Month: March 2020

本圀寺の変 – Wikipedia

本圀寺の変(ほんこくじのへん)は、永禄12年1月5日(1569年1月31日)に三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)らが下京郊外の六条本国寺(本國寺、江戸時代以降は本圀寺)に籠る室町幕府15代将軍足利義昭を襲撃した事件とそれに続く合戦である。本国寺合戦、六条合戦とも呼ばれる[1]。 永禄8年(1566年)5月の永禄の変で13代将軍足利義輝を討った三好三人衆であったが、その後三好家中の主導権を松永久秀と争い畿内において抗争を繰り広げ、権力を掌握するに至らなかった。三人衆は次の将軍として足利義栄を擁立した。対立する候補として義輝弟の足利義昭がいたが、三好三人衆の妨害により義昭は京に入ることができないままであった。永禄11年(1568年)2月、足利義栄が将軍に就任した。 この間に義昭は諸国の大名の助力を要請し、障壁となる紛争は積極的に和睦の仲介を行った。一方、幕府実務閣僚である奉行衆8名の内、6人までもが義昭に同行していたため、また、義栄自身が病(腫物)を患っており、京都に入れないままであったため、三好三人衆と義栄の幕府は将軍としての政務に支障をきたしていた。永禄9年(1566年)8月、尾張の織田信長が義昭を奉じて上洛を行うが、その途上で義昭上洛のための和睦中であったはずの美濃の斎藤龍興の襲撃に遭い、頓挫した。三好三人衆側の調略があったと推測される。義昭は若狭武田氏や越前の朝倉氏を頼り上洛を試みるがいずれも不調に終わる。一方、織田氏は翌年に美濃国を攻略し、永禄11年(1568年)秋に義昭を奉じて再度上洛の軍を興した。三人衆や三好康長・篠原長房らはこれを阻むことができず、さらに義昭・信長が9月30日に三好氏の拠点である摂津芥川山城に入城すると、相前後して四国阿波に撤退した。 義昭は芥川に滞在する間、降伏した池田勝正・伊丹親興らに摂津の、三好義継・畠山高政に河内の支配を認め、義昭を支持して三人衆に抗戦し続けた松永久秀には大和一国を「切り取り次第」とした。 摂津の陣を払った義昭軍は10月14日に六条本国寺に、信長軍は洛東の清水寺に入った。当時の本国寺は下京惣構西南隅の外側に位置し、東西2町南北6町の広大な寺域を有しており、天文法華の乱を経験して復興され、堀や土手を巡らせた要害と化していた。さらに信長も、義昭が着陣する前に土手の築造を家臣に指示している。本国寺は京の町衆の信仰を集める日蓮宗六条門流本山であり、最盛期には百以上の塔頭が建ち並び、数千の信者が住む寺内町が形成されていたという。また同寺は三好氏の保護を受けてきたが、檀那である松永久秀は義昭を奉じており、その点でも義昭の兵が駐屯するには格好の場所であった。 10月16日、義昭は将軍宣下を受けるためにわずかな供を連れて上京の細川京兆邸に移り、信長も細川被官宅に入った。三人衆が推戴した14代将軍義栄(義昭の従弟)はすでに9月30日に廃されており、さらに日時は諸説あるが9月から10月の間に義栄は死去していた。 こうして就任の障壁が無くなった義昭が、18日に新たな征夷大将軍に任じられ、22日に参内を果たした。そして畿内の一応の静謐と義昭の将軍就任を見届けた信長は26日に岐阜への帰国の途につき、義昭は29日に御座所を下京の本能寺に移した[2]。 合戦の経過[編集] 12月24日、松永久秀も織田信長への礼のため岐阜に下った。すると三好三人衆がこの隙を突いて動き出した。12月28日、美濃の旧国主斎藤龍興らを先鋒として、将軍方の三好義継家臣が守る堺南方の和泉家原城を攻め落とすと、三人衆は永禄12年(1569年)1月2日に堺を立って京へ向かい、4日に東福寺近辺に陣を置くと、まず京の将軍の詰城である勝軍地蔵山城をはじめとして、洛東や洛中周辺諸所に放火して将軍の退路を断った。 これに対し、義昭は本国寺に籠城する構えを取った。翌日、三人衆は1万余の軍勢(5千とも8千ともいう)で攻め寄せ昼頃に合戦となったが、将軍直臣に信長家臣・若狭武田氏家臣を合わせた幕府軍2千が必死に防戦に当たり、若狭衆の山県盛信・宇野弥七らの奮戦により、三好勢の先陣薬師寺貞春勢が寺内への進入を幾度も阻まれるなどしているうち日没に至ったため、三人衆側は兵を収めた[3]。将軍側は足軽衆など20人余りが討死したが、寄せ手の死者・負傷者も多数に上ったと伝わる。後年本能寺の変を引き起こす明智光秀が将軍側の一員として戦っており、この頃から歴史の表舞台に登場する。 この間に細川藤孝、北河内の三好義継、摂津の池田衆・伊丹衆などが将軍の救援として攻め上り、6日に七条の三好勢を三方から攻撃した。本国寺の籠城軍もこれに呼応して打って出た。不利を悟った三好勢は退却するものの将軍方に追いつかれ、桂川河畔で合戦に及んで敗北し、客将となっていた小笠原信定など多数が討死した。戦死者の数は、『信長公記』は首注文のある分として6名と「歴々の討取り」を記すだけだが、『細川両家記』では双方で8百余、『言継卿記』によれば千余、『足利季世記』によれば2千7百余、『永禄記』によれば数千という。 1月6日、信長は岐阜で急報を受けた。折から大雪であったが、信長と松永久秀はただちに出立し、京に急行した。 1月10日に10騎足らずの供を連れて本国寺に到着したが、すでに三人衆は撤退していた。非常な寒さと急な出立により、配下の陣夫などに凍死者が数人出たという。 信長は本国寺の堅固な様子には満足しつつも、今後は「御構へ」すなわち防御力のある城郭としての機能を備えた将軍御所がなくてはならないと考え、上京と下京の中間にあった義輝の二条御所跡を拡張して新城とすることにした。東西3町南北3町規模の「武家御城」(二条城)の造営は信長自らが総指揮を行い、大工奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられた。この新城は石垣を多用し、二重の堀と複数の出丸を備え、内郭には三重の天守、外郭には奉公衆ら家臣の屋敷を配した近世的城郭であったと考えられている。わずか70日ほどで造営されたため、新城の建物は本国寺の建築物を解体・移築したものが多く、さらに屏風や絵画などの什器までも同寺から運び込まれた。建築物などを奪われることについて、僧侶らは松永久秀に信長への移築中止の取り成しを頼んだが無理だと断られた。また1500人の法華信徒らが莫大な品を信長に献上し、さらに望み通りの金銭の提供と引き換えに免除を請い、将軍や朝廷にも働きかけたが、信長は取り合わなかったという[4]。城は4月に完成し、将軍義昭が移座した。なお元亀3年(1572年)3月、義昭の強い勧めがあり信長は城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。 ^ 『足利季世記』は本国寺合戦といい、『信長公記』は六条合戦を用いている。 ^ ルイス・フロイスの『日本史』によれば、永禄の変で自害した義昭の母(慶寿院)の住居を本国寺が松永久秀の許可を得て寺内に移築していたため、義昭とその家臣は上洛すると直ちにここに住むと決め、翌年の三好三人衆の襲撃まで住み続けていたという。しかし『言継卿記』によれば、義昭は10月14日から16日まで本国寺にいた後細川邸に入り、10月末に本能寺に移った。12月14日には山科言継が本能寺の義昭のもとに参じた。12月21日に幕府奉行人は本能寺に対し「当寺は軍勢の寄宿について度々禁制を得ているが、今度御座所を移されたからには、今後はいよいよもって禁止する」旨の文書を出している。『永禄記』は、義昭が三人衆の襲撃前に本能寺では兵が入りきれないとして本国寺に移ったとしている。義昭自身が本能寺にいて不在の間は、そこに入れない在京幕府軍が本国寺に駐屯していたと思われる。義昭が本能寺を居所とした理由は、執務・対面の都合や、武装を解き少数の供のみで洛中に起居して「天下静謐」の実現を示そうとしたことなどが考えられる。 ^ 『足利季世記』によれば、京中の法華宗僧侶らが「このまま攻め続けられては三好氏が代々崇敬してきた本圀寺の滅亡であり、将軍には他所に移ってもらうのでそこを攻めればよい」と諭したため、三人衆は金光寺(七条道場)に退いた。この説得は、翌日将軍側の後詰の勢が攻め上ってくるという注進を受けた上での策謀であったと伝わる。

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日本医療教授システム学会 – Wikipedia

日本医療教授システム学会(にほんいりょうきょうじゅシステムがっかい、英文名 Japan Society for Instructional System in Healthcare : 略称JSISH)は、標準的な医療を安全・確実に提供できる医療職の育成に資するための学術的活動を行う団体である。 事務局を東京都文京区大塚5-3-13 ユニゾ小石川アーバンビル4F 学会支援機構内に置いている。 理念と特徴[編集] 医療サービスをそれぞれの現場で実践するのは、様々な職種からなる医療職のチームである。患者さんのニーズに合致し、限りある医療資源を最適化した医療を提供するためには、これらの人材・チームを育成するシステム(医療教授システム)が必要になる。医療教授システムは、現場の状況における人・チームのパフォーマンスの仕組みとその学習プロセスを理解する学問分野(医療のみではなく、心理学、社会学、教育学なども含む)を基盤とします。そして、現場のニーズに基づいた人材・チーム育成システムの構築、システムの実践と評価、そして評価結果に基づくシステムの継続的改善というサイクルを繰り返す。医療教授システムは、患者のニーズ、医療資源、最新の技術を最適化した人材育成システムを開発・普及することで社会に貢献する。 学術集会の開催、機関誌・論文・図書・研究資料の刊行、日本国内外の関係団体との協力活動など。 学術集会は、学会形式で年一回となっている。 回数 開催年月 学術集会会長 会長所属(開催当時)

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オークラ – Wikipedia

この項目では、放送作家について説明しています。 この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “オークラ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年2月) オークラ(1973年12月10日 – )は、日本の放送作家。本名は河野 良(かわの りょう)。群馬県富岡市出身。日本大学理工学部土木工学科中退。既婚。 群馬県の建設業を営む裕福な家庭に長男として生まれる。家はとても大きく、大らかな両親、1人の姉と2人の妹がいる。姉妹はとても美人であり、スリムでモデル体型である。幼少期はずっと太っており、バスケ部に所属するも、万年補欠であった。少し変わった少年であり、両親に「誕生日に何が欲しいか?」と聞かれ、散々考えた挙句、お金持ちの子供なら「ゲームが欲しい」や高価な物を欲しがるところを、オークラは「忍者の頭巾が欲しい」と答え、母親お手製の忍者頭巾を被り、1人で忍者ごっこをした。また、「家の色んなところで寝たい」と親に話し、「月に一度なら良い」と許可を得て、その日を楽しみにしていた。子供の頃には家族旅行で毎年海外に行っていた。中学に上がる前にすでに80kgある巨漢であったが、「このままではいけない」と決意した日から「お弁当は人参一本」という極端すぎるダイエットの結果、半分ほどに体重を落としてお笑い芸人となる。 1997年にプロダクション人力舎入り。アンジャッシュやアンタッチャブルがライブシーンで人気を得始めている時期だった[1]。「細雪(ささめゆき)」(谷崎潤一郎の『細雪』に由来)というコンビで活動していたが、相方の突然の失踪にてコンビ解消。当時の芸名はオークラ劇場であり、現在の芸名はそこから取っている。ラーメンズ、アルファルファと組んでいたコントグループ「チョコレイトハンター」にも在籍していた。芸人時代はトーイボックスに所属[注 1]。 コンビ解散後はあてのない毎日を送っていたが、バナナマンの設楽統に「やることないなら俺たちの手伝いすれば?」と言われたことがキッカケで放送作家に転向する。 2013年4月29日、一般女性と結婚[2]。

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河童橋 – Wikipedia

この項目では、長野県の上高地にかかる橋について説明しています。東京都台東区松が谷及び西浅草地区にある調理器具などを扱う問屋街については「合羽橋」をご覧ください。 上流側から撮影。背景は焼岳 下流側から撮影。背景は明神岳 河童橋(かっぱばし)は、長野県松本市安曇上高地の梓川に架かる木製の吊橋。 古くはこの場所は河童淵と呼ばれていたという[1]。 1891年(明治24年)に初めて橋が架けられた。全長37m、幅3.1m、長さ36.6mのカラマツ製の橋。中部山岳国立公園内の標高約1,500mに位置する。この橋から穂高岳、焼岳などの山々を望むことができる。上高地を象徴するのシンボルの一つである。毎年4月27日にアルペンホルンの演奏と共に橋の袂で『上高地開山祭』が開催されている[2]。11月15日には、『上高地閉山祭』が開催されている。ケショウヤナギの巨木が周辺の河畔に群生している。 橋は過去に4回架け替えられており、それぞれ1代目、2代目、3代目、4代目、5代目(現在)とある。 河童橋という名前の由来には諸説あり、 昔ここに、河童が住みそうな深い淵があったため。 まだ橋のなかった時代、衣類を頭に乗せて川を渡った人々が河童に似ていたから。 などがある。 1927年、芥川龍之介が小説『河童』の中で河童橋を登場させたことでより知られるようになった[1]。 1891年(明治24年) – 設置(初代)[3]。 1910年(明治43年) – 丸太の跳ね橋を吊り橋に変更[4]。 1930年(昭和5年) –

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住友ナコ フォークリフト – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “住友ナコ フォークリフト” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年1月) 住友ナコ フォークリフト株式会社(すみともナコ フォークリフト、英: SUMITOMO NACCO FORKLIFT CO., Ltd. )は住友重機械工業とアメリカのフォークリフト大手、ハイスター・エール・グループとの合弁会社で愛知県大府市に本社を置くフォークリフトメーカー。 1969年(昭和44年)4月、住友重機械工業とイートン社(1984年エール社、1994年ナコ社となり、2012年にハイスター・エール・グループとなる)がフォークリフトについての技術提携を行い、1970年(昭和45年)7月に住友重機械工業株式会社フォークリフト事業部が発足。同年10月には住友エールフォークリフトを販売した。1972年(昭和47年)前身となる住友エール株式会社が設立され、1999年(平成11年)に住友ナコ

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シュガーポット – Wikipedia

『シュガーポット』は、高須賀由枝による日本の漫画作品。 集英社の『りぼん』2003年秋のびっくり大増刊号に読み切り掲載後、『りぼんオリジナル』2004年2月号から2006年4月号まで連載された。 2005年12月号からは、タイトルを『シュガーポット-CAFE FLAT-』として新たにスタートしたが、掲載誌が廃刊となったため、終了した。 あらすじ[編集] 両親が経営するカフェを時々手伝っている高校生の沙保は、常連客の各務に片思い中。ただ見つめるだけの日々だったが、カフェでアルバイトをしている女子大生たちにアドバイスを受け、思い切ってアプローチをすることに……。 登場人物[編集] 平野 沙保(ひらの さほ) 高校1年生。 中学時代は陸上部に所属しており、県の短距離記録保持者でもある。3年生の頃、交通事故に遭い、高校への陸上推薦を取り消され落ち込んでいた時、両親がカフェを始める。その時、各務に一目惚れし生活が一変、各務には恋心とともに恩も感じている。左足に事故の傷痕が残っており、普段は傷痕が見えないような服装をしている。 各務 雅輝(かがみ まさき) 大学生。小説家。 高校生の頃書いた小説が賞を取り、デビュー。 麻美(あさみ) バイトの一人。女子大生。バイトの目的はいい男探し(?)。母親はクラブを経営している。 ネイルが取れるのが嫌だから洗い物はしない、タイツが伝線したから買ってきてなどわがまま。

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ビリー・ウィリアムズ (歌手) – Wikipedia

ビリー・ウィリアムズ(Billy Williams, 1910年12月28日 – 1972年10月17日)は、アフリカ系アメリカ人の歌手。それまでファッツ・ウォーラーの歌唱などで知られていた「手紙でも書こう (I’m Gonna Sit Right Down and Write Myself a Letter)」のカバーを、1957年にヒットさせた。その曲のレコードは、百万枚以上売れて、ゴールドディスクを受賞した[1]。 テキサス州ウェーコに生まれたウィリアムズは、1930年からザ・チャリオティアーズ (The Charioteers) のリード・シンガーを務めた後、1950年に自らのグループ、ビリー・ウィリアムズ・カルテット (Billy

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ジャン・エプシュタイン – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 ジャン・エプスタイン ジャン・エプスタン ジャン・エプステイン ジャン・エプシュタインJean Epstein ジャン・エプシュタイン(1920年頃) 生年月日 (1897-03-25) 1897年3月25日 没年月日 (1953-04-03) 1953年4月3日(56歳没) 出生地 ロシア帝国 ワルシャワ 死没地 フランス パリ 国籍

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エボニー・ティアーズ – Wikipedia

エボニー・ティアーズ(Ebony Tears)は、スウェーデン・ストックホルムのメロディックデスメタル / デスラッシュバンドである。初期は、ヴァイオリンを導入したメロディックデスメタルを演奏していたが、徐々にスラッシュ色を強め、デスラッシュへと音楽性を変化させていった。 1992年に、バンドの中心メンバーとなるヨニー・ラニング (Vo)とコニー・ヤンソン (G)がメモリウム (Memorium)というバンドを結成。しかし、1994年にヨニー・ラニングがメモリウムから脱退し、翌1995年にはコニー・ヤンソンもメモリウムを脱退した。 その後、それぞれ別バンドでプレイしていた2人が1996年秋に再会し、エボニー・ティアーズ (Ebony Tears)を結成した。結成後、ビョーン・G (B、Ds)が加入し、同年『Demo ’96』というデモを作成。このデモが切っ掛けとなり、地元スウェーデンのブラック・サン・レコードと契約した。ビョーン・Gは短期間で脱退し、イマン・ゾルハルニアン (Ds)とトマス・ザウン (B)が加入。バンド体制が整う。 1997年に1stアルバムのレコーディングに入り、同年1stアルバム『Tortura Insomniae』をリリースしデビューした。ヴァイオリニストとしてレナート・グレンベリがゲスト参加していた。日本でも、トイズファクトリーより、邦題『眠れぬ夜の物語』として日本盤がリリースされ、日本デビューを果たしている。同アルバムのレコーディング後にベーシストのトマス・ザウンが脱退し、ペーテル・ツシル (B)が加入した。 続いて、イマン・ゾルハルニアンも脱退するが、メンバーの補充はされなかった。残ったメンバーは、当初サイド・プロジェクトとして立ち上げた、ドッグ・フェイスド・ゴッズ (Dog

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