Month: February 2018

佐藤将也 – Wikipedia

佐藤 将也(さとう まさや、1990年2月10日 – )は、静岡県出身のサッカー選手。ポジションはDFやMF。 小学校4年生でサッカーを始めた[1] が、中学校時代まではサッカーでは全く無名であった[2]。なお、兼部で所属していた陸上部では県大会まで進んでいる[2]。浜名高校に進学後才能を開花させ、県選抜やU-18日本代表候補に選ばれるまでに成長した[2]。 名古屋のほか4チームの練習に参加したが、「自分が成長できる場所」という理由で名古屋への入団を決意する[2]。2008年1月13日、ユースから昇格した花井聖とともに入団会見を行った[3]。 2008年5月31日のナビスコカップ京都サンガF.C.戦に、ボランチの先発で初出場[4]。リーグ戦とカップ戦を合わせても、出場はこの1試合に留まった。 2009年にはリーグ戦でベンチ入りする機会も増え、第3節清水エスパルス戦でリーグ戦デビューを飾り、第16節ガンバ大阪戦ではリーグ戦フル出場を果たした。 またこの年はU-20日本代表としてカタール国際親善大会に出場し[5]、4月に行われたU-20強化合宿にも参加した[6]。 2010年1月8日、ザスパ草津への期限付き移籍が発表された[7]。 2011年から当時日本フットボールリーグ(JFL)のFC琉球に完全移籍[8]。2012年限りで退団[9]。 2013年、藤枝MYFCへ移籍[10]。 2016年2月、現役引退が発表された[11]。 2017年よりトヨタ蹴球団でプレーしている[12]。 所属クラブ[編集] 個人成績[編集] 国内大会個人成績 年度

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カジミェシュ宮殿 – Wikipedia

カジミェシュ宮殿(カジミェシュきゅうでん、ポーランド語: Pałac Kazimierzowski)は、ポーランド・ワルシャワにある宮殿である。 1637年から1641年にかけて建設された後、1660年にヤン2世の命により改築され、1765年から1768年にかけてスタニスワフ2世アウグストの命により士官学校(英語版)とするためにドメニコ・メルリーニ(英語版)により改築された。 1816年より、カジミェシュ宮殿はワルシャワ大学の校舎として使用されてきた。ワルシャワ大学はポーランド国民の蜂起の度にロシア帝国当局によって閉鎖され、1939年から1944年にかけてドイツ軍によって閉鎖された。第二次世界大戦中に建物が破壊され、戦後に再建された。 当初[編集] ヴィラ・レジア(1656年) カジミェシュ宮殿は、1637年から1641年にかけて、ヴワディスワフ4世の命により、イタリア人建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・トレヴァーノ(英語版)の設計により、マニエリスム的な初期バロック様式で建てられた。ローマン・ヴィラ(英語版)として建てられ、ヴィラ・レジア(Villa Regia、ラテン語で「王室の別荘」の意)と命名された[1][2]。角張った塔を持つ長方形の建物だった。 ヴィラ・レジアには、庭に面したファサードに大きなロッジアがあり、ヴィスワ川とその対岸のプラガ(英語版)の街の眺めを望むことができた。4つのアルコーブ(英語版)と2つの庭園(前方の花園と後方の植物園)があった。それぞれの庭園には、王室建築家アゴスティーノ・ロッチ(イタリア語版)によって調達された彫刻が飾られていた。その中には、フィレンツェで7,000ギルダーで購入したものや、アドリアーン・デ・フリース(英語版)がプラハで制作したものもあった[3]。アダム・ヤジェンプスキによれば、『ケンタウロスのネッソスと戦うヘラクレス』や『蛇に噛まれた馬』の彫刻もあった[2]。庭園には大きな四阿があり、当初はフラマン人の王室画家クリスチャン・メリッチがアトリエを構えていたが、後に王妃ルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガがサロンを開催した。 この宮殿には、ヴェネツィア様式の金箔を施した天井や、大理石のポータルなどの豊かな調度品があった。1650年代には、彫刻家ジョヴァンニ・フランチェスコ・ロッシ(ポーランド語版)が、国王ヤン2世と王妃ルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガの胸像をモチーフにしたローマ・バロック様式の大理石装飾を施した。これらの装飾は非常に貴重なもので、大洪水時代に、スウェーデン王カール10世が窓枠を引き抜いてスウェーデンに輸送するよう命じ、現在はグリプスホルム城に展示されている[3]。 ヴィラ・レジアには大きなコンサートホールがあり、音楽の守護聖人である聖セシリアと王妃ツェツィーリア・レナータを描いた天井画で装飾されていた。大洪水時代に古代の彫刻の大規模なコレクションはブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムによって略奪され、ベルリンに運ばれた[2][3]。庭の彫刻はスウェーデンに運ばれた[2]。その後、宮殿は燃やされた。 大洪水時代の荒廃の後、1652年にイジドール・アフェイト、1660年にティトゥス・リヴィウス・ブラッティーニの設計により再建され、ヤン2世カジミェシュ・ヴァーザにちなんで「カジミェシュ宮殿」と名付けられた[1]。 1667年に放棄された後、国王ヤン3世の所有物となった。1695年、建物は火災で全焼した。 改装[編集] 1724年頃、所有権は国王アウグスト2世に移された。この時期には、クラコフスキエ・プシェドミエシチェ(英語版)に面した門と宮殿の正面に垂直に設置された8つのバラックが建設された。 1735年、この宮殿はアレクサンデル・ユゼフ・スウコフスキ(英語版)伯爵の所有となった。ここには煉瓦工場、ストーブ工場、醸造所が設立され、1737~39年にはヤン・ジグムント・デイベル(英語版)とヨアヒム・ダニエル・フォン・ヤウフ(英語版)のロココ調の設計による宮殿が再建された。宮殿は増築され、マンサード屋根で覆われた。建物の中央部には、時計と鷲の入った球根形の最上部が飾られていた[3]。 1765年、所有権は国王スタニスワフ2世アウグストに譲渡され、ドメニコ・メルリーニ(英語版)による内装の変更を受けて士官学校(英語版)が配置された。1769年からは、国王が後援する新聞『モニトル(英語版)』が宮殿の敷地内の施設で印刷されるようになった。1769年4月5日には、宮殿内の士官学校の舞台で愛国劇「ジュナック」が上演された[3]。 1794年、コシチュシュコの蜂起の弾圧の後、士官学校は閉鎖された。 ワルシャワ大学[編集]

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ボヤント・オハー国際空港 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ボヤント・オハー国際空港” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年12月) ボヤント・オハー国際空港(ボヤント・オハーこくさいくうこう、モンゴル語: Буянт-Ухаа олон улсын нисэх буудал, 英語: Buyant-Ukhaa International Airport)は、モンゴル国の首都・ウランバートルから南に10km程の位置にある空港である。旧称はチンギスハーン国際空港(チンギスハーンこくさいくうこう、モンゴル語: Чингис

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土浦海軍航空隊 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年5月) 土浦海軍航空隊(つちうらかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊・教育機関の一つ。予科練の練成を行ってきた霞ヶ浦海軍航空隊を初歩練習・実用練習部隊に改編させるため、予科練習部を独立移転させる形で発足した。太平洋戦争開戦とともに、全国各地に後発の予科練航空隊が林立したが、そのルーツともいえる教育部隊である。略称は「土空(つちくう)」。 原隊である霞ヶ浦海軍航空隊は、1925年(大正14年)3月1日の開隊以来、一貫して航空機の実機訓練を担ってきた。ここに横須賀海軍航空隊から予科練が移転したのは1939年(昭和14年)3月1日である。日華事変の長期化と対米英戦を意識した軍拡にともない、霞ヶ浦空での訓練強化が望まれた。そこで、初歩操縦訓練に到達していない予科練習部を移転し、開いたスペースを初歩・実用機訓練部隊に明け渡すとともに、予科練のさらなる拡張を図ることとした。そこで1940年(昭和15年)11月15日をもって、鹿島海軍航空隊の開隊によって遊休化していた茨城県稲敷郡阿見村の霞ヶ浦空水上機練習場跡に移転し、土浦空を発足させた。移転の際は、霞ヶ浦空の全予科練生を一手に引き受けたため、甲飛・乙飛・丙飛がすべてそろってしまうことになり、特に甲飛と乙飛の対立は深刻の度を増していた。これが後発の三重海軍航空隊・鹿児島海軍航空隊の増設計画に発展する。しかし、戦況の悪化によって、後発航空隊による甲乙分離計画は立ち消えとなり、末期まで尾を引いた。 1943年(昭和18年)に東宝映画が制作した戦争映画「決戦の大空へ」は、予科練生徒の勧誘を目的としていたため、予科練教育の中核をなした土浦空は撮影に全面協力した。ロケ地となり、錬成風景や施設の様子が随所に写されている。 1940年(昭和15年) 11月15日 霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。横須賀鎮守府第11連合航空隊 11月28日 丙飛第2期入隊(16年1月15日進級) 12月1日 乙飛第15期入隊(17年11月25日卒業) 1941年(昭和16年) 2月28日 丙飛第3期入隊(8月1日卒業) 4月1日 甲飛第8期入隊(17年9月25日卒業) 5月1日 乙飛第16期入隊(18年3月-7月卒業)・丙飛第4期入隊(10月31日卒業) 6月30日 丙飛第5期入隊(12月29日卒業) 8月30日 丙飛第6期入隊(17年2月28日卒業) 10月1日 甲飛第9期入隊(18年1月卒業) 10月31日 丙飛第7期入隊(17年4月28日卒業) 12月27日 丙飛第8期(17年7月29日卒業)・第9期(17年9月23日卒業)入隊 1942年(昭和17年) 2月28日 丙飛第10期入隊(11月24日卒業) 4月1日 甲飛第10期入隊(18年5月24日卒業)

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ルイス・カレーロ・ブランコ – Wikipedia

ルイス・カレーロ・ブランコ(スペイン語: Luis Carrero Blanco, 1904年3月4日 – 1973年12月20日)は、スペインの軍人(海軍大佐)・政治家。長らくフランシスコ・フランコの腹心であり、1973年にはその後継者として首相に就任したが、わずか半年後にバスク祖国と自由(ETA)によって暗殺された。 軍人[編集] 1904年、カンタブリア県サントーニャに生まれた[1]。1918年に海軍兵学校に入学し、卒業後の1924年から1926年にはスペイン・モロッコ戦争の中の紛争のひとつである第3次リーフ戦争に参加した。1929年にはマリア・デル・カルメン・ピチョット・イ・ビリャ (1909-1984)と結婚し、5人の子供を儲けた。1936年7月にはフランシスコ・フランコやエミリオ・モラ(英語版)の両将軍の軍事クーデターによってスペイン内戦が勃発し、カレーロ・ブランコはスペイン内戦中に遠戚であるフランコの腹心となった[1]。1938年3月のパロス岬沖海戦でマヌエル・ビエルナ(スペイン語版)が戦死すると、カレーロ・ブランコがビエルナの後任として前線の艦隊を指揮した。内戦後にフランコ独裁政権が誕生すると、その政権下で海軍兵学校の教官、海軍参謀本部長、海軍司令官などの要職を務めた[1]。 政治家[編集] 1951年に第6次フランコ内閣で初入閣すると、1962年まで11年間は総理府官房長官を務め、1962年からはやはり11年間副首相を務めた[2]。フランコは1965年頃にパーキンソン病を患って老いが目立ち始めていた[2]。1973年6月8日には国家組織法に則り、フランコの後継者として首相に就任した[3][4]が、既に69歳と高齢だった。就任演説ではバスク祖国と自由(ETA)との闘争を宣言した[5]。 ETAによる暗殺計画[編集] マドリードの暗殺場所に掲げられている記念額 これに対してETAのチキア(こぐま座)部隊は22歳から27歳までの6人のメンバーをマドリードに送り込み[5]、当初はカレーロ・ブランコの誘拐を計画していたが、後に暗殺計画に切り替えて作戦を練った[6]。カレーロ・ブランコは毎日午前9時にイエズス会系のサン・フランシスコ教会でミサを授かっており、毎日同じ時間帯に同じ道順で教会に向かい、その際の警備はお粗末だった[7]。 このことを把握したETAはクラウディオ・コエリョ通りに隣接した建物の地下室に目を付け、芸術家を装ったメンバーがアトリエに使用すると偽って地下室を貸借した[5]。この地下室から通りの真下に向かって、直径50cm、長さ10m、深さ2mのトンネルを10日がかりで掘り、計75キロの爆薬を仕掛けた[5]。ETAにとって標的や規模の点で当時最大の作戦であり、ETAはこの一連の暗殺計画をオグロ作戦(英語版)と呼んだ[8]。 当初は12月18日を決行予定日としていたが、この日にアメリカ合衆国のヘンリー・キッシンジャー国務長官が急遽スペインを訪問したため、在スペイン・アメリカ大使館に近いこの建物周辺には厳戒態勢が敷かれた。このため、予定を変更して2日後の12月20日に作戦を決行することになった[9]。 暗殺[編集] 首相就任から約半年後の1973年12月20日、カレーロ・ブランコはミサを授かってから午前9時20分頃に教会を出て帰路に着いた[10]。伴走車1台とともにクラウディオ・コエリョ通りに差し掛かると、車道の下に仕掛けられた爆弾が爆発した[10]。 公用車であるダッジ3700GTは爆弾の衝撃で空中に舞い上がると、高さ十数メートルの修道院の建物を飛び越えて修道院の2階の中庭に落ちた[8]。カレーロ・ブランコは病院に運ばれたが、側近や運転手と同じく即死だった[8]。クラウディオ・コエリョ通りには直径10m以上の穴が開いた[10]。

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野川中洲北遺跡 – Wikipedia

野川中洲北遺跡(のがわなかすきたいせき)は、東京都小金井市中町一丁目にある後期旧石器時代、縄文時代、奈良時代・平安時代、中世、近世の遺跡である。なお隣接する野川中洲遺跡(のがわなかすいせき、小金井市No.17遺跡)についても本項であわせて記述する。 遺跡の概要[編集] 後期旧石器時代~縄文時代、平安時代~近世の集落遺跡である。野川第二調節池の建設に伴い発掘調査が行われた。後期旧石器時代は前半期~終末期の計8枚の文化層が検出されている。縄文時代は草創期、早期の遺物がまとまって出土しているほか、後期の竪穴住居跡、掘立柱建物跡が検出されている。平安時代は建物跡は明瞭ではないが土坑、ピットが検出され土師器、須恵器が出土している。中世は溝と掘立柱建物を構成すると考えられるピット群が検出されている。近世は遺構は明瞭ではないが陶磁器が出土している。野川低地と、隣接した低位段丘面の利用に関わる痕跡が後期旧石器時代から近世まで断続的に残されていることが特徴である。 武蔵野台地の南端、国分寺崖線の南側、立川面に位置する。河川改修により現在では国分寺崖線と野川流路の間の左岸の立川面は狭い平坦面となっているが、かつては野川の主流路は南側に蛇行しており、低地部には複数の支流路があった。国分寺崖線に接続する北側には本遺跡が立地し、その南、野川の主流路と支流路に挟まれて存在していた中洲上の低位段丘面に野川中洲遺跡が立地していたことになるが、河川改修と調節池の建設により旧地形を確認することは困難となっている。野川調節池の建設に伴う発掘調査では、台地部では立川ローム層Ⅹ層まで堆積が確認され、その下位に礫層が検出されているので立川1面に相当する。なお調査区内ではⅩ層下位、およびⅣ層下部より下位に泥炭層が形成されている部分があり、立川1面であるが各所に凹地、谷が形成されていたことが窺える。また低地部では調査範囲の南側には縄文時代草創期~早期に埋積した谷が確認されている。 近隣には、同じ野川左岸、立川面の遺跡として西側に新橋遺跡、東側に武蔵野公園低湿地遺跡があり、野川を挟んだ右岸に七軒家遺跡、その西側に前原遺跡がある。国分寺崖線上の武蔵野面には隣接して栗山遺跡があり、その西側には中山谷遺跡、東側にはICU Loc.15遺跡を含むICU構内遺跡群があり、全体として野川流域遺跡群を構成する。 調査の歴史[編集] 1984~1986年(昭和59~61年)に野川第二調節池の建設に伴い発掘調査が行なわれた。調査面積は8,650m2で、現在までのところ小金井市域では最大の発掘調査となっている。発掘調査は、調査範囲の西側(西区)、東側(東区)の台地部を中心に行なわれ、西区南側の斜面~埋没谷も発掘されている。低湿地部・埋没谷では泥炭層の調査も行われ、古環境復元ための各種分析が行なわれている。 南側に隣接する野川中洲遺跡は1970年(昭和45年)頃、宍戸武昭により石器が採集、報告されたことにより遺跡として周知された。発掘調査は行なわれておらず、現状では都立武蔵野公園の一角となっている。 主な遺構[編集] 主な出土品[編集] 遺跡の変遷[編集] 後期旧石器時代[編集] 前半期~終末期にかけて8枚の文化層が検出された。最古の東区Ⅹ層の包含層は、立川礫層との比高が1m前後であり、離水後、段丘化がまだあまり進んでいない段階から居住の場であったことが窺える。後半期の前半には多数の礫群が構築された。また第Ⅰ泥炭層から出土した大型木片は人工遺物の可能性が指摘されている。 前半期[編集] 東区Ⅹ層、Ⅸ層、Ⅶ層、Ⅵ層、西区Ⅵ層が該当する。 東区Ⅹ層:石器32点が1カ所の集中部から出土した。内訳はナイフ形石器1点、石斧1点、石核3点、剥片20点、砕片2点、ハンマー2点、その他2点。チャート製とホルンフェルス製のものが半々を占める。礫群は伴わない。また二次堆積層からは局部磨製石斧2点が出土しているが、形態からみてⅩ層段階のものと考えられる。 東区Ⅸ層:石器98点が2カ所の集中部他から出土した。内訳は台形様石器2点、スクレイパー1点、二次加工剥片2点、石核8点、剥片74点、砕片12点、ハンマー1点。チャート製のものが大半を占め、次いで安山岩(玄武岩)製のものが多い。配石1基を伴う。 東区Ⅶ層:礫群1基が検出された。石器の出土はない。 西区Ⅵ層:石器3点、うち剥片(石刃)2点、二次加工剥片1点。礫群は伴わない。

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阿多田島灯台資料館 – Wikipedia

阿多田島灯台資料館(あたたじまとうだいしりょうかん)は、広島県大竹市にある、灯台に関する資料を展示している資料館(博物館)である。 1903年(明治36年)竣工の旧安芸白石灯標事務所が大竹市に譲渡され、1996年(平成6年)資料館として再開館したもの。付属施設含め国の登録有形文化財に登録された。 瀬戸内海広島湾に浮かぶ阿多田島の東南端にある。大竹市が管理する宿泊施設「海の家あたた」の付属施設として位置づけられており、普段は施錠されており見学の際には市教育委員会生涯学習課か海の家あたたに事前連絡する必要がある[1][2]。 設計は逓信省航路標識管理所[3]。元々はこの付近にある安芸白石灯標を管理していた施設で吏員の退息所・油庫・物置の3つの施設からなるが、資料館として公開しているものは旧吏員退息所のみになる。3つとも洋風煉瓦造で、外壁をモルタル処理している[3]。 資料館 文化財登録名は阿多田島灯台資料館(旧安芸白石挂燈立標施設)吏員退息所。煉瓦造平屋建、瓦葺、建築面積91m2。元々は吏員が駐在した管理棟[4]。 近代の灯台に関する資料が展示されや吏員の暮らしぶりがそのまま残っている[2]。 付帯施設 旧物置 – 文化財登録名は阿多田島灯台資料館(旧安芸白石挂燈立標施設)物置。煉瓦造平屋建、瓦葺、建築面積42m2。元々は物置・浴室[5]。 旧油庫 – 文化財登録名は阿多田島灯台資料館(旧安芸白石挂燈立標施設)油庫。煉瓦造平屋建、スレート葺、建築面積14m2。元々は燈火用の油庫[6]。2つの建物から少し離れた位置である南側海岸沿いにある。 白石とは、阿多田島と大黒神島の間約6kmの中間付近にある岩礁である[7]。安芸白石灯標(座標:北緯34度10分41秒 東経132度20分53秒 / 北緯34.17806度 東経132.34806度 /

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マグダレーナ・ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴュルテンベルク – Wikipedia

マグダレーナ・ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴュルテンベルク(ドイツ語:Magdalena Wilhelmine von Württemberg, 1677年11月7日 – 1742年10月30日)は、バーデン=ドゥルラハ辺境伯カール3世ヴィルヘルムの妃。 マグダレーナ・ヴィルヘルミーネはヴュルテンベルク公ヴィルヘルム・ルートヴィヒとマグダレーナ・ジビュラ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットの娘である。バーデン家とヴュルテンベルク家の連携を強めるため、1697年6月27日に後にバーデン=ドゥルラハ辺境伯となるカール3世ヴィルヘルムと結婚した。マグダレーナ・ヴィルヘルミーネは大きな鼻やその他の欠点を持っていたため、カール3世ヴィルヘルムの好みにはそぐわなかった。このためマグダレーナ・ヴィルヘルミーネが子供をもうけた後、夫妻は別居した。1715年にカール3世ヴィルヘルムはカールスルーエに新居を構え、独りで新しい居城に移ったが、マグダレーナ・ヴィルヘルミーネはカールスブルク城に残った。 1738年にカール3世ヴィルヘルムが死去した後、マグダレーナ・ヴィルヘルミーネは9歳の孫カール・フリードリヒの摂政団の一人となった。1742年10月30日に死去し、プフォルツハイムの城内教会の辺境伯家墓所に埋葬された。 参考文献[編集] Annette Borchardt-Wenzel: Karl Friedrich von Baden. Mensch und Legende. Katz,

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大豪健嗣 – Wikipedia

大豪 健嗣(だいごう けんし、1952年5月23日 – )は、秋田県山本郡山本村(のち山本町、現・同郡三種町)出身で、花籠部屋に所属した大相撲力士。本名は板倉 昇(いたくら のぼる)。身長186cm、体重120kg。得意手は右四つ、上手投げ。最高位は東前頭11枚目(1977年1月場所)。 来歴・人物[編集] 中学校在学中に花籠部屋へ入門し、1966年5月場所で初土俵を踏んだ。 幕下までは順調に番付を上げたが、幕下上位で苦戦し出世が遅れた。1973年11月場所より弓取式を務め、十両に昇進した1975年3月場所でも弓取式を務めたことから、この1場所だけではあるが「関取による弓取式」として話題になった。 1975年11月場所で新入幕を果たし、以降、1977年7月場所まで幕内を計4場所務めた。 しかし、幕内では1度も勝ち越せず、4場所とも二桁黒星を喫している。 上手でも下手でも、左からの投げに威力があった。根は右四つではあるが左右どちらの四つでも取れる、いわゆる「なまくら四つ」だったが、やや闘志に欠けたためか大成できなかった。 1982年3月場所を以って29歳で引退し、借り株で日本相撲協会に残ったが、1988年9月に廃業(現在では「退職」と表現)。 その後は東京都国分寺市で、相撲料理店を営んだ。 主な成績・記録[編集] 通算成績:498勝482敗14休 勝率.508 幕内成績:14勝46敗 勝率.233

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生放送で満点出せるか100点カラオケ音楽祭 – Wikipedia

『生放送で満点出せるか100点カラオケ音楽祭』(なまほうそうでまんてんだせるかひゃくてんカラオケおんがくさい)は、特別番組として2020年からTBSテレビ系列で年に2回放送されているTBSテレビ制作の音楽番組である。 採点機能付きのカラオケで満点(100点)を出した経験のある実力者たち(挑戦者)をTBSテレビのスタジオ(またはスタジオ以外の場所からの生中継)に登場させたうえで、放送中に1曲だけフルコーラスで歌うことを条件に、100点の獲得を目指す番組。挑戦者には、歌った曲の採点結果が100点であった場合にのみ賞金100万円が授与される[1]。 第1回(2020年1月11日)から基本として1月と8月に土曜日のゴールデンタイムで放送されていることから、TBSテレビの公式サイト内に 番組専用のページ を常設。過去の放送から100点・100万円獲得者の歌唱映像を改めて編集した動画を公開しているほか、次回の放送が決まった場合には、一般視聴者からの応募を期間限定で受け付けている。100点相当の歌唱力の持ち主であることが分かる歌唱動画の添付が応募の条件になっていて、カラオケで100点を出したことが分かる画像を応募者が保存している場合には、その画像の添付も求めている。ただし実際には、上記のプロセスを経て事前の審査で選ばれた一般視聴者に加えて、プロの歌手やタレントも多数挑戦している。 なお、2021年の第3回(1月16日)と第4回(8月28日)については、放送当日の直前に収録した映像を放送した。生放送を予定していた日が放送の決定後に新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言の発出期間と重なったことに伴う措置だが、タイトルに「生放送」を冠していることから、上記の法律・宣言の趣旨である新型コロナウイルスへの感染拡大防止策を徹底させること[2] を前提に、撮って出し(無編集)による擬似生放送で対応した[3]。 司会(MC) 見届け人(スタジオゲスト) プロの演奏家や歌手が含まれているが、番組の構成上、挑戦者が歌う楽曲の審査には関与していない。 リポーター 第1回から第3回までは挑戦者の楽屋から、第5回(2022年1月15日放送分)では毎日放送の制作協力による大阪城付近からの生中継で登場。第4回では、中継のパートを設定していなかった。 挑戦者 VTR出演 放送リスト[編集] ネット局[編集] スタッフ[編集] 第5回放送 ナレーター:林勇(第4回-)、内田彩 構成:足塚かずお、髙倉俊祐、あだち昌也、林田晋一、登飛翔(足塚→第1,3回-、あだち→第2回-、林田→第2,3,5回)

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