Month: July 2018

旧岡崎家能舞台 – Wikipedia

小樽市能楽堂(旧岡崎家能舞台)は、1926年に北海道小樽市に創建された能楽用の劇場である[1]。江戸時代に定められた能舞台の最高基準の格調を備える点では国立能楽堂をも凌ぎ[1][2]、歴史的・文化的価値の高い建造物である。 小樽の豪商岡崎謙により自邸敷地内に創建され、多くの賓客(高松宮妃、貴族院議長徳川家達)や宗家、野口兼資らを迎え催事が行われたが[1][2]、氏の没後、遺志により小樽市に寄贈され、市の歴史的建造物に指定、現在では同家現当主から寄贈された大量の能装束等の一部とともに一般公開されている[1][2][3]。 元禄時代、江戸幕府は能舞台の格式として下表などを定めているが、旧岡崎家能舞台はこの上級群の様式(入母屋造・二軒(ふたのき)・松は根際を描かず)を踏襲しており[1][2]、国立能楽堂(切妻・一軒・松の根際が床面)よりも高い格式を備える[1][2]。 対象 ふさわしい仕様 将軍家・親藩・50万石以上の大名・両本能寺・一世一代の勧進能・社寺一般等 入母屋(いりもや)造り、二軒(ふたのき)、柱頭は三斗(みつと)、水引貫の蟇股(かえるまた)は各2個で合計8個。 鏡板の松の絵は狩野家の筆にて、同家伝来の粉本の構図により、松の構図は床面の2尺6寸4分下にある地面から生え出た幹が床面から現れたように描くこと 稽古用・臨時用 切妻造り、一軒(ひとのき)、柱頭は大斗(だいと)、蟇股(かえるまた)は各1個の合計4個 また、もともとは私邸宅の敷地内に立地し、居宅部分は正面左手の北西側に、能舞台・見所(けんしょ)・楽屋が右手の南東側に配置され、丘の頂上という立地を生かして海も遠望できた等の点は全国的にも稀な例とされる[2]。 創建[編集] 小樽市能楽堂(旧岡崎家能舞台)は1926年(大正15年)、佐渡出身の小樽の実業家で、東京英和学校(現・青山学院大学)および東京高等商学校(現・一橋大学)に学び、宝生流の波吉門下にて能をたしなんだ元小樽市議会議長・岡崎謙が、小樽市の私邸敷地内に広さ64㎡(橋掛り含む)、建設費16,873円43銭(現在の約1億7千万円)をかけて創建したものである[4][5]。 岡崎は1924年(大正13年)に能舞台の建設を思い立つと、東京の現靖国神社能舞台(旧芝能楽堂)に調査に出向き、棟梁たちにもこれを見学させた[4][5]。同年に佐渡産の直径2.4mの神代杉・九州産の檜・道産の松などの特選材を選定。神代杉の運搬には船1隻を借り切り、木挽きも佐渡から呼び寄せた[4][5]。1925年(大正14年)7月には建築工事に着手、1926年(大正15年)1月26日に舞台開きを迎え、1927年(昭和2年)11月には狩野派第17代の狩野秉信(かのうもちのぶ)が延べ2か月滞在して描いた鏡板の絵が完成した[4][5]。 岡崎謙存命時の催事[編集] 1926年の舞台開き以来、創建者岡崎謙は自邸内の能舞台に下記の年表に示すような多くの賓客(高松宮妃、貴族院議長徳川家達)や宗家、幽玄能の野口兼資(芸術院会員)らを迎え、多数の重要な催事を催した[1][2]。 岡崎謙没後の経緯[編集] 1954年、創建者岡崎謙が没すると、岡崎家能舞台は同氏の遺志により同年、同家の邸内にあるままにて小樽市に寄贈され、翌1955年には宝文会・弘生会共催にて、宝生英雄(当時宝生流若宗家、後の十八世宗家)、宝生弥一(1981年重要無形文化財(人間国宝認定)を招いて岡崎謙氏追善演能大会が開催された。 1961年、小樽市公会堂の移築に伴って、岡崎邸敷地内にあった能楽堂の能舞台部分(見所・楽屋以外)が現在の場所に移築された。 1985年、旧岡崎家能舞台は小樽市の歴史的建造物に指定されたが、一般の目に触れることなく年月が流れた。

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レイモンドウイル – Wikipedia

レイモンド・ウェイル(Raymond Weil )は高級腕時計の製造、流通および販売を手がけるスイスの企業。レイモンド・ウイルにより1976年にジュネーブで設立された同社は、スイスの高級腕時計業界で数少ない独立企業のひとつ。 1976年 – 時計製造業界が危機的状況におかれる中、レイモンド・ウェイルは自身と孫のラファエル・ウェイルの名前にちなんで命名されたブランドを設立[1]。 1982年 – レイモンド・ウェイルの女婿、オリヴィエ・ベルンハイムが家族経営の同社に入社。彼は1996年に、同社の会長兼CEOとなる。 1983年 – ミロス・フォアマン監督の映画『アマデウス』に向けて制作した同名の腕時計コレクション「アマデウス」を発表。 1986年 – 「オセロ」コレクションを発表。この超薄型モデルは、レイモンド・ウェイルブランドの国際的成長において決定的な役割を果たすこととなった。 1988年 – 当時の美的流行の型を打ち破る「トラヴィアータ」モデルの創造。 1991年 –

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疼痛 – Wikipedia

疼痛(とうつう、英: Pain、独: Schmerz)とは、痛みを意味する医学用語であり、ここではその生理学的な側面を記述する。一般的には末梢神経への刺激により生じる。 一般的な頭痛のような、痛みには非ステロイド性抗炎症薬(NSAID)など依存性の少ない鎮痛薬が使われる。これはアスピリン、アセトアミノフェン、イブプロフェンといったものである。癌性疼痛は、悪性腫瘍の痛みの管理を指し、この痛みを管理するためにはオピオイドのような麻薬性鎮痛薬も使われる。 疼痛はほとんどの先進国において、医師受診の最上位理由である[1][2]。疼痛は多くの病状において重大な症状であり、人のクオリティ・オブ・ライフおよび一般的機能を妨げうる[3]。20-70%のケースでは、単に鎮痛薬を用いることが有用である[4]。社会的支援、催眠、興奮、気晴らしなどの心理的要因は、痛みの強度や不快感に重大な影響を及ぼしうる[5][6]。安楽死の議論において一部の論者は、痛みは終末期の人々の生活を終わらせることを許し得る理由であると主張している[7]。 1979年に国際疼痛学会(International associations for Study of Pain)は、痛み(疼痛)を次のように定義している。 実際に何らかの組織損傷が起こったとき、または組織損傷を起こす可能性があるとき、あるいはそのような損傷の際に表現される、不快な感覚や不快な情動体験。 An unpleasant sensory and emotional experience associated with

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石井ゆかり (占星術師) – Wikipedia

石井 ゆかり(いしい ゆかり、6月29日生)は、日本の占星術師、著作家。 大学卒業後、独学で星占いを学び、2000年から星占いサイト「筋トレ」を立ち上げた。年間、月間、週間の12星座占いや、新月・満月占い、上半期・下半期の占いなどを雑誌やウェブサイト、携帯コンテンツ等で執筆・担当するほか、星占い以外の分野でも著作を発表している。「12星座シリーズ」は、120万部を突破した。 日本語版のほかに、タイ語版の「12星座シリーズ」がタイでも出版されている。星占いサイト「筋トレ」は、アクセス数8千万(2014年)、twitterのフォロワー数は16万(2014年)。全国のカルチャースクール等で、レクチャーや講演会などをしている。 人物・Web[編集] 個人サイトの星占い等 テキストコンテンツ サイト「筋トレ」を運営している。鏡リュウジ氏とは、仕事上よく一緒になる。著書以外に、複数の雑誌やインターネット上において、星占いコーナーの連載を担当。モバイルサイトにも、人気コンテンツが設けられている。(【石井ゆかりの星読み】) 上記の「石井ゆかりの星読み」の他、PC・モバイル版に、「石井ゆかりの星読み/テーマ別 占いセレクション」などがある。(【星で「私」を読む】【星で「恋愛」を読む】【星で「仕事・適性」を読む】) 雑誌「フィガロジャポン」のオフィシャルサイトにおいて「石井ゆかりの星占い」、雑誌「madameFIGARO」「Marisol」等にも、月間占いを掲載中。Yahoo! JAPANによる「Yahoo!占い」の「星をさがす」等にもコンテンツが設けられ、アドバイザーとしても関わっている。(雑誌寄稿/不定期:「an・an」「InRed」「sweet」「Kiss」「CREA」「pen」「ケイコとマナブ」その他。袋とじの特集号等も掲載。なお、「袋とじ」特集号のことを、本人は常々「エロくないふくろとじ」と表現している) 朝日カルチャーセンター、産経学園等、全国の複数のカルチャースクールにおいて、星占い関連のレクチャーやトークライブなどを行っている。(不定期)。天体観測にも関心があるという。 ムーミン・セレクションDVD「楽しいムーミン一家」シリーズ(ビクターエンタテインメント)の解説も執筆。タイアップの「ほしジュエリー」シリーズや、名言等が記された「ビブリオマンシー」ハンカチ等も商品化されている。伊勢丹新宿店とのコラボ企画「スター・アイテムセレクション」、Afternoon Teaブランドのトーベ・ヤンソン:ムーミン企画などにも関わっている。 ラジオ番組にゲスト出演することがある。猫と酒が好き。 星占い関連[編集] 石井ゆかりの星読み(アプリ)(2010年・2011年・2012年・2013年・2014年・2015年モバイル版〉) 石井ゆかりの星読み/テーマ別セレクション(【星で「私」を読む】【星で「恋愛」を読む】【星で「仕事・適性」を読む】)(〈PC・モバイル版〉)

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樋爪氏の墓 – Wikipedia

樋爪氏の墓(ひづめしのはか)は、栃木県宇都宮市大通り五丁目にある五輪塔。樋爪氏のうちの誰の墓であるかは、3つの説があり不明確である。一説に樋爪季衡の墓とされ、季衡が故郷へ逃げ帰ろうとして首をはねられたという悲話が現代に伝わっている。 墓をめぐる諸説[編集] 宇都宮市教育委員会が現地に設置した案内板によると、文治5年(1189年)に源頼朝が宇都宮二荒山神社に奥州藤原氏の討伐を祈願し、その成就の礼に人身御供として献上された樋爪俊衡と弟の樋爪季衡の墓であるとされる。案内板の元になったと見られる記述が『吾妻鏡』にあり、次のように書かれている。 「 源頼朝は藤原泰衡を討つべく鎌倉を発ち、奥州へ向かった。文治5年7月25日(ユリウス暦:1189年9月7日)に下野国古多橋駅(宇都宮)に到着すると、まず宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)へ参拝し、戦勝を祈願するとともに、首尾よく勝利した暁には生虜(生贄)に1人を神職として奉る、と誓った。討伐を成し遂げた頼朝は、同年10月19日(ユリウス暦:11月28日)に宇都宮明神へ再び詣で、荘園の寄進と[5]、生贄として樋爪太郎俊衡の一族を神職として奉った[5]。 」 『吾妻鏡』の9月15日(ユリウス暦:10月26日)の条を見ると、樋爪太郎俊衡と五郎季衡がこの日に降伏したが、俊衡は60歳を過ぎた白髪の老体であったため、頼朝は八田知家に身柄を預け、本所を安堵したとある。この記述を信じると、俊衡が宇都宮へ連行され、樋爪氏の墓に眠っているとは考えられない。 別の説では、樋爪季衡と息子の樋爪経衡(つねひら)の墓とする[7]。1892年(明治25年)の『二荒山神社年表紀事略』に「季衡と経衡の墓が上河原橋の西南にある」旨が記されており、根拠になっている。宇都宮二荒山神社の社報「明神さま」では、季衡と経衡が神社に捧げられ、季衡が神人になったと伝えられると記し、こちらを第1の説、俊衡と季衡の墓を第2の説としている[7]。さらに別の説では、樋爪俊衡と弟の秀衡の墓とする。 宇都宮市教育委員会による現地案内板には、悲話が伝えられているとの説明があるが、「悲話」の内容を記していない。宇都宮に伝わる悲話とは、次のようなものである。 「 樋爪季衡は、故郷への恋しさ故、逃げ帰ろうとしたが、上河原で追手に捕まり首をはねられた。季衡の首は上河原へ、胴体は今泉に葬られ、殺害地点は「樋爪坂」と呼ばれるようになった。町の人々は季衡の死を哀れみ、息子の経衡と一緒に墓碑を建て、冥福を祈った。 」 また、悲話に関連して、次のような伝説も残る。柏村祐司は、日本各地に伝わる「首を切られた者の霊が怨霊化して各地へ飛んだ」という首塚伝説の一種であると説明した。 「 樋爪季衡の首は上河原ではねられ、田川対岸の博労町(現・駅前通り一丁目と今泉一丁目)まで飛んだ[7]。その首を祀ったところを首塚稲荷という。墓の周りに植えられたナンテンの葉を取ると、盲目になる[7]。 」 以上の伝説は、季衡が敗者であったことや、「生虜」という言葉の印象から、季衡を哀れんだ人々が史実に尾ひれを付ける過程で成立したものと思われる、と柏村祐司は解説した。 保護・交流活動[編集] 樋爪氏の墓は宇都宮市の史跡に指定されている。地域住民は「樋爪氏の墓愛護会」を結成し、保存・愛護活動を行っている[10]。 1965年(昭和40年)春に、岩手県紫波郡紫波町から3人の調査員が樋爪氏の史料を調査するために宇都宮市へやって来た[11]。(樋爪氏の故地が紫波町日詰〔ひづめ〕であり、同地には五郎沼や樋爪館跡などがある。)調査員らは栃木県立図書館での文献調査を行い、子孫が住む町を目指す道中で、偶然出会った宇都宮市民から紫波町の人が書いた樋爪氏に関する手書きの原稿を見せてもらった[11]。翌日は樋爪氏の墓を見学した[11]。

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日野ゴルフ倶楽部 – Wikipedia

日野ゴルフ倶楽部(ひのゴルフくらぶ)は、滋賀県蒲生郡日野町に広がるゴルフ場である。 観光日本株式会社・安達慎三と久保田粂吉は、1970年(昭和45年)7月15日、ゴルフ場の用地探しに八日市市を訪れていたところ、そこで、滋賀県蒲生郡日野町のゴルフ場誘致計画を知った[1]。日野町では工業団地の誘致計画を進めており、そのためにゴルフ場が必須と考えてのことだった[1]。ゴルフ場用地は、杣地区を中心に中之郷の4部落である[1]。安達の計画では18ホールの予定だったが、地元の要望で36ホールのゴルフ場の建設に変更した[1]。 コース設計は、安達建設の鈴木正一が担当し、工事を安達建設株式会社に決まった[1]。建設予定地を検分した鈴木は太鼓判を押した[1]。 1972年(昭和47年)10月15日、キングコース18ホールが完成、開場された[1]。翌1973年(昭和48年)10月、クイーンコース18ホールが完成、36ホール規模のゴルフ場が誕生した[1]。 コースは、全体的になだらかな起伏のあるダイナミックな丘陵コースである[2][3]。キングコースの特徴は、フェアウェイはフラットでバンカーは少ない。クイーンコースは、フェアウェイに起伏があるが、砲台グリーンが多いので戦略的なアプローチが求められる[2][3]。 日本のプロゴルフメジャー大会の1つ、日本ゴルフ協会主催競技でもあり、日本選手権大会に相当する、日本オープンゴルフ選手権競技大会など多くの大会開催の実績がある。 〒529-1611 滋賀県蒲生郡日野町杣1146-1 コース情報[編集] 開場日 – 1972年10月15日 設計者 – 鈴木 正一 施工者 – 安達建設株式会社 面積

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大二十面半十二面体 – Wikipedia

大二十面半十二面体 (Great icosihemidodecahedron)とは、一様多面体の一種で、大二十・十二面体の正5/2角形の面を削ったものである。英語版WikipediaによればHemipolyhedronの一種。 構成面: 正三角形 20枚、正10/3角形 6枚 辺: 60 頂点: 30 頂点形状: 3,10/3,3/2,10/3 (3,10/3,3,10/3が蝶ネクタイ形に交差する) ワイソフ記号: 5/3 5/2 | 5/3 枠:

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村上知行 – Wikipedia

村上 知行(むらかみ ともゆき、1899年2月11日 – 1976年3月23日)は、日本の中国研究者、翻訳家、評論家。 福岡県博多生まれ[1]。幼少時に父親と死別[1]。商家の店員となるが、13歳の時、病気のため右脚を切断[1]。九州日報記者、旅回りの新派劇団の座付き作者などを務めながら、独学で中国語を学ぶ[1]。 1928年上海に渡る。1930年から北京に住み、中国に関する評論やルポルタージュを刊行。一時期読売新聞特派員を務めたが、1937年の盧溝橋事件を機に辞職[1]。日本の戦争政策への協力を拒否し、著作を通して反戦の立場を示した[1]。 1946年5月に妻子とともに日本へ引き揚げ[1]。戦後は四大奇書を中心に翻訳、抄訳を行い、佐藤春夫名義での翻訳も行った。 1976年、自宅においてナイフで首と胸を刺し自殺[1]。 九・一八前後 福田書房 1935 支那及び支那人 中央公論社 1938 古き支那新しき支那 改造社 1939 北京歳時記 東京書房

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宝永富士宮地震 – Wikipedia

宝永富士宮地震(ほうえいふじのみやじしん)は、江戸時代の宝永4年10月5日(1707年10月29日)に駿河国富士宮付近で発生した地震。 地震の記録[編集] 五畿七道諸国に亘って大揺れとなった南海トラフ巨大地震である宝永地震の翌朝、宝永四年十月五日卯刻(1707年10月29日6時頃)、駿河から甲斐附近は再び激しい揺れに見舞われた。内陸地震としては宝永地震の最大余震とされる[1][注 1]。 柳沢吉保の公用日記『楽只堂年録』には、宝永地震の本震に加えて本地震による被害記録も記されている[2]。 村山浅間神社による報告では、4日の本震は「夥しき地震」と記述されているのみであるが、5日の本地震による被害が特に著しく、辻之坊・大鏡坊・池西坊中門前および村山社領の家が残らず潰れ、死人4人を出し、怪我人は多数であった。 駿刕村山今月四日未刻夥鋪地震ニ而御座候 同五日卯之刻より大地震ニ而浅間御本地堂鎮守大棟槃権現并諸末社室中宮辻之坊・大鏡坊・池西坊右三寺中門前并社領之家不残潰申候、村山社領ニ而相果候者男女四人、怪我仕候者数多御座候間為御注進辻之坊出府仕候 已上 亥十月 駿刕富士山村山 辻之坊 大鏡坊 池西坊 また富士山本宮浅間大社による被害報告も同書に記されるが、4日の本震被害との区別が出来ない。 駿州富士本宮浅間社頭当四日之未刻五日之卯刻両度之就大地震破壊仕候目録 御本社二階三軒社宝殿造り屋禰檜皮葺 (中略:大破の内容) 右浅間社頭目録之通今度之大地震故大破之上ニ弥破壊仕候付乍恐書付を以御注進申上候 已上

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