Month: February 2019

コムレイド (消費者金融) – Wikipedia

株式会社コムレイドは、長野県長野市に本社を置くみなし貸金業者。新規の貸付は行わず過去の貸付金の回収を行っている業者である。かつては、株式会社ティーシーエムと名乗っていたが、現在は貸金業は廃業している。 前身は、1977年(昭和52年)田中等によって設立されたローンズナガノと言う会社であり、1991年にローンズナガノから社名をTCMに変更、2004年よりアイフルとスポンサー契約を締結、同社の子会社となった。[1] 1987年(昭和62年)に電話加入権レンタル業を主体とする田中通商を設立した。 最盛期には114億円の融資残高をあげて県内トップに君臨し、全国消費者金融ランキングでも46位にランクされるほどに成長したが、2000年以降は大幅な貸金業法改正により、事業縮小を余儀なくされ、2004年(平成16年)に会社更生法の申請を行い、ティーシーエムは倒産、田中通商は破産。その後、アイフル株式会社のスポンサー契約締結により同社の完全子会社となった。 2007年(平成19年)12月16日に、貸付業務をすべて中止。2008年(平成20年)2月29日には、ATM営業を中止し撤去して、すべての無人店舗を閉鎖。同年3月21日には本店窓口も閉鎖し、すべての窓口を閉鎖した。 その後、賃金業を廃業、2009年11月に現在の株式会社コムレイドへと商号を変更し、現在は貸付金の回収を行っている。[2] 創業当時から約10年間は上限金利73.0%という高利で貸し付けていたが、1986年には出資法が改正されたことにより、54.74%に引き下げることになった。[3] また、テレビCMも積極的に出しており、自社の業態である「ぽっけくらぶ」を大々的に宣伝していた。 1977(昭和52)年7月 長野市において、(株)ローンズナガノを創業(資本金200万円)。 1980(昭和55年)年2月 関連会社ローンズナガノ松本店を設立(資本金200万円)。 1980(昭和55年)年9月 ローンズナガノ飯田支店をオープン。 1981(昭和56)年6月 関連会社ローンズナガノ上田店を設立(資本金100万円)。 1982(昭和57)年6月 ナガノクレジット飯田支店オープン。 10月 ナガノクレジット長野支店オープン。 11月 ナガノクレジット本店をオープン。 1983(昭和58)年01月 ナガノクレジット諏訪支店オープン。 4月 ナガノクレジット小諸支店オープン。

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正雀駅 – Wikipedia

正雀駅(しょうじゃくえき)は、大阪府摂津市阪急正雀にある、阪急電鉄京都本線の駅。駅番号はHK-66。 摂津市と吹田市の市境を流れる正雀川をまたぐように設置されており、ホームの半分以上は吹田市域である。ただし駅舎は摂津市側に所在しており、しかも字名には「阪急」の名が冠されている[1]。 駅の北西一帯には正雀車庫・正雀工場が広がる[2]。競合するJR京都線(東海道本線)のすぐ脇まで迫っており、JRの車窓からも留置されている電車などがよく見える。 島式2面4線のホームを持つ地上駅。橋上駅舎を有し、改札口は橋上の1か所のみ。 バリアフリー工事が完了した2008年(平成20年)2月29日より、各ホームと改札口にフルカラーLED式の発車案内が設置された[3]。 これとは別に、電車の接近や広報用の1段表示の案内板も各ホームに設置された。その代わりに、下りホームにあった列車の接近を喚起する行灯式の点滅案内板は撤去された。 のりば[編集] 島式ホームに隣接する車庫線を1号線としてカウントしているため、ホーム番号は2号線から設定されている。 内側2線(3号線と4号線)が主本線、外側2線(2号線と5号線)が待避線である。 日中の普通は上りが本線の3号線、下りも本線の4号線に発着する。なお、土休日は特急・準急(快速特急・快速特急Aの通過も含む)を連続で待避するため待避線の5号線に発着する。2号線・4号線は朝夕のラッシュ時を中心に使用される。 正雀車庫があるため、朝晩には当駅始発・終着の列車も設定されている。配線の関係で、当駅始発の列車は上り列車の他、一部下り列車も直結する2号線より逆線発車する。 当駅始発の大阪梅田方面行きは一貫して早朝にしか設定されておらず、夕方に正雀車庫から出庫する列車は南隣の相川駅を始発としている。 天下茶屋方面発着便にも当駅終着の列車があり、地下鉄堺筋線の車両の場合、当駅の南西にある東吹田検車場(Osaka Metro所有)から出入庫する。 運用の関係で、毎日数本の普通高槻市行きが当駅で車両の交換を行う。 バリアフリー化について[編集] 1981年(昭和56年)の橋上駅舎化以後、橋上の改札口へは原則として階段を利用しなければなかったが、利便性向上のため2006年(平成18年)より順次バリアフリー化工事が実施された。 同年7月25日には東口に、翌2007年(平成19年)3月30日には西口に駅入口と改札口を結ぶエレベーターが設けられた[4]。また、改札内にも2007年(平成19年)9月1日にホームとを結ぶ下りエスカレーター(運用は6時10分から終電まで)、2008年(平成20年)2月29日にはホームと改札を連絡するエレベーターが2基設置された。これと完成と同時に、トイレについても多機能タイプを新設した。 バリアフリー化工事の完了後、有人の改札通路が従来の反対側へ移り、4基ある自動改札機も全て手前へ移動し、また売店は、改札外から改札内へ移転している。 駅舎が地上にあった頃の改札口跡は、京都本線をくぐる地下道(公道)になっている。

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テクノーブル – Wikipedia

株式会社テクノーブル(英語:Technoble Co., Ltd.)は、大阪市西区北堀江に本社を置く、主に化粧品原料の研究開発、製造販売を事業とする日本の企業である[1]。 創業者の澤木茂が、1961年(昭和36年)に大阪東区久宝寺にて、医薬、化粧品および化学工業薬品の原料販売会社、共栄化学商会を設立。ヒアルロン酸、プラセンタなど、現在では主要な化粧品原料を化粧品業界に初めて導入するなど実績を上げ、業績を伸ばした。 1992年(平成4年)に、会社名を株式会社テクノーブルに変更。2018年(平成30年)には研究開発・製造・品質保証が一体となった総合施設、サイエンスパーク京都(京都府相楽郡精華町)をけいはんな学研都市(関西文化学術研究都市)に新設した。現在では、主に化粧品および医薬部外品向けの機能性原料を中心に、自社で研究開発および製造販売を行い、国内外の化粧品企業に供給している。 1961年(昭和36年) – 大阪市東区久宝寺にて医薬・化粧品、化学工業薬品原料の販売を開始、共栄化学商会として発足。 1966年(昭和41年) – 輸出業務拡大のため韓国、台湾、タイに販売代理店設置。 1968年(昭和43年) – 東日本地区の業務拡張のため東京営業所設立。 1970年(昭和45年) – フランスを中心にEEC地区にて、製品販売のため渡欧。 1978年(昭和53年) – 業務拡張のため大阪市西区北堀江に本社移転。

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グッドラックヘイワ – Wikipedia

グッドラックヘイワ(GOODLUCKHEIWA)とは、日本のインストゥルメンタルバンドである。 メンバー[編集] 共にSAKEROCKの結成メンバーであり、野村がSAKEROCKを脱退したのち、2004年に伊藤の誘いにより結成。 ディスコグラフィー[編集] アルバム[編集] GOODLUCKHEIWA(2006年08月25日) ROLL SLICE/PENGUIN & CAMEL/LOCA’S MOON/PHAKCHEE KOU-EN/TIKOKU/COUCH POTATE WALT Patchwork(2008年01月09日) Professor’s Blues-Rhumba/Monsieur MIYATAKE/Stupid Warp/Misinner Blues/International

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スーザン・ウォーターズ – Wikipedia

スーザン・ウォーターズ(Susan Catherine Moore Waters、1823年5月18日 – 1900年7月7日)はアメリカ合衆国の画家である。独学の画家で、肖像画や静物画、家畜の絵などを描いた。 ニューヨーク州ビンガムトンの桶職人(cooper)の娘に生まれた[1]。独学の画家で、美術教育はほとんど受けていない。ペンシルベニア州サスケハナ郡のフレンズヴィル(Friendsville)の寄宿学校で学び、生物学の授業のための資料の絵を描くアルバイトをして、自分と妹の学資を稼いだ[1]。 1841年に17歳で、クエーカー教徒の男性、ウィリアム・C・ウォーターズ(William C. Waters)と結婚した[1]。夫は病弱で十分な生活費を稼がなかったので、スーザンが絵の仕事で生活を支えた。始め、肖像画を描き、絵の教師をした。ニューヨーク州やペンシルベニア州を旅して、肖像画の注文を集め、夫と初期の写真家としても活動した[2]。肖像画で安定した収入が得られるようになった後、もっと自由に表現するために静物画や動物の絵も描くようになった[3] 。 1866年に各地を巡る生活を止め、ニュージャージー州バーリントン郡のボーデンタウン(Bordentown)に移った。自宅の庭で飼う羊などの家畜の絵を描いて、画家として知られるようになり、フィラデルフィアで開かれた建国100年記念国際博覧会に作品の出展を要請された[2]。 1899年にトレントンの介護施設に移り翌年死去した。 作品はマサチューセッツ州、アンドーバーのアディソン・アメリカ美術館 (Addison Gallery of American Art)やニューヨーク州のアーノット美術館などに収蔵されている。 リンカーン家の子供たち

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フォルティ – Wikipedia

フォルティ(Forti)は、1995年から1996年にF1に参戦していたイタリアのレーシングチームである。正式名称はフォルティ・コルセ。オーナーはグイド・フォルティ。 そもそもはイタリアF3では4度のタイトルを取り、国際F3000にも参戦していたフォルティは、1995年に国際F3000のドライバー、ペドロ・ディニスとともにF1にステップアップしてきた。 ドライバーはディニスと3年ぶりにシートを獲得したロベルト・モレノだったが、実質的に資金力のあるディニスのワンマンチームであった。 シャシーはジョルジオ・スティラーノ設計のFG01、エンジンはフォード・コスワース・EDを搭載した。 フォルティ・コルセFG01・フォード(1995年) FG01はかなり重いシャシーであったが、途中から加入したセルジオ・リンランドが豊富な資金力を活かし、積極的な改良を施した。 しかし、基本的に戦闘力、信頼性の低いシャシーであり、予選最高位はオーストラリアGPのモレノの20位、決勝最高位は同グランプリのディニスの7位とノーポイント、完走率は50%を切っていた。 改良パーツの使用はディニスに優先権があったためか、モレノはシーズンを通して苦戦を強いられた(改良パーツどころか、モレノのマシンそのものの優先権もディニスにあった)。 1996年、ディニスがリジェに移籍し、資金難に陥る。また、この年より107%ルールが施行された為、タイムアップの為のマシンアップデートもままならないほど同チームは苦戦を強いられた。 ドライバーはルカ・バドエルとアンドレア・モンテルミーニ、エンジンはフォード・コスワース・ZETEC-Rを搭載し、シャシーは前年の改良型FG01B(FG02とする資料もある)、サンマリノGPからジョージ・ライトン設計のFG03を投入(モンテルミーニ車はテストが間に合わず、 バドエル車を借りて予選をアタック)したが戦闘力の低さは相変わらずだった。 スペインGP以降、シャノンという会社から大規模なスポンサードを受けることになり、チームの財政状況が改善されると思われたが、スポンサーフィーは支払われず、コスワースへのエンジン代金の支払いが滞った。シャノンのスポンサードでマシンのカラーリングが黄色からグリーンを基調としたものに変更された。 その結果、第10戦イギリスGPを2人揃って予選落ちした後、エンジン供給を止められてしまい、シーズン半ばに撤退を強いられた。 二人そろっての予選落ちはここまでで4回、完走はたった3回と低かった。 エピソード[編集] デビューシーズンに投入したFG01は、ギアボックスが6速マニュアルシフト、パワステもなしという時代遅れのマシンで、当初ウェイトは規定最低重量を80kg以上も上回っていたと言われる。モンツァで行ったテストでは、トップスピードがF3000のマシンより6km/hも遅かった。さらにエンジンも最高で1万3,000rpmしか回らず、ブレーキング時には車が派手にバンプしていた。 F1へのステップアップのきっかけは、ブラジル屈指のスーパーマーケットチェーン“ポン・デ・アスカール(Pão de açucar)”などを傘下に持ち、数々の事業を展開する企業グループの総帥として知られる、ブラジルでも有数の実業家アビーリオ・ディニスが、自分の息子をF1ドライバーにするために取引先のブラジル企業をスポンサーとして大挙投入したことによるものである。言い換えれば、「息子のためにチームごとF1へ送り込んだ」ものとも言える。 F1へのステップアップが上記のような背景によるものであったため、新規参入チームとしては異例の予算規模を持つチームであった。しかし、潤沢な資金の元はブラジルマネーであったため、ディニスの去就いかんで一気に資金難に陥る危険性を秘めたチームでもあった。そしてその心配通り、翌年ディニスのリジェ移籍に伴って持ち込みスポンサーを引き上げたため、見事なまでに資金難に陥り撤退を余儀なくされるのであった。

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サンドラ・サンチェス – Wikipedia

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はサンチェス、第二姓(母方の姓)はハイメです。(Template:スペイン語圏の姓名) サンドラ・サンチェス 個人情報 国籍 スペイン 生誕 (1981-09-16) 1981年9月16日(40歳)カスティーリャ=ラ・マンチャ州トレド県タラベラ・デ・ラ・レイナ 身長 153 cm (5 ft 0 in) 体重 48 kg (106 lb) スポーツ 国 スペイン 競技 空手道

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植草克秀 – Wikipedia

経済評論家の「植草一秀」とは異なります。 この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “植草克秀” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年6月) 植草 克秀(うえくさ かつひで、1966年7月24日[1] – )は、ジャニーズ事務所に所属していた男性アイドルグループ「少年隊」のメンバー、2Stepsに所属する俳優。千葉県千葉市出身[2]。愛称はカッちゃん[3]。血液型・O型[1]。身長170cm[4]。 息子は樋口裕太[注釈 1]。 来歴・人物[編集] 1980年2月に事務所に入所[2]。1985年、錦織一清と東山紀之とともに少年隊のメンバーとして『仮面舞踏会』でレコードデビューする[2]。 1994年に元モデルと結婚[5]。1995年2月14日には長男・裕太が生まれる[3]。その後娘も生まれたが[5]、2010年12月に離婚(裕太と娘は元妻が引き取る)[6]したことを植草自身が12月22日発売の女性誌のインタビューで明かした[7]。2013年10月に2歳年下の女性と再婚、同月に女児が誕生[6]。

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デスポルチーヴァ・フェロヴィアリア – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 フェロヴィアリア フェホヴィアリア デスポルチーヴァ・フェロヴィアリア (ポルトガル語: Desportiva Ferroviária) 、正式名称アソシアソン・デスポルチーヴァ・フェホヴィアリア・ヴァリ・ドゥ・ヒウ・ドスィ (Associação Desportiva Ferroviária Vale do Rio Doce) は、ブラジル・エスピリトサント州カリアシカ(ポルトガル語版)を本拠地とするサッカークラブである。単にデスポルチーヴァ (Desportiva) 、またはデスポルチーヴァ-ES (Desportiva-ES) と表記されることもある。

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