トルイ – Wikipedia

トルイ(モンゴル語:ᠲᠤᠯᠤᠢTolui、 1192年[1] – 1232年)は、チンギス・カンの四男。中国語表記は拖雷で、ペルシア語表記ではتولى خان (tūluy khān) またはتولوى خان (tūlūy khān) 、モンゴル語ではТулуй, Tuluiと綴られる。子孫が第4代以降のモンゴル帝国の皇帝位(カアン位)を世襲したために、睿宗の廟号を贈られ、景襄皇帝と諡された。日本語文献ではトゥルイツルイと表記されている場合もある。トルイという名は、中世モンゴル語で「鏡」を意味する。ジョチ、チャガタイ、オゴデイの同母弟である。

幼少時から英邁で武勇に優れ、人望も厚かったという。チンギス・カンの正妻ボルテから生まれた末子だったため、末子相続の慣行に従って父の死までウルスの分封を受けずにその手元にもつ、帝国の最有力皇族であった。

1212年にはじまる第一次金遠征ではチンギス・カンが自ら指揮する中軍を率いて常に父の傍近くに仕え、河北から山東にかけての黄河河畔にいたる地域の征服で数々の勝利を収めた。

1219年にホラズム・シャー朝遠征(チンギス・カンの西征)が開始されると、再びチンギス・カンに従って、ここでも中軍を率いてブハーラー、サマルカンドとその周辺などマー・ワラー・アンナフル地方の諸都市の征服で指揮をとった。1220年秋にはホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドの追撃にイラン方面へ転戦したジェベ、スブタイらの後詰めとして、トルイはアムダリヤ川を渡ってホラーサーン地方へ派遣されている。しかし、この地方の主要都市ニサ、メルヴやニーシャープール、ヘラートなどを征服しているが、先鋒部隊をふくめて幕僚に戦死者が出るなど激しい抵抗に会い、また降服勧告を促す使者が殺害され、都市陥落の際には殲滅戦になるなど苦戦を強いられた。報復として投降した住民を虐殺してもいる。翌1221年にはアラーウッディーンの三男でガズナ地方の領主ジャラールッディーンが大軍を率いて挙兵し、チンギス・カンがジョチ、チャガタイ、オゴデイらを引連れてこれをアフガニスタンとインダス河西岸で迎え撃ったときには、ホラーサーンに留まってチンギス・カン本軍の後詰めを守った。

1225年暮れにはじまる西夏への遠征(第5次西夏遠征)で、翌1226年2月にはオゴデイとともに父に随行して西夏領内に侵攻している。トルイはこれらの諸戦役で父とともに各地を転戦して軍功を挙げ、その武名を轟かせた。

1227年、チンギス・カンが没すると、父の所有していた家産と直轄ウルスの101個千人隊に相当する部民、軍隊のすべてを相続し、親族中で飛びぬけた財力と軍事力を獲得、後継のカアン選出まで帝国の政務を代行する監国の地位についた。そして2年後、後継のカアンの選出にあたっては自身の即位を固辞し、父チンギス・カンが生前に後継者に定める意向を示していたという兄オゴデイを第2代カアンに推し、即位させた。

オゴデイが即位すると、4個千人隊のウルスしか所有しない兄オゴディに、自身のウルスの大部分の指揮権を譲り、その一将軍に甘んじた。まもなくオゴデイを中心に金に対する作戦(モンゴル帝国の金朝征服英語版)が再開されると、右翼軍の司令官として金朝との最終戦争に参戦して金領西部の山間部に侵攻し、1232年に完顔陳和尚率いる金軍を三峰山の戦いで破って金の主力を壊滅させる戦功をあげた。

しかし、オゴデイの本軍と合流して帰還する途上、モンゴル高原に至ったところで急死した。深酒のためと言われるが、『元朝秘史』、『集史』、『元史』などのトルイの子孫の政権で編まれた諸史料は、いずれも「病に罹ったオゴデイの身代わりとなるために、呪いのかかった酒を飲み干して死んだ」とする逸話を伝える。トルイの急死を、弟の人望と功績を恐れた兄オゴデイによる謀殺とみる説もある。

トルイの莫大な遺産はケレイト部族出身の妃ソルコクタニ・ベキを経て、両人の息子モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケの4子に継承され、のちの大元、イルハン朝の基盤となった。

父母・兄弟[編集]

后妃[編集]

男子[編集]

トルイとソルコクタニとの息子は、モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケの4兄弟が有名であるが、ソルコクタイ以外から生まれた子供たちも多くいた。『元史』宗室世系表では、名前不明の人物も含めてトルイには11人の息子がいたというが、『集史』では10人を数える。以下は『集史』トルイ・ハン紀に基づく。

「睿宗皇帝、十一子:長 憲宗皇帝、次二 忽覩都、次三 失其名、次四 世祖皇帝、次五 失其名、次六 旭烈兀大王、次七 阿里不哥大王、次八 撥綽大王、次九 末哥大王、次十 歳哥都大王、次十一 雪別台大王」(『元史』巻一百七 表第二 宗室世系表より)

  1. ^ 白寿彝中国語版『中国通史』より。
  2. ^ 母はリンクム・ハトゥン。男子はいなかったが、ケルミシュ・アガという娘が1人いた。彼女はジョチ家の筆頭部将だったコンギラト部族出身のサルジダイ・キュレゲンに嫁ぎ、その娘がジョチ家当主のモンケ・テムルの妃となった。この関係で叔父のクビライとオゴデイ家のカイドゥと紛争になった時、ケルミシュ・アガはトルイ家の王女としてトクタの時代までジョチ家、クビライ家、フレグ家との関係親交に尽力したという。
  3. ^ 母不詳。セブルクル(薛必烈傑児大王)という息子がおり、代々子孫は楚王位を継いだ。
  4. ^ 長兄モンケ推戴や四兄クビライの即位に多大な貢献を為したという。
  5. ^ 母不詳。五兄フレグの西アジア遠征に同行したが、その旅中にサマルカンドで亡くなり彼の棺は戻されたという。このストゥカタイの息子にトク・テムルという人物がおり、シリギの乱の時にトルイ家の王族たちを率い、クビライの皇子ノムガンを捕縛するのに動いた、反乱の中心的な人物だった。