Month: July 2022

アバコーン公爵 – Wikipedia

アバコーン公爵(英語: Duke of Abercorn)は、アイルランド貴族の公爵位。 1868年に第2代アバコーン侯爵ジェイムズ・ハミルトンが叙されたのにはじまり、スコットランドの貴族の家系であるハミルトン家によって世襲されている。ハミルトン公爵ダグラス=ハミルトン家の分家に当たる。2019年現在の爵位保持者は第5代アバコーン公爵ジェイムズ・ハミルトンである。 スコットランド女王メアリーの摂政を務めた第2代アラン伯爵ジェイムズ・ハミルトンの三男クロード・ハミルトン(英語版)(1543–1621)は、スコットランド王国の政治家として活躍し、1587年7月にスコットランド貴族「カウンティ・オブ・レンフルーにおけるペイズリー卿(Lord Paisley, in the County of Renfrew)」に叙された[2]。彼の家系が後にアバコーン公爵に叙されることになる。ちなみに彼の兄にあたる初代ハミルトン侯爵ジョン・ハミルトン(英語版)の家系が後にハミルトン公爵家となる。 初代ペイズリー卿の嫡男であるジェイムズ(英語版)(1575–1618)は、父より先に死去したが、1603年4月にスコットランド貴族「カウンティ・オブ・リンリスゴーにおけるアバコーン卿(Lord Abercorn, in the County of Linlithgow)」、1606年7月にスコットランド貴族「マウントカシェルおよびカークパトリック、ハミルトン、ペイズリー卿(Lord Paisley,

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ティナ・ウェイマス – Wikipedia

マルティナ・ミシェル・ウェイマス (Martina Michèle Weymouth [1]、1950年11月22日[1] – )は、アメリカのミュージシャン、シンガー、ソングライター、作家。ニュー・ウェイヴ・グループ、トーキング・ヘッズとトム・トム・クラブのオリジナル・メンバーであり、ベーシスト。夫はトーキング・ヘッズのドラマーでもあるクリス・フランツ[2]。2002年、ウェイマスはトーキング・ヘッズのメンバーとしてロックの殿堂入りを果たした[3]。 ローリング・ストーン誌が選んだ「史上最高のベーシスト50選」で第29位に選ばれている[4]。 生い立ち[編集] 1950年、ローラ・ブシェッジと米海軍副提督であるラルフ・ウェイマスの娘として、カリフォルニア州コロナードで生まれる[1] 。 トム・トム・クラブで共演しているラニ・ウェイマスとローラ・ウェイマス、 サルバドール・ダリ美術館の設計者である建築家のヤン・ウェイマスを含む7人の兄弟がいる。 母方の曽祖父はブルトン人の詩人、アナトール・ル・ブラズ[5][6]。 12歳のとき、ウェイマスはナンシー・タフツが指揮するアマチュア音楽グループであるポトマック・イングリッシュ・ハンドベル・リンガーに参加し、一緒にツアーを行い、 14歳で、独学でギターの練習を始めた[7][8]。高校ではチア・リーディングをしていた[9]。 フランツとは1971年に出会い、その一年後には付き合い始めた。1977年に結婚[10]。 トーキングヘッズ[編集] ロードアイランド・スクール・オブ・デザインの学生時代にクリス・フランツとデヴィッド・バーンに出会った。彼らは後にバンドを結成し、 ベース・プレーヤーを探していた。

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イム – Wikipedia

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2010年12月) イム(imu)は、文化依存症候群のうち、アイヌ社会にのみ見られる精神障害の一つとして名づけられた名称[1]。 特徴・症状[編集] 中年以上の女性に多く見られるものとされる[2][3]。物事に驚いたとき意識を失う、自分の意思とは無関係に、相手の命ずるままの行動をとるか、若しくは言行と全く逆をするといった症状が主である[4]。鵡川村で旧土人学校の教師をしていた武隈徳三郎によれば、「この子は憎い」と言われれば、その子の頭をなでながら「かわいい子」と言い、逆に「かわいい」と言われれば「こいつは憎い」と罵り、最悪の場合は暴力を振るう事もある[5] 。他にも、「トッコニ」(マムシ)という語を耳にしたり、蛇の玩具を見ると、しばらくの間、錯乱状態になって襲いかかってきたり、一目散に逃げ出したりする、他人の言葉や動作をそのまま真似るという反響症状が著明になったり、与えられたままの姿勢をいつまでも保ち続ける強硬症状を顕著に示す場合もある。[要出典] 明治20年代から、アイヌ民族に見られる「イム」「イムバッコ Imu-bakko」が学者たちの関心を引くようになる。1888年(明治21年)の夏に北海道旅行をした小金井良精はその時の日記に「イム」の名と、発作の原因が蛇であると書き残している[6]。関場不二彦はイムを「トッコニバッコ Tokkoni-bakko」と同一視し、さらに「阿波、土佐、長門の犬神、讃岐の猿神、伊予の蛇神や猫神、狐憑き」とも同じようなもので疾病と見なすべきではなく、恐怖心が原因で起こる異常行動であると推測した[7]。イムを神経病学者として最初に採りあげて研究したのは榊保三郎であり、「イムバツコ(アイヌ人における一種の官能神経病)に就て」(明治34年)という論文がある。後年にイムについて詳細な研究を残した北海道帝国大学の内村祐之は、ジャワの民族神経病である「ラタ Latah」との比較を試みている。[8]。 女性特有のヒステリーの一種で、女性は男性に服従していて反抗心を持っている場合が多い事から、これがイムとなって顕れるのでは、と考えられることもある[9]。 ^ 柳宗悦・編集『工藝 百七』日本民芸協会、2002年、139p。 ^ N・G・マンロー『アイヌの信仰とその儀式』国書刊行会、2002年、231p。 ^ 満岡伸一『アイヌの足跡』田邊真正堂、1931年、57p。 ^ 萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典;増補版』三省堂、2002年、37p。 ^ 高畑直彦・七田博文『いむ』中西印刷株式会社、1988年、183p。 ^ 星新一『祖父・小金井良精の記 上』河出文庫、2004年、229-230p。 ^

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ロベール・マレ=ステヴァンス – Wikipedia

ロベール・マレ=ステヴァンス(仏: Robert Mallet-Stevens、1886年3月24日 – 1945年2月8日)は、フランスの建築家。1920年代から1930年代にかけて、主にフランスにおいてモダニズム作家として知られている。パリ生まれ。 建築家としてはル・コルビュジエと同世代で、1929年にはコルビュジエやシャルロット・ペリアン、ピエール・ジャンレ、ジャン・プルーヴェらとともに、現代芸術家協会UAMを設立。会長となる。当時のアール・ヌーヴォーに対する装飾批判に賛意を示し、金属フレームや鉄筋コンクリート造の近代的な建築を手がけているが、実作では伝統的な装飾も一部取り入れながら機能性を重視しているものが多いことから、彼のデザインはモデルヌ、と表された。 父親はモーリス・マレというパリやベルギーで著名なアートコレクターで、ロベールも若い頃から美術に接する生活を送っている。1905年から、エコール・スペシャル・ダルシテクチュール(École Spéciale d’Architecture)に学ぶ。1924年には同校の教授にも就任している。 建築以外にも映画のセットを手がける。1923年、前衛映画『イニューメン、非情の女』、1929年南仏イエールにあるノアイユ子爵夫妻別邸・ヴィラノアイユで撮影された『サイコロ城の秘密(Les Mystères du Château de Dé )』の城の舞台美術を担当。 1925年に開催されたパリ万国博覧会「アールデコ博」では、『コンクリートの木』と名付けられたオブジェを配した小庭園をジョエル・マルテルらと出展。 1926年から、代表作のパリのマレ=ステヴァンス通り(フランス語版)の集合住宅6戸(Hotels particuliers de

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姜河国 – Wikipedia

北朝鮮の政治家 姜河国 강하국 生年月日 (1952-04-25) 1952年4月25日(69歳) 所属政党 朝鮮労働党 最高人民会議代議員 当選回数 1回 在任期間 2014年3月 – 2019年3月 最高指導者 金正恩(2011年 – ) 朝鮮労働党中央委員会委員候補

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九五式陸上攻撃機 – Wikipedia

G2H1 九五式陸上攻撃機 九五式陸上攻撃機(きゅうごしきりくじょうこうげきき)は大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。設計・製造は広海軍工廠。当時の日本海軍が保有する最大の機体だったが性能向上の余地が無く、後続の九六式陸上攻撃機が画期的な性能を発揮する見通しとなったため、少数の生産で終わった。略符号はG2H1。 少し遅れて採用された九六式陸上攻撃機が「中攻」と呼称されたのに対し、本機は「大攻」と呼ばれた。略称は九五式陸攻・九五陸攻。 軍縮条約によって航空母艦の保有量が制限されたということは艦隊決戦に参加出来る航空戦力が制限されるということであり、これを補うために陸上基地より決戦海面へ到達可能な航空戦力(陸上攻撃機)が求められた。天候によって運用の制限を受ける飛行艇の代わりに陸上基地から遠距離哨戒や攻撃が出来る大型機という構想により、1932年(昭和7年)から当時大型機開発の経験があった広海軍工廠で、当初「広廠七試特種攻撃機」(広廠七試特攻)として開発が進行された。試作機は1933年(昭和8年)4月29日に完成し、翌5月の初飛行には、陸上攻撃機の発案者である海軍航空本部長松山茂中将の下で本機の計画に携わった山本五十六海軍航空本部技術部長も立ち会った。 細長い機体に大面積の主翼を有した全金属製の双発機で、全幅約32m、全備重量11t(搭載量2tを含む)という当時の日本海軍においては最大の陸上機となった。エンジンは当時最も強力だった九四式一型発動機の双発とした。本来は双発艦上攻撃機であった九三式陸上攻撃機が1トン魚雷1本懸吊で考えられていたところに対し、大型陸上攻撃機である本機では1トン魚雷2本懸吊が想定されるようになった。 当時の最強力発動機をもってしても11tの巨体に対しては非力で、速度性能、上昇性能等の飛行性能はあまり芳しくないものだった。加えて、細い胴体の剛性不足による尾翼の振動や補助翼の大仰角旋回時のフラッター、エンジンの不調などの改修に手間取り、九五式陸上攻撃機として制式採用されたのは1936年(昭和11年)になってからだった。この頃「八試特殊偵察機」の名で開発が進み九五式よりもやや遅れて採用された九六式陸上攻撃機の開発が進んで優秀な性能を示しており、本機の生産は試作機を含めて8機で打ち切られた。 1937年(昭和12年)の第二次上海事変後に、渡洋爆撃を行った九六式陸上攻撃機に大きな被害が出て緊急の戦力補充が必要であったことや現地の海軍戦闘機隊により制空権が確保されたことにより、九五式陸上攻撃機が実線部隊に配備されることになった。 9月14日に木更津海軍航空隊の三原元一大尉率いる大攻6機が済州島に派遣された。初出撃は9月30日、上海の江湾鎮方面への爆撃であったが悪天候のために爆撃を実施したのは半数であった。続いて10月2日に大攻6機、中攻6機で上海の大場鎮方面の爆撃を行った。その後、10月11日、10月12日、10月15日、10月17日、10月21日と上海付近の陸戦支援のための渡洋爆撃に従事した。中攻より航空性能が劣る大攻であったが、敵戦闘機の居ないこの方面では大搭載量を生かして敵地上軍に対して大きな戦果を上げた。 しかし、10月24日に済州島基地からの出撃直前に1機のブレーキ用空気ポンプ起動装置からの出火が燃料に引火し爆発炎上事故を起こし、一瞬の内に4機を失ってしまった。これにより残った機体のうち1機も大破したため、稼動機が1機だけとなってしまった。残った1機は渡洋爆撃を続け、10月25日には上海北西の王浜基地に進出したが、10月27日の出撃で被弾して使用不能となった。 海軍は大攻2機の補充と済州島での修理を行い、11月2日までに稼動機3機を揃え、上海へ派遣した。木更津空の中攻が北支へ移動したため、上海方面に残った大攻隊は小型機と協力して杭州湾方面の鉄道爆撃等により南京へ向かう陸軍部隊の協力を行った。12月には占領直後で補給が間に合わないまま広徳飛行場を利用する九六式艦上戦闘機のために大攻でガソリンを空輸した。[1] このように航空性能が劣るため制空権のある方面に運用が限定されたが、中攻以上の爆弾搭載量を誇る大攻は少数ながらも限定的な局面に於いて活躍した。 スペック[編集] 三面図 全長:20.15m 全幅:31.68m 全備重量:11,000 kg エンジン:広廠94式1型 液冷W型18気筒

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曽野明 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年5月) この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2020年5月) 曽野 明(その あきら、1914年10月19日 – 1995年9月22日)は、日本の外交官、外交評論家。 兵庫県芦屋市出身。1937年東京帝国大学法学部政治学科中退。同年外務省に入り、調査局第二課長、情報文化局第一課長、ソ連課長、在ドイツ大使館参事官、在シカゴ、在ベルリン総領事を歴任し、1961年情報文化局長、1966年駐ユーゴスラビア大使、1969年駐パキスタン大使を経て、1972年駐西ドイツ大使に就任。1975年退官し、評論家となる[1]。 参考文献[編集] 『現代物故者事典 1994~1996』日外アソシエーツ、1997年。 [脚注の使い方] ^ [1] 表 話 編 歴 在ドイツ日本大使(ドイツ語版) (1972年-1975年)

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サニ・アバチャ – Wikipedia

サニ・アバチャ将軍 (Sani Abacha, 1943年9月20日 – 1998年6月8日) はナイジェリアの軍事指導者/政治家。ナイジェリア暫定統治評議会議長(事実上の第10代大統領、1993年 – 1998年)[1]。 政治姿勢[編集] アバチャはカヌリ人のムスリムの出身で、若い頃はナイジェリアとイギリスの軍事学校を巡った[2]。ナイジェリア軍に仕官すると1983年に准将に昇任した[2]。彼はムハンマド・ブハリ将軍の1983年の権力獲得と1985年の解任の二度の「無血」クーデタに参加した。1985年イブラヒム・ババンギダ将軍が自らナイジェリア連邦共和国大統領及び軍最高司令官に就任すると、アバチャは軍参謀長に任命された。また後1990年に国防相に指名された[3]。 アバチャはババンギダがモシュード・カシマウォ・オラワレ・アビオラの勝利した1993年6月12日の選挙を無効にし大暴動を受けて辞任した後に据えられたアーネスト・ショネカン(英語版)首長の暫定政権から権力を奪った。アバチャ政権は人権侵害で、とりわけイブラヒム・アウタ判事による軍事法廷でオゴニの活動家ケン・サロ=ウィワを絞首刑に処したことで非難された。しかし、これは多国籍石油企業による開発に反対するオゴニの活動家に対する数多くの事件の内のたった一つに過ぎない。アビオラとオルシェグン・オバサンジョは反逆罪で投獄され、ウォーレ・ショインカらも反逆罪で起訴された[2]。アバチャ政権は政権を不人気にした民主化活動家によって内外から強固な反対を受け、さらに政治活動全般を禁止し、特に報道を支配することで応じた。軍の主要な幹部は解雇され、アバチャは彼に忠実な約3,000人の武装した兵に身辺を警護させた[2]。これらは彼の外交政策と矛盾していた。民主主義再建のためのリベリアとシエラレオネへの軍の派遣に、彼は反対せず、むしろ西アフリカ諸国経済共同体を支持した[2]。 アバチャ将軍は1998年6月にアブジャの大統領別邸で心臓麻痺で亡くなったと伝えられている。アバチャの遺体はその日の内に検死なしで葬られ、政敵に毒を盛られた可能性があるとの観測を煽った。54歳だった。アバチャの死後、防衛参謀長のアブドゥルサラミ・アブバカール大将が国家元首の地位を引継いだ。アブバカールはそれまで公職に就いた経験がなく、民政移管を直ちに宣言し、オルシェグン・オバサンジョ大統領の選出に至った[4]。 腐敗[編集] オバサンジョ政権は、死亡したアバチャとその家族の財産をナイジェリア国庫の財源として全て売却しようとした。彼の金権ぶりは、より悪名高いアフリカの統治者(モブツ・セセ・セコなど)さえ凌いだと評される場合もある。 アバチャ後の政権による資料に依れば、30億[2]或は40億米ドルの外貨資産がアバチャと家族、その組織に移された。そのうち、21億ドルについてナイジェリア政府はアバチャ家と返還協定を結んだ。その「代償」としてアバチャ家が残りの金を持つことを許された。この提案は、当時公的資金の窃盗への報いとして大きな抗議を引起こしたが、それはその後の独裁者の息子(モハメド・アバチャ)によって拒絶された。モハメドは問題のすべての資産が合法的に得られたと主張し続けている[5]。ただ2002年にアバチャの家族は中央銀行から取った12億ドルを返すことを受入れた[6]。アバチャは、2004年のトランスパレンシー・インターナショナルによる最近の歴史の世界の汚職指導者の第4位に挙げられた[7]。アバチャは政権に対する米国により考慮された外交的制裁に直面しても、米国の石油会社が共和党の世話を焼き、また黒人議員連盟が民主党の世話を焼き、すべてのアフリカン・アメリカンがアフリカの指導者に二重忠誠を持つとみて、文字通り笑った[8]。 サニ・アバチャと妻マリアムの名は「ナイジェリアの手紙」によく用いられる[9]。彼は手紙詐欺の存在しない「金」の源として「認定」されている[10]。 アバチャ将軍はケン・サロ=ウィワの処刑時の権力者であった。1995年11月10日サロ=ウィワはアバチャにより絞首刑に処された。ナイジェリアは英連邦より直ちに加盟資格停止処分を受けた[4]。 死[編集] アバチャは2人のインド系売春婦と共に過ごしながら死亡した。公式の死亡原因は心臓麻痺とされているが、ナイジェリア人と西側外交官の間では広くバイアグラの過剰摂取によるものと信じられている[11][12]。

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ドデカヘドラン – Wikipedia

ドデカヘドラン(dodecahedrane、化学式: C20H20)は、有機化合物の1つで、1982年にオハイオ州立大学のレオ・パケット(英語版)により、主に「十二面体の対称性を審美的に探求した」結果として初めて合成された[2][3]。 この分子では[4]、各頂点が炭素原子でそれぞれ3つの隣接する炭素原子と結合している。各正五角形の角108°は、理想的なsp3混成軌道の成す角109.5°と近い。各炭素原子は水素原子にも結合している。この分子はフラーレンとおなじIh対称性をもち、そのことは1H-NMRですべての水素原子が3.38 ppmの化学シフトのみを示すことからもわかる。ドデカヘドランはキュバンやテトラヘドラン(英語版)などと同様にプラトン立体炭化水素(英語版)の1つで、自然界には存在しない。 30年余りにわたって、いくつかの研究グループが活発にドデカヘドランの全合成を追求した。1978年に発表されたレビュー論文にはその時点で存在したいくつかの戦略について述べられている[5]。最初の試みは1964年にウッドワードにより、ドデカヘドランに単純に二量体化できると考えられていたトリキナセン合成から始まった。初めてドデカヘドランを合成したのはパケットのグループだが、プリンツバッハ(英語版)のグループによりパゴダンを経由するより汎用的な合成経路(後述)が発見された。イートンやシュレーヤー(英語版)らなどの他のグループも競合していたが、頂点を極めたのはパケットとプリンツバッハのチームであった。 パケット(英語版)のグループは1981年に1,16-ジメチルドデカヘドランの合成に成功し[6]、翌1982年にシクロペンタジエン2分子(10炭素原子)、 アセチレンジカルボン酸ジメチル(4炭素原子)、アリルトリメチルシラン2分子(6炭素原子)を出発物質とする29段階の有機合成により無置換のドデカヘドランを合成した。 合成の第一歩として[7]、シクロペンタジエン2分子1をナトリウム(シクロペンタジエニル錯体を形成する)とヨウ素存在下でカップリングさせ、ジヒドロフルバレン(英語版)2を得る。次にタンデム(英語版)ディールス・アルダー反応によりアセチレンジカルボン酸ジメチル3ペンタジエン・アセチレン・ペンタジエンの順に反応させ、対称な付加体4を得る。この反応時には等量のペンタジエン・ペンタジエン・アセチレンの順に反応した非対称な化合物 (4b) も生じるのでこれを除去する。 ドデカヘドラン合成その1 ドデカヘドラン合成その2 次にヨードラクトン化反応(英語版)により、ヨード基を一時的に導入するとともに二酸ジメチル4をジラクトン5に転換する[8]。その次に、ラクトン環のエステル結合をメタノールにより切断し、ハロヒドリン(英語版)6を得る。アルコール部をジョーンズ酸化によりケトン化し7が得られ、ヨード基を銅亜鉛偶により還元し8を得る。 ドデカヘドラン合成その3 ドデカヘドラン合成その4 最後の6つの炭素を、アリルトリメチルシラン9とn-ブチルリチウムから生じるカルバニオン10をケトン基に求核付加反応させることにより導入する。次に、ビニルシラン(英語版)11を酢酸中の過酢酸とラジカル置換[要リンク修正]させてジラクトン12を得て、五酸化二リンにより分子内フリーデル・クラフツ反応でジケトン13にする。この分子は必要な20の炭素原子を全て持っており、残り5つの炭素-炭素結合の生成に有利な対称性を持っている。 化合物13の二重結合をパラジウム炭素による水素化により還元し14を得、ケト基を水素化ホウ素ナトリウムによりアルコール化して15を得る。このとき生じたヒドロキシ基を、ジラクトン化16したのち、塩化トシルを用いて求核置換反応により塩素に置換して17を得る。最初のC-C結合生成反応はバーチ還元の一種(リチウム、アンモニア)で、生成物は即座にクロロメチルフェニルエーテル(英語版)に捕獲される[3]。化合物17の残りの塩素原子は単純に還元される。このように一時的に置換基を追加することで後のステップでエノール化が起こることを防ぐ。新たに形成されたケト基は、光化学的ノリッシュ反応によるさらなるC-C結合生成反応を受け19となり、生じたヒドロキシ基はTsOHによって脱離しアルケン20を得る。 ドデカヘドラン合成その5 ドデカヘドラン合成その6 二重結合をヒドラジンと水素化ジイソブチルアルミニウムにより還元し21、クロロクロム酸ピリジニウムで酸化してアルデヒド22を得る。2度目のノリッシュ反応によりもう1つのC-C結合を形成し、アルコール23を得たのち、フェノキシ末端を次のような段階を踏んで取り除く。まず、バーチ還元によりジオール24を得たのち、クロロクロム酸ピリジニウムを用いた酸化によりケトアルデヒド25を得る。さらに逆クライゼン縮合によりケトン26を得る。3回目のノリッシュ反応によりアルコール27が得られ、2回目の脱水反応により28、さらに還元して29を得る。この時点で、官能基以外の合成は終了である。残りのC-C結合は、250 °C圧縮水素雰囲気およびパラジウム炭素触媒下脱水素反応で生成し、ドデカヘドラン30を得る。 パゴダンからの合成[編集]

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