玉波 (駆逐艦) – Wikipedia

玉波(たまなみ)は[注釈 1]、日本海軍の駆逐艦。
夕雲型駆逐艦の9番艦である[3][注釈 2]

一等駆逐艦玉波(たまなみ)は[注釈 1]、日本海軍が藤永田造船所で1942年(昭和17年)3月から1943年(昭和18年)4月30日にかけて建造した夕雲型駆逐艦。竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属して訓練に従事する[6]。6月8日、十一水戦僚艦と共に戦艦陸奥の爆沈に遭遇した。

同年7月1日付で玉波は前進部隊(第二艦隊)に編入される[9]。7月中旬、水上機母艦日進等を護衛してトラック泊地に進出する[10]
空母隼鷹護衛中の10月1日[11][12]、玉波は第二水雷戦隊隷下の第32駆逐隊に編入される[13][注釈 3]
ひきつづき、第二水雷戦隊所属各艦(駆逐艦島風など)と共に輸送船団や航空母艦の護衛に従事した[17]

11月上旬、第二水雷戦隊は遊撃部隊を護衛してラバウルに進出するが、ラバウル空襲に遭遇する。玉波は重巡最上を護衛して後退した[注釈 4]。その後、艦船や船団護衛任務に従事した。

1944年(昭和19年)3月中旬、東松二号船団旗艦の軽巡龍田が沈没[23]、玉波は生存者を収容した[24]
3月下旬から4月中旬にかけて、玉波は東松三号船団(東京湾~サイパン島~パラオ諸島)に従事した。
5月下旬、第32駆逐隊(早波、玉波、藤波、浜波)はタウイタウイ泊地に集結し、第二水雷戦隊各艦と共に訓練に従事する。
6月7日、32駆僚艦早波がアメリカ潜水艦に撃沈された。
3隻編制となった第32駆逐隊は[31]、6月下旬のマリアナ沖海戦に前衛部隊(第三航空戦隊、第二艦隊)に所属して参加した。

同海戦敗北後の7月上旬、第32駆逐隊(玉波、藤波)は軽巡洋艦北上[32] とタンカー旭東丸を護衛してシンガポールからマニラに向かった。だが7月7日未明、玉波はマニラ沖合でアメリカの潜水艦ミンゴ(後日、海上自衛隊の潜水艦くろしお)[35] の魚雷攻撃により、沈没した[37]

建造経緯[編集]

1939年度(④計画)仮称第124号艦として、藤永田造船所で建造。
1942年(昭和17年)11月1日、本艦は『玉波(たまなみ)』と命名される[注釈 1]。同日付で、海防艦対馬等と共に艦艇類別等級表に類別される[注釈 2]

1943年(昭和18年)2月20日、日本海軍は佐間英邇中佐を、玉波艤装員長に任命する[40]。佐間中佐は駆逐艦綾波の艦長として第三次ソロモン海戦で活躍したが、綾波は同海戦で撃沈されていた。

2月26日、藤永田造船所の玉波艤装員事務所は事務を開始する[42]
4月30日、竣工[43]。佐間中佐(玉波艤装員長)は、玉波駆逐艦長(初代)となる[44][注釈 5]。玉波艤装員事務所は撤去された[45]。舞鶴鎮守府籍となる[46]

昭和18年中旬の行動[編集]

玉波は4月30日の竣工と共に[6][47]、訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入された[注釈 6]
瀬戸内海に回航され訓練を受ける[47][50][51]
5月5日、十一水戦司令官は旗艦を龍田から玉波に変更した[52]。同月9日、玉波から秋月型駆逐艦新月にかわった[注釈 7]
5月中旬以降、島風型駆逐艦島風や秋月型駆逐艦若月も十一水戦に編入され[53]、本艦と共に訓練おこなった[51][54]

6月8日、桂島泊地所在の各艦(第十一水雷戦隊、大淀[55]
、最上、長門、扶桑)等は[57]、長門型戦艦陸奥の爆沈に遭遇した。十一水戦は木村少将(龍田座乗)指揮下で救助活動に従事する。

6月22日、十一水戦所属の若月と玉波は大和型戦艦武蔵の護衛艦に指定され、同任務のために横須賀に向かう[59][60]
6月23日朝、横須賀に着いた[57][61]
到着後まもなく、神子元島沖合でアメリカ潜水艦ハーダー (USS Harder, SS-257) [62] の雷撃をうけた特設運送艦相良丸(日本郵船、7,189トン)[63] の救難を下令される[64]。相良丸は駆逐艦澤風に曳航され、翌24日になり天竜川河口に擱座した[65][注釈 8]

6月25日[67]、駆逐艦4隻は戦艦武蔵を護衛して横須賀を出発した[57]。武蔵は豊後水道を通過し[69]、6月27日に呉到着[67]。玉波と若月も内海西部に到着した[70]
同時期、第三次ソロモン海戦で舵の故障により戦艦比叡が自沈したことをふまえ、大型艦を曳航する訓練がおこなわれる。玉波と若月は戦艦長門(舵故障想定)を曳航し、12ノットで曳航することができたという。

7月1日付で玉波は第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将、海軍兵学校42期)に編入され[72]、前進部隊(指揮官近藤信竹海軍中将、第二艦隊司令長官)所属となる[9]
出撃準備中の7月7日、玉波駆逐艦長は佐間中佐から青木久治中佐に交代した[73]。後日、佐間中佐は駆逐艦冬月艦長等を歴任した。

7月中旬、日本海軍は南海第四守備隊を最前線に輸送する。当初、同部隊はマーシャル諸島配備予定だった。だがニュージョージア島の戦い生起によりソロモン諸島に配備先を変更したという経緯があった。
7月9日-10日、玉波は水上機母艦日進[79] を護衛して呉を出撃した[10][80]
第一航空戦隊(第三艦隊司令長官小沢治三郎中将)と合流する。
玉波は小沢中将指揮下の航空母艦や航空巡洋艦最上等と合流し、日本本土を離れる[注釈 9]
7月15日、暗号解読や僚艦からの通報によりアメリカの潜水艦ティノサ (USS Tinosa, SS-283) とポーギー (USS Pogy, SS-266) などがトラック諸島近海で小沢艦隊を待ち伏せていた。ティノサも距離3500mで魚雷4本を発射するが回避され、小沢艦隊に被害はなかった。
同日、トラック諸島に到着する[94][95][注釈 10]
トラック着後の玉波は軽巡洋艦五十鈴(第十四戦隊)の指揮下に入り、五十鈴と玉波は空母瑞鳳より輸送人員や物件を受け入れる。
7月16日午前7時、五十鈴と玉波はトラック泊地を出撃した[100][101]
7月19日、五十鈴と玉波はナウル島に到着、輸送任務を終えた[100]。7月22日朝[100]、トラックに帰る[103]

玉波航海中の7月20日、第二水雷戦隊司令官高間完少将は軽巡長良[105] を二水戦旗艦とした[106][107][注釈 11]
7月23日、玉波と駆潜艇28号はタンカー3隻(富士山丸、日栄丸、東亜丸)を護衛してトラックを出撃、パラオ方面に向かう[111][112]
7月24日、トラック西方においてローレンス・R・ダスピット艦長が指揮するアメリカ潜水艦ティノサ (USS Tinosa, SS-283) が特設給油艦第三図南丸を襲撃する。魚雷15本が第三図南丸に命中したが、起爆したのは2本もしくは3本だけだった。第三図南丸は航行不能になり[119]、玉波は日栄丸船団の護衛をやめて救援に向かう[120]
7月25日から雄島(特設工作艦)、軽巡五十鈴[101]、神風型駆逐艦朝凪等の救援を受ける。玉波は応援艦艇と共に五十鈴(第三図南丸曳航中)の指揮下に入り、同艦を護衛した[121]。第三図南丸はトラック泊地に戻ることができた[注釈 12]

8月初旬、玉波はトラック泊地所在であった[122][123]
3日から5日にかけて、陽炎型駆逐艦磯風(第17駆逐隊)と行動を共にした[122][124]。磯風と玉波はタンカー旭東丸を護衛してトラックを出撃する[122][125]
予定通り途中で護衛をやめ、内地からトラック泊地へ進出中の戦艦武蔵(連合艦隊旗艦)や第五戦隊[127] に合流、側方警戒隊となった[128]
8月5日未明、アメリカ潜水艦スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280) が主力部隊を襲撃、空母雲鷹を狙って魚雷攻撃を行うが、命中しなかった。同日、武蔵以下の主力部隊はトラック泊地に到着した[注釈 13]
磯風と玉波も警戒任務を終えた[136][137][注釈 14]

8月14日、玉波は船団4隻(北安丸、神州丸、天南丸、健洋丸)を護衛してトラック泊地を出撃する[122][140]。19日、パラオに着いた[122][141]
玉波は臨時にニューギニア方面防備部隊に編入されていたため、23日から25日にかけて[142][143]、陸軍輸送船団(護衛艦白鷹)の護衛に従事する[144][145]
同月28日、玉波は「八二八三船団」[147] のタンカー3隻(鶴見、東亜丸、富士山丸)[122] 護衛艦としてパラオを出撃する[148]
9月2日、八二八三船団はトラック泊地に到着した[149][150]

玉波が船団護衛任務に従事中、第二水雷戦隊旗艦は軽巡長良から阿賀型軽巡洋艦能代(昭和18年6月30日竣工)[151] に交代した[152]
9月10日、玉波は東亜丸を護衛してトラック泊地を出撃する[149][153]。分離直後に東亜丸が雷撃されたので、対潜掃蕩をおこなう[149][154]。その後、トラック泊地に戻った[155]

9月18日、第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将、海軍兵学校37期)と第二艦隊(司令長官栗田健男中将、海軍兵学校38期)のマーシャル諸島方面への出撃に際して、第二水雷戦隊も連合機動部隊に組み込まれた[注釈 15]
連合機動部隊は、第三艦隊[注釈 16]と第二艦隊[注釈 17]の主力艦艇によって編成されていた。
玉波は第三艦隊付属のタンカー日栄丸(日東汽船、10,020トン)を護衛してトラックを出撃した[149][162]
連合機動部隊は、ブラウン環礁に移動した[注釈 18]
基地航空隊が出撃したのみで、連合機動部隊が米軍と直接交戦することはなかった[166][167]
玉波は機動部隊前衛に編入される[149][168]
9月23日、連合機動部隊はブラウン環礁を撤収する。トラック泊地に戻った[167][171]

9月29日[173]、内地帰投部隊の空母隼鷹、軽巡木曾[175]、軽巡多摩[176]、玉波はトラックを出発した[177]
豊後水道を通過[178][179]
10月5日[175]、呉に帰着した[180][181][注釈 19]

第32駆逐隊[編集]

本艦が隼鷹護衛中の1943年(昭和18年)10月1日付で、玉波は第32駆逐隊(駆逐隊司令中原義一郎[182] 大佐)に編入される[12][183]
32駆は夕雲型定数4隻(玉波〈藤永田造船所、4月20日竣工〉、涼波〈浦賀船渠、7月27日竣工〉、藤波〈藤永田造船所、7月31日竣工〉、早波〈舞鶴海軍工廠、7月31日竣工〉)となった[13][181]
10月14日[185]、艦隊(隼鷹[173]、雲鷹[131][186]、玉波、曙)は佐伯を出撃する[187]
10月19日、隼鷹隊はトラック泊地に到着した[189]。本艦はトラック泊地で待機する[190]

同年11月上旬、ブーゲンビル島の戦いに伴うろ号作戦の大戦果(誤認)に呼応し、第二艦隊司令長官栗田健男中将が指揮する重巡洋艦基幹の遊撃部隊(重巡〈愛宕、高雄、鳥海、摩耶、鈴谷、最上、筑摩〉、第二水雷戦隊〔軽巡〈能代〉[151]、第32駆逐隊〈玉波、涼波、藤波、早波〉、島風型〈島風〉〕)は、トラック泊地からラバウルへ進出する[注釈 20]
だが11月5日、栗田部隊はアメリカ軍機動部隊の空襲を受けて大きな被害を出す(ラバウル空襲[注釈 21]
栗田部隊は、航行不能の摩耶や二水戦主力等を残してラバウルから退避した。トラック回航部隊のうち最上は損傷により速力12ノットしか発揮できず、遊撃部隊に同行できなかった。そこで最上は単独帰投となり、玉波がその護衛に従事した。その後、鈴谷と島風が遊撃部隊から分離して、最上と玉波の警戒に従事した。11月8日、4隻はトラック泊地に到着した。最上艦長相徳一郎大佐は、玉波に対し「ラバウル出港以来連日連夜わが艦の護衛に任じてくれた駆逐艦玉波の労苦に対しては、深甚の謝意を表する次第である。」と回想している。

11月11日、二水戦の玉波と島風は、空母翔鶴[83]、第四戦隊(愛宕[205]、高雄)[206] を護衛してトラック泊地を出発する[207][208]。11月15日、翔鶴隊は横須賀に到着した[209]。修理と整備を実施する[207][208][注釈 22]

11月26日[212]、駆逐艦4隻(玉波[207]、島風[208]、谷風、秋月)は空母翔鶴[83] と千歳[213] を護衛して日本本土を出撃した[注釈 23]
12月1日、翔鶴隊はトラック泊地に到着した[217][218]
二水戦の3隻(島風、玉波、五月雨)は数日間、トラック泊地で待機する[219][220]

12月7日、玉波と島風は「第七〇七二船団」(富士山丸、神国丸)[222] を護衛してトラックを出発した[223][224]
11日、玉波と島風は途中で富士山丸船団護衛を止め[225]、その後の護衛は哨戒艇に引き継ぐ[226][注釈 24]
玉波と島風は日栄丸船団(日栄丸、旭東丸、照川丸)に合同してトラック泊地に向かった[226][227]
12月15日、日栄丸船団はトラック泊地に到着した[220][228][229][注釈 25]
同時期、工作艦明石の世話になっていた最上の応急修理が完成する。
12月16日、最上艦長の指揮下[218][233]、最上[90]、玉波(第32駆逐隊)、霞(第9駆逐隊)はトラック泊地を出発した[235]
12月21日、最上隊は日本本土に帰還する[90][236]。玉波は呉で[223]、霞は舞鶴で[237]、修理と整備をおこなった[239]

昭和19年の行動[編集]

1944年(昭和19年)1月17日、玉波の出撃準備が完了する[240]
連合艦隊は空母神鷹(元ドイツ貨客船シャルンホルスト号)と、玉波(第32駆逐隊)および薄雲(第9駆逐隊)に輸送任務を命じた[241]
1月19日、神鷹は徳山沖で試運転を行うが、21日に呉へ回航された[242][注釈 26]。神鷹の機関不調は深刻で出撃できず、薄雲と玉波も別任務に投入され[注釈 27]。玉波は横須賀に回航された[239][240]

1月29日[206]、重巡洋艦高雄は瑞鳳艦長服部勝二大佐の指揮下に入る[246][247]
玉波と第21駆逐隊(初春、若葉)[248] は、高雄および第三航空戦隊の空母瑞鳳[85] と千代田[249][250] を護衛して横須賀を出撃した[239][240]
同時期、小笠原諸島西方海域で軽空母雲鷹[注釈 28]が危機に瀕していたので[252]、高雄と玉波は雲鷹の救援に向かった[253][254]
1月31日午後2時、玉波は高雄艦長の命令により反転、瑞鳳隊の護衛に戻った[254][255]

2月3日[239]、瑞鳳隊(瑞鳳、千代田[250]、若葉、初春、玉波)はトラック泊地に到着した[257][258]
しかし、2月5日のクェゼリンの玉砕によりアメリカ軍の脅威が差し迫り、連合艦隊はトラックからの総引き揚げに決した。連合艦隊主力部隊はパラオやリンガ泊地に回航されたが、連合艦隊司令部は大本営と協議するため横須賀にむかう[260]
2月10日[239][261]、戦艦武蔵[260](連合艦隊旗艦)、軽巡大淀[55]、三航戦(千代田、瑞鳳)は[263]、それぞれトラック泊地を出発した[264][265]
護衛部隊(第21駆逐隊〈初春、若葉〉[266]、二水戦〈玉波、満潮、白露〉)が武蔵以下に同行する[267][268]
2月13日、日本近海で母艦部隊は横須賀に向かう武蔵隊と分離した[257][269][270]
15日、母艦部隊も瀬戸内海に帰投した[注釈 29]。玉波は呉海軍工廠に入渠後、機銃増備工事とレーダー取り付け工事が行われた[257]。引続き、玉波と長波は呉で修理をおこなう[272]

3月、日本海軍は中部太平洋方面の兵力強化を目的として緊急輸送作戦(松輸送)を立案し、第十一水雷戦隊や連合艦隊所属各艦(玉波を含む)は海上護衛司令長官の指揮下に入った[273][274]
3月13日[275]、東松2号輸送船団は八丈島海域で米潜水艦サンドラス (USS Sand Lance, SS-381) に襲撃される。被雷した輸送船国陽丸(大阪商船、4,607トン)が沈没、軽巡龍田(第十一水雷戦隊旗艦)が航行不能となる[277]
第十一水雷戦隊(東松2号輸送船団指揮官、高間完少将)は旗艦を陽炎型駆逐艦野分に変更した[280][281]
横須賀在泊や日本近海の艦艇(夕張、玉波等)は、まだ沈んでいなかった龍田の救援に向かう[282][注釈 30]
龍田遭難現場に急行した玉波は、護衛部隊の海防艦平戸と駆逐艦卯月に合流した[24][284]
玉波は卯月より龍田生存者を受け入れ[285][286]、平戸と共に横須賀へ帰投した[注釈 31]

3月22日、玉波は東松三号輸送船団(加入船舶12隻)[289] に所属して東京湾を出撃する[291]
船団旗艦は、修理を終えたばかりの軽巡洋艦夕張[293](船団部隊指揮官、第一特設船団司令官伊集院松治少将)。
夕張以外の護衛艦艇は、駆逐艦3隻(玉波、旗風、雷)、海防艦(平戸、能美)、水雷艇鴻、駆潜艇3隻であった[297]
3月25日、駆潜艇54号がアメリカの潜水艦(ポラック)の雷撃により撃沈される。
3月28日、パラオ行船団(護衛艦〈玉波、平戸、能美〉、船舶〈辰浦丸、乾安丸、富津丸、長白山丸、南洋丸、早埼〉)はサイパン行船団(夕張他、3月30日着)[293] と分離する[297]。だがアメリカ軍機動部隊出現の報によりパラオ行船団(玉波以下)も4月2日サイパン島に避退する[297]。4月7日に出撃し[239][297]、米軍機動部隊来襲の情報によりヤップ島に避泊したあと、4月14日パラオ諸島に到着した。玉波は4月17日パラオ出発、20日横須賀に帰投した[239]

4月25日、玉波は横須賀を出発し、呉に移動する[300][300]。内海西部で待機[239]
5月11日、駆逐艦複数隻(夕雲型駆逐艦〈玉波、早霜、秋霜〉、第4駆逐隊〈満潮、野分、野分〉、第27駆逐隊〈時雨〉)は[303]、第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳[304])、第三航空戦隊(千歳、千代田、瑞鳳)、戦艦武蔵[67] を護衛して佐伯を出撃する[306]
5月16日、タウイタウイに到着した。
日本艦隊は同泊地で訓練を実施するが、アメリカ潜水艦が頻繁に出現するため母艦航空隊の訓練ができず、練度に不安が残った[310]

6月6日、タウイタウイ泊地近海で、船団護衛中の駆逐艦水無月がアメリカの潜水艦ハーダー (USS Harder, SS-257) の雷撃で撃沈された。
6月7日、対潜掃蕩に向かった32駆僚艦早波が、またしてもハーダーの雷撃により撃沈されている[注釈 32]。32駆は3隻(藤波、玉波、浜波)となった[31]
また早波の沈没時に早波駆逐艦長の清水逸郎中佐[316] と折田大佐(第32駆逐隊司令)が戦死した[注釈 33]
第32駆逐隊は司令不在となったため(司令駆逐艦は玉波に変更)[319]、玉波艦長青木久治中佐が6月15日付で第32駆逐隊司令に転任[320]、早波艦長として着任予定だった千本木十三四中佐(海兵52期)が玉波艦長となった[320]
日米海上決戦を目前にした駆逐艦の度重なる喪失は、日本海軍機動部隊の行動にも影響をあたえはじめた[321]

6月19日のマリアナ沖海戦における第32駆逐隊(玉波、藤波、浜波)は、丙部隊(第三航空戦隊、第二艦隊主力)に所属して第二艦隊司令長官栗田健男中将(愛宕座乗)直率の機動部隊前衛部隊として行動する。
海戦は大敗。前衛部隊は、6月20日の戦闘で3隻(千代田、榛名、摩耶)に爆弾命中や至近弾による損害があった。

海戦後、遊撃部隊(第二艦隊、第三航空戦隊、第二水雷戦隊等)は6月22日に沖縄本島中城湾に立ち寄った後[330]、翌23日に内海西部へ向かった。だが玉波と藤波は遊撃部隊に同行せず[239][332]、6月25日マニラに到着した[333]。さらにマニラから昭南に回航された[333]

沈没[編集]

7月2日以降、軽巡洋艦「北上」[32] と第32駆逐隊(玉波、藤波)は[336]、シンガポールからマニラ経由で日本に向かう「旭東丸」(飯野海運、10,051トン)の護衛に従事した[337][338][注釈 34]

7月7日未明2時ごろ、「玉波」は北緯14度19分 東経117度57分 / 北緯14.317度 東経117.950度 / 14.317; 117.950[340] のマニラ湾口西方海域を航行中に潜水艦を探知し、反転攻撃に向かった。同時にアメリカ潜水艦「ミンゴ」もレーダーにより4つの目標を探知[342]。「吹雪型駆逐艦」、すなわち「玉波」が推定23ノットの速力で向かってきていると判断した後、潜航してさらに観測を続けた[342]。12発に及ぶ爆雷攻撃をやり過ごした後、艦尾発射管から魚雷を4本発射[343]。しかしこれは命中せず[343]、1時間後に体勢を立て直し艦首発射管から魚雷を4本発射[344]。うち3本が命中して「玉波」は艦首から沈没した[344]。轟沈であった[37]
「玉波」がいるあたりに火炎と爆炎が立ち昇るのを認めた「藤波」は反転し、断続的に捜索と爆雷攻撃を行ったが手がかりはつかめなかった[345]
32駆司令青木大佐(海軍少将へ進級)[346] および千本木中佐(玉波駆逐艦長)[347] 以下276名が戦死した。

9月10日、玉波は夕雲型駆逐艦[348]
帝国駆逐艦籍より除籍された[349]

歴代艦長[編集]

艤装員長
  1. 作間英邇 中佐:1943年2月20日[40] – 1943年4月30日[44]
駆逐艦長
  1. 作間英邇 中佐:1943年4月30日[44] – 1943年7月7日[73]
  2. 青木久治 中佐:1943年7月7日[73] – 1944年6月15日[320]
  3. 千本木十三四 中佐:1944年6月15日[320] – 1944年7月7日 戦死、同日付任海軍大佐[347]

参考文献[編集]

  • 阿川弘之『軍艦長門の生涯 下巻』新潮社、1975年12月。
  • 池田清『重巡摩耶 元乗組員が綴る栄光の軌跡』学習研究社〈学研M文庫〉、2002年1月(原著1986年)。ISBN 4-05-901110-X。
  • 大井篤「第6章 崩れ去る夏の陣(昭和19年6月から同年8月まで)」『海上護衛戦』株式会社KADOKAWA〈角川文庫〉、2014年5月(原著1953年)。ISBN 978-4-04-101598-8。
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。
  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』図書出版社、1994年9月。ISBN 4-8099-0192-0。
  • 『南太平洋の凱歌 わが機動部隊の快勝』第12巻、今日の話題社〈太平洋戦争ドキュメンタリー〉、1968年11月。
    • (57-88頁)重巡最上艦長 元海軍少将相徳一郎『〔悲運の軍艦最上〕ラバウル対空戦 海戦ごとに大破 力戦ついに力尽く
  • 佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年1月。ISBN 4-7698-2408-4。
  • 塩山策一ほか『変わりダネ軍艦奮闘記 裏方に徹し任務に命懸けた異形軍艦たちの航跡』潮書房光人社、2017年7月。ISBN 978-4-7698-1647-8。
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  • 歴史群像編集部編『帝国海軍真実の艦艇史2 史料の精査と傍証の積み重ねで解き明かす定説の真偽と知られざる逸話の実相』第51巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2005年8月。ISBN 4-05-604083-4。
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    • 『第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年九月二十日昭和十八年九月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌(3))』。Ref.C08030101200。
    • 『第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十月一日昭和十八年十月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌(4))』。Ref.C08030101300。
    • 『第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十一月一日至昭和十八年十一月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5))』。Ref.C08030101400。
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030101500。
    • 『第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十二月一日至昭和十八年十二月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1))』。Ref.C08030101800。
    • 『第二水雷戦隊司令部『自昭和十九年一月一日 至昭和十九年一月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3))』。Ref.C08030102000。
    • 『第二水雷戦隊司令部『自昭和十九年二月一日 至昭和十九年二月二十九日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4))』。Ref.C08030102100。
  • SS-261, USS MINGO(issuuベータ版)

注釈[編集]

  1. ^ a b c 達第二百九十四號[1] 昭和十六年度及昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻、潜水艦四隻、海防艦一隻及掃海特務艇六隻ニ左ノ通命名ス 昭和十七年十一月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎/株式會社藤永田造船所ニ於テ建造  驅逐艦 玉波(タマナミ)/呉海軍工廠ニ於テ建造  伊號第五十三潜水艦 伊號第五十五潜水艦/三菱重工業株式會社神戸造船所ニ於テ建造  呂號第三十八潜水艦/株式會社玉造船所ニ於テ建造  呂號第四十四潜水艦/日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造  海防艦 對馬(ツシマ)/浪速船渠株式會社ニ於テ建造  第十二號掃海特務艇 第十七號掃海特務艇/三菱重工業株式會社彦島造船所ニ於テ建造  第十三號掃海特務艇 第十四號掃海特務艇/株式會社名村造船所ニ於テ建造  第十五號掃海特務艇/佐野安船渠株式會社ニ於テ建造  第十六號掃海特務艇 〕
  2. ^ a b 内令第二千二十五號[4] 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年十一月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎/驅逐艦、一等夕雲型ノ項中「清波」ノ下ニ「、玉波」ヲ加フ/潜水艦、一等伊五十二型ノ項中「伊號第五十二」ノ下ニ「、伊號第五十三、伊號第五十五」ヲ加フ 同二等呂號三十五型ノ項中「呂號第三十七」ノ下ニ「、呂號第三十八」ヲ、「呂號第四十二」ノ下ニ「、呂號第四十四」ヲ加フ/海防艦、占守型ノ項中「隠岐」ノ下ニ「、對馬」ヲ加フ 
  3. ^ 第32駆逐隊は、1943年(昭和18年)8月20日に夕雲型駆逐艦3隻(涼波、藤波、早波)で新編された[14]。10月1日に玉波を編入している[12]
    12月15日、浜波を編入[15]
    翌年1月5日、涼波を除籍した[16]
  4. ^ 一連のラバウル空襲で、二水戦から32駆僚艦涼波沈没、第31駆逐隊の長波大破という損害を出した。
  5. ^ 初代幹部は、砲術長大野俊也中尉、水雷長前野克己中尉、航海長山本太郎予備中尉、機関長小宮川勇大尉など[44]
  6. ^ 第十一水雷戦隊司令官は同年4月1日に新編されたばかりで[48]、司令官は木村進少将(海軍兵学校40期)。旗艦は天龍型軽巡洋艦の龍田であった。
  7. ^ 同月15日より、十一水戦旗艦は龍田に復帰した[52]
  8. ^ 相良丸は特設水上機母艦として活躍したのち、昭和17年12月1日付で特設運送艦に類別変更されていた[66]。昭和18年6月23日の雷撃で大破し、24日になり天竜川河口で座礁した[62] 。その後、波浪や潜水艦ポンパーノ (USS Pompano, SS-181) の雷撃で船体切断。9月1日、解傭。
  9. ^ 正規空母翔鶴[83]、正規空母瑞鶴[84]、軽空母瑞鳳[85]、軽空母冲鷹[87]、重巡洋艦利根[88]、重巡筑摩[89]、航空巡洋艦最上[90]、軽巡洋艦大淀[55]、軽巡阿賀野(第十戦隊旗艦)[91]、水上機母艦日進、第4駆逐隊(嵐、萩風)、第17駆逐隊(磯風)、第61駆逐隊(涼月、初月)、夕雲型駆逐艦(玉波)。
  10. ^ この後、日進は第八戦隊や第十戦隊とともにラバウルへ進出する。7月22日、日進隊(日進、萩風、嵐、磯風)はショートランド諸島近海で空襲を受け、日進は撃沈された。
  11. ^ 先のコロンバンガラ島沖海戦で軽巡神通沈没時に第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将以下の二水戦司令部が全滅したため、日本海軍は第二水雷戦隊と第四水雷戦隊を統合したのである。
  12. ^ その後、第三図南丸はトラック泊地で重油タンクとして利用された。翌18年2月中旬のトラック島空襲で沈没し、戦後浮揚され捕鯨母船として再就役した。
  13. ^ この時の主力部隊編成は、戦艦武蔵、空母雲鷹[131]、重巡洋艦妙高[132]、羽黒[133]、軽巡長良(第二水雷戦隊旗艦)[105]、駆逐艦(野分、白露、曙)[135]
  14. ^ 磯風は第五戦隊を護衛してラバウルに向かった。
  15. ^ 参考文献の部隊編成に記載されている白露型駆逐艦江風は、8月6日のベラ湾夜戦で沈没している。
  16. ^ 第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)、第三戦隊(金剛、榛名)、第八戦隊(利根、筑摩)、第十戦隊(阿賀野、涼月、初月、若月、浦風)、附属(最上、大淀、日栄丸)
  17. ^ 第四戦隊(愛宕、高雄、摩耶、鳥海)、第五戦隊(妙高、羽黒)、第二水雷戦隊(能代、海風、涼風、玉波)
  18. ^ 後からきた軽空母瑞鳳、駆逐艦舞風、野分をふくむ。玉波と日栄丸は、21日ブラウンに着いた[165]
  19. ^ 多摩は徳山に寄港した[176]
  20. ^ 鳥海と涼波は、空襲で損傷したタンカー日章丸を護衛するためラバウル到着前に別行動となる。
  21. ^ 大型空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) と軽空母プリンストン (USS Princeton, CVL-23) を基幹とする第38任務部隊(指揮官シャーマン少将)である。
  22. ^ 玉波が航海中の11月11日、第二次ラバウル空襲で姉妹艦の涼波(第32駆逐隊)が沈没、姉妹艦の長波(第31駆逐隊)も大破した。第32駆逐隊は3隻(藤波、早波、玉波)となった[16]
  23. ^ 翔鶴隊は横須賀発[214]、千歳隊は内海西部発。
  24. ^ 『戦史叢書第62巻』では第102号哨戒艇が護衛とするが、同艦は11日時点でスラバヤ在泊(#S1809第102号哨戒艇(3)p.24)。船団護衛は20日(#S1809第102号哨戒艇(3)p.25)から。
  25. ^ 同15日付で第32駆逐隊に夕雲型駆逐艦浜波(舞鶴海軍工廠、10月15日竣工)が編入され[229]、32駆は定数4隻(藤波、早波、玉波、浜波)を回復した[15]。だが玉波は入渠修理のため内地に戻ることになり、島風や他の32駆僚艦とは別行動になる[219][231]
  26. ^ 神鷹護衛予定の玉波と薄雲は徳山で待機する[243]
  27. ^ 薄雲は呉海軍工廠でレーダーの整備を実施する[244]
  28. ^ 雲鷹は同年1月19日、アメリカ潜水艦ハダック (USS Haddock, SS-231) の雷撃で損傷し、サイパン島で応急修理を実施中だった。
  29. ^ 木俣滋郎『日本空母戦史』580-581頁では、瑞鳳・千代田は2月16日に横須賀帰投と記述する。母艦部隊は、瑞鳳[85]、千代田[250]、第21駆逐隊[271]、、玉波である[257][266]
  30. ^ 龍田の沈没は、被雷より半日後の午後4時頃であった[283]
  31. ^ 卯月は東松2号船団に続行、平戸は東松三号船団に編入され横須賀待機となった[287][288]
  32. ^ ハーダー艦長は、サミュエル・D・ディーレイ少佐であった。
  33. ^ 折田は海軍少将に進級している[317][318]
  34. ^ 北上は同年1月下旬にイギリス潜水艦テンプラー (HMS Templar,P316) に雷撃され損傷[32]、内地で修理の予定だった。

出典[編集]

関連項目[編集]