Month: August 2022

東萊城の戦い – Wikipedia

東萊城の戦い(とうらいじょうのたたかい、朝鮮読み:トンネ)は、文禄元年(1592年)4月14日から15日に行われた、文禄・慶長の役の初期の戦闘の一つである。 釜山鎮の戦いで釜山と周辺の砦を陥落させた後、日本軍は沿岸部の橋頭堡を確保する必要があったが、釜山の内陸、北方数kmの位置には都護府である東萊城という城塞があった。これは山の地形を利用した山城で、北の漢城へ通じる主要道を押さえる要地にあった。それで日本軍はまずここに向かった。 4月13日の日本軍襲来の報に接して、東萊府使の宋象賢は城邑の軍民を急いで集めると共に、梁山郡守趙英珪らに周辺軍民の集結を命じた[3]。 慶尚左道の指揮官である慶尚左兵使(兵馬節度使)李玨は、北の兵営城(蔚山)から東萊城に入城したが、釜山鎮陥落を知って顔面蒼白となり、逃げだそうとしたので、宋象賢は押し留めた。しかし李玨は「大将は自らの生命を危険にさらす訳にはいかない。府使が城を守れ。私は戦場から離れて指揮を執る」と言って、夜にわずかな手勢を連れて城を抜けだし、10kmほど引き返した蘇山駅で宿営した。 釜山で一晩休息した後、日本軍の一番隊の大部分は、翌14日午前6時頃には釜山を出発して、2時間後には東萊に到着した。間もなく、日本軍は城に接近して、五重に包囲し、近くの広場では城への突撃部隊も待機した。宋象賢は南門楼の上の階に陣取って全軍を指揮し、朝鮮の伝統に則り大太鼓を打ち鳴らして兵士らを鼓舞した。 小西行長は前回のいくさの前と同様、明への通過を許すため降伏するように求め「戦わば即ち戦え、戦わざれば即ち道を假(か)せ」と書いた木札を投じた。朝鮮側は今度は無視せず、宋象賢は木札を投げ返して「死ぬは易く、道を假すは難し」と伝えて、要求を拒絶した。 日本軍は三度包囲攻撃したが、宋象賢は半日の間ずっと都督を続けてよく防いだ。そこで小西行長は4月15日明け方、自ら軍を率いて東萊の攻撃を指揮することにした。このとき、敵将を生け捕りにするよう命令していた。 日本軍は、山の手から侵入を試みた。城壁に取り付いて梯子をかけて登ろうとし、朝鮮軍は弓矢や屋根瓦を投げるなどして応戦した[2]。東萊城にはすでに釜山鎮の戦いにおいて日本軍が火縄銃を使ったという情報が伝わっており、朝鮮軍は長い板の防弾盾を大量に作ったが、日本の火縄銃に対しては役に立たなかった[2]。日本軍は腰につけていた幟を長い棹に結びつけ、片手で高く掲げて朝鮮軍の狙いを狂わせ、城内に侵入することに成功した。 雪崩をうって侵入する日本軍に、代将宋鳳寿、梁山郡守趙英珪、東萊教授盧蓋邦、助防将洪允寛など、朝鮮側諸将は次々に討死した。宋象賢は敗北を覚り、朝服姿になって楼閣に上って端坐して動かなかった。しかし日本兵が生け捕りにしようと囲んだので、尖った靴で蹴って抵抗して刺された。落城の際、宋象賢は扇に「孤城月暈り大鎮救わず 君臣の義重く父子の恩軽し」と辞世の句を書いて、家奴にこれを父に届けるように言い、息絶えた。城内の制圧は2時間ほどで終わった[2]。 朝鮮軍は崩壊して潰走した。東萊の陥落後は再び多くの軍民が殺された。宗氏家臣の柳川調信は、宋象賢と面識があり、その遺骸を見つけて憐れに思い、棺に収めて城外に葬った。小西行長と宗義智は、捕虜となっていた李彦誠(蔚山郡守)に「仮途入明」を求めるという内容の書を持たせて朝鮮国王に届けるように解放したが、李彦誠は書簡を国王に渡すことなく破棄し、咎められるのを恐れて地力で脱出したと主張した。 日本軍は東萊城の武器・兵糧・牛馬などを接収し、兵の休養や負傷者の手当てのために2日間滞在した後、さらに進撃した[2]。釜山鎮に続いて東萊まで陥落したという報を受け、梁山・密陽・清道・大邱などの朝鮮軍は、それぞれの城内にあった物資を持って逃走し、小西隊は無人となったこれらの城塞を難なく占領した[2]。 また、日本軍は東萊を手に入れた事により、橋頭堡の安全が確保すると同時に、北へ向かう道が開かれた。釜山と東萊の城にはすぐさま守備隊が置かれ、釜山港は最も安全な上陸地点として機能し始め、翌月にはここで100,000人の兵員と装備、馬、補給物資などが陸揚げされた。 釜山から逃げ出し、李玨の蘇山駅の陣に合流した朴泓は、東萊陥落の報を聞くとさらに逃走を続け、4月17日に漢城府に達して日本軍襲来を通報した。李玨は後に敵前逃亡を咎められて、朝鮮朝廷により斬首刑にされている。 日本の指揮官は(文官に過ぎない)東萊府使の勇敢さに感心し、彼を丁重に埋葬して、その墓には「忠臣」と書いた木製の碑を立てた。 宋象賢の勇敢な挑戦は、韓国では伝説になり、東萊城のあった丘の下にある忠烈祠に鄭撥、尹興信と共に祀られている。そこには、日本軍の接近する中で平然と椅子に座っている宋象賢の絵が描かれている。 宋象賢の妻は捕虜となって日本に送られたが、豊臣秀吉の面前であまりにもひどく号泣したため、同情した秀吉に朝鮮に送り返されたという[2]。 脚注・出典[編集] ^ ただし水夫などを含む。 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ』第37章

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ルーシ王 – Wikipedia

ユーリーの印章(画像上が表面) ルーシ王(ラテン語: Rex Russiae)とは、1253年に、ガーリチ・ヴォルィーニ公国のクニャージ[注 1]であったダニールに、ローマ教皇インノケンティウス4世が与えた称号である[1]。 ダニールの統治期は、モンゴルのルーシ侵攻の後にルーシに出現したジョチ・ウルスへの対応を迫られる時期にあり、ダニールはハンガリー王国、ポーランド王国、あるいはローマ教皇等のカトリック圏の諸政権との接触をも画策していた。ルーシ王の称号の下賜は、そのようなダニールの外交政策の結果によるものである。 ダニール以降では彼の孫であり、ガーリチ・ヴォルィーニ公国の統治者となったユーリーもまたルーシ王の称号を名乗った。ユーリーの印章の表面には「Rex Russiae(ルーシ王)」、裏面には「Dux Ladimiriae(ウラジーミル公)」を意味する文字が刻まれている[注 2]。その後継者であるユーリーの子のアンドレイ、レフ、さらにその甥であり、マゾフシェ・ピャスト家出身のボレスワフもルーシ王を名乗った[2]。 1349年にポーランド王カジミェシュ3世が、ガーリチ・ヴォルィーニ公国領のうちのガーリチ公国領(ガリツィア)を自領に加えた際に、ルーシ王の称号はカジミェシュ3世のものとなった[3]。カジミェシュはこの「ルーシ王国」用の貨幣を鋳造している[4]。なお、14世紀半ばにおけるルーシ王国という概念はガーリチ(ガリツィア)地方を指すものであり、ヴォルィーニ(ロドメリア)地方はその範疇に含まなかった[5][注 3]。 注釈 出典 ^ 黒川祐次 『物語ウクライナの歴史』 中央公論新社、2002年。p55 ^ Соловьев

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ケルンテン帝国大管区 – Wikipedia

オストマルク帝国大管区群(1941年):帝国大管区、地方および都市部 ケルンテン帝国大管区(独: Reichsgau Kärnten)は、1938年にアンシュルスによりドイツに併合されたオーストリアの領域にナチス・ドイツが置いた7つの帝国大管区の1つである。ケルンテン州および東チロルからなる。1939年に公布されたオストマルク法に基づいて設置され、1945年まで存続した。1939年から1942年まで、オーストリアの領域に置かれた7つの帝国大管区は総称してオストマルク帝国大管区群と呼ばれていたが、1942年にはさらにオーストリアの印象を薄めるべくドナウ=アルプス帝国大管区群に改称された。 歴史と構造[編集] ヒトラーとフランツ・クッチェラ(左) ナチ党は1925年からオーストリアにも勢力を伸ばしたが、1933年にオーストリア国内では非合法化された。この時期の大管区指導者は、1934年まではハンス・フォム・コーテン、1936年まではペーター・ファイストリッツァーであった。 アンシュルスと連動した動きとして、1938年3月11日にはケルンテン州の州都クラーゲンフルトとフィラッハではナチ党によるデモが行われ、ナチ党大管区指導者代理フランツ・クッチェラとウラジミール・フォン・ポロウスキーは州首相アルノルト・ズーハーに対して執務室をポロウスキーに明け渡すよう迫った。翌日には地方行政を含むケルンテン州の全権がナチ党の手に渡り、ナチ党がオーストリアで初めて権力を握った。 1938年5月にはフーベルト・クラウスナーが州首相兼大管区指導者となったが1939年2月12日に急死し、州首相職(Landeshauptmann)はポロウスキーに移った。ポロウスキーは1939年8月から1942年6月まで州知事(Regierungspräsident)、1940年3月から1941年12月まで大管区知事(Gauhauptmann)、1940年4月からケルンテンの国家代理官を務め、強制的同一化による党組織と行政の一体化を取り仕切った。フランツ・クッチェラは党を率いるために暫定的に任命された。1941年11月18日には、ザルツブルク帝国大管区指導者フリードリヒ・ライナーがケルンテン帝国大管区指導者兼国家代理官に任命された。1941年にはカール・パクネクおよびフリードリヒ・ティーメルが一時的に代理を務めた。 1938年10月には東チロルがケルンテン州に編入され、オストマルク法により1939年5月1日をもってケルンテン州に帝国大管区が置かれた。1941年4月17日にユーゴスラビアが降伏(バルカン戦線)すると、ミースタルとオーバークラインはドイツ国に占領され、ケルンテン帝国大管区の管理下に置かれた。 1941年11月11日にはライナーがケルンテン・クライン民政長官地域(ドイツ語版)の大管区指導者兼国家代理官に任命された。ライナーはさらに1942年12月11日には全国防衛委員にも任じられた。1943年9月8日にイタリアが降伏すると、ライナーはアドリア海沿岸作戦地域を引き継いで「最高委員」となり、イタリアのフリウーリ地方行政長官となった。 ナチ党支配下において、ケルンテン帝国大管区はオーストリアの人口の約6%、ナチ党員の15.4%を占めており、13,333人の親衛隊員がいた。 参考文献[編集] Hellwig Valentin: Der Sonderfall. Kärntner Zeitgeschichte 1918–2004.

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宮武俊 – Wikipedia

宮武 俊(みやたけ すぐる、1991年5月24日 – )は、日本のプロレスラー。 2013年 「入門テストなし、即採用となる練習生募集」の発表[1]を見てDDTに入門。シティテレビ中野(現・JCNシティテレビ中野)で放送されていた中継番組を見た事がDDTに興味を持ったきっかけ。 7月、全日本プロレスの2013 サマーアクションシリーズに帯同。 2014年 3月16日、小山大会にて、伊橋剛太の急病による欠場に伴い、急遽平田一喜とのエキシビションマッチが組まれた。宮武はギブアップするが、鶴見亜門GMから健闘を称えられ、3月21日後楽園大会のダークマッチで同期の勝俣瞬馬との練習生エキシビションマッチが行われる事が決定。結果を残した方が先にデビューできるかもしれないとの事。 3月21日、後楽園大会[2]にて、勝俣との練習生エキシビションマッチで引き分けとなり、亜門GMからは勝俣の4月29日後楽園大会でのデビュー戦が発表されるが、宮武のデビュー戦の発表はなし。 7月12日、えすぽわーる伊佐沼大会にて、半年前に足を骨折し入院中にトレーニングをした所、第三、第四腰椎分離骨折し、欠場している事を報告。 7月27日、新木場大会[3]にて、DDTドラマティック総選挙2014に練習生として宮武の初エントリーが発表され、新潟プロレスのスーパー・ササダンゴ・マシンとチーム・モラトリアムズ結成が決まった。 9月28日、後楽園大会[4]にて、鶴見亜門GMから宮武、岩崎孝樹、梅田公太、中津良太、樋口和貞の練習生5人、勝俣瞬馬、ユニオンプロレスの河村知哉、沖縄で修行中の鈴木大の若手選手が主人公となる新プロジェクト『DDT NEW ATTITUDE』(DNA)を起ち上げ、2014年11月28日北沢タウンホールで旗揚げ戦が行われる事が発表された。 10月1日、新宿FACE大会にて、DDTドラマティック総選挙2014の結果発表大会が行われ、個人部門では惜しくも選抜入りを逃すが、ユニット部門では最下位はユニット解散との条件があったが、252票を集め11位中9位となり、チーム・モラトリアムズの解散は免れる(解散は豚ing)。 11月28日、DDT NEW

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おりおん – Wikipedia

この項目では、かつて運航されていたフェリーについて説明しています。ギリシア神話に登場する狩人については「オーリーオーン」を、その他の用法については「オリオン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 おりおん 画像をアップロード 基本情報 船種 フェリー 船籍 日本(1973-1989) パナマ キプロス イタリア(2012-) 所有者 大洋フェリー(1973-1979)関西汽船(1979-1984)名門大洋フェリー(1984-1989)ミノアンラインズ(英語版)Adria Ferries 運用者 大洋フェリー(1973-1977)フジフェリー(1978-1979)関西汽船(1980-1984)名門大洋フェリー(1984-1989)ミノアンラインズ(英語版)Adria Ferriesアルジェリアフェリー(英語版) 建造所 林兼造船下関造船所

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横河建築設計事務所 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “横河建築設計事務所” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年11月) この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2017年11月) 株式会社横河建築設計事務所(よこがわけんちくせっけいじむしょ)は、日本の組織系建築設計事務所。日本を代表する建築家・横河民輔博士が興した「横河工務所」を前身とする。当事務所が、横河ブリッジや横河電機を擁する横河グループの祖業である。 横河グループの各社社屋などの他、ニチレイや日本通運、日本赤十字社などの建物を多く手がけている。 おもな作品・業績[編集] 国立がんセンター中央病院 新橋六丁目保健福祉施設福祉プラザさくら川 伊東市介護老人保健施設 横河電機本社ビル 横河レンタ・リーステクニカルセンター(旧・横河ヒューレット・パッカード相模原事業所) 横河東亜工業本社屋 横河ブリッジ本社ビル

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バラフナ – Wikipedia

座標: 北緯56度29分 東経43度37分 / 北緯56.483度 東経43.617度 / 56.483; 43.617 バラフナ(ロシア語:Балахна;Balakhna)はロシア連邦ニジニ・ノヴゴロド州の都市。ヴォルガ川右岸(西側)にあり、州都ニジニ・ノヴゴロドの北32kmにある古い街。人口は57,338人(2002年国勢調査)。 バラフナの北西部はプラフディンスクと呼ばれ、バラフナへ合併する前は独自の都市型集落(町)であった。 バラフナは1474年、ソリ=ナ=ゴロドツェ(Соль-на-Городце)という名の町として建設された。その住民はヴォルガ川の20kmほど上流のゴロジェッツから移ってきたとされる。カザン・ハン国の軍により1536年に破壊された後、タタール人の再侵入に備えて集落を守る木造の要塞が建設された。その後3世紀にわたり、バラフナは製塩業と穀物取引で栄える。 ヴォルガ川対岸からバラフナの聖堂の尖塔を望む バラフナとプラフディンスクの間にある工場 17世紀初頭の動乱時代においては、バラフナはロシアで12位の大きさの町だったが、バラフナの貴族は偽ドミトリー2世を支持してニジニ・ノヴゴロドと対立したほか、1610年にはコサック軍に襲われ破壊されている。ニジニ・ノヴゴロドで国民軍を結成しモスクワからポーランド軍を追い出したクジマ・ミーニンはこの町で生まれた。 1636年にはホルシュタイン=ゴットルプ公国のフレデリク3世によりモスクワ大公国を経てペルシアへ使節として派遣されたアダム・オレアリウス(Adam Olearius, Adam Ölschläger)がバラフナに立ち寄り記録に残している。この年、ホルシュタインから派遣されたドイツ人船大工がバラフナで船を作り、以後ロシアの内陸河川における造船業の第一級の拠点としてバラフナはその名を地位を確立する。バラフナの人々は編み物の技術や彩色タイル作りの技術でも有名で、彩色タイルは地元を始め各地の聖堂の屋根の装飾に使われた。ソ連時代の1920年代には大規模な製紙工場も成立している。 市内最古(同時にこの地方でも最古)の建物は、1552年に完成した尖塔屋根の聖堂、聖ニコライ聖堂である。レンガ造りの尖塔式聖堂の中でも、この聖堂は木造の尖塔建設に近い方法・構造で建てられている。救世主降誕聖堂(1675年)は修道院の聖堂の古典的な様式の代表的なものである。近くにはバラフナで生まれたクジマ・ミーニンの像が建っている。

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インポッシブル (お笑い) – Wikipedia

インポッシブルは、吉本興業東京本社(東京吉本)に所属する、えいじとひるちゃんからなる日本のお笑いコンビ。ともにNSC東京校10期生。2005年4月結成。 プロフィール[編集] えいじ(本名・旧芸名:井元 英志〈いのもと えいじ〉1984年2月17日 -)(38歳) スピード&ツッコミ・ネタ作り担当、立ち位置は向かって左。 福岡県筑紫野市出身。 血液型O型。身長172cm、体重65kg。 色白で極度の赤面症。ダミ声。 趣味は野球観戦(福岡ソフトバンクホークスファン)、テレビゲーム、映画鑑賞。 特技は100m走、座禅を組んだままジャンプしお尻で缶を潰す。 「必殺技出ちゃった」シリーズでは主に被弾している。 ひるちゃん(本名・旧芸名:蛭川 慎太郎〈ひるかわ しんたろう〉1986年4月1日 -)(36歳) パワー&ボケ担当、立ち位置は向かって右。 神奈川県小田原市出身。神奈川県立百合丘高等学校卒業。 血液型O型。身長170cm、体重75kg。

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徐匯区 – Wikipedia

徐匯区(じょかいく、じょわいく[1]、簡体字中国語: 徐汇区、拼音: Xúhuì Qū、英語: Xuhui District)は、中華人民共和国上海市に位置する市轄区。区人民政府の所在地は徐家匯街道。 徐匯区は上海市中心区の西南部に位置する。区人民政府の所在地は徐家匯街道。 徐匯区の名称は明末の農学者・政治家である徐光啓が居住していたことより命名された。 唐代には華亭県高昌郷に、元代以降は上海県高昌郷に属した。1910年(宣統2年)、徐匯地区は上海県上海城、法華郷、漕河涇郷に区分された。1914年のフランス租界拡大に伴い現在の肇嘉浜路以北及び華山路以東が租界地に編入された。 1927年(民国16年、国民政府が上海特別市を設置した際、租界を除く地区は滬南区、漕涇区、法華区の管轄となった。日中戦争中は南市区、滬西区及び上海特別市第四、七、八区に改編された。 1945年(民国34年)には前身となる徐家匯区が設置が設置された。国共内戦中の1947年(民国36年)、中国共産党により徐匯区と改称された。1958年に西郊区の一部、1984年9月に上海県竜華鎮及び漕河涇鎮、1992年7月に上海県竜華郷を合併し現在に至る。 行政区画[編集] 徐匯区は下部に12街道と1鎮を管轄する。[2] 街道弁事処・鎮 社区 天平路街道 上海新村社区、徳昌社区、康平社区、広元社区、安亭社区、呉興社区、天平社区、宛平社区、高安社区、建新社区、永太社区、永嘉新村社区、桃源村社区、息村社区、肇嘉浜社区、慎成社区、嘉善社区、建岳社区、永康社区、太原社区、陝西社区 湖南路街道 淮中社区、安福社区、興武社区、金波社区、武康社区、春華社区、華康社区、復永社区、新楽社区、張家弄社区、復襄社区、復中社区、東湖社区、陝新社区、淮海社区、延慶社区 斜土路街道

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