Month: January 2020

アフィカス属 – Wikipedia

アフィカス属(アフィカスぞく、Aphycus Mayr)は、ハチ目コバチ上科トビコバチ科に分類されるハチの属称である。1876年にグスタフ・マイヤーにより名付けられた。 下位分類[編集] Aphycus apicalis (Dalman, 1820) Aphycus atratulus Hoffer, 1954 Aphycus bifasciatus (Timberlake, 1916) Aphycus brunneus Howard, 1885 Aphycus

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グース (映画) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “グース” 映画 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年5月) グース Fly Away Home 監督 キャロル・バラード 脚本 ロバート・ロダットヴィンス・マッキューイン 製作 ジョン・ヴィーチキャロル・バウム 製作総指揮

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映画ドラえもん のび太の人魚大海戦 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “映画ドラえもん のび太の人魚大海戦” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年1月) 『映画ドラえもん のび太の人魚大海戦』(えいがドラえもん のびたのにんぎょだいかいせん)は、藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』を原作とした、2010年の日本のアニメ映画。 第2期シリーズ第5作で、映画ドラえもんシリーズ通算30作目、漫画連載開始40周年と記念ずくしの作品となっている。 原案はてんとう虫コミックス藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』41巻収録作品「深夜の町は海の底」。『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』から2年ぶりとなる新・大長編ドラえもんの2作目であり、前作『ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史』に続き真保裕一が脚本を担当した。また、テレビアニメ版及び劇場版の総監督である楠葉宏三が監督を務めた。 あらすじ[編集] パラオの海でスクーバダイビングを楽しんだというスネ夫の自慢話をうらやみ、自分もダイビングがしたいと言い出すのび太。見かねたドラえもんはあるひみつ道具を出す。それは架空水面シミュレーター・ポンプという道具で、陸上に架空の海を作りだすことができるのだという。 早速のび太たちは、タケコプターでいつもの空き地に向かい、トトスキーや架空海水まきぞえガスを使っていろいろな魚を集める。架空水体感メガネをかけて、架空水面シミュレーター・ポンプで作り出した架空の海で遊び始めるが、そこに人魚族の姫・ソフィアが迷い込んでしまう。

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オチチェル – Wikipedia

オチチェル(モンゴル語: Öčičer[1]、生没年不詳)とは、13世紀後半から14世紀初頭にかけて大元ウルスに仕えたフーシン部出身の領侯。四駿と讃えられたチンギス・カンの最側近、ボロクル・ノヤンの子孫。 『元史』などの漢文史料では月赤察児(yuèchìcháér)、『集史』などのペルシア語史料ではاوچاچار نويان(ūchāchār nūyān)と記される。 クビライ時代[編集] オチチェルはチンギス・カンに仕えたボロクルの孫のシレムンと、金朝の宰相の家系に生まれた石氏の間の息子として生まれた[2]。シレムンは若くして亡くなったため、モンゴル帝国第5代皇帝クビライは父を早くに失ったオチチェルを憐れみ、16歳の若さで召し抱えた。オチチェルは若くして所作に落ち着きがあり、受け答えも明晰であったためクビライは喜んで重用し、代々ボロクル家の人間が務める第4ケシクの長官に任じ、更に1280年(至元17年)には第1ケシク長にも任じられた[3]。 1289年(至元26年)にはカイドゥがアルタイ山脈を越えてモンゴル高原中央部のハンガイ地方に進出し、大元ウルス側では丞相のアントン、バヤン、御史大夫のウズ・テムル(オルルク・ノヤン)らが撃退のため出陣した。この時、オチチェルは自らも出陣してカイドゥと戦いたいとクビライに申し出たが、クビライはこれを押しとどめている[4]。翌1290年(至元27年)、朝廷ではサンガが尚書省を再設立して専権を振るっていた。サンガの横暴な振るまいを憂えた尚書平章のイェスデルはサンガを弾劾することをオチチェルに請願し、オチチェルの活動もあってサンガは1291年に失脚した。サンガの失脚後、その悪事を暴いた功績としてオチチェルはサンガから没収された土地・財産を与えられた[5]。 サンガが失脚したころ、朝廷では湖広行省で畲族といった少数民族が反抗的で政情が不安定なことが問題視されており、優秀な人材が必要とされていた。 そこで湖広行省に派遣する人物としてオチチェルがハルガスンを推挙したところ、はたしてハルガスンは湖広地方を8年にわたってよく治め、湖広一帯は安定した。後にハルガスンは中央に戻って最高位の丞相に任じられており、世間はオチチェルの人をみる目の確かさを褒めたたえたという[6]。また、1291年(至元28年)には大都周辺の水運の開発に携わり、完成した運河は「通恵河」と名付けられて官民ともに大いに用いられた。クビライはオチチェルの指導ぶりを褒めたたえ、「オチチェルが指揮を取らなかったら、これほど早くは完成しなかっただろう」と語ったという[7]。 カイドゥ・ウルスとの戦い[編集] クビライの死後にオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると、先代からの重臣であるオチチェルは高位の職を与えられ、1300年(大徳3年)には最高位の太師という地位を授けられた[8]。一方、この頃アルタイ山脈方面ではカイドゥ・ウルスからの侵攻が激化しており、1301年(大徳5年)にオチチェルはモンゴル高原を統轄する晋王(ジノン)カマラの補佐のためモンゴル高原に派遣された。同年8月、カイドゥとドゥア率いる大軍団がアルタイ山脈を越えてモンゴル高原に侵攻し、これをオチチェルら大元ウルス軍が迎え撃った。大元ウルス側は全軍を5つに分け、それぞれをオチチェルやナンギャダイが率いていたが、カイドゥ軍の猛攻によってそれぞれ劣勢に陥った。オチチェル軍団はカイドゥ軍の猛攻によって劣勢に陥り、大将のオチチェル自らが鎧と矛を身につけて敵陣を陥落させるほどの激戦が繰り広げられた。最終的には前線指揮官を統べる皇族のカイシャンが陣頭指揮を執ってカイドゥ軍の攻撃を凌いだこと、またキプチャク軍団長のチョンウルがドゥア軍を敗退させたことにより、大元ウルス側はこの大侵攻を撃退することに成功した(テケリクの戦い)[9]。 戦後、カイドゥが戦傷によって急死するとカイドゥ・ウルス内では後継者の地位を巡って内紛が起き、チャガタイ家のドゥアは単独で大元ウルスに講和を申し込んだ。カイシャンがドゥアの申し出に如何に対応すべきかオチチェルら諸王・将帥に諮ったところ、オチチェルは「ドゥアの投降を受け入れるかどうかについては、本来カアンの判断を待つべきであるが、使者の往復を待っていては1月以上かかってしまい、それでは時機を失ってしまう。一度時機を失ってしまえば、国と人民にとって大きな災いとなる。ドゥアの妻は我が一族のマウガラの妹であるので、彼を使者として派遣しドゥアの投降を許可するのがよいだろう」と進言した。諸将はみなこの意見に賛同してマウガラが派遣され、ドゥアの投降は実現した。後に事情を聞いたオルジェイトゥ・カアンは適切な判断であったとオチチェルを称賛している[10]。1306年(大徳10年)、未だ大元ウルスに投降しないメリク・テムルらを討伐するためカイシャンはアルタイ山を越えて進撃し、オチチェルも軍を率いてこれに続いた(イルティシュ河の戦い)。オチチェルは配下の将車であるトゥマン・テムル、チャクら万人隊長を派遣し、メリク・テムル配下の部人を投降させていった[11]。 クルク・カアンの治世[編集] 1307年(大徳11年)にはオルジェイトゥ・カアンが病死し、モンゴル高原の諸王侯の支持を受けたカイシャンがクルク・カアンとして即位した。クルク・カアンは最も信頼おける部下としてオチチェルにアルタイ方面駐屯軍の地位を委ね、和林行省右丞相の職を与えた[12][13]。オチチェルは同年、旧カイドゥ・ウルスの残党であるチャパル、トゥクメらが未だ辺境の脅威となっていること、またカイドゥ・ウルスから多数の投降将兵が移住してきたことでモンゴル高原には牧地が不足していることを述べ、オチチェル自らアルタイ山を越えたジュンガル草原に駐屯しすることで残党軍を威聴し、また元々の駐屯地を投降将兵に分け与えようと進言した。オチチェルの進言を聞いたクルク・カアンは最善の策であると褒めたたえ、この政策が実行された結果チャパルらは行き場を失いついに投降するに至った[14]。 クルク・カアンは多くの将兵の中でもオチチェルを国の元老として最も信任し、本来は皇族・附馬などにしか与えられない王号(淇陽王位)を授与し[15]、クルク・カアンの治世を通じてオチチェルの一族は繁栄した[16]。1311年(至大4年)、クルク・カアンが急死すると弟で皇太子のアユルバルワダ一派は政権中枢部の人材を多数処刑し、事実上のクーデターによって朝廷を掌握した。そして同年、大都の大明殿を訪れたオチチェルはアユルバルワダらから歓待されたが、直後に私邸で亡くなった[17][18]。 『国朝文類』巻23に所収される「太師淇陽忠武王碑」によると、オチチェルの息子には淇陽王位を継いだタラカイ、マラル、太師の位を継いだアスカン、エセン・テムルらがいた。 フーシン部ボロクル家[編集] ボロクル・ノヤン(Boroqul >博爾忽/bóĕrhū,

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富山県五福公園 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “富山県五福公園” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年11月) 富山県五福公園(とやまけんごふくこうえん)は、富山県富山市五福にある富山県立の都市公園(運動公園)である[1]。施設は富山県が所有し、公益財団法人富山県民福祉公園が指定管理者として運営管理を行っている。 1908年(明治41年)から1945年(昭和20年)まで、この地にあった富山歩兵聨隊(ほへいれんたい)跡地を利用した公園で、1950年(昭和25年)に県営富山野球場を建設、1957年(昭和32年)には、翌年に富山で行われた第13回国民体育大会に合わせ、県営陸上競技場が建設された[2]。また、隣接して富山商業高校があったが、1983年(昭和58年)に富山商業高校が近隣地に移転したため、1985年(昭和60年)に跡地を野球広場や多目的スポーツ広場、駐車場などに再整備し、現在の形態となる運動施設を中心とした総面積15.6ヘクタールの都市公園となった。 現在は公園に隣接して、富山大学五福キャンパス、アオイスポーツハウスなど、近隣には富山工業高校、富山商業高校などがあり、これらの学生達、また多くの富山市民、富山県民に利用されている。 公園内施設[編集] スポーツ施設はジョギングコースを除き、利用料が必要である。 すべての施設は照明設備がないため夜間は利用出来ない。 県営富山野球場[編集] 両翼:91m、中堅:122m 内野:クレー舗装、外野:天然芝 収容人員:20,000人 五福公園陸上競技場[編集]

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岩崎宗茂助 – Wikipedia

岩崎 宗茂助(いわさき そもすけ、1865年5月6日(慶応元年4月12日[1])- 1941年(昭和16年)2月23日[2])は、明治から昭和前期の医師、政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 日向国諸県郡志布志郷野井倉村[3](鹿児島県諸県郡野井倉村、南諸県郡野井倉村、志布志村、西志布志村、曽於郡西志布志村、有明町[3][4]を経て現志布志市有明町野井倉)で、岩崎宗之助、ケサヨの長男として生まれる[5]。都城の坂本陽斉から漢方医学を学び[4]、東京医学専門学校済生学舎で学ぶ[2][5]。1885年(明治18年)第6師団に衛生兵として入隊[4]。1891年(明治24年)に帰郷し志布志村で医師を開業する[2][3][4]。日清戦争に衛生兵として出征し[4]、日露戦争にも従軍し陸軍三等軍医となる[2][4][5]。 囎唹郡医師会長、鹿児島県産業組合連合会理事、志布志漁業、志布志醸造各 (株) 社長、志布志無尽、志布志倉庫運送各 (株) 取締役を歴任する[2][5]。 政界では、志布志村会議員、郡会議員、同副議長を務め[4]、1915年(大正4年)鹿児島県会議員に選出された[3][5]。1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において鹿児島7区から立憲政友会公認で立候補して当選し[6]。衆議院議員を1期務めた[2]。1924年(大正13年)の第15回総選挙には立候補しなかった。 1932年(昭和7年)西志布志村会議員[注釈 1]に推されて当選し、志布志実科高等女学校の県立移管(志布志高等女学校、現鹿児島県立志布志高等学校)、野井倉開田に尽力した[4]。 注釈[編集] ^ 『郷土人系 上』115頁では町会議員としているが、有明町の町制施行は1958年。 出典[編集] ^ 衆議院『第四十三回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1920年、35頁。

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モーセの十戒 – Wikipedia

モーセの十戒(モーセのじっかい、モーセの十誡、ヘブライ語: עשרת הדיברות‎、英: Ten Commandments)は、モーセが神から与えられたとされる10の戒律のこと。 旧約聖書の出エジプト記20章3節から17節、申命記5章7節から21節に書かれており、エジプト出発の後にモーセがシナイ山にて、神より授かったと記されている[1][2]。 十戒の内容は神の意思が記されたものであり、モーセが十戒そのものを考え出し、自らもしくは他者に記させたものではない、とされている[注 1]。出エジプト記本文では神が民全体に語りかけたがそれが民をあまりにも脅かしたためモーセが代表者として神につかわされた、とされる。シナイ契約、または単に十戒とも呼ばれる。二枚の石板からなり、二度神から渡されている。最初にモーセが受け取ったものはモーセ自身が叩き割っている[3]。 正教会・聖公会・プロテスタント(カトリック教会及びルーテル教会以外)の場合[編集] 主が唯一の神であること 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止) 神の名をみだりに唱えてはならないこと 安息日を守ること 父母を敬うこと 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ) 姦淫をしてはいけないこと 盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ) 隣人について偽証してはいけないこと 隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと [4] 

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豊中市消防局 – Wikipedia

豊中市消防局(とよなかししょうぼうきょく)は、大阪府豊中市が設置する消防局。管轄区域は豊中市全域と豊能郡能勢町。 消防本部:豊中市岡上の町1-8-24 管内面積:135.35km2 職員定数:408人 消防署3カ所、出張所7カ所 主力機械(2016年4月1日現在) 1948年 豊中市消防本部及び豊中市消防署を開設する。 1949年 豊南車庫を開設する。 1950年 服部出張所を開設する。救急業務を開始する。 1954年 消防本部・消防署庁舎が完成する。 1955年 豊能郡庄内町を編入合併する。庄内町消防本部及び消防署を庄内出張所とする。 1960年 豊南車庫を豊南出張所に改称する。 1966年 小曽根出張所を開設する。豊南出張所を廃止する。 1968年 消防署が北消防署と南消防署の2署制となる。 1969年 新千里出張所を開設する。 1970年 桜井谷出張所を開設する。 1972年 原田出張所を開設する。 1974年 蛍池出張所を開設する。 1977年 消防音楽隊が発足する。 1982年 消防本部・北消防署新庁舎が完成する。

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インドの宇宙開発 – Wikipedia

インドの宇宙開発(インドのうちゅうかいはつ)ではインドにおける宇宙開発について述べる。 インドの宇宙開発はインドの原子力部門の主導で1960年代に開始された。インドは有用な宇宙開発を優先し予算の多くを地球観測、通信、教育放送などに向けた実用衛星に投入している。これらの開発は成長力を牽引している。2000年代には初の月探査機チャンドラヤーン1号を打ち上げ、投入に成功した。1969年以来、インド唯一の宇宙機関であるISROがインドにおける宇宙開発を主導している。 開発の立ち上げ[編集] インドの宇宙開発は1960年代に始まった。1961年、インド政府は原子力省(英語版)に宇宙開発を担当させることとし、1962年2月にはインド国立宇宙研究委員会(英語版)(INCOSPAR)が設立された。1962年から63年にかけて、インドの科学者団が観測ロケットの組み立てと打ち上げについて学ぶためにNASAに滞在した。最初のロケットとなったアメリカのナイキ・アパッチ は1963年にケーララ州のトゥンバ(英語版)から打ち上げられた。 1964年インドはフランス国立宇宙研究センター(CNES)と契約を結び、サントールとベリエを製造するためのライセンスを取得した[1]。 1960年代、まだ宇宙開発初期のインドでは幾つかの宇宙センターが設置された。宇宙科学技術センターがトゥンバに、実験衛星通信地球センターがアーメダバードに設置され、1969年には宇宙開発全般を担当すべくインド宇宙研究機関(ISRO)が原子力省の下に設立された。 アーンドラ・プラデーシュ州のシュリーハリコータでは発射場が建設されることとなり、アメリカが建設に協力することを拒否したためフランスの技術支援を受けて建設が進み、1970年に完成した。現在は改名されてサティシュ・ダワン宇宙センターとなっている。1971年10月9日に観測ロケットRH-125の打上げで稼動を開始した。これを見届けるように1971年12月30日に、インド宇宙開発の父と呼ばれたヴィクラム・サラバイ(英語版)は死去した[1]。 最初の衛星とロケットの開発[編集] 1972年、宇宙委員会と宇宙庁(英語版)が設置された。インド政府は宇宙開発のためのより野心的な目標を設定し、国産の打ち上げロケットの製造が決定された。初の国産打ち上げロケットとなったSLV3は固体燃料式の4段ロケットで地球低軌道へ40kgの積荷を打ち上げることが出来た。他国の多くは弾道ミサイルから打ち上げロケットを派生させているが、インドの場合はこのロケットを基礎として後にアグニ弾道ミサイル(英語版)系統を開発している。SLVの開発責任者であったアブドゥル・カラームはその後のインドの誘導ミサイルの発展に重要な役割を担った[2][3]。1974年、国立探知局(NSRA)が設立された。1975年に、インドの天文学者アリヤバータに因んで名づけられたインド初の衛星アリヤバータがソ連のカプースチン・ヤール発射場からコスモス3Mロケットで打ち上げられた。重さ360kgの衛星であり、低軌道で科学実験が行われる予定であったが打ち上げ数日後に通信が失われた[4]。 1977年にフランスとの宇宙協力協定が締結された。また、1978年には衛星打ち上げと関連サービス、アメリカのランドサット衛星の撮影した画像の使用などでアメリカと協定を締結した[1]。国産打ち上げ機のSLV3の初打ち上げは1979年に行われ、一度目は失敗だったものの、1980年、81年、83年の3回の打ち上げではロヒニ系統の衛星を低軌道に投入した[2]。1979年にはインド初の地球観測衛星となるバースカラIがロシアで打ち上げられた。バースカラIは水文学、地質学や森林資源管理のためのデータ収集を目的としており、可視光と赤外線の2種のカメラが搭載されていた。同等の性能のバースカラIIが1981年にも打ち上げられている。 1980年の初め、十分な打ち上げ能力を持っていなかったインドは打ち上げ能力を拡大することを指向し、ISROは低軌道に150kgの投入能力を持つSLV3よりもより強いロケットの開発を決定した。計画はASLVと名づけられ、SLVをほぼ変更なく利用し、2機のロケットブースターを取り付けた改良型であった[2]。 1981年、ISROはインド初の実験静止通信衛星APPLE(英語版)をアリアンロケットで打ち上げた。インドはフォード・エアロスペース(英語版)と共に4基の衛星からなるINSAT-1シリーズを開発し運用した。INSAT-1Aは1982年に打ち上げられたが打ち上げ後に障害が発生し83年9月に破棄された。INSAT-1Bは同様の目的で1983年に打ち上げられた。この系統はテレビ用の2機のトランスポンダと通信用の12機のトランスポンダを積んでおり、気象の分野でも利用されている。これは21多目的衛星[注釈 1]の系列衛星の始まりであり、徐々にインド国内に衛星通信と衛星放送の広域網を提供していった[1]。 1984年、インドとアメリカは技術移転契約に調印したが、米国は東側諸国への機密技術の流出を恐れたため実現は依然として困難であった。一方、1984年4月3日にソ連のインターコスモス計画の一環としてインド空軍パイロットのラケッシュ・シャルマが初のインド人宇宙飛行士としてソユーズT-11で打ち上げられ、サリュート7号に11日間滞在した。同年秋、インド政府はソ連のエルブルース(英語版)コンピューターの運用を開始している。1988年にはソ連のロケットで初のインド製造の地上観測衛星IRS 1A(英語版)が打ち上げられた。1988年、アリアンロケットがINSAT-1Cの打ち上げを行ったものの打ち上げ後に失われた。INSAT-1の最後となった4機目のINSAT-1Dは1989年に打ち上げられ、その後もインドが独自のロケットを持つまでINSATはアリアンロケットで打ち上げられた[1][5]。 ASLVは1987年と1988年の最初の2回は打ち上げに失敗し、1992年の3回目の打ち上げは軌道が低すぎる部分的失敗となった。最後の打ち上げとなった4回目の打ち上げで拡大ロヒニ衛星シリーズ(英語版)の最後の1機を衛星軌道に投入している[2]。 宇宙技術の自立に向けて[編集] 第3世代の打ち上げロケットとしてPSLVが開発された。これまでに比べはるかに野心的なロケットであり、極軌道に対してリモートセンシング衛星など1トンの重量の貨物を投入可能になっている。ブースターと4段のロケットからなるロケットであり、ブースターおよび第1段は固体燃料、第2段はスネクマ製バイキングのライセンス生産品の液体燃料ロケットヴィカース、第3段は固体で、第4段は液体燃料となっている。1993年に初打ち上げが行われ、初打ち上げは失敗だったものの以降の打ち上げはすべて成功している。PSLVは低軌道で3700kgの貨物を打ち上げることが可能で、ISROの衛星打ち上げのための標準打ち上げロケットになっている。2015年末までに30回の打ち上げが行われている[2]。 1990年には、インドが静止軌道への衛星投入能力を保有するための新しい計画として、最も強力なロケットGSLVの開発がISROによって開始された。静止軌道に2トンというより大きな輸送能力を達成するために、ISROは多くの国外技術を採用している。ブースターは欧州のアリアン4の液体燃料補助ロケットに近いヴィカースを使用しており、第1段にはインドが開発した固体燃料ロケットが利用されている。第2段はヴィカース、第3段はロシア製の液体水素/酸素系で二段燃焼サイクル式のRD-56Mエンジンが搭載されていた[2]。1993年、インドはロシアからロケットエンジンのライセンスを得る予定であったが、ミサイル技術管理レジームに基づいてアメリカ合衆国がロシアからインドへの技術移転に圧力を加え、ロシアは技術移転を拒否した。ロシアは7機のRD-56Mエンジンを販売し、このエンジンはGSLVの第3段に使われたが、その後インドはエンジンを独自開発することにし、CE-7.5の開発を始めた[1]。 1992年、画像など宇宙活動由来の製品を販売するために国営のアントリクス(英語版)社が設立された。1999年、ISROはPSLVでドイツのDLR-Tubsat(ドイツ語版)と韓国のKITSAT-3を打ち上げ、初めて他国の衛星の商業的な打ち上げを行った。2000年、ISROはヴィカースエンジンの極低温での試験運用を開始し、これは就役が2010年に延期されたGSLVの修正型に搭載された[1]。2001年のGSLVの初打ち上げは予定起動よりも到達点が低く失敗、その後2回は成功したが、ロシア製の第3段をインド製に交換した2010年の打ち上げも含め、2006年から2010年の間に4回の打ち上げに失敗した[2]。その後、2014年1月5日に行われた打ち上げではエンジンは正常に稼動し打ち上げに成功している[6]。

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祝朝奉 – Wikipedia

この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 祝 朝奉(しゅく ちょうほう)は、中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。 第47回から50回まで登場する、鄆州の独竜岡の祝家荘という村の長者。多数の兵士と3人の息子を初めとする豪傑を抱え梁山泊打倒を目論む。2代目首領晁蓋の元で組織として勢力を増してきた梁山泊軍にとって、初の本格的な対外戦争の敵として登場した。なお、朝奉とは豪紳に対する尊称であり、個人名ではない。従って彼の本名は作中には登場しない。 祝朝奉の名が作中に登場するのは、翠屏山の騒動の後、梁山泊に身を寄せようとした楊雄、石秀、時遷が途中で立ち寄った祝家荘の宿屋で騒動を起こし、村人に時遷を捕らえられた楊雄らが逃げ込んだ居酒屋で、楊雄の顔馴染みでもある店の主人杜興の口から独竜岡三荘について語られた際の事である。独竜岡には三つの村が隣接しており、中央に祝家荘、西側に扈家荘、東側に李家荘があり、三荘の兵力を合わせると2万にも達するという。祝家荘はその三荘の中でも最大の勢力を誇り、主の祝朝奉を中心に、祝氏の三傑と呼ばれる長男の祝竜、次男の祝虎、三男の祝彪などの息子たちや、鉄棒の異名を取る武芸師範欒廷玉らと共に羽振りを利かせ、隣接する扈家荘、李家荘と共同戦線を布いて梁山泊に対抗していた。 杜興の提案で、楊雄と石秀は祝朝奉の縁戚関係で盟友でもある李家荘の主李応を通じて、捕縛された時遷の解放を祝朝奉に要求するが、手紙による要求は祝家の三兄弟に侮辱と共に一蹴され、李応自身が直接出向いて直談判に及ぼうとすると、かえって祝彪の手で矢傷を負わされてしまう。万策尽きた楊雄らは李家を辞し、そのまま梁山泊に駆け込むと、首領の晁蓋、副首領の宋江らに時遷の救出を懇願したところ、梁山泊の側でも人員の増加に伴い糧秣が不足していた関係から、祝家荘攻略が宋江、呉用らからも提言され、宋江を総大将とする遠征軍が編成される運びとなった。 かくして祝家荘は梁山泊軍と干戈を交えることになったが、元々梁山泊軍の来襲に備えて軍備を固めていた祝家荘の守りは堅牢であり、欒廷玉や扈家荘から援軍として駆けつけてきた、同じく縁戚関係にある女将軍扈三娘(祝彪の婚約者)の活躍もあって、多数の英雄豪傑を抱える梁山泊軍を相手に互角以上の戦いを繰り広げる。林冲の手で扈三娘が捕縛されてしまう一幕もあったものの、2度の戦いで黄信、楊林、王英、秦明、鄧飛を手取りにするという赫々たる戦果を挙げた。 しかし、欒廷玉の義兄弟であり豪傑としても名高い登州の提轄孫立とその一族を、味方として自陣に招き入れてしまったことから、その優位は揺らぎを見せ始める。孫立が家族を連れていたことや、武芸師範である欒廷玉の昔馴染みであることから、祝朝奉も息子たちも彼らのことをすっかり信用してしまっていたが、実は孫立は既に梁山泊に通じており、内応のために送り込まれていた。孫立は攻め寄せてきた石秀を捕縛してみせ、祝朝奉たちを信用させると、四手に分かれて梁山泊軍が総攻撃を仕掛け、三傑や欒廷玉らがその迎撃のために出撃した頃合を見計って、捕らえられた頭領たちを解放し、屋敷に居た者たちを皆殺しにした。祝朝奉は井戸の中に身を隠そうとしたが、石秀によって首を討たれてしまう。迎撃に出ていた息子たちもそれぞれ討ち取られ、祝家荘の50万石に及ぶ金銭糧秣はことごとく梁山泊によって接収される。

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