キズナ (お笑いコンビ) – Wikipedia

キズナは、プロダクション人力舎に所属する日本のお笑いコンビ。

メンバー[編集]

小野 大樹(おの だいき、 (1987-08-27) 1987年8月27日(34歳) – )
ボケ・ネタ作り担当、立ち位置は向かって右。
武田 裕司(たけだ ゆうじ、 (1984-07-10) 1984年7月10日(37歳) – )
ツッコミ担当、立ち位置は向かって左。

小野は小中高からクラスの人気者タイプで目立つ存在だった。高校卒業後は就職も進学もしたくなかったため、高校1年生の時に観た『M-1グランプリ』でアンタッチャブルが優勝したことを思い出し「お笑いいいな」と考えてお笑い養成所への進学を決め、スクールJCAへ15期生として入学[4]

武田は小学5年生の頃いじめられており、ある日にいじめっ子から絶対に負ける勝負を仕掛けられ罰ゲームとして髪を切られた。パッと見だと分からない程度のものだったが泣きながら帰宅し、その夜の『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』にて定岡正二が罰ゲームで髪を切られていた所を親が大笑いしていた姿を見たことで「これって頑張れば『面白い』ってことになるんだな」と思い、とんねるずに憧れを抱くきっかけになった[4]

武田は高校2年生の時点では芸人かバスプロになりたいと考え一時毎日のように釣りへ行っていたが、バスプロの夢を親に相談してみると「そんな職業はねえ!」と反対され、代わりに芸人になりたいことを聞いてみたら承諾された。その前に親から「大学には行ってほしい」と言われたことで大阪吉本に入りたいと思い、高校からの推薦として大阪の大学へ進学した。大学2年生時にはNSCの大阪校に27期生として入学(同期にGAG・Dr.ハインリッヒ・トットなど)、在学中にコンビ『ブルドック』を結成した。当時の武田は自分のことを天才だと思い込んでおり、相方にも一切ネタのことは口を挟ませなかったがいざネタを披露すると滑ってしまい、これで心が折れてNSCを半年で中退。しかし、『M-1グランプリ』でアンタッチャブルやおぎやはぎの漫才を改めて見た際に感化され、東京でもう一度やってみようとスクールJCAに16期生として入学した[4]

最初に小野は留年して2年目だった石倉竜馬(現在は引退)とコンビ『イシクラノオノ(後に内村さまぁ〜ずにて三村マサカズの考案した『いきるゆうき』へ改名)』を結成。だが石倉のやる気のなさおよび家庭の事情から解散となった[4]

一方で武田は入学初日に三福英敬(現・三福エンターテイメント)へ声をかけてコンビ『ザンゼンジ』を結成し、9年ほど活動するも三福との仲が悪化し続けやがて解散へと至った[5]。それとほぼ同時期にコンビを解散していた小野を武田が誘う形で、2016年12月末より現在のコンビとなる[6]

コンビ名の由来は芸歴的に自分たちが本気で決めるのは照れ臭いとのことで、あえてエゴサーチがしづらいよう名付けた。競走馬のキズナが由来だと思われることもある[3]

主にコント。ネタ作りを担っている小野は台本を書いて残さず、頭の中で作るため相方の武田はネタをしょっちゅう忘れる[4]。スクールJCA時代は漫才も演じていたが、講師から漫才をやめることを助言されたため現在は行っていない[4]

エピソード[編集]

2020年12月30日放送『クイズ☆正解は一年後』内のコーナー「ドッペルゲンガーチャンス」に武田が出演し、優勝した有吉チームに賞金100万円を懸けたクイズとして「自分と瓜二つな人を年内中に見つけられるか」を予想された。しかし新型コロナウイルス感染拡大や非常事態宣言発令の影響から、街中の人通りや自身のアルバイトやライブの仕事が激減。更にはマスク着用が広まった影響から人探し自体が困難となり、ついには武田自身がコロナに感染し療養のために検証を一時中断せざるを得なくなるなど企画は散々な幕開けとなった。紆余曲折ありつつどうにか瓜二つとされる1名をスタジオへ連れて来たものの、出演者の反応はイマイチだったため不正解となり罰ゲームとしてザ・グレート・カブキによる毒霧(感染対策でスプレー)を執行された[7][8][9]

賞レース戦績[編集]

外部リンク[編集]