Month: July 2018

ロケットエンジンの推進剤 – Wikipedia

ロケットエンジンの推進剤(ロケットエンジンのすいしんざい)の記事では、ロケットエンジンないしロケットによる打上げのシステムにおける推進剤(プロペラント)に関する事項について述べる。 化学ロケットの推進剤[編集] 化学ロケットの場合は、燃料を燃焼させてエネルギーを得た後の排ガスを推進剤とするのが最も一般的であるため、多くの場合は単に燃料を推進剤と同一視する。燃料を、酸化剤と「酸化される」燃料とに分ける場合には、推進剤という語をその総称という意味で使うこともある。可能な性能や開発組織の技術力、安全性、コストなど、用途と目的によって燃料と酸化剤の組み合わせを変更する(変更できるエンジンもあるが、普通のエンジンでは変更できない。エンジンの設計を始める計画段階で通常は計算によって選択するものである)。燃料と酸化剤が両方とも液体のロケットは液体(燃料)ロケット、両方とも固体のロケットは固体(燃料)ロケットと呼ばれる。その他の、異なった相の物質の組合せで燃料とするエンジン(のロケット)はハイブリッドロケットと呼ばれる。 液体酸素と液体水素による液体燃料ロケットは、日本のH-IIロケット、欧州のアリアン5やアメリカのスペースシャトルのメインエンジン等で使用されている[1]。固体燃料はM-Vロケット、ペガサスロケットなどのロケットやブースター (ロケット)、RATO、ICBM、ミサイル、RPG等に使われる[2]。 固体燃料ロケット[編集] 固体燃料ロケットの模式図 固体燃料ロケット(固体ロケット)は、固体の燃料と酸化剤を混錬してロケット本体に充填した固体燃料を使用するロケットである。単純な固体燃料ロケットは主にケース、ノズル、推進剤、点火器で構成される[3]。液体燃料ロケットとは異なり使用時にはポンプなどの機械部品で燃料を燃焼室に移送することなくロケット内部の燃料へそのまま点火する[4]。 初期の固体ロケットモーターには黒色火薬が用いられた。その後、ニトロセルロースとニトログリセリンを主体とした、黒色火薬より性能のいいダブルベース火薬が登場し、日本軍のロケット兵器ではこれが用いられていた。 第二次世界大戦の後には、コンポジット推進剤と呼ばれる固体燃料が開発された。これはブチルゴム、ポリウレタン、ポリブタジエン等の合成ゴム系の材料をアルミニウム (Al) などの金属粉、及び酸化剤と混錬したもので、酸化剤としては過マンガン酸カリウムや過塩素酸アンモニウム(ammonium perchlorate, AP) 等が用いられる。ゴムの基剤はそれ自体が燃料となるほか、酸化剤や金属粉の結合剤、および燃料の機械的性質を決定する[5]。 過塩素酸アンモニウム等の塩素化合物を酸化剤として使用する場合、燃焼生成物には有毒で発癌性がありオゾン層を破壊し、酸性雨や地球温暖化の原因になる塩素化合物が含まれる。そのため、塩素等のハロゲンを含まない酸化剤の開発も進められている。 液体燃料ロケット[編集] 液体燃料ロケット(二液式)の模式図 液体燃料ロケット(液体ロケット)は、液体の燃料と酸化剤をタンクに貯蔵し、それをエンジンの燃焼室で適切な比率で混合して燃焼することで推力を発生させるロケットである。推進剤は燃焼器内に超臨界状態で噴射される[6]。 固体燃料ロケットより複雑で信頼性に欠けるが、混合させるだけで自己着火するハイパーゴリック推進剤を使ったロケットは比較的単純である。さらに、人工衛星の姿勢制御エンジンなど一部には過酸化水素やヒドラジンのように触媒で分解する推進剤を使用する単純な構造の一液式のものもある。

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H3Cテクノロジーズ – Wikipedia

H3Cテクノロジーズ (H3C Technologies Co., Limited、杭州华三通信技术有限公司) は、中国の清華集団とアメリカのヒューレット・パッカード・エンタープライズ(Hewlett Packard Enterprise, HPE, NYSE: HPE)の合弁会社で、中国の杭州市浜江区に本社及び製造工場を置き[1]、ネットワーク製品の企画、開発、製造を行い、主に中国市場向けにH3Cの自社ブランドで販売を行う企業である。中国以外の市場では他社ブランドによるOEM販売が主流で、ヒューレット・パッカード・エンタープライズによるデータセンター向けネットワーク製品FlexFabricシリーズや、NECによる日本市場向けネットワーク製品UNIVERGE QXシリーズとしての扱いがある。 2003年11月、アメリカのスリーコム(3Com Corporation) と中国の華為技術有限公司 (华为技术有限公司、Huawei Technologies Co. Ltd) との合弁会社ファーウエイスリーコム(Huawei-3Com

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アルペジョーネソナタ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “アルペジョーネソナタ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年12月) アルペジョーネとピアノのためのソナタ イ短調 D821は、フランツ・シューベルトが1824年11月にウィーンで作曲した室内楽曲である。 このソナタは、アルペジョーネのための作品の中では唯一広く知られている作品である。本作は、弦楽四重奏曲「死と乙女」と同時期の作品であり、当時シューベルトは梅毒の進亢に苛まれ、度々の抑鬱症の発作に見舞われてもいた。 本作はアルペジョーネが発明された翌年に作曲された。おそらくは、アルペジョーネの演奏に通じていた知人ヴィンツェンツ・シュースター[1]から、委嘱を受けてのことと考えられている。作品がシューベルトの死後1871年に出版されるまでに、アルペジョーネじたいが愛好されなくなり姿を消していた。こんにちこの作品はもっぱらチェロ・ソナタないしはヴィオラ・ソナタに編曲して演奏されている。また時折りコントラバスやギターがアルペジョーネの代役を果たすこともある。 次の3つの楽章から成る。演奏時間は30分弱。 第1楽章:Allegro moderato 第2楽章:Adagio 第3楽章:Allegretto 現代の演奏[編集]

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アメリカ合衆国の哲学者一覧 – Wikipedia

・・ > 人名一覧 > 学者の一覧 > 哲学者一覧 > アメリカ合衆国の哲学者一覧 ・・ > Category:人物の一覧 > Category:職業別人名一覧 > Category:学者の人名一覧 > アメリカ合衆国の哲学者一覧 アメリカ合衆国の哲学者一覧。アメリカ合衆国出身、もしくは長年にわたって同国で活動した人物を含む。 目次 A B C D E F G H

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BEENOS – Wikipedia

BEENOS株式会社(英称:BEENOS Inc.)は、Eコマース事業とインキュベーション事業を手掛ける持株会社。 BEENOS(ビーノス)の由来は「BEE=ミツバチ」「NOS=の巣」。 越境ECサポートサービスの「Buyee(バイイー)」や「転送コム」を運営するtenso株式会社やブランド宅配買取サービス「ブランディア」を運営する株式会社デファクトスタンダード(東証一部:3545)など複数のEコマース企業をグループ会社として抱えるほか、世界10カ国以上・80社以上のインターネット関連企業に投資をしている。 本社は東京都品川区に所在。旧社名は株式会社ネットプライスドットコム。 1999年(株)「ネットプライス」の社名でEコマース関連事業の開発を目的に設立。その後、世界初のモバイルコマースサービス「ちびギャザ」をNTTdocomoの「i-mode」向けに提供を開始した。他社への出資を通して事業を拡大し、2004年7月に東証マザーズに上場。2010年カカクコム、デジタルガレージと共同で「Open Network Lab」を開始。企業売却など実績を残す企業家を輩出した。 2014年に現在の社名「BEENOS」に社名変更。ミツバチを意味する「BEE」の巣(=NOS)のように世界中の企業、起業家、モノ、情報がつながる場を提供する姿勢が込められている。2016年10月には東証1部に上場市場を変更している。 初代社長の佐藤輝英(1975年愛媛県生まれ)は茗溪学園高等学校在学中、同校が提携する経団連支援のユナイテッド・ワールド・カレッジのイタリア校に1991年より2年間留学、慶應義塾大学総合政策学部在学中に北尾吉孝と知り合い、ソフトバンクでサイバーキャッシュの立ち上げに参画、2000年ネットプライス社長に就任。2005年最年少代表として経団連に入会。2014年社長を退任し、2015年にシンガポールを拠点に投資会社BEENEXT設立。カラオケの鉄人創業者の日野洋一はいとこ。[1][2][3][4][5] 2000年3月 – 日本初のインターネット上の共同購入システムギャザリングを開始。 2000年7月 – 株式会社有線ブロードネットワークスと共同でオンラインモール「ネットプライスモール」を開設。 2000年9月 – 携帯電話を使ったモバイルコマース「ちびギャザ」を開始。 2002年1月

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ヴィットリオ・デ・シーカ – Wikipedia

ヴィットリオ・デ・シーカVittorio De Sica 1959年 生年月日 (1901-07-07) 1901年7月7日 没年月日 (1974-11-13) 1974年11月13日(73歳没) 出生地 イタリア・ラツィオ州ソーラ 死没地 フランス・オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌ 国籍 イタリア フランス(1968年に市民権取得) 身長 176 cm

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ドイツ国営鉄道 (東ドイツ) – Wikipedia

東ドイツにおけるドイツ国営鉄道(ドイツこくえいてつどう、ドイツ語: Deutsche Reichsbahn)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が存在していた1949年から東西ドイツの統一である1990年10月3日までの東ドイツの国営鉄道。東西ドイツ統一後は連邦特別財産となり1993年に事実上解体、鉄道運行に関する事業をドイツ鉄道に統合民営化、その他の資産管理及び売却に関する事業処理をドイツ連邦共和国連邦交通・建設・住宅省監督下の鉄道財産庁に移譲した。 東ドイツ政府は、ドイツ国の鉄道事業体”Deutsche Reichsbahn”の正当な継承者であることを誇示し、その事業体を有する東ドイツ側がベルリンを中心とするドイツ全体での鉄道交通に関する権益を主張し続けるために、第二次世界大戦以前に使用されていた「ライヒ」を含む名称を敢えて使用しつづけた(「ライヒ」は本来ドイツ語で「帝国」を意味し、またドイツにおいてはドイツ帝国やナチス・ドイツを連想させる単語であり、共産主義の東ドイツにはそぐわない名称であった)。 1949年に、占領下のドイツの鉄道は第二次世界大戦の後4年続いた占領各国の管理の後、ドイツの管理に戻された。1949年10月7日にドイツ民主共和国になったソ連占領地区の鉄道は、1937年にドイツの国営鉄道に与えられた名前であるドイツ国営鉄道(DR)を継承した。西ドイツ(旧アメリカ・イギリス・フランス占領地区)では国営鉄道はドイツ連邦鉄道(DB)によって引き継がれた。DRとDBの双方は、両者が合併してドイツ鉄道となる1994年まで、別個の企業体としてドイツの鉄道を構成していた。 東ドイツ全土および西ベルリン市内に路線網を広げていた(但し、1984年以降は西ベルリン市内のSバーンに限り西側のベルリン運輸公社(ドイツ語版)が運行していた)。 第二次大戦前に複線化されていた主要幹線は、戦後補償という名目で行われたソ連の物資接収によって、合計1万キロ以上のレールが持ち去られてしまっていたため、単線のまま運行を開始せざるを得なかった。主要幹線は再度複線化されていったが、1989年に入ってもまだ、複線化を完了することができずにいた。 使用していた車両[編集] 特急型気動車 VT18.16系 DBで引き続き使用されている250形電気機関車 DRで使用していた車両の一部は、DBの車両として現役である。 ドイツ統一まで、蒸気機関車が活躍していた。1940年から製造されていた52系機関車(通称:戦争列車)が知られている。他に、ルーマニア製のディーゼル機関車である119系(現229系)や電気機関車の250形などが活躍していた。 客車としては、ゲルリッツ市の車輛工場で製造された二階建て客車が多く用いられていた。この車両は1930年代に開発され、1952年から製造が再開されたものであった。主に近距離列車に用いられた。このほかに、1964年に登場した高速列車『VT18.16系(現675系)』があった[1]。この列車はSVT(Schnellverkehrstriebwagen)と呼ばれ、最高時速は160キロを誇った。ベルリン・プラハ・ウィーン間の特急『ヴィンドボナ』やベルリン・ブダペスト間の『ハンガリア・エクスプレス』など、東欧諸国への直通列車に投入されていた。 東西ドイツ間の連絡列車[編集] 1989年の東西ドイツ統一まで、西ベルリンと西ドイツとの都市間の便宜を図るためにドイツ領域通過列車, (ドイツ語Interzonenzug)が運行されていたが、西ベルリンと東ドイツ領域内での運行は東側が行い、直行する客車の大半に東側の車輛が用いられていた。 また、ライプツィヒ見本市開催期間中には西ベルリンや西ドイツの各都市との直行列車の運転も行った。 1980年代には、ハンブルクやミュンヘンから西ベルリンを経由せずに直接東ドイツ領域内へ向かう列車も存在していたが、乗車に事前に入国査証と通過する越境駅の申請が必要だった。

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カナリー・ワーフ – Wikipedia

カナリー・ワーフ 英語: The Canary Wharf 再開発後、シティとともに金融センターとして機能するカナリー・ワーフ カナリー・ワーフ グレーター・ロンドンにおけるカナリー・ワーフの位置 人口 73,390人 (Millwall, Blackwall and Cubitt Town, East India and lansbury, Limehouse wards

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バーンナムプリアオ駅 – Wikipedia

バーンナムプリアオ駅 บางน้ำเปรี้ยว Bang Nam Prieo ◄プロンアカス (4.51 km) (6.56 km) クローンシップカーオ► 所在地 タイ王国チャチューンサオ県バーンナムプリアオ郡 北緯13度50分58.7秒 東経101度6分6.2秒 / 北緯13.849639度 東経101.101722度 / 13.849639; 101.101722 駅番号

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講談倶楽部 – Wikipedia

『講談倶楽部』(こうだんくらぶ)は、講談社が発行した大衆文学雑誌。1911年(明治44年)創刊、第二次世界大戦による中断を挟んで1962年(昭和37年)廃刊。速記講談に始まり、時代小説などの大衆文学雑誌として人気を博した。 創刊[編集] 1884年(明治17年)に三遊亭円朝の『牡丹灯籠』速記本が刊行されヒットして以来講談速記本が流行し、新聞でも松林伯円、松林伯知、一龍斎貞山の連載講談が載るようになり、講談を載せない『東京朝日新聞』でも半井桃水や村上浪六などの通俗的な歴史読物を掲載、『文芸倶楽部』でも講談、落語の増刊号の売れ行きがよく、また日露戦争後から始まる講談を口述に似せて書く「書き講談」(『立川文庫』など)が人気を得ていた。1910年に国民新聞社に入った望月茂と伊藤源宗はこの人気に目を付けて専門雑誌化を思いつき、知り合いの佐久良書房に持ち込むが断られる。そこで、講談と演説(弁舌)の境目がたぶんにあいまいであった状況下で、1909年に弁論の気風による青少年教育のために大日本雄弁会を起こして『雄弁』を創刊して成功していた野間清治にこの企画を野間に持ち込むと、野間はこれに賛同し、大衆啓蒙の手段として講談を出版に取り入れようとして、1911年11月に速記講談を主にした『講談倶楽部』を創刊した。誌名は、野間は『快談倶楽部』を主張したが、望月らの案で『講談倶楽部』となった。これにより大日本雄弁会は講談社の名も持つことになる。創刊号は細川風谷などが講談を書き下ろしたものを原稿にして、表紙は真山孝治、定価18銭、1万部刷って1200部売り上げと初期は返本の山だった。 1912年に望月が『上州新報』に移ることになり、『雄弁』の記者をしていた淵田忠良を編集に入れ、この頃から発行部数は少しずつ上向いていき、8000部ほどが売れるようになる。この年の10月に、文光堂で同種の雑誌『講談世界』が発刊され、これに触発されて折り込み口絵のページを翌年から付けて、この井川洗厓の口絵も好評で部数を伸ばした。 人気の定着[編集] 1913年(大正2年)には臨時増刊「浪花節十八番」を出して好評となるが、講釈師たちが浪花節語りと同列にされることに反発したのと、速記による講談落語を供給していた今村次郎が講談社に独占権を求めるのと浪花節掲載を見合わせることを申し入れたのを断られたことで、今村は『講談世界』上で講談社攻撃を行う。それに対して『講談倶楽部』では、書き講談を「新講談」と称して掲載、これがかえって読者に支持されるようになり、紙面から速記講談を一掃する。この新講談の書き手には、それまでの半井桃水、稲岡奴之助、行友李風、大谷内越山などに、今村次郎に同調しない伊藤痴遊、細川風谷、坂本富岳らの講釈師グループ、小説家の江見水蔭、須藤南翠、本田美禅、山野芋作(長谷川伸)などが加わることになった。同年秋の臨時増刊号の「新講談を勃興させよ」という特集には、福本日南、正宗白鳥、岡本綺堂、巖谷小波らも寄稿した。これが大衆文芸がマスメディア化していく端緒となる。 その後1914年から大々的に懸賞募集を行い、吉川英治が入選してデビューし、販売部数も増えて翌年には2万部となり、姉妹誌『面白倶楽部』も創刊した。1917年頃には新講談と家庭読物が人気を集め、佐藤紅緑らの長篇小説が注目され、流行作家だった前田曙山の時代小説「雪子の御方」(1914年夏期増刊号)はそれまでの勇壮な講談とは違い、艶やかさが満ちて特に人気を集めた。1915年には渡辺霞亭の悲恋もの「千鳥ヶ淵」連載も人気となり、続いて第一次世界大戦による好景気の影響もあって売れ行きは飛躍的に増加していく。 1922年には当時新潮社の記者だった中村武羅夫「夜の潮」(藤沢章人名義)、1923年には大家長田幹彦「波のうへ」を連載した。またこの頃は、小栗風葉やその門下の岡本霊華、真山青果に中村と、一門総出で誌面を飾っていた。1924年には15万部ほどになる。 誌面の諸相[編集] 当時の人気作家村上浪六は野間と親しかった縁で、1926年「妙法院勘八」以来数多く連載した。同年には佐藤紅緑「勘八物語」も始まり、「二人勘八」と呼ばれた。 また1923年には一龍斎貞山ら講談師と和解し、速記講談の掲載も復活した。この影響で『キング』『面白倶楽部』でも速記講談を掲載し始める。新作落語は鶯亭金升、今村信雄(今村次郎の子)、野村無名庵、大河内翠山、高沢路亭(田河水泡)などが執筆。また社会講談が提唱されていた折りには白柳秀湖に依頼して百姓一揆を題材にした「義人文殊九助」を1924年から連載、後にはプロ文学系の貴司山治や片岡鉄兵らも執筆した。歴史実話ものの流行時には、望月紫峰(茂)が聞き手になって、田中光顕伯爵の聞き書き「維新風雲回顧録」(1926年)などを掲載。1926年からは佐々木邦のユーモア小説を掲載。珍しい経済読み物として谷孫六「岡辰押切り帖」が1928年から連載。 大正末からは『新青年』での探偵小説流行を取り入れて、シャーロック・ホームズ、アルセーヌ・ルパンの翻案物や、高橋定敬による探偵実話、続いて甲賀三郎、小酒井不木の短篇、保篠龍緒の連載長篇「妖怪無電」などを掲載。1929年からは大下宇陀児「阿片夫人」、江戸川乱歩「蜘蛛男」「魔術師」「恐怖王」「人間豹」などが連載された。 当時の娯楽雑誌では付録をつけることも流行しており、1925年新年号から付録を付けるようになる。この年は谷脇素文による川柳漫画双六で、以後毎年続く。1929年には「全国金満家番付」、1931年はこれと「多額納税者一覧」、1934年8月号は「明治大正昭和流行歌民謡全集」と、新しいアイデアでこれも人気を博した。昭和10年代には4、50万部となる。 芸能・スポーツ[編集] 創刊号から「劇場評判記」「お芝居物語」などの芸能記事が掲載されており、1916年から1922年には演技批評「女優月旦」連載などの芸能読物が続いていた。1922年からはゴシップ記事も増え、1923年1月号「宝塚少女歌劇花形女優初舞台の思出」では「女優」という呼び方をめぐって名誉毀損で訴えられることにもなった(後に和解)。1931年から川口松太郎による『女優情史』シリーズを連載、第1回は「愛と悩みの夏川静江」。1934年からは丸尾長顕の宝塚女優ものも掲載された。 スポーツも、1931年頃から野球、相撲の記事が増える。当時としては珍しい、取組への懸賞「講談倶楽部賞」も出す。将棋でも、講談社の企画として、当時の6人の八段を相互に対戦させる、八段総出勝継ぎ大棋戦も、新聞社には出来ない企画として1927年に開催されて誌上掲載された。土居市太郎、大崎熊雄、金易二郎、花田長太郎、木村義雄、木見金治郎が出場し、対局料75円も破格だった。この後読売新聞でも同種の棋戦が行われ、講談倶楽部でも1938年に再度八段戦を開催、続いて2次の勝抜き戦も行われた。 時局色[編集] 1932年4月号では特集で「愛国小説軍事美談集」(三上於菟吉「哭くな戦友」など4編)を組むなど、時局色が投影されるようになる。翌5月号では陸海軍将校による「戦争ロマンス大座談会」、1933年5月号で「愛国読物大特集」、6月号で「従軍記者大座談会」など。『少年倶楽部』で名声を上げた山中峯太郎も、1932年から頻繁に掲載され、兵隊小説「団子二等兵」も連載した。 1941年には陸軍省から、木村毅に大山巌元帥を書いて欲しいとの要請により、「大山元帥」を連載した。戦局が進むに連れて言論統制が強まり、1940年の川口松太郎「女浪曲師」は軍部の圧力で連載を打ち切られ、終戦の1945年には10万部程度に落ち、ページ数も32ページとなる。 CIEから戦争協力雑誌として「ワースト・マガジン」とされるなど、時代小説は民主化に逆行するものという第二次世界大戦後の風潮にあって、1946年2月号で休刊した。講談社では『講談倶楽部』の復刊に踏み切れないでいたが、『冨士』『面白倶楽部』などの売れ行きのよさを見て、1949年1月号(1948年11月発行)から復刊した。山手樹一郎が覆面で書いた「新篇八犬伝」連載が人気を呼んだ他、バラエティーに富んだ娯楽雑誌として再スタートした。海音寺潮五郎、山本周五郎、角田喜久雄らの戦前からの時代小説作家に加え、山田風太郎、鳴山草平、宮本幹也などの新しい作家が執筆した。戦後創刊された『小説新潮』や、戦前からの『オール讀物』などの中間小説路線に時代の人気は移っていく中、1952年には講談倶楽部賞を創設、第2回に春桂太(伊藤桂一)、第8回に司馬遼太郎がデビュー、また第1回の予選通過者には田辺聖子がいた。

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