立花実山 – Wikipedia

立花 実山(たちばな じつざん、明暦元年(1655年) – 宝永5年11月10日(1708年12月21日))は、江戸時代の茶人で、福岡藩の家老。福岡藩の重臣立花重種(しげたね、黒田平左衛門、薦野増時の孫)の次男。通称は五郎佐衛門。実山は道号で、諱(実名)は重根(しげもと)。出家して宗有と号する。織部流を基本とし、道安流と遠州流を加え、南坊流(立花流)を開いた。若くして貝原益軒や京の木下順庵に学び書や和歌を能くし、また禅にも通じ禅寺を開基した。兄に立花重敬(黒田次郎太夫)、弟に立花増武、立花峯均、立花重躬、子に立花不白、甥に笠原道桂がいる。妻は野村太郎兵衛裕春の次女。

父の重種は1万5000石で黒田姓を許されていた。父の家督は兄の重敬が相続し、実山は3代藩主黒田光之に45年間の長きにわたって仕え、最後には隠居頭取となり3000石余の禄を受けた。延宝5年(1677年)2月、光之は嫡男・綱之を廃嫡し、東蓮寺藩を継いでいた三男・長寛(綱政)を後継ぎと新たに定めたことに異議を唱えたが、聞き入れられなかった。和歌に関しては、中院通茂に古今伝授を受けた。元禄元年(1688年)、光之が隠居して綱政が新藩主となると、綱之の用人として配されたこともあり、光之に仕え隠居頭取となった。

元禄3年(1690年)、千利休およびその高弟南坊宗啓の茶道の秘書といわれる「南方録」を書写し、さらにこれに補足を加え、秘伝9ヶ条にまとめて「南方録」7巻を著した。これは利休の侘び茶を理論的に著述したものである。元禄9年、東林寺を建立し、帰依していた曹洞宗の僧・卍山道白を開祖に同寺を開基した。宝永2年(1705年)、弟子の4人(子の不白、峯均、固本、自得庵)に南方録の書写を許可した。宝永4年、長年仕えた藩主黒田光之が没したのちに東林寺で出家し、住吉村の松月庵に閑居した。

宝永5年6月3日、光之の跡目をめぐっての「綱之騒動」の巻き添えとなり、義父の野村祐春にお預けとなり、嘉麻郡鯰田村に幽閉された。同年11月、黒田綱政の命により殺害された。幽閉中に「瑞鳳山東林寺後々之記」「梵字艸(ぼんじそう)」3巻を著した。没後40年、6代藩主黒田継高により東林寺(現・博多区博多駅前3丁目)に改葬された。

参考文献[編集]

  • 戸田勝久『南方録の展開』
  • 熊倉功夫『南方録を読む』
  • (西日本新聞)『福岡県百科辞典』

関連項目[編集]