旧岡崎家能舞台 – Wikipedia
小樽市能楽堂(旧岡崎家能舞台)は、1926年に北海道小樽市に創建された能楽用の劇場である[1]。江戸時代に定められた能舞台の最高基準の格調を備える点では国立能楽堂をも凌ぎ[1][2]、歴史的・文化的価値の高い建造物である。 小樽の豪商岡崎謙により自邸敷地内に創建され、多くの賓客(高松宮妃、貴族院議長徳川家達)や宗家、野口兼資らを迎え催事が行われたが[1][2]、氏の没後、遺志により小樽市に寄贈され、市の歴史的建造物に指定、現在では同家現当主から寄贈された大量の能装束等の一部とともに一般公開されている[1][2][3]。 元禄時代、江戸幕府は能舞台の格式として下表などを定めているが、旧岡崎家能舞台はこの上級群の様式(入母屋造・二軒(ふたのき)・松は根際を描かず)を踏襲しており[1][2]、国立能楽堂(切妻・一軒・松の根際が床面)よりも高い格式を備える[1][2]。 対象 ふさわしい仕様 将軍家・親藩・50万石以上の大名・両本能寺・一世一代の勧進能・社寺一般等 入母屋(いりもや)造り、二軒(ふたのき)、柱頭は三斗(みつと)、水引貫の蟇股(かえるまた)は各2個で合計8個。 鏡板の松の絵は狩野家の筆にて、同家伝来の粉本の構図により、松の構図は床面の2尺6寸4分下にある地面から生え出た幹が床面から現れたように描くこと 稽古用・臨時用 切妻造り、一軒(ひとのき)、柱頭は大斗(だいと)、蟇股(かえるまた)は各1個の合計4個 また、もともとは私邸宅の敷地内に立地し、居宅部分は正面左手の北西側に、能舞台・見所(けんしょ)・楽屋が右手の南東側に配置され、丘の頂上という立地を生かして海も遠望できた等の点は全国的にも稀な例とされる[2]。 創建[編集] 小樽市能楽堂(旧岡崎家能舞台)は1926年(大正15年)、佐渡出身の小樽の実業家で、東京英和学校(現・青山学院大学)および東京高等商学校(現・一橋大学)に学び、宝生流の波吉門下にて能をたしなんだ元小樽市議会議長・岡崎謙が、小樽市の私邸敷地内に広さ64㎡(橋掛り含む)、建設費16,873円43銭(現在の約1億7千万円)をかけて創建したものである[4][5]。 岡崎は1924年(大正13年)に能舞台の建設を思い立つと、東京の現靖国神社能舞台(旧芝能楽堂)に調査に出向き、棟梁たちにもこれを見学させた[4][5]。同年に佐渡産の直径2.4mの神代杉・九州産の檜・道産の松などの特選材を選定。神代杉の運搬には船1隻を借り切り、木挽きも佐渡から呼び寄せた[4][5]。1925年(大正14年)7月には建築工事に着手、1926年(大正15年)1月26日に舞台開きを迎え、1927年(昭和2年)11月には狩野派第17代の狩野秉信(かのうもちのぶ)が延べ2か月滞在して描いた鏡板の絵が完成した[4][5]。 岡崎謙存命時の催事[編集] 1926年の舞台開き以来、創建者岡崎謙は自邸内の能舞台に下記の年表に示すような多くの賓客(高松宮妃、貴族院議長徳川家達)や宗家、幽玄能の野口兼資(芸術院会員)らを迎え、多数の重要な催事を催した[1][2]。 岡崎謙没後の経緯[編集] 1954年、創建者岡崎謙が没すると、岡崎家能舞台は同氏の遺志により同年、同家の邸内にあるままにて小樽市に寄贈され、翌1955年には宝文会・弘生会共催にて、宝生英雄(当時宝生流若宗家、後の十八世宗家)、宝生弥一(1981年重要無形文化財(人間国宝認定)を招いて岡崎謙氏追善演能大会が開催された。 1961年、小樽市公会堂の移築に伴って、岡崎邸敷地内にあった能楽堂の能舞台部分(見所・楽屋以外)が現在の場所に移築された。 1985年、旧岡崎家能舞台は小樽市の歴史的建造物に指定されたが、一般の目に触れることなく年月が流れた。
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