木庵性瑫 – Wikipedia

木庵性瑫
1611年 – 1684年
木庵像 喜多長兵衛筆 木庵自賛
紙本着色 神戸市立博物館
諡号 慧明国師
生地 福建省泉州府晋江県
宗派 臨済宗黄檗派(黄檗宗)
寺院 太平寺、福済寺、普門寺、黄檗山萬福寺
費隠通容、隠元隆琦
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木庵性瑫(もくあん しょうとう、万暦39年2月3日(1611年3月16日)- 貞享元年1月20日(1684年3月6日))は、江戸時代前期に明国から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は呉氏。勅諡号は慧明国師。福建省泉州府晋江県の出身。

16歳で出家して開元寺の印明の門に入った。1629年に得度し、杭州や天童山、西湖等を歴参して、28歳の時には、金粟山の費隠通容に参禅した。費隠の許で、副寺・侍者から知賓を経て維那にまでなった。その後も、紹興や天台山等を遍歴した。

1648年には、天童山の費隠の許に行こうとするも戦乱のために果たせず、中国黄檗山に登り隠元隆琦からその法を受けた。1650年より剣石の太平寺に晋住した。1653年には太平寺の住持を即非如一に譲った。

1654年に来日していた隠元に招かれ1655年に来日、長崎の福済寺の住持となった。1660年に摂津国の普門寺、1661年山城国宇治の黄檗山萬福寺に入り、1664年9月4日、隠元の法席を継いだ。翌1665年江戸にくだり4代将軍徳川家綱に謁見し、優遇された。江戸紫雲山瑞聖寺を初め10余寺を開創し、門下も50余人に及んだ。1669年、将軍より紫衣を賜った。

1680年2月、黄檗山の法席を第3代の慧林性機に譲り、山内の紫雲院に隠退した。1684年1月20日、病により没した。享年74。

能書家としても知られ、その書風は中国人ならではのものがあり、隠元、即非とともに黄檗三筆と称されている。三人には共通した書風があり、隠元の「穏健高尚な書」、木庵の「雄健円成の書」、即非の「奔放闊達な書」と評され「唐風」あるいは「黄檗風の書」として珍重されている。

関連項目[編集]

  • 日本の篆刻史
  • 日本の篆刻家一覧
  • 篆刻
  • 三筆
  • 日本の書道史
  • 日本の書家一覧
  • 河村若芝
  • 范道生
先代:
隠元隆琦
黄檗宗
萬福寺第2代
次代:
慧林性機