Month: July 2019

ミケーネ・ギリシャ語 – Wikipedia

ミケーネ・ギリシャ語 (ミュケーナイ・ギリシャ語) とはギリシャ本土、クレータ島、キュプロスで紀元前16世紀~12世紀に話されていた、ギリシャ語の中で最も古い言語である。この言語は線文字Bで綴られており、紀元前14世紀以前のクレータ島で発見された碑文が最も古いものであるとされる。これらの碑文のほとんどは中央クレータ島のクノッソスやペロポネソス半島南西のピュロス等で出土した粘土板上で見つかっている。他の粘土版はクレータ島西のカニア、テーバイ、ティーリュンスでミュケーナイ自体で見つかっている[1]。 粘土版は長い間読み解かれず、マイケル・ヴェントリスが数々の証拠によってこの言語がギリシャ語の早期の形であると1952年に読み解くまで考えられるあらゆる言語が提案されていた。粘土版の文章のほとんどが表や目録であり、散文や神話や詩等は残っていない。しかし、これらの記録から暗黒時代以前の人々について垣間見える。 線文字Bで書かれたミケーネ・ギリシャ語の粘土版. Archaeological Museum of Mycenae. ミケーネ・ギリシャ語は およそ200ヶの音節文字と表語文字からなる線文字Bの文章として残っている。線文字Bは未だ読み解かれていないミノア語の文字である線文字Aから分かれており、ミケーネ・ギリシャ語の音韻を十分には反映していない。また線文字Bはギリシャ語を示すために必要な音声が足りていないため、かなり単純化して示されている。 主な綴りの単純化を以下に示す。[2] これらの決まりに加えて複数の音が同音になることで、見せかけの同音異義語が生まれてしまう。[4] 長い単語は語中または語尾を省くことができる。 ミケーネ・ギリシャ語は線文字Bで書かれており、半母音/w, j/、流音/m, n, r/、摩擦音/s/、閉鎖音の/p, t, d, q,

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ビーショ – Wikipedia

『ビーショ』(Bicho)は、ブラジル人ミュージシャン、カエターノ・ヴェローゾが1977年に発表したスタジオ・アルバム。 1977年1月から2月にかけて、ヴェローゾとジルベルト・ジルはナイジェリアのラゴスで開催されたFESTAC 77(第2回国際黒人芸術文化祭)に参加し[1]、その後、ラゴスでの経験にインスパイアされて本作を制作した[2][3]。「トゥー・ナイラ・フィフティ・コボ」のタイトルはラゴスのタクシー料金に由来しており、音楽的にもナイジェリアのジュジュ・ミュージック(英語版)が取り入れられた[2]。「チグレーザ」の歌詞は、当時まだ新人女優だったソニア・ブラガにインスパイアされた内容である[2]。 2012年に発売された日本盤SHM-CDにはボーナス・トラックが2曲追加された。そのうちジョアン・ドナートとヴェローゾが共作した「ア・ハォン」は、ガル・コスタに提供した曲のセルフ・カヴァーで、コスタの録音はヴェローゾがプロデュースしたアルバム『Cantar』(1974年)に収録された[4]。 評価・影響[編集] John Douganはオールミュージックにおいて5点満点中4.5点を付け「ヴェローゾ自身は『熱いリズムに乗った甘美なメロディ』と称しており、それは全くもって正しい。素晴らしいアルバムだ」と評している[3]。ベイルートは本作収録曲「オ・リアォンジーニョ」をカヴァーし、2011年6月発売のチャリティ・アルバム『レッド・ホット・アンド・リオ』に提供した[5]。 特記なき楽曲はカエターノ・ヴェローゾ作。 オダーラ – “Odara” – 7:20 トゥー・ナイラ・フィフティ・コボ – “Two Naira Fifty Kobo” –

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阿梅 – Wikipedia

阿梅(おうめ、慶長4年[1](1599年)または慶長9年(1604年) – 延宝9年12月8日(1682年1月16日))は、江戸時代前期の女性。真田信繁の三女。仙台藩家臣片倉重長の継室。 真田信繁の三女。母は高梨内記の娘[2]、または大谷吉継の娘・竹林院とする説もある[3][4]。信濃で生まれる。通説では、享年78から慶長9年(1604年)生まれとされているが、信繁の九度山時代の生まれとなってしまい、信濃で生まれたとする『左衛門佐君伝記稿』の記述と一致しない。菩提寺の当信寺の位牌には享年83とあり、この場合慶長4年(1599年)生まれとなって、信繁が信濃上田城にいた頃の誕生となる[1]。 慶長19年(1614年)、父・信繁に従い大坂城に入城する。翌慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣で大坂城が落城すると、その後の混乱で仙台藩の家臣・片倉重長の兵に乱取りされ、同家の侍女として召し抱えられる。後に信繁の娘であることが判明し、元和6年(1620年)に重長の側室となり、正室が死去すると継室に収まった。この経緯については、落城の混乱に際して乱取りされたという話と、信繁が片倉重長を見込んで託したという話がある(後述)。 重長は阿梅を滝川某の養女にする手続を踏んでから正式な妻としたといい[5]、信繁の妹婿・滝川一積の養女となり、滝川家から片倉家へ嫁いだという説がある[7]。信繁の姉婿・小山田茂誠が養女に迎えて、小山田家から片倉家へ嫁いだという説もある[9]。重長が継室とするに際して、真田信繁の娘であることを隠すために工作を依頼したことは十分に考えられる[8]。 その後、弟の大八(片倉守信)、妹の阿菖蒲(片倉定広室)も、姉の縁により片倉家に身を寄せた。重長との間に子は生まれず、前妻の娘の子・景長を養子とした。 慶安元年(1648年)、阿梅は白石城下に月心院[10]を建立し、父の菩提を弔った[11]。功徳山当信寺[12](浄土宗)においても、父・信繁と竹林院の供養を行っている。 阿梅は延宝9年に没した。法名は泰陽院殿松源寿清大姉。片倉氏2代の菩提寺である当信寺に墓所があり、如意輪観音像を墓標としたものであるが、墓石を削った粉を飲めば歯痛に効くという迷信が広まり、原型を留めていない。 片倉重長の妻になる経緯[編集] 大坂夏の陣において片倉重長が阿梅を連れ帰った経緯については、落城時に乱取り(生け捕り)したとするものと、信繁に託されたとするもの、2つの伝承がある[13]。 『片倉代々記』によると、阿梅は大坂城の落城に際して片倉重長が戦場で得た、つまり乱取りされたという。当初は出自が分からず、侍女として召し使っていたが、その後真田信繁の娘と分かり、後に継室に迎えたという[13]。『白川家留書』にも乱取りされたとある。 託されたとする話は、俗伝であるが、内容はおおよそ以下の通りである。 慶長20年5月6日の誉田の戦いにおいて、伊達隊の先鋒であった片倉重長は、真田隊と激しく戦った。その時の武者ぶりが敵ながら天晴れであるというので、信繁が重長を見込んで、落城の前に阿梅らを送り届けてきたというのである[14][13]。 これは片倉家の初代と2代についての話をまとめた『老翁聞書』にある話が元になっており、そこでは以下のように書かれている。 一 大阪落城の砌、城中より年の程、十六七許の容貌美麗なる女性白綾の鉢巻し、白柄の長刀を杖つきて、重綱公の陣先へ出しけり、重綱公之をつれ帰りたまひて後室とす。誰人の息女たることを語らず、其所行凡ならず、されば太閤様の御息女にもあらんかと、とり々々の沙汰なり。後その家来のもの尋来りて、臣下となる、真田左衛門佐幸村の息女とす。寄手諸将の中に片倉兼ての英名、殊に此度目を驚す、武功の事なれば末繁昌ならん事を予め斗り、容色万人に勝たれる息女なれば、捨てたまうべきにあらずと、幸村申仕置重綱公の陣の前へ、物し出したるならんと、皆いへりけるとなり。 — 老翁聞書[15] 阿梅は身分を名乗らずに自主的に投降しただけだが、この偶然を片倉の武名により信繁が託したと人々が都合の良いように解釈したということのようである。 戦中に負傷したとして落城より先に離脱、本願寺の下間氏との血縁により、京都の西本願寺にて潜伏療養していた幸村家臣の三井景国がいる。この三井の家臣であった我妻佐渡と西村孫之進の護送により、戦後に京都の片倉家の屋敷(当時は重綱が療養中)に四女お弁、七女おかね、八女(名前不明)、そして次男大八が送り届けられた、とする話も残る。三井景国はその後も京に留まり、1619年になって白石の片倉家へ赴き庵原元鄰と共に仙台藩に仕え、守信の家臣となっている。また、片倉家領内に我妻佐渡の墓石も確認されている。この護送が史実通りなら、阿梅も乱取りによる偶然ではなく、計画通りに片倉家に送り込まれたと考えられる。 登場する作品[編集]

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唐津市立第一中学校 – Wikipedia

唐津市立第一中学校(からつしりつ だいいちちゅうがっこう)は、佐賀県唐津市町田一丁目にある公立中学校。 歴史 1947年(昭和22年)の学制改革により新制中学校として創立。2017年(平成29年)に創立70周年を迎えた。 校章 羽ばたく鶴が「中」の文字を抱えている姿を校章としている。鶴が使用されているのは、古くから唐津城が「鶴城(かくじょう)」と呼ばれてきたことに由来する[1]。 校歌 作詞は下村湖人、作曲は松本民之助による。歌詞は3番まであり、各番の最後に校名の「唐津一中」が登場する。 また、応援歌もあり、作詞は斎藤正夫、作曲は岩野次男による。歌詞は3番まであり、各番に校名の「一中」が登場する。 通学区域 唐津市立大志小学校校区(唐津市の後に「坊主町、山下町、桜馬場、朝日町、江川町、元旗町、西旗町、富士見町、南富士見町、西浜町、菜畑(東菜畑)、東城内、西城内、南城内、北城内、大名小路、木綿町、本町、中町、京町、高砂町、呉服町、米屋町、紺屋町、八百屋町、刀町、新町、平野町、弓鷹町、西寺町、新興町」が続く地域)[2]。 唐津市立長松小学校校区(唐津市の後に「熊原町、菜畑(西菜畑の一部、南菜畑)、町田一丁目、町田二丁目、町田三丁目、神田、見借、旭が丘」が続く地域)[2]。 この節の加筆が望まれています。 1947年(昭和22年) 1948年(昭和23年)3月31日 – 旧制度(青年学校)の4年生が卒業したことにより、唐津市立高等実業青年学校と唐津市立唐津実践高等女学校を廃止[3]。 1949年(昭和24年)9月1日 – 唐津市立第二中学校の新校舎が完成したことにより、校区が改正され、西唐津小学校区の生徒が第二中学校へ転出[3]。

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ハンリー・ラミレス – Wikipedia

ハンリー・ラミレス(Hanley Ramírez , 1983年12月23日 – )は、ドミニカ共和国サマナ州サマナ(英語版)出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。 愛称は、ハン・ラム/Han-Ram、エル・ニーニョ/El Nino(少年の意)[2]のほか、ドジャース時代以降は背番号に因んでエル・トレーセ/El Trece(13の意)[3]の名で親しまれている。 プロ入り前[編集] 4歳で野球を始める[4]。本人によると、少年時代は「野球のことばかり考えている子供だったよ。毎日、学校に行って、昼12時になるのをずっと待っていた。12時になったら授業が終わり、フィールドに行って野球ができるんだ(笑)。それだけが楽しみだったんだ」という[5]。2000年の高校卒業時、当初は大学へ進学して医学を学ぼうと考えていた[4]。 プロ入りとレッドソックス時代[編集] 2000年7月2日にボストン・レッドソックスと契約した。 2002年はA-級ローウェル・スピナーズ(英語版)とルーキー級ガルフ・コーストリーグ・レッドソックスでプレー。A-級ローウェルでは22試合に出場して打率.371、1本塁打、19打点、4盗塁の成績を残した。 2003年はA級オーガスタ・グリーンジャケッツ(英語版)でプレーし、111試合に出場して打率.275、8本塁打、50打点、36盗塁の成績を残した。 2004年はA+級サラソタ・レッドソックスとルーキー級ガルフ・コーストリーグ・レッドソックスでプレー。A+級サラソタでは62試合に出場し、打率.310、1本塁打、24打点、12盗塁の成績を残した。8月にAA級ポートランド・シードッグスへ昇格。32試合に出場し、打率.310、5本塁打、15打点、12盗塁と、好調をキープした。シーズン終了後、ベースボール・アメリカ誌による有望株ランキングにおいて、ラミレスはレッドソックス内のNo.1に2年連続で選出された[6]。11月20日にレッドソックスとメジャー契約を結び[7]、40人枠入りした。 2005年3月3日にレッドソックスと単年契約に合意[8]。3月18日にAA級ポートランドへ異動した[9]。AA級ポートランドでは前述の有望株ランキングで7位に選出された、同じ遊撃手のダスティン・ペドロイアが所属していたが、ペドロイアが二塁手へ転向した。122試合に出場し、打率.271、6本塁打、52打点、26盗塁だった。9月19日にメジャーへ昇格し[10]、翌9月20日のタンパベイ・デビルレイズ戦でメジャーデビュー。13点リードの7回裏からエドガー・レンテリアに代わり遊撃の守備に就いた。直後の8回表にメジャー初打席を迎えたが、三振に終わった。この年は2試合の出場にとどまり、2打数無安打2三振に終わった。シーズン終了後、緊縮財政のフロリダ・マーリンズがトレードによる主力の放出を敢行。その中で、若き先発投手ジョシュ・ベケットの獲得を目指すレッドソックスもマーリンズにトレードを打診した。マーリンズは交換相手にラミレスを要求。ラミレスは確かに期待の若手ではあるが、マイナー時代にトレーナーを罵るなど精神面の未熟さから何度かトラブルを起こしており[4]、また遊撃手の経験もあるペドロイアがマイナーで順調に育っていたことから[11]、レッドソックスは放出を決断する。 マーリンズ時代[編集] 2005年11月24日にジョシュ・ベケット、マイク・ローウェル、ギレルモ・モタとのトレードで、アニバル・サンチェス、ヘスス・デルガド(英語版)、ハービー・ガルシア(英語版)と共にマーリンズへ移籍した[12]。 2006年2月23日にマーリンズと32万7000ドルの単年契約に合意[13]。マーリンズは前述の通り主力を大量放出し、正遊撃手のアレックス・ゴンザレスが前年オフに移籍したため、遊撃手の定位置を勝ち取って開幕を迎えた。開幕戦から1番・遊撃に定着し、4月・5月と2か月連続で月間打率.300、出塁率.370を超える活躍で、足を生かして得点や盗塁を稼いだ。6月こそ月間打率.190と低迷したが、7月以降は14本塁打を放ち、9月にはメジャー最多の43安打を記録するなど復調[14]。この年、ラミレスは最終的に185安打(リーグ10位)、46二塁打(同7位)、119得点(同5位)、51盗塁(同3位)という成績を残した。このうち安打・得点・二塁打は球団新人記録を更新するものだった[15]。オフの11月13日にはナショナルリーグの新人王に選出された[16]。その後は母国ドミニカ共和国で行われたウィンターリーグに参加し、ティグレス・デル・リセイに加入したが、12月27日の試合でスライディングした際に左肩を負傷した[17]。

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イーメイ・ユドーカ – Wikipedia

イーメイ・ユドーカIme Udoka 2021年のユドーカ ボストン・セルティックス HC ポジション SF 役職 ヘッドコーチ 基本情報 生年月日 (1977-08-09) 1977年8月9日(44歳) 国籍 ナイジェリア アメリカ合衆国 出身地 オレゴン州ポートランド 身長(現役時) 196cm (6 ft 5 in)

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金華信号場 – Wikipedia

「金華駅」はこの項目へ転送されています。中国浙江省金華市の駅については「金華駅 (浙江省)」をご覧ください。 常紋トンネル工事殉職者追悼碑 金華信号場(かねはなしんごうじょう)は、北海道北見市留辺蘂町金華にある北海道旅客鉄道(JR北海道)石北本線の信号場。かつては駅であったが、2016年(平成28年)3月26日に旅客営業を廃止し、信号場となった[2]。駅番号はA54であった。電報略号はカネ。 信号場名の由来[編集] 当初の駅名である「奔無加」は留辺蘂の西の外れで無加川に合流する支流の名称であり、アイヌ語の「ポンムカ(pon-muka)」(小さい・無加川)に由来する[10][11]。なお、無加川を表す「muka」については一説には「氷上を越す」の意ではないかと解釈されているが[10]、詳細な意味は不明である[11]。 現在の名称は付近に金鉱があることによる「金」と「無加」の「加(か)」を「華」と変えたものを組み合わせ、さらに訓読みに読み替えたものによる[11]。 2線を有する単線行き違い型信号場である。 列車の折り返しが可能であり、列車の折り返し機能がない西留辺蘂駅を終着とする列車は、一旦当信号場へ回送したのち、再度西留辺蘂駅へ回送して同駅始発列車となる[2]。 また、構内には他に横取線が1線あり、工事用車両が留置されることがある。 旅客駅当時は単式ホーム2面2線で、ホーム間の線路は両方と接するが、駅舎と反対側のホームの駅舎側は崩されており乗降は行わなかった。両ホームは構内踏切で連絡していた。北見駅管理の無人駅であり、トイレはなかった。先述の西留辺蘂駅終着・始発列車は、当信号場が旅客駅だった頃は当駅を終着・始発駅としていた[12]。 旅客駅当時ののりば[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “金華信号場” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ ·

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トリッキー・スチュワート – Wikipedia

トリッキー・スチュワートTricky Stewart 基本情報 出生名 Christopher Alan Stewart 別名 TrixsterC. “Tricky” Stewart 生誕 (1974-01-04) 1974年1月4日(48歳)アメリカ合衆国イリノイ州 出身地 アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ ジャンル R&B、ポップ、ヒップホップ 職業 プロデューサー

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