Month: February 2018

リモージュ磁器 – Wikipedia

リモージュ磁器のポット リモージュ磁器(リモージュじき)、リモージュ焼(リモージュやき)(Porcelaine de Limoges)は、フランスヌーヴェル=アキテーヌ地域圏のリモージュとその周辺で生産される磁器の総称(『製陶所』節も参照)。1771年を起源の年として、現在まで生産を続けている[1][2][3]。 白色薄手の素地に釉を、その上に「落着いた上絵」を描いたものが特色とされる[4]。素焼きに絵付けをして焼くのではなく、白い生地に絵付けしてからさらに焼き付けるという手法はリモージュでは19世紀後半から行われている[5]。 背景[編集] 中国からヨーロッパに磁器がもたらされたのは16世紀ごろで、ヨーロッパで自家生産できるようになるには18世紀初頭のドイツ、マイセンの開業まで待たなければならなかった(マイセン近郊でカオリンの地層を発見したことによる)[3]。とはいえマイセンもこのカオリンを用いた磁器の製法を秘伝としたため、ヨーロッパの他地域では依然として硬磁の作成は行えなかった。磁器製造を独占されたままでは経済的に不利であり磁器の材料を探すということはフランス国内でも必須の状況となっていた[3]。リモージュでは1736年に製陶所が設立されていたが、磁器製造には原料としてのカオリンと、技術が必要であった[6]。 カオリナイト(カオリン) カオリンの発見[編集] 1768年、サンティリエ=ラ=ペルシュ(フランス語版)においてジャン=バティスト・ダルネにより白い粘土が発見され、その妻はこれを石鹸として使用した。麻の手入れによいとされたこの粘土はダルネにより紹介され、紆余曲折を経てボルドーの薬剤師マルク=イレー・ビラリスの手に渡り鑑定が行われた。その結果、この粘土が実は磁器製造に必要なカオリンであると確認された[7]。 磁器の製作[編集] カオリンの発見を受け、リモージュで最初に硬磁器が作成されたのは18世紀後半の1771年であった。マシエ(マシー、Massié)とフルネラ(Fourneira)の2人[2] によるもので、資本はグルレ兄弟(ピエールとガブリエル)によった[6]。産業育成に力を入れていたリムーザンのトゥルゴ知事の後押しもあった[8]。この製陶所は1774年にはアルトワ伯爵の保護を受け、「アルトワ伯爵製陶所」となった[9]。初期の作品はそれまでに作成していた軟磁器のモチーフを流用したものであったがレパートリーは豊富ではなく、その故に経営は行き詰っていき[3]、1784年にはフランス政府に買収されセーブルの一部門となり[2]、このことからこの製陶所は「リモージュ王立製陶所」とも呼ばれた[6]。セーブルから派遣された装飾師によりリモージュの装飾は多様性を持つようになった[8]。一方で、リモージュ全体としては18世紀の間は原料の販売が主で、磁器製造はまだ主力ではなかった[8]。1788年、経営がうまくいかなかったため、またこの時期にはフランス革命の影響で贅沢品とみなされた磁器の製造が禁止されたため[6] に今度はフランス政府(セーブル)から売却された[2]。この後、1840年までは質はともかくとして、世界的に見てメジャーにはなり得なかった[2]。 19世紀前半まで[編集] 19世紀初頭、リモージュとオート=ヴィエンヌ県には6つの製陶所が存在していた[10]。後年(1900年)の批評によれば、この頃から質のよい磁器が製造されていたと評価されている[11]。 18世紀のうちにサンティリエ=ラ=ペルシュにセイニー伯爵によって設立された「セイニー伯爵製陶所」を、1789年にエティエンヌ・ベニョルが引き継ぎ「ベニョル製陶所」とした[9]。この人物はそれまで「アルトワ伯爵製陶所」に在籍し、その技術を高く評価されていた技術者であった[11]。1802年にパリの芸術産業展示会に作品を出展しここでも高評価を受けた[6]。 リモージュ磁器の白さを発展させた人物としてはフランソワ・アリュオーが挙げられる[11](初期のリモージュは『微妙に黄色がかった素地』を特徴とした[1])。この人物は1788年、「アルトワ伯爵製陶所」の経営を引き継ぎ1792年まで所長だった同名人物の息子であり、鉱物学者でもあった[6]。また、金属酸化物を用いた独特の絵付け手法により、茶色の新色も編み出した[11]。 他にもこの時期には、パリで仕事をしていた職人たちがリモージュに移住し、レリーフや人物像といった立体装飾、そして絵付けにも影響を与えた[12]。 黄金時代[編集]

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サク郡 (アイオワ州) – Wikipedia

サク郡(英: Sac County)は、アメリカ合衆国アイオワ州の西部に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は10,350人であり、2000年の11,529人から10.2%減少した[1]。郡庁所在地はサクシティ市(人口2,220人[2])であり、同郡で人口最大の都市でもある。 サク郡は1851年1月15日に設立され、郡名は以前サク族と呼ばれていたソーク族インディアンから採られた。1856年にサクシティが郡庁所在地に指定され、郡庁舎は1862年に建てられた。その郡庁舎は1873年まで使われ、郡民がそのちっぽけな建物よりも郡の方が大きくなったと認識した。よって2代目の郡庁舎が建設された。この建物の大きさは85フィート (26 m) x 56フィート (17 m) あり、石灰岩の基礎にレンガ造りで、上には印象的な塔がある美しい建物だった。アイオワ州でも最上級の郡用建物だと宣言された。この建物は1874年1月に運用開始され、その後直ぐに初代の郡庁舎は売却された。1888年、ある囚人が脱走しようとする途中に、郡庁舎に敷設する監獄に火をつけ、2つの建物が焼失した。サクシティは3万ドルを掛けて新しい郡庁舎を建設した。この庁舎はそれ以来構造的な修正も最小に使われ続けている。ただし1980年代に大掛かりな付加工事が行われた[3]。 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は578.38平方マイル (1,498.0 km2)であり、このうち陸地575.82平方マイル (1,491.4 km2)、水域は2.56平方マイル (6.6 km2)で水域率は0.44%である[4]。 主要高規格道路[編集] 隣接する郡[編集]

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苅田アサノ – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年5月) この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2020年5月) 苅田アサノ(かんだ あさの、本名:堀江アサノ(ほりえアサノ)、1905年6月21日 – 1973年8月5日)は、日本の政治家、婦人運動家、著述家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。夫は元日ソ協会副会長の堀江邑一。 目次 1 来歴 2 国政選挙歴 3 参考文献 4 関連項目 岡山県津山町(現・津山市)生まれ。生家は代々地主の家系で、学生時代からロシア文学及び社会主義思想に傾倒し、日本女子大学国文科を卒業後の1931年、日本共産党に入る。 入党以降財政面で支援を行うものの、1933年に治安維持法の疑いで検挙。転向の後1935年に出獄すると東洋経済新報社などを経て、1938年には郷里の岡山県に戻り西日本製紙に勤務する。 戦後は日本共産党に再入党し、1949年の衆院選に旧岡山1区から出馬し初当選を果たす。しかし再選を期した1952年の衆院選に落選し、以降2度衆院選に挑戦するも返り咲きとはならなかった。 戦前から晩年まで一貫して婦人解放運動に身を投じ、新日本婦人の会や日本婦人団体連合会、国際民主婦人連盟など婦人団体にも参加。 1973年8月5日、脳腫瘍のため東京都渋谷区の代々木病院にて死去。68歳。

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佐賀県立唐津東中学校・高等学校 – Wikipedia

佐賀県立唐津東中学校・高等学校(さがけんりつからつひがしちゅうがっこう・こうとうがっこう, Saga Prefectural Karatsu-Higashi Junior High School and Senior High School)は、佐賀県唐津市鏡新開に所在する県立中学校・高等学校。併設型中高一貫校。略称は「東校」、「東高」、「東中」。「鶴城(かくじょう)」[2]の別名で呼ばれることもある。 高等学校の設置学科[編集] 旧制中学校が前身の県立普通科校。同校の前史は、1871年、唐津藩知事であった小笠原長国が新しい時代の人材を育成する為、唐津城内に「耐恒寮」として開かれた[3]。進学予備校の先駆けをなし、この後、英語教師として高橋是清が招かれ、辰野金吾[4]、曽禰達蔵[5]などを輩出する。当初、唐津市大名小路にあった耐恒寮は、何者かにより放火され炎上、焼失した。そこで唐津城の直ぐ下に移転することとなった。 後進の唐津東は耐恒寮の跡地に、2007年まで設置されていた。同2007年に佐賀県唐津市鏡新開の現在地に移転した。移転先の校舎内には移転前の城下に存在した本校の正門が展示してある。かつての校地は舞鶴公園に隣接する唐津城二の丸御殿跡地にあった。現在地は松浦川東岸、東唐津駅付近になる。同校が移転した同2007年に旧校地には早稲田佐賀中学・高等学校が新しく設置された。 校歌は下村湖人(旧制唐津中学第六代校長)作詞、諸井三郎作曲。他に旧制中学時代の校歌が2つある。 制服は男子は一般的な黒色の詰襟の学生服(中高でボタンが異なる)。女子は紺色のセーラー服(胸元に中学はリボン、高校はスカーフ。夏服は中学は白色、高校は水色)。 目標・象徴[編集] 校訓 光 力 望 基本方針

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赫連達 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “赫連達” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年7月) 赫連 達(かくれん たつ、? – 573年)は、中国の西魏・北周の軍人。字は朔周。本貫は盛楽郡。赫連勃勃の末裔にあたる。 若くして賀抜岳の征戦に従って功績を挙げ、都将に任じられ、長広郷男の爵位を受け、都督に転じた。534年、賀抜岳が侯莫陳悦に殺害されると、趙貴が宇文泰を後継者に迎えるよう発議し、赫連達も賛同した。侯莫陳悦が平定されると、平東将軍を加えられた。孝武帝が関中に入ると、赫連達の爵位は魏昌県伯に進んだ。 儀同の李虎の下で曹泥を討ち、鎮南将軍・金紫光禄大夫に任じられ、通直散騎常侍を加えられた。535年、宇文泰の下で弘農を奪回し、沙苑で戦い、いずれも功績を挙げた。白水郡太守となり、帥都督に転じ、持節を加えられ、渭州刺史に任じられた。雲州刺史に転じ、爵位は公に進み、大都督に任じられた。まもなく儀同三司の位を受けた。 551年、大将軍の達奚武の下で漢中を攻めた。南朝梁の宜豊侯蕭循が防戦したが、後に降伏を打診してきた。達奚武が諸将に進退を問うた。開府の賀蘭願徳らは梁軍の食糧が尽きているのを見て、急攻して漢中を奪取するよう主張した。赫連達は「戦わずして城を獲るのは、策の上なるものである」と主張した。開府の楊寛らが赫連達の議論に賛同し、達奚武は蕭循の降伏を受け入れた。凱旋すると、驃騎大将軍・開府儀同三司に転じ、侍中を加えられ、爵位は藍田県公に進んだ。 556年、六官が建てられると、赫連達は左遂伯の位を受けた。隴州刺史として出向した。561年、大将軍・夏州総管・三州五防諸軍事に転じた。赫連達は文吏の才能はなかったが、地方官としては実直で、法度を守り、刑罰を濫用せず、身辺は清廉であった。辺境の少数民族たちにも敬愛され、羊を贈られると、絹布を贈り返した。役人は官の物を用いるよう勧めたが、赫連達は「羊を自分の台所に入れ、物は官庫の物を出すのは、上を欺くというものである」と言って自前の絹布で贈答していた。まもなく爵位は楽川郡公に進んだ。573年、位は柱国に進み、死去した。 子の赫連遷が後を嗣ぎ、大将軍・蒲州刺史に上った。 伝記資料[編集]

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悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。 – Wikipedia

『悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。』(かなしみなんてなんのやくにもたたないとおもっていた)は槇原敬之15枚目のオリジナル・アルバム。2007年11月7日、J-moreから発売。 『LIFE IN DOWNTOWN』以来、1年8か月ぶり。J-more移籍第1弾。2006年秋にシングル発売予定もレコード会社移籍に伴いライブDVD『Noriyuki Makihara in concert “LIVE IN DOWNTOWN”』と共に発売延期された楽曲「五つの文字」が初収録。ライブDVDは2008年1月16日発売。 初回盤封入パスワードで期間限定特設サイトにログインすると、Instrumental「introduction」とカラオケがCDで発売済の「GREEN DAYS」以外のアルバム収録曲全9曲カラオケが先着10,000名に限りダウンロード入手可となり、前述「GREEN DAYS」シングルを入手すると完全なカラオケアルバムが完成するようになっている。[1] 作詞・作曲・編曲:槇原敬之 Strings Arrangement:トオミ ヨウ(1.6.8.9) introduction 祈りの歌が聞こえてくる Dance

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あまゆーず – Wikipedia

あまゆーずは兵庫県尼崎市出身、元保育士の女性デュオでシンガーソングライター。 ピアノとギターで弾き語り、フォークの香りが残る楽曲と心地よいハモリが定評。ピアノ担当、ギター担当は決まっておらず、ライブ中に楽器をチェンジしたりする。バラード系やアップテンポの曲もあり、癒しと躍動感が持ち味。 また、お客さんとの掛け合いや振り付けもあり、みんなが笑顔になるコンサートを行う。 神戸市頌栄短期大学保育科在学中に知り合い、2002年6月22日フォークデュオの「あまゆーず」を結成。 ネーミングの由来は、「あ(あーやん)」「あま(尼崎)」「ゆー(ゆーみん)」「ず(複数形)」を合わせたことから。 2004年3月に短大卒業とともに保育士になるため解散し、保育士を数年経験する。2007年に芸能事務所Office SHINKOU株式会社にスカウトされ、音楽の世界へ。 その後、年間100本を超えるイベントやコンサートを行い、2009年5月にサンケイミュージック(産経新聞社)より全国デビューし、オリコンにも連週登場。 ラジオやテレビなどメディアにも多数出演の他、ポスターモデルや新聞コラム掲載、旅番組、グルメのリポーター、警察署の一日署長など、ミュージシャンとしてではなくタレントとしても活動している。 保育士の経験を活かし、保育園・幼稚園コンサートや、小・中学校コンサート、障害者施設、高齢者大学の講師も行っている。 2011年11月には尼崎商工会議所100周年きらきらPR大使[1]、2015年には日本遺産・大阪府竹内街道横大路PR大使、2016年には尼崎市市制100周年PR大使、2018年11月から尼崎市選挙PR大使、2020年11月から大阪国税局管内で初の広報大使を尼崎税務署で任命される。 2019年5月、結成10年を迎えて『ご当地アイドル殿堂入り』に認定された[2]。 また、楽曲提供も幅広く行っている。 幼稚園・保育園の園歌 兵庫県交通安全の歌:「守ろう みんなの笑顔~交通安全のうた~」(2011年9月) 兵庫県警の雑踏事故防止の歌「ざっとうの詩~絆~」 駅前デパートのイメージソング 兵庫県自動車整備振興会イメージソング サンケイリビング「あんふぁん」ファーストステッププロジェクト

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ユニバーサル野球 – Wikipedia

ユニバーサル野球(ユニバーサルやきゅう)は、大型の野球盤を用いて行うインクルーシブスポーツのひとつ。また開発元である堀江車輌電装の商標名である[1]。 鉄道車両の整備を手掛ける堀江車輌電装により企画・開発され、障がいや野球経験の有無を問わず遊べる[2][3]。一般的な野球場の約20分の1の大きさかつ野球盤(約60cm)の約10倍の大きさの、幅・奥行き5.2mの大型の野球盤を用いて行われる[4]。 ユニバーサル野球は障がいのある人でも楽しめるというコンセプトのもとに考案された。きっかけは脳性まひで特別支援学校に通う野球好きの少年の「野球をやりたい」という願いであり、かねてより障がい者支援事業を行っていた堀江車輌電装により2017年に製作が開始された。試行錯誤の末、2019年に試作型が製作され、バージョンを三つ重ね、同年6月より同社の新事業としてスタートした[3][5]。 基本的な仕組みは通常の野球盤と同様であるが、本作は「障がい者でも楽しめるように」というコンセプトで製作されているため、操作に力を必要としないなど障がい者にやさしい設計となっている。 通常の野球盤と違って投球の機構はなく、ボールはホームベース上にあるボール台に置かれる仕組みとなっている。このボール台は回転台となっており、10秒から45秒で一周する。ボールは直径10cmのアルミ製のものが使用される[3][5]。バッターボックスに設置されている専用のバットは軽い力で抜けるピンで固定されており、これにつながる紐を引っ張ってピンを抜くことでバットがスイングし、ボールを打てる。作動させるには1cmでも指や腕を動かすだけでよい[5]。バットは開発時は木製であったが、ミズノの協力の下、金属製のものが採用されている。盤上は通常の野球盤同様、本塁打や二塁打、アウトなどの穴があり、また各塁やバックスクリーンは電工式となっている[2]。 高さは60cmであるため、車椅子に座りながらのプレイが可能。ボールが飛び出さないようにするための壁(フェンス)は透明なものが採用され、座りながらでも中の様子を見られる[2]。 強化ダンボールを主な材料として製作されているため軽量であるため、コンパクトに収納でき、車一台で搬送できるほか、約一時間で設営・撤収できるなどメリットに富む[2]。基本的に屋内用であるが、埼玉県横瀬町の協力の下、木製の屋外用も開発されている[6]。 上記の通り、重い障がいを持った人でも楽しめる設計となっており、教育機関や企業など問わず、活用されている[3][6][7][8]。開催時には実際にウグイス嬢による場内アナウンスが行われ、また現役のプロ野球選手を招いて対戦できるイベントが開催されるなど、好評を博している[7][9]。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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藤倉勇樹 – Wikipedia

藤倉 勇樹(ふじくら ゆうき、1979年10月23日 – )は日本の将棋棋士。棋士番号245。桜井昇八段門下。東京都新宿区出身。 第30回(2001年度下半期)三段リーグでは5勝13敗と低調だったが、翌第31回(2002年度上半期)は一転して13勝5敗の好成績で、1位で四段昇段を果たす。 第19期竜王戦(2005 – 06年)6組で、ランキング戦で準決勝まで進出し、昇級者決定戦でも勝利して5組に昇級する。 しかし、順位戦では7期在籍していずれも指し分け(5勝5敗)以下の成績しか収められず、第68期(2009年度)C級2組の順位戦で3つ目の降級点を取り、熊坂学(27歳で順位戦の制度上最速の3期在籍で陥落)に次ぐ史上2番目の若さ(30歳)、本間博と並ぶ史上2番目タイの速さ[1]でフリークラスに陥落した。 2015年度には、第66回(2016年度)NHK杯将棋トーナメント予選の決勝で梶浦宏孝四段に勝ち、初の本戦出場を決めた(本戦では1回戦で、第40回優勝者の先崎学九段に敗れた)。 フリークラス在籍期限となる2019年度まで規定の成績を挙げることが出来ず、2020年3月末時点で5組在籍を維持していた竜王戦を除き、2020年度以降に開催される公式戦の参加資格を失った。竜王戦のみ2020年12月の第34期に出場が可能となったが、2010年に改定されたフリークラス規定の特例によって現役続行となったのは、藤倉が史上初である[2]。第34期も5組残留を決め、次期の竜王戦参加資格を得た[3]。しかし第35期竜王戦ではランキング戦、昇級者決定戦いずれも初戦で敗れ、残留決定戦の終了をもって引退となることが決定した。 振り飛車党の棋士で、四間飛車を駆使した対トーチカ・対居飛車穴熊・相振り飛車などの戦形を得意とする。 初心者(特に、小中高生)への普及に力を入れており、その指導はアマチュア目線に立っていて丁寧であると評されている。 NHK杯の記録係を担当した時期があり、四段昇段(プロ入り)後も継続した。 愛棋家として知られる作家内館牧子[4]に中村太地と共に指導対局をしたことがある。内館は藤倉と中村を「棋界屈指の美男子」と持て囃した。 2010年9月12日に、女流棋士安食総子を講師として迎え入れ、「志木こども将棋教室」を開室。2016年9月には「東新宿こども将棋教室」を開室[5]。 女流棋士になった弟子は和田あきと和田はなの姉妹がいる。 昇段履歴[編集] 主な成績[編集]

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