Month: February 2018

エミュア – Wikipedia

エミュア(英: Emmure )は、アメリカ合衆国出身のメタルコアバンド。 コネチカット州から活動を始め、後にニューヨークのクイーンズ区に本拠を移す。 This City Is Burning RecordsからデビューEP『The Complete Guide to Needlework』をリリース。その後、Victory Recordsに目をかけられ移籍する。 2015年12月22日、ボーカルであるフランキー・パルメリを除いたメンバー全員がバンドを脱退したことを発表した[1]。 その後、Glass Cloud、The Tony Danza Tapdance

Continue reading

国鉄タキ6550形貨車 – Wikipedia

国鉄タキ6550形貨車(こくてつタキ6550がたかしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)及び1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化後は、日本貨物鉄道(JR貨物)に在籍した私有貨車(タンク車)である。 本形式は、塩化ビニール専用の30t積タンク車として1967年(昭和42年)3月16日から同年4月3日にかけ8両(タキ6550 – タキ6557)が富士重工業の1社のみで製作された。その後の1968年(昭和43年)5月31日にホキ5600形より3両(ホキ5629 – ホキ5631)の専用種別変更が行われ、本形式(タキ6558 – タキ6560)に編入された。更に1970年(昭和45年)8月4日にホキ6000形より2両(ホキ6021、ホキ6025)の専用種別変更が行われ、本形式(タキ6561 – タキ6562)に編入された。以上合計13両(タキ6550 – タキ6562)が在籍した。 所有者は、日本ゼオンの1社のみであり、その常備駅は富山県の能町駅であった。その後常備駅は、水島臨海鉄道港東線の東水島駅へ移動した。 本形式の他に塩化ビニールを専用種別とする形式にはタキ12300形(1両)、タキ12400形(1両)、タキ20400形(13両)、ホキ5800形(4両)の4形式が存在した。 1979年(昭和54年)10月より化成品分類番号「燃G23」(燃焼性の物質、高圧ガス、高圧ガス、可燃性のもの)が標記された。 タンク体は普通鋼(一般構造用圧延鋼材 SS41、現在のSS400)製で、その外観はタンク車よりホッパ車に近かった。 塗色は、黒色であり、全長は14,500mm、全幅は2,983mm、全高は3,943mm、台車中心間距離は10,400mm、実容積は66.7m3、自重は19.1t、換算両数は積車5.0、空車1.8、台車はベッテンドルフ式のTR41Cであった。 1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化時には7両の車籍がJR貨物に継承されたが、1990年(平成2年)1月に最後まで在籍した3両(タキ6558 –

Continue reading

相場一宏 – Wikipedia

相場 一宏(あいば いっこう、1936年 – )は、囲碁ライター、編集者。秋田市出身、駒澤大学仏教学科中退。 囲碁ライター協会名誉会長[1]。全日本囲碁協会理事[2]。囲碁史の研究も行い、2006年4月にスタートした「囲碁史会」の運営委員。天元戦・新人王戦の観戦記者をつとめた[3]。 1981年ごろから出版社・四星社も経営し、『囲碁名局年鑑』『囲碁新手年鑑』などを刊行した[4]。 筆名について[編集] なお、『不思議な捕物帳!楽しみながら二目上がる』(囲碁1973年7月特大号・第2付録)は「早条逸光」名義の著書だが、相場の2000年の著書『奇妙な死活』の中で、同書からの引用が多数あり、また早条逸光が「そうじょういっこう」(=相場一宏)と読めることもあり、相場のペンネームの可能性がある。 なお『上手の割り込み反対!六目以上の必勝法』(囲碁1974年7月特大号・第2付録)、『棋聖秀行の碁』(四星社)、『囲碁名局年鑑 82年版』(四星社)についても、編集名義は類似した名前である「早条一光」となっている。 新囲碁格言集 : アマチュア必勝 文研出版 1970 (文研リビングガイド) 日本囲碁大系 第10巻 丈和 筑摩書房 1976

Continue reading

メイケイエール – Wikipedia

この記事は現役競走馬を扱っています。今後の動向で情報や評価が大きく変動する可能性があります。 メイケイエール(英: Meikei Yell、2018年2月23日 – )は[1]、日本の競走馬。主な勝ち鞍は2020年の小倉2歳ステークス(GIII)、ファンタジーステークス(GIII)、2021年のチューリップ賞(GII)、2022年のシルクロードステークス(GIII)。 デビュー前[編集] 2018年2月23日、北海道安平町のノーザンファームで誕生。母シロインジャーは本馬の曾祖母シラユキヒメから広がる白毛馬一族の一頭であり白毛の馬だが、本馬の毛色は鹿毛である。2019年のセレクトセール1歳馬市場で名古屋競馬株式会社に2808万円で取引され、ノーザンファーム早来で育成が施された。早来では、山根健太郎が厩舎長として初めて送り出した世代の一頭であった[2]。栗東トレーニングセンターの武英智厩舎に入厩した。馬名の由来は冠名 +「応援」[3]。 競走馬時代[編集] 2歳(2020年)[編集] 8月22日、小倉競馬場の新馬戦に福永祐一を鞍上に出走。1番人気に支持されると、レースでは手綱を持ったまま2着に5馬身差をつける圧勝でデビュー勝ちを果たした[4]。 重賞初挑戦となる9月6日の小倉2歳ステークスでは武豊に乗り替わり参戦。台風が九州地方を北上、小倉に接近する中、雨が降り、当日のうちに良馬場から重馬場となった[2]。雨が降る中、未勝利戦を大差で勝ち上がったモントライゼが単勝オッズ1.8倍の1番人気、それに次ぐ6.3倍の2番人気の支持で出走した[2]。中団外で末脚を溜めた。最終コーナーになるにつれて先行勢を視野に入れるポジションまで進出[2]。直線にて、早めに先頭に躍り出たモントライゼを凌ぐ末脚を見せ、1馬身4分の1差をつけて勝利、重賞初制覇となった[2]。また父ミッキーアイルと管理する武英智調教師に初の重賞制覇をもたらした[5]。新種牡馬の産駒がこの競走を勝利するのは2013年のホウライアキコ(父:ヨハネスブルグ)以来のことで、2000年以降6回目の出来事であった[2]。 続く11月7日のファンタジーステークスでは道中かかり気味に先団を進み、直線で他馬を突き放して重賞2連勝を果たした。勝ち時計は1分20秒1。このタイムは2006年の同レースで記録されたアストンマーチャンの1分20秒3を上回る2歳レコードだった[6]。 続いて暮れの阪神ジュベナイルフィリーズに出走したが、大外枠スタートからまたも道中で掛かってしまい、直線では他馬をまとめて交わす勢いも、最後は伸びを欠き4着に敗れた。騎乗した武豊は「折り合いがつかなくてロスがあったぶん、最後は甘くなってしまった」とコメントした[7]。 3歳(2021年)[編集] 桜花賞トライアルのチューリップ賞で始動。出走馬のうち唯一の重賞勝ち馬であり、単勝1.6倍の圧倒的1番人気となった。レースではスタート直後に5番手に付けるも激しく掛かってしまい、鞍上の武豊の抑えも利かず3コーナーで早々に先頭に立った。最後の直線では内側からエリザベスタワーに、外からストゥーティとタガノディアーナに迫られたが、ゴールまで粘りきってエリザベスタワーと1着同着で優勝し、重賞3勝目を挙げた[8][9]。レース後のインタビューで鞍上の武豊は「勝つには勝ちましたが、良い勝ち方ではありませんでした。次へ向けて課題が多くなったと思います」と、武英智調教師は「前に馬がいるとムキになるようです」と語っている[9]。 そのまま牝馬三冠一冠目の桜花賞へ駒を進めた。ここでは主戦の武豊の負傷により横山典弘に乗り替わっての出走となったが、阪神JFの上位2頭に次ぐ3番人気に支持された。しかし馬場入り時からすでにテンションが高まるなど落ち着きがなく、レースでもスタートで出遅れ、途中から暴走気味に先頭に立つなど終始制御が利かず、直線では余力無くズルズル後退し18着のシンガリ負けを喫した[10][11][12]。レース後、同馬は向正面で銜(はみ)受け不良となったことについて平地調教再審査が課されることになった[13][12]。 その後武豊を背に8月19日に行われた調教再審査に合格。これにより、出走予定であるキーンランドカップへの出走が正式に可能となった[14]。 予定通り桜花賞以来の復帰戦としてキーンランドカップに出走。同じ3歳牝馬のレイハリアなどを抑え1番人気に推されるも、レースでは再び折り合いを欠き向正面で早々と先頭に立つと、直線では伸びを欠き7着に敗れた[15][16]。騎乗した武豊は「難しい馬ですね。返し馬はうまくいったけど輪乗りで気合が入りすぎた。4コーナーで手応えがなかった」

Continue reading

鹿児島市交通局20形電車 – Wikipedia

鹿児島市交通局20形電車(かごしましこうつうきょく20がたでんしゃ)は、1978年(昭和53年)に登場した鹿児島市交通局の路面電車車両(花電車用無蓋電動貨車)である。 1978年に花1号が、翌1979年(昭和54年)に花2号が登場した。導入当時、鹿児島市交通局は赤字経営が続いていた。そんな中1978年の市電50周年の際、花電車を走らせて市民に明るい印象を植え付けよう、広告収入で少しでも赤字解消に役立てて、市内観光の目玉にしようと、西日本鉄道(西鉄)福岡市内線で花電車として使用されていた20形の20・22を譲り受け、20形花1・花2とした。西鉄では1975年(昭和50年)の福岡市内線大幅廃止まで博多どんたくの際の花電車として使用されていた。 車体はフラットで、前照灯などは取り付けられていない。集電装置はパンタグラフで、高い櫓の上に取り付けられている。台車は2軸単車のブリル21E形である。製造は(導入当初の番号)花1が日本車輌製、花2が深川造船所製である。製造年は1911年(明治44年)で福岡時代に花電車に改造されたのが1948年(昭和23年)である。 一年のうち数度しか走らない花電車を使わないのは無駄ということで、花1(初代。現、花2)が桜島噴火の際の火山灰の巻き上げを防ぐ散水車に改造された。荷台部分に水タンクを乗せ、散水車とした。しかし散水自動車の普及により次第に稼働回数が減り、2001年(平成13年)にはタンクを撤去、元の花電車に戻った。 西鉄への貸出[編集] 1988年(昭和63年)、北九州市で「わっしょい百万夏まつり」が開催されるのにあわせ、西鉄北九州線では開催期間中に花電車を運行することになった。しかし当時既に西鉄に花電車にできる車両は存在しなかったため、鹿児島と長崎から1両ずつ借り受けて運行した。鹿児島市交通局からは、散水タンクが取り付けられていなかった花2が貸し出された。なおこの際、運輸省(現、国土交通省)に届け出た番号が「花1」となったため、花1と花2で番号の振り替えを行った。 以後、1992年(平成4年)に北九州線の大部分が廃止されるまで、毎年祭り期間中に西鉄に貸し出されて運行していた。 2013年(平成25年)3月31日付で、花1が廃車となった。 2013年のおはら祭り花電車 2011年のおはら祭り花電車 年に一度(11月2日・3日)に開かれる「おはら祭」の際に花電車として走行するのが主な運行であった。近年では10月下旬からおはら祭前日まで市内を走行し、祭当日に会場に展示するようになっていた。その他にも、市での催し等がある場合ごく希に走行することがあった。 花1の廃車後に残った花2も老朽化のため2020年のおはら祭を最後に代替されることになり、同年10月21日から11月2日まで実施された運行が最後のPR運行となり、翌11月3日の展示とそのための回送をもって運行を終了している[1]。 参考文献[編集] 水元景文『鹿児島市電が走る街 今昔 花と緑あふれる南国の路面電車定点対比』、JTBパブリッシング〈JTBキャンブックス〉、2007年 ISBN 978-4-533-06776-1 柴田東吾「車両履歴から見た西鉄の路面電車」『鉄道ピクトリアル』No.847 関連項目[編集]

Continue reading

コスタス・ツィミカス – Wikipedia

コスタス・ツィミカス リヴァプールFCでのツィミカス (2021年) 名前 本名 コンスタンティノス・ツィミカスKonstantinos Tsimikas ラテン文字 Kostas Tsimikas ギリシャ語 Κώστας Τσιμίκας 基本情報 国籍 ギリシャ 生年月日 (1996-05-12) 1996年5月12日(25歳) 出身地

Continue reading

片山正夫 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年8月) 片山 正夫(かたやま まさお) 生誕 (1877-09-11) 1877年9月11日 日本・岡山県 死没 (1961-06-11) 1961年6月11日(83歳没) 国籍 日本 研究機関 東京帝国大学 プロジェクト:人物伝 テンプレートを表示 片山 正夫(かたやま まさお、1877年9月11日

Continue reading

エレン・ハンコック – Wikipedia

エレン・ハンコック (英語: Ellen Hancock) は、アメリカ合衆国の技術者、実業家。IBMの上級副社長/グループエグゼクティブ[1]を経て、1996年7月[2]から1997年7月まで、Apple Computerにてギル・アメリオCEOの片腕として研究開発担当上級副社長兼CTOを務めていた[3]。Exodus Communicationsの元会長兼CEO[4]。 1996年にCopland計画を中止し、OPENSTEPを次期Mac OS(後のmacOS)の技術基盤として選んだ人物である[5]。1999年にカナダ人起業家ロジャー・ボワベール(1951-2001)率いる日本最初のインターネット・サービス・プロバイダー(ISP)、Global OnLine Japan(GOL)を買収、日本に進出[6]。2000年、野村総合研究所と日本発のインターネットデータセンターを東京に開設[7]。アメリカ人女性CEOとして日本のデータセンター業界をけん引した[8]。 ^ Apple and I.B.M. Are Seen Close to PC

Continue reading

スノーピーク – Wikipedia

スノーピークは、日本の新潟県三条市に本社を置くアウトドア総合メーカーおよびそのブランド名(Snow Peak )である。世界に先駆け、「オートキャンプ」のスタイルを生んだ会社として知られる[1]。近年はキャンピングオフィス事業、複合型リゾート事業、ワーケーションの推進などに力を入れている[2][3][4]。 創業は山井幸雄商店という金物問屋で、当時の登山用品に不満があった初代社長の山井幸雄が、オリジナルの登山用品・釣り具を開発したことによりアウトドアレジャーメーカーとして事業を拡大し、株式会社ヤマコウと社名変更した。 1986年に山井幸雄の長男である山井太が入社してキャンプ製品の開発を開始。1988年にオートキャンプ事業を立ち上げた[1]。これにより、オートキャンプシーンを創りだしたパイオニアとして知られることになった。1996年に山井太は代表取締役に就任して同時に社名を株式会社スノーピークとし、オートキャンプの需要拡大とともに新しい製品を市場へ投入していった。 90年代前半にオートキャンプブームが収束すると減収が続く長いトンネルに入る。1990年代後半、ユーザーとのキャンプイベント「Snow Peak Way」を開催した時にユーザーから語られた「製品は良いけど高い」「品揃えが悪い」という言葉にショックを受け、見直しを図る。正規特約店制度を導入し、問屋の介在を排した[5]。同時期、直火での焚き火が禁止されたキャンプ場でも焚火ができるステンレス製の焚火台をリリースしてロングセラー商品として育て上げるなど状況に応じた製品開発で苦境を脱した[6]。現在では日本国内のみならず海外にもグループ会社を持ちオートキャンプ、登山用のテントや寝具、タープ、チェア、マグカップ等のアウトドア用品や自然指向のライフスタイルを実現するアイテム等の販売を行なっている。 経年劣化やユーザー自身の過失などを除いて、全ての商品に「永久保証」を付けている[2]。故障やテントの破れ等ほとんど全てのアイテムが同社のアフターサービスで修理のサービスを受けることができる。 2009年4月1日、フライフィッシング以外のフィッシング事業をグローブライド(旧:ダイワ精工)に譲渡した。譲渡後もグローブライドはスノーピークブランドを展開している。 2011年4月29日、本社機能をそれまでの三条市三貫地から同市中野原(旧:南蒲原郡下田村)に「HEADQUARTERS」として拡張移転。計165,000m2の土地に直営のオートキャンプ場「HEADQUARTERS Campfield」をオープン。同社製品の全てを手に取ることができる直営店「HEADQUARTERS Natural Lifestyle Store」を併設している。キャンプ場ではレンタルも可能。『手ぶらキャンププラン』という機材一式レンタルや宿泊利用費、スタッフによる設営サポートが含まれた初心者向けのプランも用意している。本社「HEADQUARTERS」は工場やアフターサービス、オフィスの見学が可能である。 2014年、アパレル事業をリニューアル。2015年11月、表参道に旗艦店をオープン。他にも、住まいやオフィスにおけるアウトドアライフスタイルを提案するアーバンアウトドア事業を展開するなど新規事業にも力を入れている。 2016年7月、北海道帯広市と、観光振興や人材育成に協力する「包括連携協定」と結ぶ。地方自治体との同協定の締結は初めて[7][注 1]。同年9月、建築家隈研吾とコラボーションしたモバイルハウス「住箱」を発表。 2019年、社長の山井太がアメリカ合衆国に移住[13]。2020年2月26日、3月27日付で山井太が代表権のある会長に就任し、長女の山井梨沙副社長が社長に就任する人事を発表した[14][15]。 2020年7月23日、長野県白馬村で体験型複合施設「Snow

Continue reading