戦援助は、公式には日本軍勢力一掃による中国の急速な主権回復のためと理由づけられていたが、アメリカの目的はそれだけではなく、華北の主要都市および輸送・産業上の戦略拠点が中共軍の手に落ちないよう先手を打ち、さらに国民党の東北支配の足場をいちはやく固めることにあった。このように国民政府はアメリカから軍事援助を受け、アメリカ海空軍によって国民革命軍が華北、東北地方に展開され、両党は一部の地区で散発的な衝突を繰り返していた。 アメリカは、戦後の東アジアの政治地図として、日本が再び台頭してくるのを抑えるためにも、内戦と戦争が続いた中国をなんらかの形で大国として安定化させ、それによって東アジアが勢力均衡になることを期待していた。本国政府や中国駐留アメリカ軍の間で、多少の意見の相違はあったものの、「国民党のリーダーシップのもとに中国の統一を図る」、「国民党をできるだけ支援するが、共産党との対立が内戦に発展することは極力回避する」、「アメリカが中国の内戦に地上軍を派遣したりすることはしない」とする点では大筋大体一致していた。中国駐留のアメリカ軍総司令官・アルバート・ウェデマイヤー中将の次の会見談話は、なぜアメリカ軍が中国に駐留し続けるのか、中国の内戦にどういう関与をするのか、という連合国の記者の質問に答えたものであるが、アメリカの大体の姿勢が窺える。「米軍は中国における内戦に捲き込まれないだろう。しかし米陸軍省からの指令で、米国人の生命財産を保護するために軍隊を使用する必要があり、余の麾下司令官にはその旨指令してある。米軍が中国の内戦に参加し、中共軍に対し攻撃を加えているといった向きもあるようだが、これまで米軍がかかる侵略的行為に出たことはないことを断言する。余はこれまで個人的に国共が妥協するよう極力努めてきたし、部下にも中国の政争や陰謀画策に参加しないよう命令していた[2]。」[3]。 民国34年(1945年)8月、蔣介石主席は国民政府の呉鼎昌の提案を受け入れ、毛沢東に対して重慶で国内の和平問題について討議すべく三度にわたって会談を呼びかけた。 この呼びかけに応じた毛沢東と周恩来、王若飛は8月28日、アメリカのパトリック・ハーレー大使と共に延安から重慶を訪れ、中国共産党の代表として中国国民党の代表である蔣介石、王世杰、張治中、邵力子と会談を行った。 協議内容[編集] 重慶会談で祝杯をあげる蔣介石(右)と毛沢東(左) ウィキメディア・コモンズには、双十協定に関連するカテゴリがあります。 ウィキソースに双十協定の原文があります。 会談開催前、両党は協議期間中の停戦を発表していたが、実際には協議における優位性をより確保するために、共産党の軍隊は戦略的要地の奪い合いを繰り返し、協議期間中も戦火がやむことは無かった。 協議を通して共産党は抗日拠点の独立主権を主張し続けたが、海南省、浙江省、河南省一帯に分布する13ヶ所の拠点を国民党に提供することに同意した。また、これらの拠点については、国民政府の接収後に両党のイデオロギーを結合させた「新民主主義」の構想を掲げることで、両党の観念形態の対立を和らげようとした。一方国民党も、民国26年(1937年)の日中戦争勃発前に既に共産党が保有していた延安の革命根拠地の保持を変えなかったが、その他の地区は取り戻すことを主張した。さらに、共産党の軍隊を国民政府の指導下にある国民革命軍に組み入れて統一的に指揮することを要求した。共産党は、国民党だけがコントロールしている政府に軍隊を渡すことを拒絶したが、人員の削減はできるとし、真に民主的な政府を成立させた後に、軍を渡すことを求めた。 43日間にわたる協議を経て、双方は10月10日に「政府と中共代表の会談紀要」に署名した。その日付から「双十協定」と呼ばれている。 主な内容は、 平和的な建国の基本方針を承認し、一切の紛争は対話によって解決することに同意する。 長期に渡って協力し、あくまで内戦を避け、独立し自由で富強な新しい中国を建設し、徹底的な三民主義を実行する。 訓政体制を速やかに終わらせ、憲政を実施する。 速やかに政治協商会議(中国語版)を開き、国民大会やその他の問題の協議を行った後に新憲法を新たに制定する。 中国共産党は蔣介石主席と南京国民政府が中国の合法的な指導者の地位にあることを承認し、南京国民政府は中国共産党が合法的な政党であることを承認する。 政治協商会議での蔣介石 政治協商会議での周恩来

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金輔炅 – Wikipedia

この項目では、1990年生の女性歌手について説明しています。1989年生のサッカー選手については「金甫炅」をご覧ください。 金 輔炅(キム・ボギョン、1990年5月16日 – )は、韓国の女性歌手。忠清南道牙山市出身。ソニー・ミュージックエンタテインメント(韓国)所属[1]。2010年11月16日に「Because Of You」リメークのデジタルシングルアルバムよりデビュー。魅力あるハスキーボイスと歌唱力を持って主にポップロックのジャンルに活躍している[2]。 2010年 Mnetの対国民オーディション番組スーパースターK2に出場[注釈 1]、その時はトップ11に上がることはできなかったが、当時哀切で訴える力ある声でケリー・クラークソンの「Because Of You」を歌っで審査委員たちや視聴者たちに感動をあげるため視聴者たちによってトップ11選抜署名運動まで起きるほどイシューになった[3][4]。その結果ホットイシュー賞を授与してトップ3選抜の時、特別出演で舞台に立つようになった[5][6]。 2010年11月 ケリー・クラークソンの「Because Of You」 リメークをデジタルシングルアルバムで発表[7] 。同年 12月に韓国のMBC テレビドラマ「逆転の女王」OST 参加[8]。2011年1月24日

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爆買い – Wikipedia

爆買い(ばくがい)とは、一度に大量に買うことを表す俗語である[1][2][3]。主に来日した中国人観光客が大量に商品を購買する行為を指し、2014年頃までに定着した[1][4][5]。2015年2月の春節休暇に中国人観光客が日本を訪れ高額商品から日用品まで様々な商品を大量に買い込む様子を「爆買い」と表現して、多くの日本メディアが取り上げた[6]。中国側のメディアによれば春節期間中、日本を訪れた中国人観光客は45万人にのぼり、消費額は66億元(1140億円)を記録し、日本企業にとってビジネスチャンスとなっていた[6][7][8][9]。この用語は2015年ユーキャン新語・流行語大賞の年間大賞に選出された[10]。中国語表記は、繁体字: 爆買; 簡体字: 爆买; 拼音: bào mǎi; ウェード式: pao maiである[11]。 しかし、2016年には観光庁の2016年4-6月期訪日外国人消費動向調査によれば1人当たりの支出で中国人は22.9減の22万円と大幅に減少し、オーストラリア人、ベトナム人などに抜かれて2015年の1位から5位に転落し、沈静化を印象付けた[12]。中国では日本分野が中国版Amazonで一位を維持し続けているなど、爆買いから電子決済の普及で『爆輸入』と『コト消費』が主流のトレンドになったため、日本メーカーは利益を増やし続けている一方で百貨店や免税店は対応に追われている[13][14]。 言葉の歴史[編集] 「爆買い」という言葉は、新聞記事などでは2015年の春節のころより桁違いに使われるようになったが[15]、テレビではそれ以前より使われていた。そもそも中国人が大量に商品を購入する行動は2008年ごろより目立ってきており、2009年には『FNNスーパーニュース』(フジテレビ)9月9日放送「スーパー特報/旋風拡大ニッポン“爆買い”現場中国人団体ツアーを追え」で「爆買い」という言葉が登場した[16]。なお、個人ブログには「爆買い」という言葉がそれ以前からあったことが確認されている[16]。その後、2010年に『NNN Newsリアルタイム』(日本テレビ)1月12日放送で「密着! 中国人観光客現金飛び交う“爆買いツアー”」が、『スーパーJチャンネル』(テレビ朝日)7月5日放送で「中国人が大挙来日! 美術品“爆買い”ツアーで現金飛び交う」が放映され、以後も定期的な報道が見られる[16]。 爆買いの要因[編集] 中国人の爆買いを支えている要因は「日本製品の品質・性能への信頼」も大きいが、「中華人民共和国の税制に起因する内外価格差」や「元高」といった中国側の事情もある。中国の税制では、ある特定の日本製品を中国で買うよりも、日本で買って持ち帰ったほうが大幅に安くなること(例えば化粧品などは半値くらいになる場合がある。)と日本が免税品の対象を拡大したことである。さらには中国人特有の気質として、転売目的や家族、親戚以外の他人へ渡す目的も多いと推測されている[17][18][19]。これらの代理購入・代理購買を中国語では、繁体字: 代購; 簡体字:

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アッカデーミア・デイ・リンチェイ – Wikipedia

Praescriptiones Lynceae Academiae (1624) アカデミア・デイ・リンチェイ(Accademia (Nazionale) dei Lincei: オオヤマネコの学会の意味)は、ローマのコルシーニ宮殿(英語版)にある科学アカデミーである。現在のAccademia Nazionale dei Linceiは、数学者のカステルヌオーヴォ(Guido Castelnuovo)らによって1946年に再建された。伝統のある名称のdei Linceiはオオヤマネコの鋭い視力を科学者の目標にしたものである。和訳の例としては「山猫学会」「山猫アカデミア」など。 17世紀のアカデミア・デイ・リンチェイ[編集] 枢機卿バルトロメオ・チェージを出した、富裕な名門の子息フェデリコ・チェージ(1586年 – 1630年)が設立した。最初のメンバーは、ヨハネス・ファン・ヘーク、フランチェスコ・ステルッティ、アナタシオ・デ・フィリスであった。1610年にジャンバッティスタ・デッラ・ポルタが加わり、1611年にガリレオ・ガリレイが会員となった。1613年、ガリレオの黒点に関する著作の出版を行った。1630年にチェージの死によってパトロンを失ったことで活動は停滞した[1]。ステルッティによって活動は維持されたが、1652年にステルッティが死ぬと活動は消滅に追い込まれた。 その後の山猫学会を名乗った学会[編集] その後にイタリアに作られた学会はこの伝統ある名称をしばしば引き継いだ。例えば、1745年にジョヴァンニ・ビアンキが再興を企てLe

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