劉予 – Wikipedia

劉 豫(りゅう よ、拼音:Liú Yù、元豊元年(1078年) – 皇統3年(1143年))は、中国北宋末の官僚、金の傀儡国家である劉斉中国語版の皇帝。字は彦遊。

景州阜城県の農民出身。元符3年(1100年)に進士(科挙)に合格、宋朝に官僚として仕えた。1126年、靖康の変により北宋は女真族の金軍によって都の開封を制圧され、滅亡する。劉豫は済南府知府に任命され、済南府を守備したが、1128年に金軍の侵入に対し、降伏する。

当時、金は山東・河南方面に広く軍事行動を展開していたが、旧北宋支配下の漢族を直接統治する自信がなく、1127年に北宋の政治家であった張邦昌を皇帝として、金の傀儡国家としての「大楚」を建て、旧北宋の支配地域の間接統治にあたらせようとした。しかし、張邦昌は帝位につくとすぐに、北宋最後の皇帝欽宗の弟の趙構(高宗)を皇帝として宋(南宋)を再興することに協力し、自らは帝位を放棄して南宋に逃亡した。

そこで金は1129年3月、劉豫を東平府へ移し、京東西淮南等路安撫使に任じて大名府・開州・徳州・濮州・浜州・博州・棣州・滄州などを支配させた。さらに1130年7月、粘没喝(完顔宗翰)の画策により、劉豫を皇帝として傀儡国家を建てることとなり、国号を「斉」、都を大名府とした。劉豫は旧暦9月9日(10月12日)に皇帝として即位したが、年号は金朝の正朔を奉じ、天会8年とした。百官を定めた後に東平府に移り、生母の翟氏を皇太后、側室の銭氏[1]を皇后となした。1131年には阜昌元年と改元し、子の劉麟を尚書左丞諸路兵馬大総管とする。1132年にはさらに陝西も封土に加えられ、都を汴京(開封)に移す。尚書省や六部を設け、徴兵を行い、十分の一税を施行、法律を定め銭の鋳造や交鈔の発行、各地に横行する匪賊の類いを丸ごと抱えこむ、科挙以外の官吏登用ルートを創設するなど意欲的な政策を行ったため、南宋から斉に赴き仕えたという例も出た。

金の元帥府使蕭慶が汴京に赴き、劉豫と南宋攻略の相談をした際には、劉豫は宋軍の内情を詳らかに報告したり、宋軍の将軍の内応を図るなどの工作を行うが、劉豫・劉麟父子は実戦面では全く活躍できず、かえって人心を失い、次第に金・宋戦争は膠着状態に陥ったため、金は劉豫の存在価値を低くみるようになっていった。そこへ1137年に劉豫の後ろ盾であった粘没喝が失脚したことで、斉不要論が圧倒した。同年、斉はわずか8年で廃止されることとなった。

劉豫は蜀王に格下げされ、後に臨潢府(現在の内モンゴル自治区バイリン左旗)に移される。皇統3年(1143年)、曹王に封ぜられ、その年に没した。なお、斉の領土は、いったん金の支配下に入り、1139年には南宋に返還されたが、1142年の紹興の和議で再び正式に金領に組み入れられた。

  1. ^ 趙金奴(宋の栄徳帝姫、欽宗の妹で高宗の姉)の侍女。礼法に習熟していた。靖康の変後、劉豫に与えられた。

参考文献[編集]

伝記史料[編集]

  • 『宋史』巻475 列伝第二百三十四 叛臣上 劉豫伝
  • 『金史』巻77 列伝第十五 劉豫伝

関連項目[編集]